放課後の第三音楽室は、人があまり利用することがない。他の音楽室とは違って、窓が少なく、日が暮れてゆくごとに薄暗く不気味になるからだ。壁に掛けられたベートーベンの目が不気味に光るだの、足のない男子生徒が午前十二時ぴったりに『エリーゼのために』を弾いているなど、根拠のない噂ばかりが生徒の間で流行っている。
 シンジは専ら、チェロの練習をする時にはこの第三音楽室を使う。人が奏でる音もなく、静かで、煩わしさのないこの嫌われた場所がけっこう気に入っていた。
「来月の学内コンクール、もうペアは決めた?」
 放課後のほとんどをここで一人過ごしていたシンジだったのだけれど、最近音楽室を利用する人間がもう一人増えた。シンジより一つ上の、何かと有名な渚カヲルだ。彼はシンジの都合に関係なく、こうして音楽室を訪ねるようになった。
カヲルの何気ない質問にシンジは伏し目がちになっていた目を開き、弦に滑らせていた指を止めた。
「どうして」
「課題は四重奏だったろ? ペアがいないのなら僕と組もうよ」
 カヲルはヴァイオリンを弾きながら笑う。弓を流暢に操っているカヲルを訝しく見つめ、シンジは目を逸らしていった。
「冗談だろ」
「どうして?」
「ペアは同学年の中から選ぶことになっているじゃないか。普通に考えて無理だ」
 こうして突拍子のないことを言い出すカヲルにいちいち付き合っていられないシンジは、そう話を打ち切った。旧校舎の音楽室で話して以来何かと一緒になるカヲルを、シンジは少々苦手に思っていた。決して嫌いではなかったのだけれど、好ましいと言い切ってしまうことも出来ない。一緒にいることで、不必要に周囲を煽る彼の存在を、苦々しく思っていることも確かなのだ。
有名人の彼が廊下などでシンジに声をかけると、周囲は決まって目を丸くして驚く。お気に入りだとか、好き放題に勝手なことを言われて、最後には決まってなんであいつが? で終わる。中にはそれをカヲル本人に尋ねる輩もいて、シンジはどこか肩身の狭い思いをしていた。集団で目を向けられた人間がどんな不快な気分になるか、本人たちは知らないに違いない。
憧れているのかなんなのか知らないが、カヲルに構われるシンジを面白く思わない人間にも目を付けられてしまって、正直迷惑だった。
「でも、君の学年は七十四人じゃないか。四重奏をやるには二人余ることになるけど」
「余計なことを知ってるね。そして? 僕がその中の一人だと?」
「違うの?」
 譜面を睨みながらの返事に、カヲルは間髪入れずに頷いた。失礼なその態度に、こめかみが引き攣るように痛んでシンジは溜息を吐いた。チェロを抱えながら、椅子の背もたれに背中を預ける。
 カヲルの言うとおり、来月に迫ったコンクールの相手をシンジはまだ見つけられないでいた。人と積極的に関わり合いになる性質ではないし、これといった友人もいない。学校で一人過ごすことを苦痛とは感じないが、こうした集団でやらなければならないことがなければ、もっと楽なのにと思わずに入られない。
 集団の中を一人でいるということは甘えだろうか。もしそうだとしたら、シンジは自分の甘さを認め、受け止めて、消化しなければならないのだろうか。消化不良のままでは、人は、社会は、それが出来ない人間を受け入れてくれないのだろうか? 
くだらない思考を振り切るように口を開く。
「当たってる。でも、だからと言って君とペアを組むつもりはないし」
「いいじゃないか、別にそれくらい大したことじゃないだろ」
「大したことなんだよ! なんで僕がわざわざそんな目立つことしなくちゃならないんだ」
 シンジは苛々しながら首を振る。煙草を吸いたいが、まだ学校だ。さすがにここで吸うわけにもいかなくて、舌打ちする。
自分が注目されているということを、カヲルはもっと自覚すべきだ。誰にも媚びない、付かず離れずなカヲルの傍にいたいという人間は校内にもたくさんいるのだから。
「だからと言って、一人で演奏するわけにもいかないだろ。四人でやらなくちゃいけないんだから」
「心配してもらわなくても、適当に余ったもの同士でやるよ。余計なお世話だ」
「別に、心配してるわけじゃないけどね」
 集団の中に、決して入っていくことが出来ない人間がいる。シンジのように、煩わしさが嫌いだったり苦手だったり、他人が怖かったり、興味がなかったりとそれぞれ理由はあるものの。そういう人間は皆一様に、自分以外にはあまり関心を払わない。そんな同属同士で演奏をしたり、集まる方が、後腐れのようなものもなくシンジには楽だった。楽、だった。
 所詮、居場所というのは誰かに見つけてもらうのではなく、自分で確保するしかないのだ。子どもも大人も平等に。シンジはそれをよく知っていた。そしてそれがいかに脆く、崩れやすいものかも。
 チェロを片付け始めると、ヴァイオリンを奏でていた手をカヲルが止めた。音が緩やかにカヲルとシンジの間を縫うようにして、消えていく。
「ただ、君と演奏してみたいんだ。僕は今年でもう最後だから」
 最後だから。というカヲルをちらりと見て、シンジは肩をすくめる。別にヴァイオリンを止めるわけじゃあるまいし、ただ学校を卒業するだけだ。これからだって弾いていく機会はあるだろうに。大げさな言い方にシンジは眉を寄せながら首を振った。
「何を言われようと、僕の答えは否だよ。他を誘ってくれ」
 カヲルが学校を卒業したら、もう二度と会うことはないだろうとシンジは思っている。そしてカヲルがいなくなった学校で、また前のようにチェロだけを隣に置いて生活する。チェロを抱きしめて、音楽を憎んで。それを不幸だなんて、一体誰が言えると言うんだ。
「今年のコンクールの審査員が誰か、シンジ君知っているかい」
 にこりと微笑みながらカヲルが告げた名前は、いつかの職員室でシンジを酷評していた受け持ちの先生の名だった。眉をしかめてカヲルを見上げる。ヴァイオリンを手にしたまま、カヲルがシンジの椅子の前に立った。
「僕と組みたくなっただろ? 君は負けず嫌いだから」
「……選曲は?」
 受け入れるわけじゃない。しかし、シンジは続きを促した。
「ヴィヴァルディの、四季、なんてどうかな」
 見下ろすその澄み切った双眸には、どこか悪戯をする子供のような輝きがある。何かを純粋に企んでいるその紅い瞳。シンジは面白くない気持ちを抱えながら考えた。こうやってただ素直に彼の意図に従うのはなんだか癪だと思ったのだ。
「わかった。その話受けるよ。でも、条件があるんだ」
「条件、ね。受けられるものと受けられないものがあるけど、言ってみてよ」
「そのコンクールが終わったら、もう僕に近づかないでほしいんだ」
 その言葉を聞くカヲルは、じっと黙ったままシンジを見下ろしていたが、やがてゆっくりと首を振った。シンジはじっとカヲルの動作を見上げていた。
「それには乗れない」
「別にいいじゃないか、それくらい。困るようなことでもないだろ? 僕は一人でいたいんだ。一人にしてほしいんだよ」
 人はいつだって、何かと別れながら生きていくのだ。出会った先から時は消失に進む。だったら、それは早い方がいいに決まっている。喪失に心を震わす前に、何でもなかったと笑ってすませたいのだ。
 カヲルはどこか怒ったようにシンジに文句を言った。
「君はどうしてそう頑なに心を閉ざそうとするんだい? そうして何物にも染まらないようにして、何も得ず、誰の理解も得ようとしない」
「必要ないからだ」
「嘘だね。寂しがり屋で、本当は誰よりも他人に認めてもらいたがっているくせに。居場所が欲しいのに。それを無理に捻じ曲げているから、君はいつも不安定で、それ故に他人に警戒を抱く。自分を信じられない人間が、他人に心を許せる訳がないんだ」
 突き刺すようなその言葉が痛かった。カヲルのまっすぐなまなざしと、言葉がシンジを追いつめようとする。それが真実だったとして、彼になにが分かる? 
胸が痛んで泣きたいような、怒りたいような気持ちになりながらシンジは唇を噛んだ。カヲルを睨みつける。
「……何を根拠にそんなことを言うんだか。音楽家なんかより心理カウンセラーにでもなりたいわけ?」
「そうじゃない。本当は……わかっているんだろ?」
 無言のままチェロをケースにしまい終えると、シンジは椅子から立ち上がった。壁に掛けられた時計の秒針は、音もなく時を進めている。決して止まることがないもの。
「帰る」
 玄関まで送ろうか? と言うカヲルをきつく睨んでシンジは黙って踵を返す。背中越しに、また明日、と告げたカヲルを無視して音楽室の扉を乱暴に閉めた。
 廊下に出た途端、眩しさに目を細める。長い廊下の窓から、真っ赤な夕日が差し込んでいた。目を焼こうとするその光の強さにシンジは思わず顔を逸らして、うつむいた。カヲルの瞳のような、色。綺麗だから目を開けられない。直視できないのだ。
夕焼けは嫌いだった。嫌なことを思い出してしまうから。
思えば、シンジが初めてカヲルと会った時も、このような夕日の光の中だったような気がする。
「関係ない。僕はそんなに弱い人間じゃないんだから」
 シンジは首を振って顔をあげると、長い廊下をまっすぐに一人で歩きだした。校舎を出ると、友人や仲間と供に家路につく少年たちの姿が見える。笑い合いながら歩く彼らの横を、シンジは黙って通り過ぎる。すれ違う時、ほんの一瞬地面に視線を落とし、すぐに前を見据えた。

 家に帰った時に、「ただいま」という習慣がシンジにはない。家に誰もいないことを知っているので、わざわざそんな馬鹿みたいなことはしない。室内に入ると、薄暗闇を照らすように留守電のボタンが赤く点滅していた。
「……誰だろ」
 疑問に思いながら、ボタンに指を伸ばす。薄暗い室内に不気味に光る色が消える。無機質なアナウンスの後、唐突に女の声が流れる。柔らかさの中に混じった、硬い声。
『久しぶりね、シンジ君。元気かしら。赤木リツコよ。覚えているかしら?』
 シンジは聞き覚えのあるその声を、無表情で聞きながら、持っていた鞄を机の上に置いた。椅子を引いて、どさりと座る。
『今回は日本にそう長くいることは出来ないの。あの人も忙しいから……』
「それくらい言われなくたって知ってるよ。そんなの今さらだ」
 再生される女性の声に被せるように、ただ淡々と呟く。
『来月、あなたの通っている学校のコンクールに来賓として招待されることになったの。あの人の母校だから、声が掛かるのはしょうがないのだけれど』
「まさか、受けたのか? あの人が?」
『彼はそれを受けたわ。私も、久しぶりにあなたのチェロを聞けるのを楽しみにしているわ、シンジ君』
 それだけを告げて切れた伝言に、シンジは思わず右手で顔を覆った。最後にピィーっという高い音を立てて、室内は静かになる。
 父親の愛人でもある秘書の赤木リツコは、優秀な宣伝人としてどこへ行くにも父についていく。父親が個人的に雇った有能な人。実の息子よりも父のことを知り、長く一緒にいる彼女は、父には勿体無いくらいの出来た女性だと思う。
 しかし、シンジはあまり彼女のことを好きではなかった。どんなに優しくしようとしたって、愛している男が他の女との間に結んだ愛の証を快く思うわけがない。時々、酷く冷たい眼をして自分を見つめていることにはとっくに気づいていた。子どもと言うのは自分に注がれる感情に敏感だ。
「なんか、疲れたな」
 全身の力が、シンジの意思を無視して勝手に零れて行ってしまう。見えない終りに失望し、一体いつまでこうしていなければいけないのか。無責任な大人に振り回される子供のままで。
 顔を覆っていた右手に力を込めて、椅子から立ち上がる。出来るなら、誰の眼にも映らぬままひっそりと消えてしまいたいと思った。
 真っ暗な闇に溶け込むようにして、シンジはリビングの戸を閉めた。











>>続く