目の前に立っている男は、綱吉を目にして切れ長の瞳をすがめた。どこかいぶかしむようにじぃっと見つめる瞳。短くなった前髪のせいで、幸か不幸か雲雀の表情が綱吉にはよく見えた。漆黒のコートを着込んで土足で立っている侵入者の常人にはない威圧感に、綱吉は硬直したまま動けなくなる。 あまりにも突然の再開のせいで夢でも見ているようだ。手放しで歓迎できない、悪夢である。 「君、しばらく見ない間に太ったんじゃない?」 挨拶は一言目のやあ、だけで軽く済まされてしまったらしい。こんばんは、も、久しぶり、というような軽い挨拶の類など彼の辞書にはないのだろう。はなから期待はしていないが、それにしても唐突過ぎて綱吉は反応に遅れた。 「まあいいけど」 一人頷く雲雀に置いてけぼりの綱吉は、間を持たせるために頬をかいた。一応こんばんは、と挨拶することも忘れない。 「あの…雲雀さん」 「何?」 返事をしつつ、いつの間に取り出したのかその手にはトンファーが握られている。嫌な予感に綱吉は一歩後ずさった。ぴりぴりとした殺気が首筋にぶつかって鳥肌が立つ。 玄関の扉は開いたままにしていた。 「オレに何か用事でもありましたか? この間頼んでた仕事はもう終わったって報告があった気が…するんですけど…」 「用ならある。赤ん坊と取引したんだ」 「取引?」 物騒な言葉に綱吉の顔色が変わる。雲雀は愉悦を湛えたまま一歩を踏み出した。銀色のトンファーから紫の炎が吹き上がる。一見すれば美しい、魅入ってしまいそうな力を持つ炎の色だ。 それに見惚れてしまうとあっという間に地獄行き、ということを幸か不幸か綱吉は知っていたので身構える。 「君を赤ん坊のところまで連れていくよ」 闘うことに関してのみ爛々とする瞳と対峙して、綱吉はとっさに腕にはめていた時計を目の前に掲げ目を閉じる。 「何のつもり」 不審に思った雲雀の声が聞こえた瞬間、まばゆい閃光が瞼を焼いた。直視すれば強烈な光が視神経を麻痺させる。 「っ!?」 「すみません!」 綱吉は謝りつつも急いで踵を返し部屋を出た。 必死になって廊下を駆け抜ける。あの閃光をまともにくらえば三十秒、長くて一分は時間が稼げる。その間に出来るだけ彼から逃げなければならないのだから、必死にもなる。 (っ、あと少しなのに捕まってたまるかーーっ!!) 運よくエレベーターは三階に止まったままだ。乗り込んですぐ一階のボタンを押した。ドアが閉まる寸前、元いた部屋の扉が吹っ飛ばされたのが見えた。 ぎらりと鋭い眼ににらみつけられ肝が冷える。 「いい度胸だね沢田綱吉!」 「ひぃ〜〜っ!!」 暗殺部隊に所属しているルッスーリアにわざわざ痴漢撃退用にともらった強烈な閃光弾だ。それなのに雲雀はまったく堪えた様子がない。綱吉は扉が閉まってもなお早鐘を打つ心臓を片手で押さえた。動悸が半端じゃなく早い。勘弁してくれと頭を抱えたくなった。 (あの人に捕まったら……死ぬ!!) いろんな意味で、と綱吉は思いながら一応手袋をはめる。一般人ならまだしも、象さえ殺せる毒を撃たれても死ななかった化け物を相手にするのだ。油断は即、死を意味する。 エレベーターが場違いなほど軽い音を立てて地上に着いた。すべてのドアが開く前に滑り出して綱吉は駐車場まで駆ける。うまくバランスを取らないと凍った路面で転んでしまう。 綱吉は後ろも見ずに車のドアを開け、シートベルトもせずレバーを動かしアクセルを踏んだ。路面が凍ってようが知ったことじゃない。逃げなきゃ咬み殺されるのは火を見るより明らかだ。 「っ!!?」 ダンッッ!!と車の天井が何かの衝撃を受けたように音を立てへこんだ。それに気を取られた隙に頬のすれすれにトンファーが突き立てられ度肝を抜かれる。 (はぁああああっ!?? あり、ありえねーー!!) まさかトンファーが車体を突き破るとは。あらためて人間とは思えない所業に青くなりながらとっさにブレーキを踏み、ハンドルを切った。 狭い車道をスピードを出しながら蛇行する。対向車が来ないのがせめてもの救いだった。 ボンネットに黒い影が突如現れて、綱吉と眼があった。 にやりと唇をつり上げ、雲雀は呆気に取られた表情をしている綱吉の目の前で前面ガラスをトンファーでブチ破った。 「鬼ごっこもいいけどね。久しぶりなのにこれじゃあ、ちょっとつまらないよ」 雲雀は壊れたガラスが降りかかるのも気にせず車内に上半身を突っ込んで、綱吉の襟首を締め上げる。 「ぐっ…!」 「せっかく来たんだ。もっと楽しませなよ、沢田綱吉」 腕一本とは思えないほどの強い力を加えられ、綱吉は呼吸が出来なくなる。視界を雲雀に覆われ、前が見えない。その一瞬、時が止まったような空白が生まれた。至近距離で視線が絡まる。 大きな衝撃を伴って車が止まった。その衝撃を受け、エアバックが作動する。 雲雀から遮るように現れた白く硬い風船のようなものに、綱吉は思い切り顔をぶつけた。 (いっ…てェ〜〜!!) 鼻が潰れてしまうほどの痛みがあったが、綱吉はこれ幸いとレバーを動かし素早くバックする。そのまま素早く切り替えアクセルを吹かし、ドアを開けて飛び降りた。怪我をしないように顔を庇い、体を丸め衝撃にそなえる。とはいっても、実際受ける痛みと衝撃に綱吉は呻いた。 こんな映画の主人公みたいな真似、普通だったらとてもできない。見るのとやるのじゃ大違いだ。 「っ、う……痛っ〜」 横倒れになった身体を起こし、慌てて周囲を見まわした。車はアクセルを吹かしたまま飛び降りたのでそのままの勢いで走っていったようで姿が見えない。 路面が凍っているので止まるにはもうすこし距離が必要だろう。近くの電柱がひしゃげている。車はこれにぶつかってしまったらしい。 雲雀があのまま車の上に乗っていたのかは定かではないが、綱吉は急いで立ち上がって灯りのぽつぽつと灯った民家の合間を駆けた。 (このまま逃げてもすぐに見つかっちゃうよっ! どうすればいい!?) はぁはぁと白い息を吐きながら綱吉は車庫や塀に身を隠しながら考えた。いくらか地の利があるとはいえ、相手は野生の勘らしきものを本能レベルで兼ね備えた相手だ。見つかるのも時間の問題だ。 くそーと、恐怖を丸め込んで内心舌打ちする。いつ見ても心臓に悪い人だった。 吐く息が徐々に白くなるのを抑えられない。綱吉は首をすくめた。 「……さむい」 コートを着ているとはいえ、夜も更け大分気温が下がっている。逃げる途中足を滑らせて雪の中に頭から突っ込んでしまい、すっかり濡れてしまった。 綱吉は襟に顔を埋めるようにして暖を取ろうとする。そんな事をしてごまかそうとしても無駄なことは分かっていたが、やらないよりはやったほうがまだ温かい気がした。気分の問題だ。 震える身体を両腕で抱き込みながら、これからのことに頭を悩ませた。 このまま雲雀に捕まってリボーンのもとに送られれば、必然的に今まであったことを洗いざらい吐いた上、しばらくは眠れないほどの仕事の山が待ち受けている。 それは、いい。自業自得だ、しょうがない。綱吉が恐れるのはそういうものではないのだ。 (ボスがある日いきなり女になっちゃいました、だなんて。……下手なジョークより笑えなくないか) 解き放ちたい業の集合体。この身にめぐる因果な血筋を断ち切りさえすれ、新たな継承者を生むわけにはいかない。先祖が始めたことの後始末くらい、きちんとケリをつけて墓場まで持っていく。 貧乏くじを引かされたのは間違いないが、とうの昔に覚悟はしていた。血塗られた歴史だからこそ、終えるなら自分の手で。 (これがばれたら、理由つけてお見合いさせられたりするんだろうな……そんなのイヤだよ) ただでさえ陰謀渦巻く世界に足を踏み入れている。男も女も、子どもだろうと老人だろうとそんなの関係ない。命にだって値段がつくのだ、倫理や道徳とは程遠い場所にいる。 (だめだ、考えちゃ。いまはとにかく、逃げることだけかんがえないと) 綱吉は壁にもたれていた身体を起こし、そっと辺りをうかがう。あんなに好き勝手にしていても抜け目のない雲雀のことだ、日が昇ったところで公共機関は抑えられているに違いない。電車もダメ、バスもダメ。車はすでに廃車寸前のまま行方不明だ。まさしく孤立無援状態。 助けはなく、絶望的な状況に乾いた笑いがこぼれる。 すべてが終わったら、しばらくゆっくりとした日々を過ごしたいものだ。 「見つけた」 綱吉がこの場を離れようと足を踏み出した瞬間、頭上から声が聞こえ驚いて振り仰ぐ。塀の上、かすり傷一つない雲雀が笑みを浮かべ立っていた。 「ひ、雲雀さん!?」 「鬼ごっこは終わりだよ」 驚愕に眼を開く綱吉の瞳に、紫が揺らめく。横に転がることで一撃を避け、全身を使って飛び退く。 「!!」 顔を上げてすぐにトンファーが頬を掠める。はらりと揺れる髪を気にする余裕もなく、拳を握って接近していた脇腹を蹴り上げた。バネのように身体を撓らせ、雲雀はトンファーをくるりと持ち直した。 「甘いよ」 蹴りが入る瞬間に弾かれ、軸足を蹴られて体が傾く。体勢を整えようとした足がすべり、バランスを崩した。 (あ、ヤバ……) 倒れる瞬間、夜空に浮かぶ星群が見えた。いっそスローモーションを見ているかのようにちかちかと瞬く脆弱さに魅入る。思わず受身を取るのを忘れてしまった。 後頭部に衝撃があり、綱吉は歯を食いしばるまもなく意識を手放した。白む意識の中、沢田、と呼ぶ雲雀の声が妙に耳に残った。 >>続く |