寒いというより、針で刺すようなと言ったほうが正しい冷たい風が綱吉の顔を通り過ぎる。目に映る景色は白。道路の標識やポスト、ガードレールにはまるで、風変わりな帽子をかぶっているかのように雪が積もっている。
 トンネルを抜けると雪国だったという有名な一節を綱吉は思い出す。誰が書いているか、どんな題名の本なのかまでは読書家でもない綱吉の知るところではない。綱吉はこの視界を埋め尽くす白さを表す言葉を知らない。
 ただ、雪が単にやわらかく儚いものではないと言う事を知った。雪が降れば、当然積もる。積もった雪は雪かきをしなければどんどんと積もっていって、やがて石のように固まってしまうのだった。
 そんなことなど知る由もなく膝まで積もるまで放置していた綱吉は、その後の雪かきの大変な重労働に辟易することになった。
 この場所で生活してまだ二週間、いまだ雪深いこの土地での生活は慣れない。
「免許取っといて、ほんっとに良かった……」
 買い物を終えて車に戻った綱吉は、一週間分は持ちそうなほどの量の食材を買い込んだ。エンジンをしばらく温めないと、車を動かすことが出来ないほど寒い土地なのだ。
 偽名で買った中古車は、日本製らしい堅実さで綱吉を乗せる。これが外車だったら、すぐにエンストを起こしたり機嫌が悪くなったろう。日本製のこういうところが好きだよ、と若干日本人らしくなく思いながら綱吉はしみじみと実感した。
 はぁ、と寒さにかじかむ手に息を吹きかけた。暖房から出る暖かな熱が車内にいっぱいになるまでにはもう少し時間がかかる。綱吉はつまらないラジオのチャンネルを変えた。
「獄寺君も山本も、みんな、いい加減心配してるよなぁ……」
 彼らと連絡を絶って、すでに二ヶ月。いい加減痺れを切らしてもおかしくない。
 綱吉はどうしたものかと思いながら座席に身を預けた。さすがにこれ以上連絡を取らずにいるのは、どう考えてもまずい。
 分かってはいる。だがどうやって説明したらいいのかと綱吉は迷った。自分の失態で起こったのだ、その後始末くらいつけねばどうする。
 イヴァンとは結局連絡がつかないまま、彼の行方を知ることは出来ていない。出来る限りのことをやってはいるが、一人でできることにも限界がある。それを思い知りながら、ボンゴレに見つからないように動くのにも神経を使った。
「あーもう! どうすればいいんだよ!!」
 綱吉はハンドルをばちんと叩いて八つ当たりしたが、すぐに手を引っ込める。叩いた手のひらが寒さのせいかとても痛い。
 すん、と鼻をすすって綱吉は車を動かそうと座席から身を起こす。ハンドルを握ったその瞬間、計ったように電話が鳴った。着メロも何も設定していない無愛想な音が車内に響き、綱吉は新しく買ったコートのポケットに手を突っ込んだ。
「シャマルかな」
 帰国してすぐに購入したプリペイド携帯だ。この番号を知っているのは、色々と世話をしてくれているシャマル以外いない。液晶を見た瞬間、綱吉は怪訝に思って眉を寄せた。知らない番号からだった。
 綱吉は電話に出るのを躊躇した。これがもし知り合いだった場合を考えると、少々厄介だ。電話は、綱吉が出るのをためらっている間に一度途切れたが、再度鳴り始める。
「……もしもし」
 綱吉は思い切って通話ボタンを押した。低めた声の向こう、相手が一瞬黙った。訝しく思った瞬間、イタリア語で名前を呼びかけられた。
『お久しぶりです』
「その声は……」
『覚えておられるようですね。光栄です』
「…何の用ですか」
 あの夜以降連絡の取れなかった相手からの電話に、携帯を持つ手に力が入る。男は落ち着いた調子で、お元気ですかと綱吉に尋ねた。
「元気だと思いますか? あなたのおかげでこっちはとんだ災難ですよ」
 綱吉の皮肉にも、相手は穏やかな声の調子を崩さず言った。
「贈り物はお気に召しませんでしたか」
「とんだプレゼントでした。一体どんな意図があってこんなものを…」
「……今、私がどこにいるか分かりますか?」
 イヴァンは綱吉の言葉を遮って質問をした。
「検討も尽きませんね。それとも、どこにいるか教えてくれるんですか」
「ええ、もちろん。この二ヶ月、あなたはきっと僕のことを思い出さない日はなかったでしょうから」
「……」
 イヴァンの言葉に、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をして唇を噛んだ。肉体が変化してしまって以降、綱吉は薬の副作用に悩まされるようになってしまったからだ。
 夜になると決まって発熱し、熱に浮かされた中でこんなことになった現況をなじった。そうでもしないと気が狂いそうだった。
 シャマルから処方された急ごしらえの薬も、そろそろ切れる。その前にもう一度彼にも会わなければならない。
「日本はまだ、冬なのですね」
「……いま、日本に?」
「イタリアの冬とは違う。ここがあなたの生まれた場所ですか」
 通話越し、何か聞こえないかと探ってみるが、イヴァンの声以外聞こえない。どこかの部屋にいるのかもしれなかった。
「あなたは、私に何をさせたいんですか?」
 二ヶ月間、考えても分からなかった問いを、綱吉は元凶である男に尋ねた。何度も何度も、それこそ答えの出なかった問い。
「私の体をこのようにして、ボンゴレを乗っ取るつもりだったんですか?」
 女性となった綱吉を押し倒して、子でも成すつもりだったのか。自分でもぞっとする想像だが、これが事実になればボンゴレは次期継承者をその子に託すだろう。
 それだけは絶対に嫌だった。そんなことをしても、誰も幸せになれない。
 しかし彼は綱吉に否、と言う。
「私はあなたに言ったはずです。ボンゴレなど、興味もない。もともとマフィアの跡取りなどに納まるつもりはなかった」
 マフィアの血筋にあり、嫌でも継がなければならなかったのだと言う言葉には何の未練も感じられない。本当はパティシエになるのが夢だったんですよ、と男は微かに笑った。
「じゃあどうしてこんなことを。こんなことをしても何もならないっ……!」
「あなたを愛しているからです」
 真摯に告げられた科白に綱吉のつるりとした喉がひゅ、と鳴った。耳から入った音が脳に届くまで、若干の時間が必要だった。綱吉は思わず呻いた。
「あい…?」
「あなたをずっと。一目見たときから」
 愛してしまった、と、彼は。イヴァンは初めて自嘲を込めて綱吉に囁いた。綱吉はイヴァンの姿を思い出す。綱吉より背の高い、獄寺とは違ったタイプの美丈夫だったが、やはり男だ。そして綱吉も。
「オレは、男です」
 綱吉は思わず私と繕う事もできずに呟いた。男に直接愛を告げられたのは初めてで、どうすればいいのか分からず困惑した。
「知っています」
「いくら……身体が変わってしまったからといって、オレは、中身は男で、沢田綱吉でしかありえないんです」
 肉体を剥いだら、そこには骨しか残らない。魂は目に見えない。
 それでも、綱吉は男としてこの世に生を受けたのだ。それを、愛を理由に覆していいはずがない。
 イヴァンは、それを聞いてふ、と嗤ったようだった。どこかやるせない、お互いに、どうしようもない沈黙が落ちる。
「解毒剤、は?」
「……もし、このまま私が塵と消えれば」
「解毒剤はあるんですか!」
 私はあなたの消えない傷になりますか、と囁く男の声に綱吉は声をつまらせた。失うものが多い世界、その中で枯れずに美しくあるあなたの傷に、と彼は言う。
「死ぬとかそんな、簡単に口にしないでください! それに、あなたはオレを誤解しているっ。オレはそんなきれいな人間なんかじゃないんです……!」
 たまらなかった。そんな清らかな者じゃない、ただの人間だと言っても男には通じないのだ。
「だから、あなたは他から舐められるのですよ、ボンゴレ]世」
「そんなことは承知の上です。でもそれを曲げることは、オレにはできない!!!」
 憤って言う綱吉の言葉に、相手が黙る。自分は決して、そんな美しいものじゃない、と綱吉は思うのだ。彼は誤解している。綱吉のことなど本当は何一つ知らないまま、都合のいい部分だけを見ているようにしか感じられない。
 それがかなしくて、もどかしくてたまらない。
「この国にも、そろそろ春がやってきますね」
 色とりどりに咲く花はさぞかし美しいでしょうと、花にはあまり詳しくない綱吉に男は声を明るくする。
「ここからは梅の花が見えますよ」
「イヴァンさん。あなたはオレに何をさせたいんですか」
「会いに来てください」
 他ならぬ綱吉に会いに来て欲しいと言うイヴァンに、躊躇ったすえ綱吉は了承した。それにどんな意味があるか知らぬ相手でもあるまいに。
 もとより綱吉にはこうするしかないのだ。場所を告げられ、電話を切った。
 通話が切れる前、確かにありがとうと言ったイヴァンに綱吉は額を押さえた。暖かくなった車内で、ハンドルに体を倒して脱力する。
「愛って、なんだよ、それ」
 綱吉は唇を噛んだ。男の言う愛とやらのせいで、綱吉は違和感のある肉体のままボンゴレを飛び出す羽目になった。積み重ねた年月、ともにあった肉体から切り離されることがこんなにも人を傷つけるのだということを男は知らないのだ。部下を傷つけることも。たくさんの人に迷惑をかけ、自分を苦しめるそれがもし愛だと言うのなら。
「……重い、な」
 受け止めることも出来ず、綱吉はそれをただ返すことしか出来ない。
「あー、ったくっ! オレってほんと、罪な男だな!! 今は違うけど!」
 思ってもいないことを吐き出して、綱吉は伸びをした。
 とりあえず、彼に会わなければならなかった。
















>>続く