その3 誕生日の思い出 「楽園へ行きましょう!」 第1話 「宍戸さん、海へ泳ぎに行きませんか? 夏にあんなに水泳を練習したのに、海で泳ぐ機会が無かったですよね? 季節外れになりますけど、良い場所を知っているので一緒に行きませんか? 」 すでに新学期も始まっていたので、宍戸は、そんな鳳の申し出に少しだけ驚いていた。 確かに、鳳の指導で、宍戸は苦手だった水泳を克服できた。夏の終わりには、 曲がらずにコースを泳げるようになっていたし、以前よりも格段にタイムも良くなっていた。 もう、水泳の授業で嫌な思いをする必要は無くなっている。 確かに、宍戸も、自分が泳げるようになったのに、夏が終わってしまったのは 残念でならなかった。しかし、この時期の海は、水温も低く波も荒い。 どの海水浴場でも、海月が出没して遊泳禁止になっているはずだった。 それなのに、本当に鳳の言う通り、泳げる場所があるのだろうか? ★ 鳳と約束していた九月中旬の週末、宍戸は半信半疑のまま自宅で鳳を待っていた。 鳳はタクシーで迎えに来て、旅行鞄に水着と簡単な着替えを詰めた宍戸を乗せると、 そのまま小旅行へと出発した。 宍戸が尋ねても、鳳は行き先を教えてくれない。 「とても素敵な場所ですから、安心してください。」 そう笑顔で答えるだだけだった。 宍戸は、出発して三十分ほど経過した時点で、ある事に気がついた。現在、自分達の 乗っている自動車は千葉県を走っている。そして、この道路の先にある物と言えば……。 「長太郎ッ? 空港へ行くのか? 」 宍戸の質問に、鳳は、先ほどと同じような柔らかな笑顔でうなづいた。それも、彼らが 向かっているのは、国際線のある成田空港であった。 タクシーが空港へ着いてから、宍戸が不安になって、あれこれと話かけるが、 前を歩いている鳳長太郎は、簡単に「大丈夫です。」と答えるだけだった。 そして、宍戸が恐れた通り、《国際線の発着フロア》へと到着してしまった。 「長太郎、無理だ。俺、何も支度なんてしていないよ。」 驚いて後ろで叫んでいる宍戸へ、鳳は振り返ると、自分の鞄からパスポートと旅券を 取り出した。 「もう、準備はできています。宍戸さん、一緒に楽園へ行きましょうね。」 鳳には、何か得体の知れない気迫のような物がある。 宍戸は、鳳に半ば強引に促されるまま、機上の人となったのだった。 後になって宍戸は、この時の鳳と、もっときちんと話をしなかった事を、 とても後悔するのだった。 宍戸は、到着したその場所で、呆然と立ち尽くしていた。 結局、あれから、二人は東南アジアの空港で一度乗り換えをし、さらに五時間飛行機に 乗り、その後、船を使って小さな島までやってきていた。 宍戸の目の前には、真っ白な砂浜がどこまでも広がっていた。こんなに白い綺麗な 粒の整った砂は見た事が無かった。 「宍戸さん。ここには俺達の他は誰も住んでいません。無人島なんです。 島と言うよりも、大きな珊瑚礁なんですよ。これは、岩が削れてできた砂浜では ありません。全て珊瑚礁なんです。」 波打ち際で、腰を下ろしていた鳳が、そんな事を宍戸に言ってきた。 宍戸は、長い乗り物での移動に疲れていたのだが、そんな事を全て忘れてしまうほど、 その見事な景色に魅入っていた。 ブルーと言うよりも、宝石のエメラルドに近い海の色。 その透明度は、宍戸が浜で見ていても、泳いでいる色彩豊かな魚達の姿が鮮明に わかるほどだった。空は、どこまでも澄み切り、海の色と同化していた。 「長太郎。ここに立っていると、地球が丸いのが良くわかるよ。」 宍戸は、両手を大きく広げて風に吹かれていた。 東京のようにゴチャゴチャと住居や店が建ち並んだり、大きなビルの姿も、この場所には 全く無いのだ。 この島には、エメラルドの海と、生い茂る木々があるだけだ。 何も景色を遮断する邪魔なものが無いのだ。 宍戸が、グルリと周囲を見渡すと、深い緑色に茂っている南国風の木々の間から、 遥か遠い地平線の彼方まで見渡せた。 「そうですね。地球なんて、こんな一瞬で見渡せるくらい狭い世界なのかもしれない。 」 鳳は、そっと溜め息をつくようにそう呟くと、宍戸の瞳をじっと見つめてきた。 「宍戸さん、少し早いのですけれど。誕生日のお祝いをさせてください。 九月二十九日は、宍戸さんのお誕生日ですよね? 本当におめでとうございます。」 宍戸は、その言葉に面食らってしまった。 確かに、宍戸は九月生まれだが、誕生日には、まだ二週間以上もあるのだった。 「えっと。ありがとう。あの……それで、この島に連れてきてくれたのか? 」 鳳は、苦笑しながら、こんな話を始めたのだ。 「宍戸さん。俺、あなたの本当の誕生日には、きっと祝う事ができません。 俺、もうすぐ、氷帝学園を退学するんです。十月から、ヨーロッパの学校へ行く事が 決まっています。きっと、その頃は、東京からずっと離れた異国の地にいるんですよ。」 思いも寄らなかった鳳の告白に、宍戸は、何と言葉を返して良いのかわからずに、 白い砂浜で一人立ち尽すしか無かった。 ★ 鳳の事情は、こういう事らしいのだ。 あの花火大会の日。彼は、先輩の宍戸亮と付き合っている事を、両親に告白したのだった。 確かに、あれだけ大がかりに河川敷で、花火を打ち上げたりしたら、親に不思議に 思われないわけが無かった。当然、鳳の両親は、息子の将来を心配して、海外留学の 話を持ってきたらしい。 「酷いと思いませんか? 宍戸さん。人の話を聞こうともしないで、学園を退学しろ…… なんて。一体、何を考えているのか、親の気持ちが俺にはサッパリ理解できません。 学校へ行って勉強をするのも、部活でテニスをやるのも、恋人を作るのだって……。 そんな事まで、全て親の指示通りにしないとならないのでしょうか? 」 宍戸は、無言で鳳の話を聞いていた。しかし、鳳とは違って、宍戸は、そんな親の心情も 少しだけ理解できるような気がしていた。 鳳長太郎は、彼らの一人息子なのだ。 女性の恋人を連れてきたのなら、まだしも。まさか、息子が男性を恋人にしている なんて、彼の両親は想像をした事も無かっただろう。 宍戸自身も、自分の両親に、鳳との事を打ち明ける勇気は無かったのだ。ましてや、 お堅い教師をしている父親が、二人の仲を認めてくれるとはとても思えなかった。 それに、自分達は、まだ義務教育も済んでいない中学生なのだ。せめて、社会的に 自立を認められた大人だったのなら、何とかできたかもしれない。 「……長太郎。俺は、お前の両親の気持ちがわかるよ。 たぶん、親御さんの言う通りだ。」 鳳は、予想していなかった宍戸のそんな言葉に、驚愕していた。 「なっ! どうして、そんな事を言うんですか? 俺達、このままじゃ終わってしまうんですよ。 来月、俺は留学したら、もう二度と宍戸さんには会えません。 俺の両親は、そのつもりなんですよ。」 宍戸は、鳳の隣に腰を下ろすと、興奮している後輩をなだめるように、こう言ったのだ。 「お前は、学校を辞める必要は無い。だって、お前には、来年もあるからな。 これから、もっと多くの事を学園でやらないとならないからな。 だから、退学するのは、俺がすれば良い事だ。」 宍戸のそんな言葉に、鳳は目を瞠っていた。 「長太郎。俺は、別に氷帝学園で無いといけないワケじゃない。テニスが出来るなら、 どの学校へ行っても大丈夫だ。俺は、テニスが出来れば満足なんだ。 それに、お前は、氷帝学園を全国優勝させてくれよ。俺達、三年の期待がお前ら 二年にかかっているんだからな。ちゃんと約束は守ってくれ。」 そう言ってから、宍戸は、苦しげに下を向いてしまった。ここまで言う事で、もう、 宍戸はせいいっぱいなのだ。これ以上、何か話をしたら、涙が溢れてしまいそうだった。 鳳は、宍戸の小さく震えている身体を抱きしめると、大声で叫んだ。 「絶対に、そんな事は嫌ですッ! あなたのいない氷帝学園に、俺が一人で通って、 一体、どうするんですか? 宍戸さんが退学するなんて、絶対に駄目です。 やっぱり、俺の思った通りですね。宍戸さんなら、そう言いだすような気がしていました。」 鳳は、険しい顔をして、しばらく何事か考えてから、低い声で呟いたのだった。 「……宍戸さん。やっぱり、俺達、この島で、ずっと二人だけで暮らしましょう。 だって、……もう、帰るところは無いんですよ。」 鳳は、宍戸にそう言って口づけをしてきた。強い力で宍戸の身体を砂浜に押さえ込むと、 彼の胸元へと腕を差し込んできた。 突然、身体に与えられた愛撫に、宍戸は混乱しながら、鳳の腕を跳ね除けようとした。 いつも穏やかな物腰だった鳳の、まるで人の変わったような形相に、彼の心の中に何か 異常が起きたのだと、宍戸の心が警鐘を鳴らしている。 自分の上で、身体を弄っている鳳からは、いつもの冷静さは全く無い。 まるで、追い詰められた手負いの獣そのままだった。 「長太郎ッ! 今すぐ、東京へ帰るんだッ! もう一度、お前の両親と話をして……。」 宍戸の声は、鳳の叫び声で、かき消されてしまった。 「無駄ですッ! 俺、何度も親と話し合いましたからッ! それでも、駄目だから。 俺、ここに宍戸さんを連れてきたんですッ! この島に二人で来ているのは、 誰も知りません。 俺……家出をして来たんですからッ! 」 その言葉には、さすがの宍戸も驚きのあまり返答が出来なかった。 鳳は、誰にも内緒で、この島へ来たのだと言う。 「……でも、宍戸さんの立場で考えたら。こんな島に無理に連れてこられて。 これじゃあ、まるで、『誘拐』や『拉致』」……そんな状況なのかもしれないですね。」 鳳は、自嘲ぎみにそんな言葉を呟くと、宍戸の首筋に舌を這わせた。 いつも、鳳にされている愛撫に違いないのだが、その時の宍戸には、ゾっと心の奥底が 凍りつくような恐ろしさを感じていた。 まるで知らない誰か別人に抱かれているような、そんな錯覚を感じたからだった。 鳳に抱かれながら、宍戸は、こんな事を思い出していた。 珊瑚礁にある砂浜は、全て珊瑚の死骸なのだと言う話だ。美しい砂浜の正体は、 何億回と言う珊瑚の死で出来ているのだった。 楽園へ行きましょう 第2話へ続きます! 行ってみる→ ![]() 小説目次ページへ戻る ![]() |