リボーンが雲雀に電話を入れる二週間前にはすでに、綱吉はイタリアを後にしていた。
 パスポートもカードも使えない。そんな状況で、なおかつ頼れる人間は、ボンゴレとは出来るだけ縁のない人間でなければならない。
 銀行で預金を下ろし、着の身着のまま屋敷を後にして、空港に駆け込んだ。口座やカードは綱吉が失踪したと気づかれた瞬間監視されてしまうだろう。
 イタリアのような場所では、綱吉のような小柄な東洋人は変に目立ってしまう。確かにこの土地の血が混じっているはずなのだが、すっかり薄れてしまったのか通りを歩けば埋もれてしまう。
 綱吉はその辺の自転車に跨った少年たちと同じくらいか、最悪見下ろされてしまうのが常だった。
(いくら観光客に変装したからって、下手な変装じゃすぐにばれちゃうよな……!)
 こんなのじゃいけない。銃はもちろん、相棒の手袋だって出来る限り使いたくない。
 綱吉が判断を下すのは早かった。近年稀に見るほどの素早さだった。 
 綱吉はどうしたって、ボンゴレ十代目と正体がばれる訳にはいかないのだ。
 あの晩、イヴァンから渡された妙な液体を飲んだ後。綱吉は屋敷に戻ってすぐ心配する獄寺たちを振り切って人払いをした。自室に戻ってすぐ冷蔵庫から封の開いていないガス抜きの水をがぶ飲みし、げぇげぇとトイレで吐いた。異の中のものを全てひっくり返すように出した綱吉だったが、その時にはすでに遅すぎたのだ。
(――いま思い出してもゾっとする)
 急激な悪寒に、ぎしぎしと音を立てる間接。内臓が燃えるような熱さに、ひりつく様な喉の痛み。ジャケットもネクタイもシャツも全部取っ払って、冷たいシャワーを浴びた。
 身体の芯から冷やすように冷水を浴びると、綱吉は寝巻きに袖を通して燃え盛るような痛みと熱さを一人、耐えた。背骨から肋骨、腹や足、手のひらまでもが金槌で打たれているかのように一晩中、夜が明けるまで痛んだ。細胞全てが酷い熱を孕んで、息をするのも苦しいくらいだった。
 視界は涙に歪み、死ぬかもしれないという恐怖が綱吉を襲った。やはり毒ではないと信じて飲むのではなかったと後悔した。
 何度騙されてもきっと、部下と自分の命を秤にかけられたら、どうしたって綱吉は同じ事をしたのだと思うけれど。
 急激な体温の上昇を終えると、次は全身鉛を飲み込んだかのようにだるくなった。獄寺と山本が心配して何度も部屋の前を訪ねたのにも気づかないほど、綱吉の体調は最悪だった。食欲は無く、倦怠感と悪寒が全身を包む。熱さの次は寒さだった。
 綱吉は仕事でシベリアに一度行った事があったが、その寒さを超越するほど寒くて歯ががちがちと震えた。ひとりでに震える太ももや腕が、綱吉に対して危険信号を発している。春の香りを漂わせたイタリアで、綱吉は室内で凍死するかと思った程だ。
 結局どうしようもなくなって、綱吉はベッドの中から知り合いの医者に連絡を入れたのだった。季節外れのバカンス中で都合よくフランスを訪れていたシャマルが文句を言いながらも来てくれなかったら。その先を考えるだけで冷や汗が出る。
「ボンゴレ坊主。お前、随分厄介なもんを取り込んじまったな」
 気を失った綱吉が意識を取り戻して早々シャマルは言い放った。いつの間に来たのか気づかなかったが、これで大丈夫だという安心感に綱吉はちょっと泣きそうになった。
そんな綱吉を尻目に、シャマルはというと、腕組みしたりあごひげを撫でたりと落ち着かない様子だった。診断を告げるときも若干目が泳いでいた。
「どういう…?」
 意味が分からなくて問いかける、その声。馴染んだ声より、高い。
細くてかすれるような声に、綱吉は口を噤んだ。するすると喉元に手を滑らせて、身体が硬直する。本来あるべきものが、そこには無かった。
「お前さん、坊主じゃなくて嬢ちゃんになっちまったみてーだぜ」
 厳かに告げるシャマルを放って洗面所に駆け込み、綱吉は声を殺すために咄嗟に口を塞いだ。全身鏡に映るその姿は、見覚えのある普段の姿とは大分様子が変わっていた。
「…なんだよ、これ…」
 息を呑んで、おそるおそる膨らみに触れる。ふにゅりと確かにある弾力と、感触。絶句した。
「胸……? なんでこんなのが…オレについてんのっ!?」
 鏡の中の綱吉は青褪めた表情のまま胸を触って固まっていた。こんな感触、遠い昔、母親と一緒に風呂に入っていた頃の思い出の中でしかなかった。友人や部下からお節介にも寄越される本やビデオで目にする機会はあったとしても、実際触れるとなると話は別だ。
 綱吉は言葉もなく立ち尽くしていたが、はっと気づいて、今度は下を触ってみた。ぺたりと触れる。そこにも、何もついていなかった。男の子の証であるものが、ない。
綱吉の頭が真っ白になった。
「うわああああっ!!!」
 今まで二十三年間共に過ごしてきたものが、ない。
だからこその絶叫に、「十代目ーッ!?」と叫ぶ獄寺の悲鳴が被さった。急いで駆けつけるだろう彼に、こんな変わり果てた姿を見せるわけには行かない。綱吉は洗面所から飛び出して急いで扉に鍵をかけた。
「どうしたんですか!? 十代目っ、何か問題でも起こったんですか!?」
 激しく扉を叩くそれを背にしながら、綱吉は返す言葉を持っていなかった。問題ならある。それも、今まさに綱吉自身に降りかかっている。
 今にも扉を蹴破って入ってきそうな獄寺に、綱吉はいよいよ焦った。このままこの姿を隠し通せる訳がない。だからといって、昔からの友人にこんな奇妙な姿をさらせる筈もなかった。
「訳ありか? 坊主」
「!?」
「っ! てめーッこのヤブ医者!! 十代目に何かしたらただじゃおかねーぞ!」
 扉越し、シャマルの声が聞こえたのだろう獄寺の声が鋭さを増した。
「うるせーアホ。ボンゴレ坊主は今安静にしてなきゃなんねーんだよ。お前がきゃんきゃん吼えたところで坊主にゃ迷惑なだけだ」
「んだとてめーっ!」
 しっし、と犬でも追い払うような声に、獄寺の激昂した声が聞こえる。綱吉は思わず手のひらで顔を覆った。自分だって混乱しているところだ、今は冷静にならなければならないのに。
「ご、ごくでらくん」
「十代目!? どうしたんですか、お声がいつもより高いような…風邪でも召されたんですか!?」
「うん?! う、うん! そうなんだよ!」
「そうでしたかっ。十代目の体調の悪さにも気づかなかったなんて……申し訳ありません十代目ッ!」
 きっと、扉の外で深く頭を垂れているだろう獄寺に、綱吉は声の調子を低くするように努めて言った。ごほん、と咳払いをする。
「だから、ごめん。しばらくゆっくり休みたいんだ。その間の仕事を獄寺君に任せたいんだけど、お願いできるかな」
「っ! 任せてください! この獄寺隼人、十代目の手伝いを立派に果たして見せます!!」
「相変わらず暑苦しい奴だな」
 獄寺の言葉に、シャマルは耳を塞いで顔を顰めた。しっ、と綱吉はシャマルに向かって唇に指を立てる。
「じゃ、じゃあお願いするね。ほんと、獄寺君がいてくれて助かってるよ。いつも無理させてごめんね」
「いいえ滅相もない! 十代目、仕事は俺たちがしっかりやっときますから、無理せずゆっくり休んでください」
 獄寺の心からの労わりに、思わず綱吉の胸がつまった。嘘をついて遠ざけようとすることが、こうして心配してくれる獄寺に対して裏切りのような気がして罪悪感が重くのしかかる。
でも、だからといってこんな情けない格好を見せることもできない。
「やっと行ったか。あいつはほんと、いつまでも坊主坊主ってうるせー奴だな」
 辟易した様子のシャマルに綱吉は苦笑した。
「心配してくれてるんだよ、獄寺君は。オレがあんまり情けないから、いらない心配ばかりかける」
「……ま、それもあいつにとっちゃー嬉しいんだろ。それよりお前さん、いったい何がどうしてそんな格好になっちまったんだ? まさか今まで女だって事を隠してたのか?」
「そんなわけないだろ! あんたオレが上半身一枚でいるとこ見たことあったよな!?」
 水臭いなぁ、とどこかにやけるシャマルに何となく嫌なものを感じつつ綱吉が叫んだ。冗談じゃない、自分は男だと、女になってしまった身体で綱吉が訴える。
「冗談だよ、冗談」
「あんたの冗談は本気で分かりづらいんだよ!」
 はぁ、とため息を吐いて、綱吉はベッドに腰掛けた。シャマルはその前に立って、綱吉の身体に手を伸ばす。
「な、何するんだ?」
「バカ、触診だよ、触・診! 他にも変わったところがないか確かめてやる」
 医者と言うよりただのすけべ親父の表情をしたシャマルに、綱吉は思い切り顔を引きつらせた。
「あんたに触られるくらいならオレは舌を噛む!」
「なんだよー、いいだろちょっとくらい!」
「絶対イヤだ!!」
 断固拒否の構えを取る綱吉に、シャマルは渋ったように文句を言う。それでも胸の前を両腕でがっちりとガードした綱吉に、ため息を吐いてシャマルは首を振った。
「あのなぁ、真面目な話、どんな副作用があるかもわからないんだぞ。いったいどんなもん摂取したらこんなになっちまうんだ?」
「それは……」
 男が投げて寄越した小瓶が脳裏によぎる。
「心当たりはねーのか?」
 シャマルは羽織った白衣のポケットから銀の平たい棒のような物を取り出し、綱吉に口を開けるよう促した。口内をペンライトで診られるが、異常はないと首を振られる。
「心当たりなら、ある……けど」
「何だ?」
「何かの液体だった。それが何かは……正直分からない。でも、心当たりって言うのはそれしかない」
「どんな薬か、まったく分からないのか? 色とか味とか、飲んだ感じも?」
 シャマルの質問に、綱吉は思い出すように眉を寄せた。
「色は、暗かったから覚えていないよ。でも濁りはなかった。口に入れたときに痺れた感じもなかった。味は…そういえば、ちょっと甘かったかもしれない」
「甘い? 甘いってのは具体的に、どんな感じの甘さだ。砂糖か、それとも果物みたいな匂いつきか?」
「うーん、なんだろうな、あの味。どっかで味わったことがあるような、ないような」
 思い出すように頭を抱える綱吉にシャマルは難しい顔をした。
「何だそりゃ。はっきりしねーな」
「だって思い出せないんだよ。なんだっけ、あの、甘いんだけど、ちょっと酸味がある感じの……」
 うんうんと捻っているのを上から見下ろし、シャマルは肩をすくめた。
 酸味があって、甘い果物なんてそれこそいくらでもある。その答えが分かるのは、実際口にした綱吉だけしかいない。
「思い出せねーってことは、そんなに頻繁に食べるもんでもないんだろ」
「そうなのかなぁ……。あー、もう! 出てきそうなのに出てこない…っ!」
 地団駄を踏みそうな勢いのまま、綱吉は拳を握った。そのまま口に当てる。
「ランボとか、イーピンとか、フゥ太が好きそうな感じの……なんだろ。絶対に食べたことがある味、だった」
「時間が経つと記憶が薄れるからな。出来るだけ早く思い出すしかないぞ」
「……分かってる」
 シャマルの言葉は最もで、綱吉は吐きそうになるため息を飲み込んだ。
 ボンゴレのボスがまさか女になってしまったなんて、他のファミリーにも、ボンゴレ内部でさえ漏らす訳にはいかない。
 ただでさえ、痩せっぽちの東洋人だと、ボンゴレを継ぐ際には反対意見だってあったのだから。やっと安定してきたこの時期に、今さら火種を抱え込むような真似はしたくない。
「そんなものをお前さんにわざわざ飲ませようとする奴なんざ、よっぽど女に飢えてたか。あるいは……」
「こんな屈辱を与えるほどオレを憎んでる、ってことか?」
「それもある。それか、心底お前に惚れ込んでるってやつだな」
 目を伏せた綱吉に、あっけらかんとシャマルは言った。思わず耳を疑う。
「……っはぁああああ!? 何バカ言ってんの?! 相手は男だよ!?」
「だからだろ」
 目を白黒させる綱吉に、真面目腐った表情でシャマルは顎に手を置いた。
「お前が好きすぎてどうしようもないからいっそ女にしちまえ、と。そう考えるのがしっくりくるな」
「しっくりこないって!! じょ、冗談じゃないよ! なんでオレがっ」
 こんな目に合わなきゃいけないのか、そう続けようとして、綱吉は止めた。男に薬を渡されて、それを飲み込んだのも部下を助けたいと思ったのも綱吉だ。ならばそれは誰のせいでもない、これは綱吉自身が招いた問題だった。
 ぎゅっ、と眉を寄せて考え込む綱吉を見下ろして、やれやれとシャマルは天井を仰いだ。
「心当たりはあるんだろ?」
「…うん」
「ならそいつに直接問いただして、ついでに頬でもぶん殴って吐かせりゃいい。解毒剤さえ手に入ればこっちのもんだろ」
 あくまで楽観的に考えれば、それが一番手っ取り早い。
「……もし、それが無かったら?」
「その時はだなー…」
 縋るように見つめる琥珀の瞳に、シャマルは言葉をつまらせた。残念ながら、目の前にいるのは見慣れた少年ではなく、見慣れぬ少女の姿だ。男のときも思ったが、いやに瞳が大きい。潤んだまなざしにくらりときそうになったのを堪える。
「ま、そのときはそのときだ。女になった生活を謳歌すればいいじゃねーか! 女の子になったら楽しいぞきっと!!」
「そんなこと出来るかーっ!!」
 へらりと笑ったシャマルを見上げて、綱吉は憤慨した。
「まあまあ。それは冗談としてもだ、とりあえずここでうじうじ悩んでてもしょうがねーだろ。とにかくお前はこんな目に合わせた元凶を何とかしなきゃねーんだから」
「それは、そうだけど…」
 己の腕を見下ろして、綱吉は口ごもった。いつもより、どこかやわらかくなってしまった両腕。ただでさえ獄寺や山本たちより付かなかった筋肉なのに、今はそれよりもない気がしてならない。どこもかしこも、力を入れれば呆気なく折れてしまいそうなほど頼りない。
 こんな姿で、あの男の前に立てるだろうか。綱吉はわずかに躊躇する。
「悩んでるなら力を貸そうか?」
「……なんかシャマル、今日は気持ち悪いくらい優しいな」
 悪いものでも食べたのかと若干心配になる綱吉に、シャマルはにやりと笑ってウィンクをした。
「知らなかったのか? ボンゴレ坊主。オレはカワイ子ちゃんやレディには優しい男なんだぜ」
 あのままシャマルに頼って、ボンゴレから抜け出してきたのはいいものの。これからどうやって問題を片付けるか、問題は山積みだ。
男のファミリーはすでに綱吉の名を下に報復がなされている。しかし、イヴァン当人は雲隠れしたかのように消息が掴めなかった。
 綱吉が知っている彼直通の携帯電話は、何度かけても繋がらない。八方塞がりだった。
「あー……今年って厄年だっけ?」
 はぁ、とため息を吐く。綱吉がいるのは空の上。地上から四万フィート離れた飛行機の中である。
 ビジネスでも、ましてやファーストでもなく、エコノミーの狭くて窮屈な座席に身を寄せていた。
 パリからモスクワ、アムステルダム、香港を経由し、日本へ向かっている最中である。
 機内にはすでに二十四時間以上乗っており、空港での待合の時間を合わせると、さすがに綱吉でさえ疲れが溜まってくる。機内食はあまり美味しくないが、贅沢を言っていられる場合でもない。
 綱吉が何より恐ろしいのは、この女になった姿を友人知人に知られてしまうことだった。諦めの早いダメダメのダメツナでも、こんな、いきなりに変わってしまった姿をさらせるほど図太い神経をしているわけじゃない。
 守護者はもちろん、世界のどこかを放浪している先生や、影を預かる暗殺集団達に見つかる前に自らの手で片をつけなければならなかった。
 それには、友人たちがいるイタリアはもちろん、世界各地に散らばっているボンゴレの構成員にばれないようにしなければならず、それを思っただけでもきりきりと胃が軋んだ。なにせ末端の会員を含めれば万じゃきかないのだ。実際には綱吉に会うことが出来るのはその中の限られた人間だけだが、念には念を入れなければならない。
 幸か不幸か、綱吉の肉体は今女性になっている。寝癖のように散らばる髪さえ隠してしまえば、いくら知り合いにもそう簡単にばれることはないだろうと思う。
 リボーン仕込のコスプレを思い出して必死になって化粧をし、黒髪のボブを模ったウィッグをかぶり目には黒のカラコンを入れている。
 こうして飛行機の小さな窓に映る姿をみると、少し化粧の濃い目の女の子にしか見えない。複雑な気持ちになったが、ばれるよりマシだ。
「皆みたいな美形じゃなくて良かった…ほんとうに良かった…」
 負け惜しみではない心の底からの本音だ。あんな誰が見ても振り返るような美形軍団、絶対変装には向かないだろう。綱吉は今回ほど己の平凡な顔に感謝したことはない。
(しばらくは様子を見ながら日本で情報収集をして、イヴァンの居所を掴んだら、すぐにでも彼に、会う)
 そのために、綱吉は精巧に偽造されたパスポートを片手に、日本へと里帰りする。しばらくはボンゴレからも身を潜めなければならなかったので、並盛には近づけない。あそこは雲のリングを所持する、おっかない先輩の縄張りなのだ。
まさかきちんとウィッグまでかぶって変装をしている綱吉に気づくことは無いとは思うが、なんせ相手は雲雀恭弥だ。野生の感とか、そういった人間離れしたものでばれないとも限らない。
(疲れた……温泉入りたい。ぐっすり寝たい…かつら、取りたい…)
 綱吉は隣の席のうるさいいびきに悩まされながら、日本につくまでの間、耳にヘッドフォンを差し込んで面白くもなんとも無い映画を見なければならなかった。
 日本に着いたら、雪の積もった場所へ行こう。イタリアのように春の匂いのする場所ではなく。
 そんなことを思いながら、綱吉はそっと、瞼を閉じた。














>>続く