職務を終え、屋敷に戻って来たのは、いつもより少し早い時間だった。
太陽はまだ地と触れ合う事なく、オーブを照らし続けていた。
だがカガリの疲労はピークに達していた。
自室の扉を開けると、カガリはそのまま一直線にソファへと向かい――驚いてぴたりと足を止めた。
ソファからちらりと見え隠れしているものがあったからだ。それは、多分人の頭部だった。
ここはカガリの私室なのに、別の人間がソファにいる。
気配を殺して視線だけを移動させると、少し開いている窓から流れ込むそよ風がカーテンを、
そして闖入者の髪を揺らしている。
見覚えのある、紫色の髪だった。
カガリは瞬時に警戒態勢に入った。
誰に断ってここまで入り込んだのかは知らないが、後で屋敷の者にきつく言っておかないと。
いや、それよりも先に考える事は他にある。
奴をどうやって追い出すか。
上手く言ってなるべく機嫌を損ねないようにたたき出すにはどうすればいいか――
その時、紫の髪が大きく揺れた。
風のせいではなかった。
ゆっくりと起き上がってくる頭、そしてこちらに向いた顔を見て、カガリは大きく目を見開いた。
「ん……おかえりぃ……カガリン」
眠そうな声で呟いた後、大きな欠伸をしたこの男は――少年だった。
いや、少年と呼ぶにはまだ幼い――子供だった。
カガリはその顔に見覚えがなかった。
当然、マルキオ導師の島の子供でもない。
だが、あの髪の色と口調は明らかにユウナだ。
カガリは混乱してきた頭でこの状況について必死で考えた。
もしかしたら忘れているだけで、もっとよく顔を見れば誰だか思い出せるかもしれない。
カガリはゆっくりと歩み寄りながら、にやにやと笑う男の子の顔をじっと見た。
やはり知らない、そう思ったが、よくよく見れば誰かに似ているような気がした。
ユウナではない。
柔和な顔立ち、大きな瞳にふっくらとした薔薇色の頬、鼻筋がすっと通っていて、綺麗な形の唇。
だが紫の髪が思考の邪魔をするせいで、なかなか答えが出てこない。
カガリは自力で思い出すのを諦めて、本人に尋ねる事にした。
「……お前……誰だ?どこから入って来た」
この屋敷は敷地は広いが、その細部にまでセキュリティが張り巡らされている。
その設定にはアスランも携わっている。
だからそうやすやすと人が侵入できる筈がないのだ。
こんな子供が勝手に入って来られるわけがない。
警戒を強めるカガリとは裏腹に、目の前の子供は再び大きな欠伸をすると、
にっこりと笑ってのんびりと答えた。
「ボクはね、カガリンにお願いがあって来たんだよ?」
カガリの質問には答えず、その子供はまるで観察するようにじーっとこちらを見つめてきた。
どこか甘えるような、人懐っこい大きな瞳だった。
カガリは言葉を失って、黙って男の子を見つめ返した。
この子の口調は非常に気になるが、それ以上に自分に対するお願いとやらが引っ掛かった。
最初の疑問は全て脇に置いて、カガリは腰を屈め、男の子の目線と合わせた。
「私にお願いって何だ?」
「お父様をボクに返してくれる?」
一瞬、眼差しの奥が鈍く瞬いたように見えて、カガリは目を見張った。
そして言葉の意味を考える。
お父様、と言われて一番に頭に浮かんだのは、自分の父、ウズミ・ナラ・アスハの顔だった。
だが父はもうこの世にはいないし、いたとしても誰かも分からないこの子に渡すつもりはなかった。
カガリは首を傾け、口を開いた。
「お父様、って誰だ?」
「とぼけないでよね」
先程とは打って変わった鋭い声音に、カガリは思わず体を引いてしまった。
驚くカガリに構わず、真剣な表情を作った男の子は、衝撃的な一言を吐いた。
「アスラン・ザラだよ」
「え……?」
短く掠れた声が漏れただけで、カガリは呆然と目の前の子供を見た。
アスランとカガリは夫婦だ。
結婚し、忙しいながらも幸せな日々をこの屋敷で過ごしている。
そのアスランの子供が、カガリの目の前にいる。
だがカガリはこの子に全く覚えがない。
つまり、それは――
「知ってたくせに……何知らないフリしてんのさ、カガリン」
「し……知らない……!」
咄嗟にカガリは叫んでいた。
だが男の子は表情を変えずに淡々と残酷な言葉を紡いでいった。
「知らないハズないでしょ?さ、早くボクとお母様にアスラン・ザラを返して」
少し高めのあどけない声が、小さな棘となってカガリの胸を刺す。
アスランが自分以外の誰かと、だなんて考えられなかった。
いつもカガリに対して溢れんばかりの愛情を注いでくれるあのアスランが――そんな筈はない。
でも、この子供とアスランの顔が重なる。
意志の強そうな瞳、くっきりとした目鼻立ち、どこかで見た事がある、
最初にそう思ったのはアスランに似ているからでは――
いや、そんな筈はない。
そんな筈は――!
「……お前の母親って、誰だ?」
自分でも驚く程の、低く地を這うような声で、カガリは尋ね返していた。
だが子供は全く怯む事なく、それどころかますます挑戦的な眼差しを向けてきた。
「とぼけるのも大概にしたら?」
とぼけるも何も、本当にカガリは何も知らないのだ。
子供相手だというのに、カガリは感情を露にし、あからさまにムッとした表情を見せた。
「本当に私は何も……!」
「ラクス・クラインだよ」
小さいがはっきりとした声に、カガリはぴたりと口を閉じた。
思ってもみなかった名前を告げられて、カガリの頭の中は一瞬真っ白になった。
してやったりと言わんばかりに笑う子供の顔も、見開かれた瞳には映っていなかった。
「ボクはアスラン・ザラとラクス・クラインの子供だよん。この髪の色を見れば一目瞭然デショ?」
自分の髪の毛先をくるくると指で玩びながら、男の子は勝ち誇ったように笑っている。
だがカガリは何度も何度も、否定の言葉を頭の中で繰り返した。
アスランとラクスが――?ありえない。
だって、確かにあの二人は昔婚約していたけれど、
そういった関係は全くなかったとお互いから聞いている。
それに……アスランには自分がいるように、ラクスにだってキラがいる。
だからありえない。ありえない――
「ね、だから早くぅ〜返してよぅ〜」
まるで玩具をねだってくるような甘えた声に、カガリは思わず大声で怒鳴っていた。
「アスランは私のものだ!だって私達は……!」
「そんな事、分かってるよん」
激高したカガリとは対照的な、落ち着いた声が返って来た。
思わずカガリは言葉に詰まり、黙り込んでしまった。
子供とは思えない冷徹とも言える眼差しは、戦場で見るラクスを思わせた。
「カガリンがアスラン・ザラと結婚しているのは知ってるよん。
でもね、ボクは間違いなくアスランとラクスの子供なんだよねぇ。どういうコトか、分かるでしょ?」
最後にバチッとウインクして、男の子の顔はまた元のあどけないものに戻った。
だがカガリの頭の中はぐちゃぐちゃなままだった。
アスランとラクスが、なんてありえない、考えられない、そう思う。
だけど今目の前にいる男の子は二人の子供だ、と言われたら、信じてしまいそうな程よく似ている。
最初見た時よりもその思いは強くなっていた。
アスラン本人に訊けばはっきりするだろうか。でもそんな事訊きたくない、聞きたくない――
「ま、ボクはアスランなんてどうでもいいんだけどネ」
いつの間にか俯かせていた頭を勢いよく上げ、
カガリは信じられない思いでにっこりと笑う男の子を見た。
つい先刻、あんなに真剣な表情でアスランを返せと詰め寄ってきたくせに。
どうでもいいだって?
今度はカガリが目を細め、男の子を睨みつけた。
自分の友人の子供とはいえ、遠慮はなかった。
カガリは職務中に時折見せるような厳しい表情で、低く呟いた。
「……アスランが欲しいんじゃ、なかったのか……?」
だが男の子は平然と首を横に振った。
「まーさか。そんなの、口実さぁ」
男の子は笑ったままゆっくりとカガリに近寄ってきた。
アスランを軽んじる奴は許さない。
相手が年端もいかない子供だろうと実の息子だろうと許しはしない。
いや、実の息子ならば尚更だ。
怒鳴りつけようとカガリが大きく息を吸い込んだ、その時――
「ボクはね、カガリンに会いに来たんだよ〜」
ぴた、と腰に細い何かが巻きついた。
カガリは息を呑んでのろのろと視線を落とした。
自分の体にしがみつくように、男の子が抱きついている。
甘えるように頬をすりよせられると、背筋にぞわぞわっとした嫌な感触が走り抜けた。
「なっ……何をするっ!」
カガリは細い肩に手を乗せ、渾身の力でぐいっと引き離した。
だが男の子は顔を上げ、笑った。
その笑みは無邪気な子供のものではなく、妖しい大人の男のものに思えた。
「……冷たいナァ……」
先程よりも低い声が頭の中に響いた。
カガリはぞくっと体を震わせ、一歩後ずさろうとした。
だがそれよりも早く男の子はカガリにぴたりと体を寄せ、抱きついてきた。
「でもまぁ……そんな所もスキだけどネ」
すぐさま引き離そうと、肩に手を掛けたが、今度はびくとも動かなかった。
「は……離れろっ!」
「カガリ〜ン……」
それどころか、ますます腕に力を込め、すり寄ってくる。
気味の悪い猫なで声に、全身に鳥肌が立つのが分かった。
離れない体、締め付けてくる腕、カガリの名を呼ぶ低い不気味な声、全てがおぞましく、
耐えられなかった。
カガリはぎゅっと目を閉じ、全てを視界から遮断すると、優しい面影を想いながら大声で叫んだ。
「あ……ア、アスラ……アスラン――――っ!」
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