彼は彼女に焦がれる

 


 

 朝。
 降り注ぐ春の日差しはどこか瑞々しく、まだ冬の残り香を感じさせる肌寒い住宅街。
 そんな中を俺はいつも通り学校へ向かって歩いてく。
 自宅から学校までの距離は徒歩で大体三十分ほど。近くもなく、遠くもない中途半端な距離。
 この中途半端な道のりを俺は毎日歩いている。
 別に自転車通学が規制されている訳ではない。ただ何となく歩いて通学しているのだ。実際、俺以外の生徒のほとんどは自転車で通学している。
 現に今も、気だるそうに歩く俺の横を一台の自転車が追い越していく。
 自転車に乗るのは紺色のセーラー服に身を包んだ少女。背中に流された長い髪が風に擽られるように揺れている。
 そんな様子を眺めながら俺はひとつ欠伸をする。
 昨日は少し夜更かしをしすぎたのかもしれない。バイトが終わってもそれほど疲れを感じず、街も眠る時間が訪れても眠る気が起きず、気がつけば朝日が昇る時間になっていた。そのくせ、登校する時間になって重い鉛のような疲れと睡魔が俺を襲い始めた。
 今日は学校をサボろうか。どうせ行っても生徒指導にまたグチグチと小言と聞かされるだけだろう。少し休んでおいて夕方からのバイトに備えようか。
 そんな事を考えていると、ふと俺の視界に映るものがあった。
 先ほど俺を追い越していったはずの自転車に乗ったセーラー服の少女。
 その少女が今、降りた自転車のサドルを両手で支えながら、こちらを向いて立ち止まっている。
 そして、彼女の唇がゆっくりとひとつの言葉を紡いだ。
 俺も応じるように、短く言葉を紡ぐ。

「やあ、――彼氏」
「よう、――彼女」

 互いの名前を呼ばずに、抽象的な名で呼び合う。不思議なやりとり。
 俺たちの朝はこうして始まる。

   ***

 あれから特にこれといった会話もなく、俺たちは学校へと辿り着いた。
 生徒玄関はちょうど通学ラッシュの時間らしく、教室へ向かう生徒たちでごった返していた。どこか浮ついた独特な喧騒。生徒たちひとりひとりの声は小さくとも、それが重なり合い不思議な合唱となる。開演前の映画館のような雰囲気。
 その中を俺たちは相変わらず無言のまま歩いていく。
 すると、彼女がこっそりと右手を上げ、「それじゃ」と俺に呟いた。
 俺はそれに無言のまま頷く。
 それを見てか見ずか、彼女は踵を返して俺から離れていく。
 俺と彼女では学年が違うため、使用している下駄箱が少しばかり離れている。だからいつもこの場所で別れる。一ヶ月前から何度も繰り返した日常。
 ゆっくりと自分の下駄箱へと向かう彼女を横目で眺める。
 女子の中でも比較的小柄なのだろうか。華奢なその体つきはそれこそ微風に攫われてしまいそうなほどの儚さを纏っている。
 そんな彼女に近づく人影があった。
 俺と同じ黒い学生服に身を包んだ青年。見覚えが無い顔だ。学年違いだろうか。
 その青年は顔をひどく紅潮させ、彼女に何事かをまくし立てている。その右手には薄い水色の封筒。
 相対する彼女は、驚いたように口に手を当て、人当たりのよい笑みを浮かべている。決して俺には見せない表情だ。
 そして青年は持っていた封筒を彼女に押し付け、足早にその場を去っていった。
「ラブレター、か」
 俺はぽつりと呟いた。
 IT時代のこのご時世に、随分と古風なことをする。ご苦労なことだ。
 受け取った封筒を照れたような表情を浮かべながら自分の鞄へとしまう彼女。――そんな彼女が小さくため息を吐いたのを俺は見逃さなかった。
 また後で愚痴を聞かされるだろう。今日の気苦労がまたひとつ増えた。
 重い体がさらに重くなったのを感じながらも、俺も自分の下駄箱へと向かう。
 自分へ割り当てられた下駄箱を空け、自分の上履きを取り出そうと手を入れる。
 カサリ。
 返ってきた感触はしかし、柔らかい上履きとは違う感触だった。硬く乾いた、紙の感触。
 訝しく思いながらもその紙を取り出してみると、それは無骨な白い無地の封筒だった。 数秒の沈黙。
「……ラブレター、か?」
 IT時代のこのご時世、随分と古風なことをする。照れるじゃないか。
 思わずにやけてしまう。全く、モテる男はつらいぜ。
 その白い封筒には封はされておらず、中の手紙は簡単に取り出せた。
 逸る気持ちを抑えつつも、その場で手紙に目を通す。

 昼休み、体育館裏で待っています。

 目に飛び込んできた短い一文、それを頭の中で咀嚼する。
 昼休みに体育館裏。ああ、なんと甘く切ない響きだろう!
 そこで行われる目くるめく情事。ああ、ああ! ――……ああ!!
「……いけない」
 段々と卑猥な方向に加速していく想像に何とか理性のブレーキをかけ、俺は踏みとどまった。危ない危ない。あれじゃだたの変態だ。
 すると、突然授業開始の予鈴が鳴り響いた。
「やべ。急がないと」
 突然のハプニングに舞い上がっていた思考を無理やり冷静にし、俺は自分の教室へと足早に駆けていく。
 まぁ、舞い上がったっていいじゃないか。普段気苦労の耐えない生活をしている俺への神様からのプレゼントなのだから。

 手紙の文字が妙に男の字のように丸みが欠けていたのは、まぁ気にしないでおこう。

   ***

 『県立白穂高校2年3組 普通科 出席番号13番』
 それが俺の肩書きである。

 さらに付け加えるとしたら――『問題児』。

 生来目つきが悪く切れ長で、髪もまた色素が薄く日本人離れした茶色のためか、よく不良と間違われる。これはまぁ、生まれ持ったものだのだから仕方が無い。
 生活態度に関しては最悪。授業はサボる、成績は悪い、隠れて煙草は吸う、喧嘩はする、無断でバイトをする、と我ながらに模範的な生徒ではないなと思う。
 真に不名誉ながらも、名実共に『問題児』のレッテルを送られる人物として相応しいという訳だ。
 以前生徒指導に「義務教育じゃないんだ。来たくないんだったら来なければいい」と言われたことがある。なるほど確かに、その通りである。
 しかし、俺はそれでも学校に通い続けた。
 通い続ける理由が――俺にはあったから。

   ***

 ごっ、とか。がっ、とかいう類の音が聞こえた気がした。
 次の瞬間視界が大きくブレ、右頬に鋭い痛みを感じた。
 殴られた。一瞬のタイムラグを置きながら、俺の頭は今の衝撃をそう理解した。
 そんな中でも、俺の体は無意識の内に右拳を硬く握り込み、自分を殴ったであろう人物の腹へと右手を奔らせる。
 肉のサンドバッグを穿つ鈍い音。そして返る感触は確かな手応え。
 その手応えを証明するかのように、肉のサンドバッグが目の前でゆっくりと崩れ落ちた。
「……ぁがっ。…………ぐぉえ……」
 腹筋をあまり鍛えていなかったのだろうか、俺の一撃をノーガードで食らった肉のサンドバッグ――3年の先輩は、酸素を求める魚のように口をぱくぱくと動かしている。
 なんとも滑稽だ。
 その姿を見ながら、俺はそんな冷めた感想を持った。
 昼休みの体育館裏。そこで俺は3人の上級生に囲まれていた。
 希望と期待とちょっとの下心を胸に手紙通りに来てみれば、このザマである。
 所謂『調子に乗った後輩をシメる』というイベントに遭遇してしまった訳だ。残念ながら当事者として。
 俺と一言二言やりとりした後、真っ先に殴りかかってきたのが一番体格の良い短髪の先輩だった
 迫りくる先輩の右拳。
 思いもよらないこの状況に俺の判断は一瞬遅れてしまった。その結果はこの右頬の痛みだ。
 そして、今に至る。
 残された二人の先輩は、倒れた短髪に駆け寄り「大丈夫か」と声をかけていた。
「てめぇ……ナメんじゃねぇぞ」
 その内の一人が俺を睨みながらそう凄む。
 その視線を俺はまっすぐ受け止める。ただそれだけ。
 しばしに睨みあい。いや、俺は別に睨んでいるつもりはない、本当にただ見ているだけだ。
 しかし、先輩は俺の視線から何を感じ取ったのか、気まずそうに目を逸らし視線を外してきた。
 ちっ、という短い舌打ちの後、彼は倒れた先輩に肩を貸しその場を後にした。残った一人もそれを追う。
 その姿を見て俺は呆れた。自分達から仕掛けてきたくせにそのザマか。――根性無しめ。
「舌打ちしたいのはこっちだよ……。まったく」
 一人残された俺は、ため息と共にそう呟く。
 口を動かすと、ぴりっと口内を駆ける痛みがあり、広がるような鉄の味があった。
「うわ、口の中切ってら」
 再びため息を俺は漏らしてしまう。
 これじゃしばらく汁物は食べれないな。
 そんなズレた感想を抱きながら、俺はその場に仰向けで倒れた。
 それを見上げながら一度大きく息を吐き、ゆっくりと吸い込む。
 ゆっくりと怠惰に形を変えていく雲を眺めていると、視界が上手く定まらない事に気づいた。それに少し頭がグラグラ揺れている気がする。
 思っていたよりも、一発だけもらったあのパンチは効いているらしい。
 静かに目を閉じる。
 しばらくは回復しないだろうし、顔も腫れているだろう。こんな状態で教室に入るのも気まずい。いっそこのまま昼寝してしまおうか。
 目を閉じると、いろいろな音がとてもよく聞こえた。
 思い思いの昼休みを過ごす生徒たちの、ざわざわという音
 風が木々の間を抜けていく、ひゅうという音。
 その風が木の葉をゆらす、さららという音。
 するとその音達に割って入るような鐘の音が響き渡った。
 昼休みの終了を知らせる鐘だ。それに呼応するように生徒たちの奏でる喧騒が一瞬だけ大きくなり、すぐに収束し消えていく。
 授業時間中の独特の静けさに包まれながら、このまま本当に寝てしまおうかと思ったとき、自分に近づいていくる足音があることに気づいた。
「制服、汚れるよ」
 その足音の主であろう声が、俺へと降りかかった。
 聞きなれた声だ。目を開けずとも分かる。
「別に気にしない」
 俺の素っ気無い態度を気にする素振りも見せず、その人は「そう」と呟いた。
 再び足音か近づき、その人の気配がさらに近くなった。
「――ぎゅぇっ!?」
 気配が近くなったと思った瞬間、突然俺の腹に巨大な衝撃を受けた。
 思わず閉じていた目を見開く。
「何轢かれたネコみたいな声だしてるのよ」
「……いや、重いんですが」
 俺の腹の上に、優雅に横座りする一人の少女。
「その物言いはレディに失礼ね」
 やっぱりというか、なんというか。

 ――”彼女”その人だった。

   ***

 『私立白穂高校3年1組 進学科 出席番号10番』
 それが彼女の肩書きである。

 さらに付け加えるとしたら――『生徒会長』。

 肩にかかる黒髪は艶やかだがストレートではなく、少し毛先が丸まっているため知的というよりはどこか悪戯っぽい印象を受ける。しかしその瞳はどこか冷たさを宿した細く鋭いもので、他を威圧するような雰囲気を孕む。そんな相反した要素があってか、どこか危うい美しさを彼女は持っていた。まるで危ういバランスで立つ硝子細工のような、そんな美しさ。
 成績優秀、品行方正。常に生徒たちの模範となり、学校活動の最前線に立つ彼女。
 彼女もまた、この学校に通い続ける理由が――あるのだろうか。

   ***

「何で俺の上に座んの? つーかなんでここに居んの? 今授業中だよな?」
「あーまてまて。質問は一つづつ答えよう」
 俺の腹の上に横座りする彼女は宥めるように俺の胸を左手でぽんぽんと叩いた。
「まず最初の何故君の上に座るか、ね。それは簡単よ、他に座る場所がないからよ」
「そこらじゅうどこだって座れるじゃん!」
「嫌よ。スカートが汚れちゃう」
 これが生徒たちの模範たる生徒会長の行いか? そんな疑問を挟みつつも、彼女は質問に答えていく。
「次に、何故ここにいるかと、今授業中だよな、ね」
 そう言うと彼女はスカートのポケットから銀色に輝く鍵を取り出した。
「社会科準備室におつかいを頼まれてね。だから授業もちょっとくらい遅れても大丈夫。社会科の先生私には甘いから」
 そう言って彼女はにやにやと笑いだした。
「なんでこんなヤツが生徒会長やれるんだよ……」
「公正な信任投票の結果よ」
 何が信任だ。なんだか社会の縮図を見ている様で気味が悪い。
あきれ果てる俺を気にした風も無く彼女は「それより」と言葉を繋いだ。
「怪我は大丈夫なの? 痛そうそうだけど」
「大した事ねぇよ――っつぅ!? 触んなよ!!」
 先ほどまで俺の胸に置かれていた左手で、今度は俺の頬をぺちぺちと叩き始めた。大した刺激ではないのだが、予想以上に沁みる様な痛みが駆け巡る。
「なんだ痛いんじゃない」
 そう言いながら彼女は悪びれた風もなく笑う。
「……」
 はぁ、と溜め息を吐き俺は黙り込んでしまった。
 食えない女だと、本当に思う。
 いつも飄々とした態度で、どんな相手ものらりくらりと受け流していく。――相手の気持ちなどお構いなしに。
 そんな事を考えながら、ふと俺は朝のことを思い出した。
「朝、ラブレター貰ってたよな」
 俺の発したその突然の言葉によって、沈黙が破られた。
「ん? ああ、あれね」
 彼女も今思い出したかのように呟いた。
「結局どうしたんだ?」
「お昼休みに断ったわ。その気はありません、ってね」
 その言葉を聴いて、どこかほってしている自分がいることに気がついた。別にその気持ちを否定するつもりはないが、なんだか複雑な気分である。
 そんな気持ちを悟られぬよう俺は「……そっか」と呟くだけに返事を留めた。
「男のジェラシーはみっともないぞ?」
 バレバレだったようだが。
 図星を指され顔をしかめる俺を見て、再び彼女が微笑んだ。
「でも、ラブレターを貰ったってのは私だけじゃ無いんじゃない?」
 はっと彼女の方へと視線を向けると、彼女はなんとも無機質な笑みをその顔に湛えていた。
「……見てたのかよ」
「うん」
 すると、突然彼女の笑みが色濃くなった。……いやな予感がする。
「面白かったなぁ、にやにやしながらあれこれポーズをとる姿」
「ポーズ!?」
 知らない。断じて俺は知らない。いろいろ妄想はしたがポーズなんてとってない!
「いやいやすごかったよ。段々顔がにやけてきたと思ったら突然真顔になって、またすぐににやにやし始めて……。鼻の下も伸びてたね。あれは新手のプレイかなにか?」
「出てたのか? 俺の妄想が外へ出てたのか!? 垂れ流し状態!?」
 あたふたとする俺を余所に、彼女は声を出して笑っている。くそ、性悪女め。
「いやはや、モテる男はつらいね? 問題児くん」
「……ちげーよ」
 相変わらずふざけた調子の彼女に対し、ボソリと吐き捨てる様に俺は呟いた。
 照れ隠しの発言にしては妙にささくれた声色に気づいたのか、彼女は不思議そうに首をかしげた。
 そう、違うのだ。あの手紙は彼女が考えているようなものではない。
 言っていいものか、と一瞬考えたがすぐにやめた。別に隠すようなことじゃない、それに彼女自身に問題があるわけじゃないのだから。
 思い直し、俺はポケットから白い封筒を取り出し彼女に手渡した。件の封筒である。
 受け取った彼女はゆっくりと封筒の中から手紙を取り出し、その中身に目を通す。
 書かれているものは当然あの短い一文だけだ。しかし、その一文の意味する答えは、聡明な彼女なら簡単にたどり着けるだろう。
 手紙を見た彼女の表情は、予想通り一瞬にして硬いものへと変わる。
「昼休みに来いって……。もしかしてさっきの――」
「あんたに近づくの、やめろって言われたんだ」
「え……?」
 突然の俺の言葉に、彼女は呆けたような声を上げた。
 『調子に乗った後輩をシメる』というイベントの『調子に乗った』という部分はつまり、そういうことである。
「……私に?」
「そ。我らの麗しい生徒会長に下衆な問題児が近づくなってことさ」
 答えながら、俺はいつの間にか自嘲気味な笑みを浮かべていた。
「だから、あんたが思っているような手紙じゃない。俺に来るのはそーいうむさっくるしい手紙ばっかだよ。まいったね」
 自嘲気味な笑みを浮かべたまま、ふざけたように言葉を繋いだ。
 そうさ。俺に来る手紙なんてものは、そういう類のものばかりだ。今回の事件だって、別に初めてじゃない。同じような事は何度かあった。ただまぁ、今回はちょっと度が過ぎてはいたが。
 しかし、話を聞く彼女の表情は相変わらず硬いままだった。
 さっきまでとは立場が逆だな。
 そんな事を考えると、妙に居心地が悪くなった。
「…………」
「…………」
 再び訪れる沈黙。しかし、先ほど訪れたの沈黙よりも重く、鈍い。
 まるで俺が彼女を責めているようだ。やはり、こういう空気は居心地が悪い。
 そんな空気に居た堪れなくなり何か話そうと口を開いたその時、彼女がぽつりと呟いた。

「やっぱり、私たち一緒に居ないほうがいいのかな」

 俺に聞かせるというよりは、自分自身に問いかけるような呟きだった。
 その言葉を聞いた瞬間、俺の心臓がと締め付けられたような気がした。きゅっ、と。
 俺は「そんなことはない」と否定しようとした。――が、出来なかった。根拠のない否定なんて、子供の我侭だ。そして、その根拠を生み出せるほどの理由を見つけることは出来なかった。
「……どうなんだろうな」
 結局、言えたのはそんな言葉だけ。
 彼女の本心は、どこにあるのだろう。分からない。
 他人と想いを簡単に通じ合う事ができたら、と願ってしまうのは傲慢だろうか。そんな願いを抱いてしまうほどに、人間とはかくも不完全な生き物なのだな、と思う。
「私の所為で――」
「違う!」
 彼女が紡ごうとした言葉。しかし今度は確たる意思を持って否定することができた。
「別にあんたの所為じゃない。俺が勝手に付きまとってるだけなんだから」
 強く、強く否定する。
 先の言葉では出来なかった否定。しかし今は違う。
 俺がああいった扱いを受ける事に、彼女は全くの無関係だ。
 強い否定の言葉を受け取った彼女は、驚いた様子は無く、それどころかどこか浮かない表情をしていた。
 何かを悟ったような、物憂げな諦観の表情。
「君は、分かってない――」
 そう言うと、急に彼女は立ち上がった。先ほどまで彼女が座っていた腹の辺りが、突然軽くなる。
「分かってるから、分かってない」
「は? 何がだよ」
 立ち上がった彼女は、俺を一度も見ずに元来た校舎へと向かって歩き出す。
「だいぶ時間経っちゃった。さすがにもう戻らないと、怪しまれるわ」
「おい、聞けって!」
 上半身だけ起き上がらせ、俺は彼女を呼び止める。
 しかし彼女は俺の言葉には全く耳を貸さず、結局そのまま校舎の中へと消えていってしまった。
 一人取り残された体育館裏は、どこか寂しげな風が吹いていた。
「わけわかんねーよ……」
 吐き捨て、起こした上半身を再び横たえた。
 一体、彼女は俺に何を伝えようとしたのだろう。
 彼女は「分かってるから、分かってない」と言っていた。
 意味が分からない。
 目的語の無いその言葉を、完全に理解しろという方が無理である。
 推測だけするのなら、「分かっている」という前提条件の下に「分かっていない」が成立しているということだ。それはつまり、その何かを「分かっている」というファクターが何かの別のファクターを隠し、それによって俺は何かが「分かっていない」状態になっている、という訳だ。
 大きく溜息を吐く。
「ま、結局何も分からないってことか……」
 その何か、が分からないことには、結局のところ何も理解できない。
 本当に、彼女は俺に何を伝えたかったのか。
 何を分かっていて、何が分かってないのか。
「それを言うなら、あんただってそうだろ」
 今この場に彼女はいない、だけど、だからこそ俺はその言葉を紡ぐ。
「人の気持ちを分かってるつもりで、全然分かってねぇ」
 少し強い風が吹き、前髪がさらりと揺れる。

「――俺がどう想ってるのか、全然分かってねぇ……!」

   ***

「ああ、今からちょっと生徒指導室まで来てください」
 そう言ったのは、いつも俺に小言を言う厳つい顔をした生徒指導の教員ではなかった
「小野先生が小言? 珍しいね」
 柔和な表情を浮かべた初老の男性。俺が小野先生と呼ぶその人は俺のクラスの担任だ。その表情と同じく物腰や言葉遣いも柔らかく、あまり威厳を感じさせない先生だが、その実彼の言葉はどこか鋭く、ただ威張り散らすだけの教師とは一線を画した印象がある。
「サボったら、高校生活を1年増やしますよ。学ぶ時間が増えて有意義ですねぇ」
 にこやかに小野先生が言った。
 なんでこう、俺の周りには一癖二癖どころか三癖はあるようなヤツばかりいるんだろう。
「ん、何か言いましたか?」
「いえ、何も」
 相変わらずな笑みを浮かべたまま「そうですか、では先に行っていてください。鍵は開けてあります」と言って小野先生は職員室へと戻っていった。
 結局あの後、俺は体育館裏でずっと寝転がっていた。これといった取り留めのない事を考えているうちに、気づけば時刻は放課後。ずっと寝ていたため硬くなった体を解しながら教室に向かう途中、件の小野先生に呼び止められたというわけだ。
 もう昼休みの事件が先生の耳に入ったのだろうか。彼女以外にあの場を目撃していた生徒がいるとは思えなかったが……。
「また呼び出しか? 問題児も大変だねぇ」
 すると、一人の生徒が俺の肩を叩いてきた。
「好きで問題児やってねぇよ。つか、問題児なつもりないし」
「うわ、自覚がないのかよ。末期だねー」
 けたけたと笑いながら俺の肩を叩き続けるその生徒。
 彼の名は正輝。この風貌と周りの噂の所為であまり良い友人に恵まれなかった俺の、数少ない友人の一人だった。
 高校一年の頃に同じクラスになり、それを切欠に彼と親交を持つようになった。彼の物怖じしない開けっ広げすぎるその性格が幸いしてか、今では親友といっても過言ではない縁になっていた。
「また、かいちょー絡み?」
小野先生に言われた通り、生徒指導室に向かっている途中で正輝がそう問いかけて来た
「教えてやんね」
「そうか、かいちょー絡みか」
「なんで分かんだよ!」
 正輝は「相変わらずだねぇ」と呆れたような笑みを浮かべながら呟いた。
 彼とまだ親交が深くなかったころ、俺は彼に「なんで俺に話しかけてくるんだ?」と聞いたことがあった。彼はその言葉に「お前は絶対に俺の毎日を楽しくしてくれるはずだ」と言った。今このとき、彼は俺といることが楽しいのだろうか。――分からない。
「で、どうなのよ?」
 生徒指導室にほど近い廊下。周りに人気はなく、俺たちの上履きがリノリウムの床を叩く音だけが響く中、正輝が再び問いかけてきた。
「何が?」
「かいちょーとの事だよ」
「だから、その何がだよ?」
「まだ続けんの?」
 要領を得ない問いかけに、俺は少し苛立ちを覚えた。ただでさえ、彼女のあの言葉でさえ分からないというのに。
「何が言いたいんだよ!?」
 思わず、語気が荒くなってしまった。はっと冷静になるが、もう遅い。
 気がつくと、俺も正輝も立ち止まっていた。
 静かな廊下に、黙り込む二人。下りる二重の静寂。互いに口を噤んだまま、動かない。「もういい。俺は行く。小野怒らせたくねぇし」
 先に痺れを切らしたのは俺だった。気まずい雰囲気を冗談めかした言葉で薄め、踵を返した――その時だった。
「俺はあんたと居れば絶対に学校生活が楽しくなるって踏んでる」
 正輝が突然口を開いた。それを俺は背を向けたまま受け止める。
「だけど、今のあんたはつまんねぇ」
 勝手な事を言うな、と怒鳴りつけてやろうかと思ったが、そんな気は何故か起きなかった。
 もういい。そんな諦観の念を抱きながら俺は止めていた足を再び生徒指導室に向けて動かせた。

 そんな俺の後姿を、ただただ静かに正輝が見つめていたことを――俺は知らない。知りたくもない。

   ***

「失礼します」
「おや、逃げなかっんですね。関心関心」
 相変わらずな笑みを浮かべた小野先生に迎えられ、俺は生徒指導室の中へと入った。
 普通教室とは違う狭いこの室は、どこか脅迫的な閉塞感があった。普通の生徒ならば、この雰囲気に呑まれて殊勝な態度をとるのだろう。
 まぁ俺ほどの常連ともなれば、この雰囲気もまたなかなかに趣深いものに感じてしまうわけだ。――誇れるような話ではないが。
「立ち話もなんですし、座りますね」
「おやおや、私の台詞を持っていかないで欲しいな」
 尊大な態度で臨む俺に対して、小野先生は変わらず柔和な表情と物腰を崩さない。やりにくい。
 とりあえずは入り口近くにあったパイプ椅子に腰掛ける。ぎしぃ、と油気のない軋みが室内に響く。
 対する小野先生は先ほどまで座っていた椅子から立ち上がり、俺の対面となる位置へと移動する、が椅子には座らず立ったまま俺に背を向け窓の外を眺め始めた。
 先生が視線を向ける窓。そこから望める風景は生徒玄関だ。今も下校する生徒や談笑に興じる生徒たちを一望することができる。
「昼休みに、ひと騒動あったそうですね」
 俺に背を向けたまま、先生はそう切り出した。
 軽く予想していたとはいえ、現実にその件を持ち出されたことには驚いた。教師の持つ情報網もなかなかに侮れないのかもしれない。
 まぁ、その件で呼び出されたということが分かれば話は早い。やることはただ一つ。
「俺が悪かったです。反省してます。ごめんなさい」
 平謝りだ。
 結局、こういう騒動が起きた場合に学校側がとる態度は『喧嘩両成敗』ただひとつだ。当事者同士の遺恨と、騒動が大事になることを抑えるための最善の一手。その中で学校側が当事者に求めるものもまたシンプルだ。それが謝罪。
 窓の外を眺めている先生も、そんな俺の態度に驚いたようにこちらを振り向いた。
「まだ何も言ってないのですが……?」
「いや、言いたいことは分かりますし」
 困ったように「そうですか」と微笑む先生を見ながら、俺は再び「反省しています」と言った。
「本当に反省してるのですか?」
「ええ、反省してますよ。どばどば反省してます」
「……反省の色が見えないんですが」
「先生の色彩感覚が狂ってるんじゃないんですかね」
 困ったような表情を浮かべる先生。しかしどこか笑みめいたものが見え隠れするあたり、やはりやりにくい。
「口が減らないというよりは、達者なのかもしれませんね」
 その言葉に、俺は少なからず驚いた。まさか褒められるとは。
「まぁ、その件に関しては特に問題にもなってないようですし、これ以上の追求はなしとしましょうか」
「じゃぁもう帰っても――」
「――良くないですよ」
 さっさと立ち上がろうとした俺を、相変わらずの笑顔のまま制する先生。
「まだお話は終わってません。続きがあります」
「……さいで」
 俺は浮かせかけた腰を下ろし、居住まいをもう一度正す。
「君の学習態度や成績は周知の事実ですが、今回はちょっと込み入った部分まで調べさせていただきました」
「……込み入った部分?」
 思わぬ先生からの言葉に、俺は呆けた鸚鵡のように聞き返してしまった。
「ええ、そうです。具体的に言えば、家庭環境やこれまでの生い立ちなどですかね」
「……?」
 何故? その一言が俺の頭の中を駆け巡った。一人の生徒に対してそんなことまで調べるというのは、あまり穏やかな話ではない。
 それはつまり、相応の問題が俺にあるということ。思い当たるものとしては――
「まさか俺、……退学ですか?」
「したいんですか?」
「いやいやいや。そんな訳ないですよ」
 大きく首を横に振り、俺は否定する。
「学校は辞めたくない理由がある、ということですか」
 その呟きは、問いかけというには弱い、どこか確認めいた呟きだった。
「まぁ、それに関しては後で聞くとします」
 一旦話をそう区切ると、先生は俺に真っ直ぐ視線を向けた。
「うちの学校は、原則としてアルバイト禁止なのは知ってますね?」
「ええ、しってます」
 この学校はアルバイトが基本的に禁止されている。それくらいはどこの学校でも同じだろうが、うちの学校はそれを違反した時の罰則が少々厳しい。
 即退学。それが違反者に与えられる罰だ。
 以前はもっと軽いものだったらしいが、違反者の増加と過去に起きたという大きな問題に起因して今の罰則へと相成った。
 違反者には即罰を。それがこの学校のやりかたである。
 当然、俺もその違反者に該当するわけだ。しかし、容易く学校側から即罰を受けるほど浅はかではない。
 『悪事は露見しない限り悪事ではない。善行もまた然り』という至言がある。
 つまりバレなければ何でもやっていいってことだ。そう、バレなければいいのである。
 俺がアルバイトをしているファミリーレストランは駅から少し外れた場所にあるファミレスだ。それほど流行っている訳ではないので俺がそこでアルバイトをしているという事がバレる可能性は限りなくゼロに近い。
「アルバイト、してますよね? 駅から少し外れたファミリーレストランで」
 限りなくゼロに近いということはつまり、ゼロではないということでもあるが……。
「してません!」
 思わず立ち上がり、大声をあげてしまった。がたん、と座っていたパイプ椅子が悲鳴をあげる。
 しまった、と思ったときにはもう遅い。こんな態度では「やってます」と言っているようなものだ。
 しかし、なんで? なんで知ってるんだ?
「あそこのお店、学生時代の友人がやってるお店でしてね。私もよく訪れるんですよ」
 絶句。運命の神様はどうやら俺のことが嫌いらしい。
「そこで見た顔が働いているのを見かけてしまってね」
 相変わらずの微笑みを浮かべながら話す先生。しかし今ではその笑みすら残酷なものにしか見えない。
 どうする。どうすればいい。積むか? 金を積むか? いや、小野先生がそんなものに堕ちるような人間には見えない。じゃぁどうすればいい。女か? 色仕掛けか? 馬鹿、俺は男だ。だめだ。どうすればいい。――殺すか?
 心臓がバクバク言っている。殺す、しかない。そうするしかないんだ。
 きっ、と先生を睨み付ける。体格的には大差はないし、見た感じ筋肉の付きも甘い。多少の取っ組み合いになっても大丈夫だろう。ただ、ここは学校だ、事後の処理などを考えるとどうしても人の目が厄介だ。
「なんだか私を殺してしまいそうな目ですね……」
「視線で人が殺せるのなら、楽ですね」
 きっと今俺はとても悪意ある笑みを浮かべているだろう。
 さぁどうする。殺るなら今しかない――!!
「あー……、その、これはオフレコですよ。あまり思いつめないでください」
「――……へ?」
 オフレコ? おふれこ? off the record? つまりまだ露見してない? いわゆる未遂ってやつ?
 気づかれないように身を沈め、いつでも飛び出せるように構えていた体から急速に力が抜けていくのを感じた。
「とりあえず、私の話を最後まで聞きましょう。君は少々せっかちだ、別に私は君を退学させたい訳ではないのですよ? むしろ逆です、ちゃんと君の状況を知りたいだけです」
 先生が困ったような笑みを浮かべる。
 善意というわけか、無下にするわけにもいくまい。本当食えない先生だ。
「……っ」
 軽く溜息を吐き、俺は再び椅子に座りなおした。
 それを確認した上で先生は話し始めた。
「アルバイトは原則としては禁止ですが、正当な理由がある上で正規の手続きをすれば特例で認めることはできます」
 そこで区切り一息吐くと、先生は足元に置いてあった鞄を机の上に持ち出す。
「君の持つ”正当な理由”については何度か耳に挟んだことがありましてね。一度しっかり調べようとは思っていたのですが機会がなかなか掴めなくてね」
 机の上に置かれた黒い鞄の中から、先生は黒皮のメモ帳を取り出し、ページを捲る。
「今回が丁度いい機会だと思い、調べてみたわけです」
「……で、何が分かったわけ?」
 気がつくと、俺の言葉はどこか棘々しいものになっていた。
「ええ、いろいろと分かりました。まず家庭環境として、片親だとは聞いていましたが事実だったようですね。父子家庭のようで、これだけでアルバイト申請の正当な理由になります」
 先生はそこで言葉を一度区切り、俺に視線を向ける。
 その視線を受け止めながらも、俺は無言のまま何も答えない。
「……正当な理由はあるんです。あと必要なのは正規の手続きだけ。早いうちに申請するべきだと先生は思いますけど」
「申請ってさ、親の承諾とか必要ですよね?」
 やっと破られた俺の沈黙。それは俺の質問によってだった。
「え……ええ、そうですね。未成年な訳ですから、親の承諾は必要になります」
「だったら無理。俺の親、絶対に承諾なんてもらえませんよ」
 先生の眉が訝しげに歪められる。
「それに、片親が正当な理由になるってのは、家庭の懐事情を考慮してってことですよね? それに関してもうちは何の問題もありません」
「と、いいますと?」
「先生がどこまでうちのことを調べたかは分かりませんが、うちの懐事情はそこらの一般家庭よりは潤ってるんじゃないかと思いますよ。――当事者がどう思ってるかは知りませんが」
 言っている途中で我ながら不遜で傲慢だな、とおもったらいつのまにか皮肉を付け足してしまっていた。
 その皮肉に気づいているのかいないのか、先生は少し難しい顔をした。
「ふむ、君のお父さんはどこにお勤めかな?」
「――」
 俺はとある某有名上場企業の名を口にした。たぶん知らない人間はこの日本にはいないのではないか、というくらいに有名な会社だ。
「ほぉ、それはすごい。なるほど確かに、先の言葉も納得ですね」
 先生もどこか驚いたような表情を浮かべていた。そりゃそうだろう、先までただの問題児が金持ちボンボンな問題児に出世したのだから。さらに厄介になったとも言えるが。
「んー……。それではますます分からなくなってしまいましたね。君がアルバイトをしている理由が」
 先生は右手で口を被うようにして呟いた。あれは先生の考え事をする時の癖なのだろうか、度々目撃する気がした。
「親御さんから生活費や娯楽費などは頂いているのでしょ?」
「ええ、不自由しない程度の金額はもらえますよ」
 それを聞いて、先生はふと何かに気づいたようにピクリと眉を動かした。
 俺の言葉の真意に気づいたのだろうか。だとしたら相当に聡い。
「――もらえる、それはつまり可能性の示唆ですね。では、実際はどうなのですか?」
 思わず俺は微笑んでしまった。
 他の先生とは一線を画しているとはいえ、これほどまでとは。
「ええ、もらってませんよ」
「それは何故?」
 その理由は今まで誰にも言ったことがなかった。正輝にも、彼女にすら言っていない。
 だけど、この先生になら言ってもいいかな、と思った。
 それほどに、俺はこの先生に対する評価を上げていた。
「あんなヤツは親だと思っていません。あんな糞野郎が稼いだ金なんて、受け取る気にもなれない」
 先生が今まで見た中で一番驚いた表情を浮かべる。
 そう、俺の親父は糞野郎だ。屑だ。現代社会に巣食う癌細胞だ。
「ふむ……。親御さんがお嫌いなようで」
 どこか気の毒そうな声色。我が子にここまで言われる父親に同情しているのだろうか。先生もまた家庭を持つ社会人の一人だ、多少なりとも共感しえる部分があるのかもしれない。――俺には関係ないが。
「嫌いです。大嫌いですね。本当に」
 家には殆どおらず、抱き上げられたり肩車をしてもらった記憶どころか、その顔すら思い浮かべることは至難の業だ。その上、俺はあいつの所為で――……。
「そう、ですか」
 先生が搾り出すようにそう言った。それに俺は「はい」とか「ええ」の類の言葉を返す。
 しばらくの沈黙の後、先生が立ち上がりこの教室に入ったときと同じように窓から外の風景を眺めだした。
「君は、生徒会長を知ってますか?」
 突然、先生はそう言った。
「……知らない人なんて、いないと思います」
 どうして今そんな話を? 生徒会長――彼女の話がでてくるんだ? そんな疑問を抱きつつも、俺は平静を装いつつ返答する。
「ああ、そうですね。知らない人なんて居るわけがないですね」
 表情は見えないが、今先生は微笑んでいるのだと思う。
「じゃぁ、これは知っていますか? 彼女の家庭も片親なんですよ。君とは逆の、母子家庭」
「……」
「彼女は生徒会選挙の時にお世話をした、というかされたというか。まぁ関わりがあったんですよ」
「…………」
「彼女、それほど家は裕福ではないらしいんですね。それでも奨学金などを貰って一生懸命頑張っている」
 俺はただひたすら沈黙している。それを分かっていながらも先生は話を続ける。
「彼女の進路は進学だそうです。成績も優秀で、生徒会長という最高の内申要素も手に入れている。大学でも奨学金を受け取りには困らないでしょう。本当に彼女は頑張っています。君は、――頑張っていますか?」
 質問の意図が、まったく読めない。先生は俺に何が言いたいんだ?
 今日は本当にこういうことばかり起きる日だ。くそ。
「その話が、俺とどう関係があるんですか?」
 気がつくと、そう言い放っていた。
 彼女、そして正輝に続いて先生まで、いい加減俺も我慢の限界がきてしまっていたようだ。
「君は成績は悪いかもしれないが、とても頭がいい。知識の量ではなく、賢さという見方ですがね。だから物事の先を簡単に見通してしまう。でもそういう人に限って、自分も見通した未来をただ盲目的に信じてしまうんですよ。自分の間違いに気づくことができないんです。――愚かなことですね」
 俺を罵りたいのか? だったらはっきりそう言えばいい。遠まわしにぐちぐちと……虫唾が走る。
「先生の話は意図が見えません。時間が無駄なんで帰らせてもらいます」
 一度言ってしまえば、もう歯止めは効かない。ただ体の奥底から流れ出す辛辣な言葉の奔流に身を任せるだけだ。
「さようなら」
 そう言って椅子から立ち上がったその時だった。
「君は、お父さんからお金を受け取ってないと言ったね。それに、そんなお金は受け取れないとも言った」
 今まで窓の外へと向けていた体をクルリと回し、先生は俺のほうへとその身を向けた。
「言いました。それがなにか?」
「そして、受け取らなかったお金は無断でアルバイトをして賄っている。という訳ですか」
「ええ、そうです」
 ゆっくりと先生が此方へと向かって歩いてくる。
 その足取りは緩やかで、どこか幽鬼じみた印象を受けた。いや、幽鬼じみているのは歩き方だけではない。
 目だ。
 今まで柔和な笑みを見せていた目にも、どこか剣呑とした光を宿していた。
「そういう事です。俺は早く独り立ちしたい。あんなヤツの下を離れて、自分の力で生活したいんです」
 先生の放つ異様な雰囲気に呑まれまいと、俺は懸命に言葉を紡ぐ。
「なるほど、そういう事ですか。納得しました」
 そしてついに、先生は俺の目の前へとたどり着いた。
 先ほど俺は先生となら多少の取っ組みあいになっても大丈夫だろうと評した。
 今なら言える。あれは俺の読み違いだ。
 こうして対峙して気づいた。先生から放たれる雰囲気、それはまさしく獣の殺意だ。
 消して自分の居場所を気づかせず、それでいて常に相手に対してプレッシャーをかけ続ける。まさしく野生の殺意。
 それが今、俺に襲い掛かろうとしている――いや、襲い掛かっている。
 どうする、逃げるか? いや、逃げられるのか?
 もう覚悟を決めて闘うしかないのか? 勝てるのか?
 無理だ。――俺の全ての感覚がそう告げる。
 今まで幾度かの喧嘩は経験してきた、そんな薄っぺらい経験しかもたない俺でさえ感じ取れるこのヤバさ。
 もう俺は、この野生の獣の必殺の領域に入り込んでしまっているのだ。俺の命運はもう、全て握られている。
 すると、先生が無造作にスラックスのポケットに右手を突っ込んだ。
「――っ!?」
 その動きにはっとするが、もう遅い。一瞬でも遅れた反応が齎すものは、取り返しのつかない結末だけだ。
 そして俺の待ち受けていた結末。それは――

「ガム、食べますか?」

 ガムだった。
 スラックスから抜かれた右手には一枚の居たガムが握られており、それが俺へ向けて差し出されていた。
「へ……。ガム?」
「いいから。食べてください」
 先ほどまでの獣のような雰囲気はどこへやら、今の先生は完全に普段の柔和な先生に戻っていた。
 場の空気に流されるまま俺はガムを受け取ってしまう。そのガムは、なんの変哲もない市販のミントガムだった。
 受け取ったガムを包む銀紙を剥がし、ゆっくりと口へと持っていく。
「よく噛んでくださいね」
 先生は相変わらずの笑みを浮かべている。
 そして、俺はガムを口に含んだ。
 ミントの微かな香りが鼻腔をくすぐる。l
 咀嚼するべく、ガムを噛む――

 ――次の瞬間、俺はその場から居なくなっていた。

 比喩でも例えでもなんでもない。本当に俺はその場から居なくなった。
 そして次に訪れるのはロッカーに何かがぶちあたる轟音。
 ――遅れてやってきたのは、灼熱の鉄板を押し当てられたかのような左頬の痛みだった。
「……ぅぁっ!? っっ――……ぁっ!!」
 ガムのミントの味にまざって、苦い鉄の味が口の中に広がっていく。
 視界が大きく歪む。昼にもらったパンチとは比べ物にならない衝撃。
「痛いですか?」
 揺れる世界を感じながらも、俺はその声を聞き取ることが出来た。
「私が学生の頃によく使っていた手なんですが、まだまだ現役として通じそうですね」
 相変わらずの柔和な笑みを浮かべながら、横たわる俺の脇に立つ。
「ああいう風にすれば、相手が舌を噛む心配もありませんからね。思い切り殴れるんですよ」
「――…………ぁっ……!」
 何か反論をしようと思ったが、出来なかった。くそ、自分の体がいう事を聞かない。
「ああ、無理に喋らなくても結構ですよ。返事は始めから期待していません」
 そう言われた瞬間俺はやっとこの状況を把握することができた。
 俺は殴られたんだ。思いっきり全力で。
 油断した、と思わせる暇すら与えられない完全な敗北。
 敗者はただ、勝者に前で無様に横たわるだけだ。
「少々説教をしましょうか」
 そう言うと、先生は膝を折って俺の頭の横あたりに立ち膝で座った。
 それを確認した瞬間、先生の右手が凄まじい速度で俺の髪を引っ張った。
「甘えてんじゃねぇ!!」
 髪を引かれた痛みに抗議を上げる俺の声は、その言葉に完全にかき消された。
「なにが早く独り立ちしたいだ!? はっ、いま手前ぇが住んでる家はだれのもんだ? 手前ぇの学費は誰が払ってんだ!? その身分は誰が保証してくれてんだ!? ああ!?」
 髪をあちこちへ引っ張られ、俺の視界はさらに歪められる。
「全部手前ぇの親父さんだろ!? 一から十まで手前ぇでやってるような顔しやがって。甘ぇんだよ!」
 そこまで言って、先生はやっと俺の髪を離した。しかし、それは生易しい離し方ではない、無造作にごみを投げしてるかのような離し方。
 ごん、と鈍い音がして床に俺の頭が叩きつけられる。
 痛みというものがどこか遠い存在に感じられた。
 揺れる視界がまるでテレビに映る映像のように思えた。
 意識が段々空気に溶けていく……――
「勝手に不幸を演じて。勝手に間違った行動をして。それがバレたらすぐ逃げ出そうとする。手前ぇは何がしてぇんだよ?」
 先生のその言葉で、薄れ掛けていた意識はなんとか現実に繋ぎとめられた。
「学校はやめたくない。でもバイトはしたい。しかもその理由がまたチャチなガキの我侭だ」
 お前に何が分かる。そう言いたかった。しかし出来ない。
「手前ぇが学校を辞めたくない理由がなんなのかは知らねぇ。それなりの理由があるのかもしれねぇ。でもな――」
 そこで一度言葉を切り、先生は立ち上がった。
「手前ぇのやり方は筋が通っちゃいねぇんだよ。それじゃただ自分の我侭を喚き散らすそこらのガキと何も変わらねぇ」
 先生はそのまま自分の鞄を手に取り、ドアの前まで歩いていく。
「学校に来るのが大事か、自立するのが大事か、手前ぇの中でしっかり答えをだせ。自立するってんなら学校を辞めて働くなりなんなりしろ。学校が大事だって言うんなら相応の態度を見せろ」
 そう言ったきり、先生は一度も俺に目を向けずに生徒指導室を出て行った。
 残された俺は、やりきれな想いを抱いたまま歯噛みした。

 ――口に広がる苦い鉄とミントの味が、ただひたすら悔しかった。

   ***

 使い慣れたベッドに自分の身を投げるようにして俺はうつ伏せのまま倒れこんだ。
 右頬の痛みはだいぶ引いたらしく、そのなりを潜めていた。痛覚が麻痺し始めたといったほうが正しいかもしれないが。
 掛け布団の布ずれが起こすしゅるしゅるという音と、壁掛け時計が奏でるかちこちという音だけが、この部屋を支配している。
 とある高級マンションの一室、それが俺に宛がわれた住処だった。
 一介の学生風情が住むには不相応なくらいに整ったこの部屋を、俺はずっと何も考えずに使ってきた。
 無様に晴れ上がった右頬に軽く触れてみる。
「……つぅッ」
 一瞬にして身を駆け巡る閃光のような痛み。痛覚が麻痺したかと思っていたが、やはり痛いものは痛いようだ。
 それにしても、小野先生の豹変振りには驚いた。
 普段はあんなに人畜無害な顔をしているくせになんだ、あの荒れっぷりは。学生時代になんとかと言っていたが、たぶん若い頃はだいぶ無茶をしていたのだろうな、と思う。そうでなければ、あんな殺気を出すことはできない。あれは数々の修羅場を潜ってきた者だけが出せるオーラだ。俺みたいな薄っぺらいやつでは、到底不可能な芸当。
 そう、――俺は薄っぺらいやつだ。
 思い知らされた。身も心も、打ち砕かれた。
 先生に言われた言葉が、あれから俺の頭の中をぐるぐると漂っていた。
 筋が通っていない。なるほど確かに、その通りだと思う。
 俺にはやらなきゃならないこと――いや、やりたいことがある。しかしそれは、親への反抗という行為によって阻害されている。
 自分の望みを、自分で阻む。筋が通っていないなどのレベルではない。もはやこれは矛盾だ。
 何故こんな事に気づかなかったのだろうか。
 俺のやりたいこと、望み、希望。

「彼女の傍に、隣にいたい」

 言葉にしてみると、なんだか気恥ずかしさがあった。しかし、それは今の俺を形作る全てといったもいい、アイデンティティ。
 ただこのためだけにおれは生きている――はずだった。
 いつからだろう。その望みが、段々他の粗雑な想いに呑まれはじめたのは。いくつか思い当たる節があったが、その中でも決定的なものに思い当たった。
 両親の離婚。
 その日を境に、俺はたぶんおかしくなったのだと思う。
 ただ父親が憎かった。
 父は一言で言ってしまえば仕事人間だった。別に仕事人間なんて人は世の中には溢れ返っているのではないかと思うが、俺の父親はその仲でも群を抜いていた。家庭を顧みるどころか、その存在すら認識していないのではないのかというほどの仕事ぶり。ワーカーホリックという言葉をニュースで聞いたことがあるが、その通りだと思った。
 母との結婚だって、ただ社会的信用を得るためだけに行った形だけのもの。子供の俺すら、その社会的信用を確たるものにするためのファクターに過ぎない。
 母親はいい人だった。典型的な良妻賢母で、どんなこともソツなくこなし、常に子供たちの模範であろうとする素晴らしい人だった。
 父親と会えずとも、俺は母親と当時いた一人の姉がいればそれでよかった。本当にそう思っていた。
 しかし、母は違っていた。幸か不幸か、母は父を愛してしまっていた。本当に純粋に――愛していた。
 その愛が報われていれば、また違った未来になっていたのかもしれない。報われる事のなかった愛は、その深さだけ母の心に深い傷を負わせる事となった。
 そんな日々が続き、段々と母の心は病んでいった。そして行き着いた結末は、ひどく冷たいものだった。
 離婚。心労が祟り、病に伏せがちとなった母が選んだ結末だった。
 俺は父に引き取られ、姉は母に引き取られた。
 そして、今に至る。
 ただ父を恨むあまり、俺は自分の大切なものを見失おうとしていた。
 痛む右頬。その痛みが俺を導くの先にあるのは――選択、そして決意。
 選択。俺が選ぶのは唯一つ「彼女の傍にいる」ことだ。迷うことは何もない、そしてもう決して見失いはしない。
 決意。俺に何が出来る? 今の俺に――これからの俺になにができる?
 先生は俺を賢いと言ってくれた。確かに俺は頭が悪いわけじゃないと思う。
 だったら考えろ。
 知恵を振り絞れ。
 自分が甘えていた間に手放したものを取り戻せ。
 そのためにはどうすればいい。
 方法を考えろ。
 不可能? だったら他の可能性を探せ。
 可能性がない? だったら自ら可能性を切り拓くだけだ。

 そう、自分で切り拓くんだ。――自分が望む幸いへの道を。

   ***

「会長ー!」
 見慣れた後姿を見つけ、俺は大き目の声で呼びかける。
 くるりと振り返るその姿もやはり、見慣れたもの。――少し不機嫌そうな顔も。
「あのさ……、私もう会長じゃないんだけど?
 時期は冬。生徒会の引継ぎなども終わった時期である。当然彼女だって生徒会長の座を後代に譲っている。
 しかしそれでも、俺は彼女を「会長」と呼んでいた。
「この書類なんだけどさ――」
 数枚の書類を会長に手渡す。それを彼女は「ん、どれどれ」と言いながら目を通しはしめた。
「ん、……。これは自分が目を通して不備がなかったら各学年主任に渡していいって言ったでしょ?」
「え、そんだけでいいの?」
「つか、仕事引継ぎの日に説明したよ。覚えてないの?」
 呆れたように呟きながら渡された書類を再び俺へと返す。
「まったく……。頼むよ? ――現生徒会長さん」
 悪戯っぽく笑いながら俺の肩をぽんぽんと叩く。「はい……」と殊勝に頷く俺の姿がなんとも情けなが、気にしちゃだめだ。

 『県立白穂高校2年3組 普通科 出席番号13番 問題児』
 それが俺の肩書きだった。

 さらに最近付け加わるようになったものが――『現生徒会長』

 小野先生に生徒指導室で殴られた日の夜、俺はひたすら考えた。
 何をすればいいのか、何をするべきなのか、を。
 そしてその考えがまとまったとき、部屋の壁掛け時計は深夜の2時を指していた。
 誰もが寝静まるこの時間、俺は一人自分の家を飛び出した。
 俺の選んだ選択。そして幸いを手に入れるための方法は――俺一人でできることではなかった。
 家を飛び出し、10分ほど全力疾走した後たどり着いた一軒家――正輝の実家。
 ポケットから携帯を取り出し、正輝の携帯にコールする。
 数コールの後「……んぁい」と寝ぼけた正輝の声が返ってくる。
「正輝か? すぐ出てきて欲しいんだけど」
「……いやぁ、うちそういうのやってないんですよ。ええ、……だから受信料は払えないっす」
「起きろ!!」
「んぅぁあ? なんだお前かよ? なに、マジで眠いんだけど」
「ちょっと出てきて欲しいんだ」
「今何時……うわ2時かよ。悪い子だって寝る時間じゃね?」
「悪い、でも出てきてくれ。大事な話なんだ」
「――……ん」
 俺の声色が本物だと気づいたのか正輝は「すぐ行く」と言い残して通話を切った。
 そして言葉通り、玄関からねずみ色のスウェット姿の正輝が姿を表した。
「遅くに悪い――」
「――いいから、話せよ」
 俺の謝罪を正輝はすぐに遮った。ラフな格好に寝癖頭という姿でありながらも、正輝の目は真剣なものだった。
 そんな正輝を見て、俺は心の底からこの友人のかけがえの無さを思い知った。
 そして俺は正輝に自分の決意とその先の話を伝えた。
 最初はどこか憮然とした態度をとっていた正輝はしかし、いつのまにかその目には好奇の光を宿していた。
 全てを話し終えたとき、正輝は「面白そうだな」と言った。それに俺も答える。
「ああ、絶対に面白くなるぜ」
 お互いに微笑みを交わす。
「力貸すぜ。未来の生徒会長サマ」
「ああ、コキつかってやるよ」
 深い深遠の夜空に、ぱしん、というのハイタッチの音が響いた。

 こうして幕を開けた俺たちの選挙活動。
 生徒に対しては、顔の広い正輝が矢面に立ってくれたおかげで比較的順調といえた。どこか近寄りがたい雰囲気を持つ俺と、誰にも開けっ広げな正輝。この不思議なコンビは忽ち話題を呼び、すぐに俺たちの名は生徒中に知れ渡った。
 しかし逆に、先生など学校側に対してはどうにも受けが良くなかった。まぁ俺の素行は先生たちの間では周知の事実であり、それは大きな障害となった。
 その障害から俺を救ってくれたのが、もう一人の強力者――もとい協力者。
 小野先生その人だった。
 生徒間で有名になった俺たちなら、選挙で票を集めることは可能かもしれない。
 だがそれだけではダメだ。名ばかりの生徒会長ではなく、その名声にふさわしいだけの中身も俺には必要だった。

 ある放課後の職員室。
 俺と正輝はその一角、小野先生のデスクへと向かっていた。
 俺たちが訪れたことに気づいたのか、何か書き物をしていた小野先生は筆を止め、俺たちへと視線を向けた。
「御用向きは?」
 あの日見せた獣の目ではない、柔和な瞳で先生は訊いてくる。
 既に先生は俺が生徒会長になるべく選挙活動をしているのは知っているはずだ。それでも俺は一から説明をした。
 あの日自分に打ちつけた――決意を。
 一通り話し終えた後、先生は「なるほど」と呟いた。
「用件は理解しました」
「お願いです、先生の力を貸してください」
 そう言って俺はその場に土下座する。
 ざわり、と職員室内の空気が変わる。周りに居た先生達もまた、その雰囲気に息を呑む。
 ふと見れば、先ほどまで俺の後ろに立っていた正輝まで同じように土下座していた。
「おい、なんでお前までやってんだよ」
 小声で訊く俺を無視して、ただ静かに頭を下げ続ける。
 あれから正輝は本当に俺に力を貸してくれた。全力で、実直に、何も言わず、――心強く。
 例え先生の力が借りれずとも、正輝とならばまだ手はある。そう思った矢先だった。
「一つ、訊いてもいいかな」
 先生が静かに呟いた。
「君は、どんな生徒会長になるつもりだい?」
「刹那の偶像ではない。生徒の模範たる生徒会長に」
 その言葉を盗み聞きしていた周りの先生達の失笑が感じられた。「何を言っている」「問題児のくせに」そんな声なき声が聞こえてくる。
 しかし、小野先生だけは違った。
 ただ静かに俺を見つめる。その目はあの時見せた――野性の目。
 そして、小野先生は静かに口を開いた。
「力を貸しましょう」
 と。

 当然、俺だって二人に頼ったまま何もしなかった訳ではない。
 正輝と共に生徒玄関や廊下での宣伝。
 小野先生とともに公約や演説の文章の作成。
 慣れない作業は俺の心身を共に蝕んだが、それはどこか心地よい疲れでもあった。
 正輝は楽しそうに俺に付き合い、力を貸してくれる。
 先生はただ静かに俺に多くの知恵と知識を叩き込んだ。
 俺と正輝が行っていた宣伝に、小野先生が学校や教師としての立場から見た上手いやりかたを伝授することがあった。
 俺と先生が作った公約や演説の文章に正輝が生徒から見た独特な意見を言ったりしたこともあった。
 瞬くように過ぎていく日々。
 そうしてやってきた生徒会選挙当日。


 その結果は――満足のいくものだった。
 彼女の傍に居られる、最高の理由を手に入れることができた。――しかしそれも、一時のものだ。
 近い先、彼女がこの学校を去るとき、俺はまた彼女の傍から置いていかれてしまう。
 だけど、俺は追いかける。必ず、彼女の傍に居ると決めたのだから。必ず。


   ***

 元生徒会長と現生徒会長のツーショットが通り過ぎた後を、とある二人の女生徒が見つめていた。
「あれ、新しい生徒会長さんだよね」
「うん、あの人すごいよね。なんか近寄りがたい不良って感じだったのに、いまじゃ生徒のみならず先生まで味方につけてるし」
 誰も気に留めることのない雑談。
「だって面白いじゃん。この前の会長の挨拶聞いた? 突然会計の人が割り込んできて」
「あー私その日学校休んじゃってたんだよね……」
「うっわっ、もったいない!! 会長が突然全部活の部費の底上げをやりますとか言い出して、会計の人が挨拶中なのにドロップキックかましたんだよ。ふざけるなー! って」
「うわ、すご……。その会計さんって、選挙活動やってる時から一緒だった人だよね」
「うんそうそう。もう名コンビよね。なんかコント見てるみたいな感じ」
 その姦しい会話は、日々の喧騒に呑みこまれていく。
「それにしても」
「うん?」
 片方の女生徒が、二人の会長へと視線を向ける。
「あの二人、一緒にいるのよく見るよね」
 問われたもう片方の女生徒は、どこか不思議そうな顔をする。
「え、いろいろ仕事の話とかだってあるだろうし。――当然じゃない?」
 問うた女生徒は合点がいった、という様子で頷く。
 そんなありふれた情景。日々という抗えぬ波に呑みこまれていく日常。

 月食、という言葉がある。
 決して相容れることのない太陽と月。それは世の常であり概念、真理である。
 その真理が崩れる、一時の奇跡。――月食
 その奇跡が生じる時、太陽の光は月に遮られ辺りは暗くなる。
 訪れるは暗闇。
 暗闇とは即ち不可知の世界である。不可知の世界へと誘われた太陽と月は、相容れぬという真理を越えることができる。
 真理を超えるから、重なり。重なるから、真理を越える。
 親が先か子が先か、そんな論争はただそこにあるという現実を、暇な哲学者が弄ぶことに過ぎない。
 そして、それは月と太陽を地球という場所から観測した時のみ起こりえる事象。
 この世という広大な空間の中では幻想といっても過言ではないほどの小さな出来事。
 だがそれもまた、観測者から見た勝手な論である。
 相容れぬはずの月と太陽が真理を越えるという、まこと自分勝手な現象の前ではそんなものこそ幻想。
 ただ一つ確かなのは、当事者の現実だ。
 これは、禁じられた愛にも似ているのではないだろうか。
 相容れる事が不自然であり不調和な二人が、相容れる時。不条理が不可知の闇に包まれる時。
 それは奇跡であり、他の観測者からみればなんてことのない幻想である。
 この世にある幾つかの禁じられた愛。

 そう例えば――近しきものとの愛とか。

 それもまた、月食という事象が持つ幻想と現実に似ているのかもしれない。
 

 


 

あとがき

 

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