1ページ目/全3ページ 宍戸さんには、お金が無い!第2話 その5 〜もう一人の新入生〜 の巻 氷帝学園は、都内でも有名なテニスの名門校であった。 中等部にある男子テニス部は、部員数二百名を誇り、その中でレギュラーを勝ち取る事は、 とてつもない難関である。 入部したての一年生ならば、合同練習が基本になるのだが、年数を重ねると、そのほとんどが 個人メニューに変わってしまう。プレイヤーは、それぞれ特性が違うため、同じ事をやっていても 上達はしないのである。 俺は、学園を三日欠席しているため、大幅に訓練内容を変更する必要があった。 どのスポーツ選手も同じだが、たった一日練習を休んだだけで、失われた筋力や体力を取り戻す ために、軽く一週間もかかってしまうのだ。 俺は、電車に乗っている時も、通学路を歩いている時も、その事で頭がいっぱいになっていた。 それが、普段の宍戸亮と言う人間の姿だと思う。 いつもテニスの事しか頭に無い。 今まで、他の出来事に心も時間も割いた事が無かった。 いつも自信に溢れ、身を竦めたり、脅えたりする事は決してなく、いつも前向きに物事を考えて、 前進を続ける・・・そんな人間だと思っていたし、そうありたいと望んでいた。 それなのに、今、部室の扉を開こうとしている自分は、別人に変わっていた。 周りに肉食獣が隠れている気配を感じて、身体を恐怖で強張らせる草食動物のように・・・ 中へ入る事に戸惑っているのだ。 神経が研ぎ済まされ、鋭利な刃物のように尖ってゆくのが、自分でも良くわかった。まるで、 内部に恐ろしい敵が隠れている・・そう、俺の身体は感じているようだ。 (何にビビッてやがるんだ、俺はッ! ) (ここは、テニス部の部室だ。あの男が来るのは、当たり前じゃねぇかよッ! ) 後輩である鳳長太郎に会う事を、少しでも恐れているなんて、自分でも信じられなかった。 俺は、扉の取っ手を掴んでいた右手の上に、左手も乗せると、力を込め、いっきに開け放った。 すると、いつも嗅いでいた汗や油の匂いが広がった。慣れ親しんだ空気が、自分の身体の 周囲を巡り、久しぶりに部室へやってきた喜びで気持ちがいっぱいになった。 まだ、誰も来ていない様子だった。ほんの少し安堵している自分に、むしょうに腹が立った。 俺は、誰よりも、練習開始が早い。 人それぞれペースがあるのだが、俺は、走り込みや 柔軟などのウォーミングアップに時間をかける人間だったのだ。 万全の体勢で、コートへ入りたいからだ。 ロッカーのドアを開けて、荷物を放り込んだ。それから、スポーツバックを開いて、ウェアを 出していると、当然、背後から声をかけられた。 「おはようございます。宍戸先輩。」 驚いて振り返ると、目の前には、今年入ったばかりの新入生の姿があった。 今まで、部室内に人の気配など無かったので、俺は飛び上がるほど驚いてしまったのだ。 この男は、二年生の間でも話題になっていたので、すぐに名前を思い出せた。 「ああ、日吉か。お前も、早いじゃねぇか。」 日吉若は、中等部で、初めてテニスをやったと言う変り種だった。 氷帝のテニス部に、初心者が 入部するのは、大変珍しい事だった。 ここの部員達は、テニススクールに所属している者や、 ジュニア大会で初等部の頃から活躍していた者がほどんどなのだ。 ところが、この日吉は、試合経験が全く無いと言うのに、大抵の一年生よりも上達が早く、すでに 二年生とも互角に打ち合う能力があった。 格闘技を幼少期がやっていたと聞いていたが、 その類まれな運動能力には、俺も一目置いていたのだった。 そして、もう一人、不思議な経歴の人間と言えば。鳳長太郎も同じであった。 あれだけの高速サーブが打てるテニスセンスがありながら、個人的にコーチを受けただけで、 公式戦に一度も出た事が無いらしい。 俺の記憶では、あの男は、初等部ではテニス部に所属していなかった。 俺は、ジュニア大会に出場していた選手なら、大抵の人間を覚えているので、試合経験が 無いのは、本当に違い無かった。 「宍戸先輩。相変わらず、部室に一番乗りなんですね。」 日吉に、そう声をかけられて、我に返った。 そう言えば、日吉新とは、早朝練習で一緒になった事は無いように思った。 それどころか、部活中に、このように話をした記憶が無い。 存在感はあるのに、接触した記憶がほとんど無いと言う不思議な部員である。 「・・・お前、こんなに朝早くから、部室にいるのは珍しいんじゃ無いか? 」 俺が、そう返すと、日吉若は、真正面から真剣な表情で見つめてきた。 「ええ、そうですね。ちょっと困った事が起きてしまったので・・・。 宍戸先輩に相談したかったんです。どうやら、俺は・・・。 先輩と、同様に失業しそうなんですよ。」 その言葉に、俺は、持っていたバックを取り落としそうになった。 傾けてしまったせいで、開いたファスナーの隙間から、紫色のケースが転げ落ち、日吉の 足元へと転がった。 ![]() ![]() 小説目次へ戻る 2ページ目へ進む |