【中編】04.5.12.
「 漆黒の短剣 」
作・はるかなる
【4】

 理性を失った大男の振り回す鉄棒が目にとまらぬ速さで低く不気味な唸りを上げていた。固唾を飲んで見守る近隣の人々は、すでに次の一瞬で可愛そうな少年ゼンの首が飛ぶ事を疑いも出来ない。今度こそ靴屋の主人は最愛の息子を失うだろう。母親のメリンダは地面に身体を伏せ小刻みに震えている。その手が信じてもいない創世神の呪印が記されたペンダントを握り締めているのが涙を誘う。魔術師を魔道貴族たらしめる魔術の根源たる神に何を祈るものか。それでも祈らずにいられないほどの絶望に彼女は打ち震えていた。

 その時、大男の振り回す鉄棒が起こす風でない、不思議な風に気づいた者は多くない。偶然気づいた者も目の前で起こるだろう惨劇を前にして、些細な出来事を不審に思いわざわざ詮索しようとはしなかった。

 泣き伏したメリンダの傍らに立つ男達は仲間の残虐な行為を止めようともせず。呆れ顔で見守っている。ラルゴの下僕として領民を家畜以下の存在程度にしか考えてはいない。強い貴族に逆らうことは決してないが、弱い領民を殺すことには何のためらいも見せる事はないだろう。もろん、殺戮の予感に酔いしれる彼らも異質な風には気づかなかった。

 一番初めに異変に気づいたのは、死の間際に立ち尽くすゼンだった。彼の瞳が鉄棒を振り回す男の後ろに、忽然と現れた可憐な人影を映し出す。淡い桃色の光に包まれた姿に艶やかな黒い髪を舞い躍らせ、心を見通すかのような漆黒の瞳がゼンを見つめる。年若い少女のようにも見える姿だったが、魔神の呪印に彩られた深紫の法衣をたなびかせて軽やかに地面に降り立つ姿は見た事もない神聖な気品に満ち、まるで優美な精霊のようだった。

 やわらかで美しい声音が、ゼンの心の中に何処からともなく響く。それはまるで死に行く者への弔いの歌にも似て儚く切ない響き。何処となく以前聞いた魔術の詠唱にも似ていたが、そうと確信するほど魔術に対する知識はなかった。

 (沈黙の支配する深き大地の底より、万古の生命の脈動を支配せし原始の力。天の怒りに震わせる重厚なる磐石に今こそ久遠の時に蓄えし源の力を解放せよ。汝、大地と太古の化身、岩獣ゴーレム召還!)

 ゼンの次に気づいたのは、メリンダの近くに立つ男達だった。凶暴そうな顔に間の抜けたような口をあけ呆然としている。しばらくして、二人の凶暴そうな顔が恐怖に青ざめたのは、精霊と見まごうばかりの少女の足元に輝きを増す複雑な魔方陣と可憐な手に掲げられた魔術棍を認めたからだろう。

 少女の持つ魔術棍が眩い輝きを放ち、そこから生み出された無数の黄色い光の粒がゼンと鉄棒の男の間に集まって巨大な何かを生み出しつつあった。

 「!!」

 今にもゼンの頭に鉄棒を振りおろしかけていた男は、巨体に似合わず俊敏な動作で体勢を変え、光の粒の集積から間合いを取る。その表情に浮かぶのは、明らかな恐怖。それが光の意味するものの正体に気づいた故のものかどうか。

 互いに密度を上げる光の粒は、すでに大きな男より二まわりも大きな物体に育ちつつあった。輝きの中に蠢く不確かな影はやがて明確な人形をなしてゆく。輝きが薄れるにつれて視界に浮かび上がる巨大な岩肌の塊。それは…、奇妙に人の形を保ってゼンの前に背中を見せ立ち塞がる不自然な物体。どう見ても動くと思えないその岩の塊が、荒い呼吸に蠕動するかのように震えていた。

 鋼鉄の鉄棒をゼンの前で軽々と振り回し、自らの力を誇示した大男の胆力も、そこまでが限界だった。目の前に聳え立つ人形の巨石の頭部と思わしき部分にぽっかりと空いた三つの深い暗黒の穴の一つが大きく開き、その姿を目にする者しか聞く事がないと言われる壮絶な轟音を発するに至って腰を抜かし地面にへたり込む。青ざめた顔に冷や汗を浮かべ震える姿は、ゼンを目の前に残忍な笑みを浮かべていた男だとは思えぬほどに弱弱しかった。

 恐怖に縛り付けられ逃げる事さえ叶わない男の一人がしわがれ声を絞り出すように呟く。粗暴な外見に似合わず実質的な魔術の知識の持ち合わせぐらいはあるらしい。

 「あれは、地界神格神聖召喚魔術…岩獣ゴーレム。」

 その呟きが呪縛の開放のきっかけとなって、ラルゴの手下の二人は泣き伏したままのメリンダにわき目も振らず何処かへと逃げ去って行く。目のあたりにした現象が魔術師の仕掛けた魔術によるものと理解したからだ。強い腕力や高い技量を持ち合わせていても、呪術甲殻と呼ばれる魔力の壁を纏った魔術師の身体に傷を負わせる事は至難の業。まして攻撃魔術に対抗するためには『漆黒の剣』と呼ばれる特殊な武器を用いなければ防ぐ事さえ出来ない。いくら粗暴なゴロツキとはいえ恐怖に青ざめ逃げ出す理由がそこにある。決して彼らが力で敵わない相手なら、自分達が弱き者を玩弄するように、残虐な仕打ちを与えるに違いないと思い込んでいた。

 動く巨大な岩の塊を目の前にして震える男はひとり取り残され、何かに縋るかのように当たりを見渡す。その眼前を精霊のように美しい少女が散歩でもするかのような足取りで横切ってゆく。深い紫の導衣が軽やかに翻り、白い肌に映える黒く艶やかな髪が流れるように舞う。どうみてもゴーレムを召還するほどの魔術師には見えない容姿ながら、足元に広がる魔方陣の輝きと、不気味にきらめく呪術棍が間違いなく召還者であることを示していた。その時、男の脳裏に浮かんだものはどのような意識だったか。次の瞬間、男は重厚な鉄棒を握り締め、あまりにも無防備な少女に向かって渾身の一撃を繰り出していた。恐怖のあまりに理性をなくしたのか、死を覚悟の上で魔術師と知りつつ立ち向かっていったのか。相手は恐怖すべき魔術師ながら、あまりに可憐なその姿に魅入られ魂を奪われたのかも知れなかった。

 ごろつきとは言いながら、その粗暴さと鉄の棒を操る技量でラルゴに飼われていた腕は悪くない。普通の大人が持ち上げるだけでも大変な重量の鉄の塊をまるで木の棒切のように振り回し、触れることさえ躊躇われる少女の頭上めがけて容赦なく振り下ろす。的確な狙いと外見からの予測を上回るスピード。彼女がもし魔術師でなければ、瞬時にして赤い液体と肉片に砕かれただろう一撃。その大男の狂気に近い殺気ですら、少女は黒い瞳を振り向かせることはなく、歩みを止めることもない。このまま少女は男の攻撃に気づく事さえなく、太い鉄の棒に優美な肢体を寸断されてしまうのだろうか。たとえ魔術師といえど、至近距離から渾身の力を振り絞って撃ち付けられる鉄の塊を受けて無事ですむとは考えられない。

 しかし、その重厚な鉄の棒は少女の身体に触れることなく、人影の無い道の真中に鈍く大きな音を立てて転がった。鉄棒を握り締めていた無骨な男の手から赤黒い血がしたたり落ちる。いつのまにか立ちはだかったゴーレムがその岩の腕で鉄の棒を弾き飛ばした事を理解するまでに少しの間があく。少年を背にして立つゴーレムとの間に、男は攻撃をよけるのに十分な距離をとった筈だった。溶かされた岩で舗装された道が沈むほどの体重を持つゴーレムの身体が、目にとまらぬほどまでに早い動きをする為には、いったいどれほどの力が必要だろう。恐怖に麻痺した思考の中でさえ、その尋常ではない力の差に痺れる腕を動かすことも出来なかった。

 恐怖への過剰な反応が生み出した狂気に近い戦意が失われてゆく中で、男は目の前に迫りくるゴーレムの岩で形作られた巨大な手を見つづけることしか出来ない。想像を絶する力によって重厚な岩盤に挟まれたのなら、熟した果物を握り潰すかのように肉体が砕け散ることは疑いもないだろう。背筋に死神の冷たい息吹を感じながら男は浅黒い肌に冷たく粗い岩盤の表面が触れるのを感じた。

 誰もが、その男の断末魔の絶叫と、巨大な岩盤で出来た指の間から溢れる血しぶきを想像していた。けれどゴーレムは男を握り潰すほど手に力を込めず、弾き飛ばした鉄棒の近くに軽く投げ飛ばしただけ。それでも、男は中高くに円弧を描き地面に激突したために傷つき、自らの力では動くことさえ出来なくなっていた。

 今まで男に何の注意も払わずに歩きつづれていた少女が、歩みを止めゴーレムを叱り付けるかのように見上げる。繊細な手に握られた魔術棍が軽く振られただけで、巨大な重量と力を秘めたゴーレムは光の粒に分解され、一瞬にしてその姿をかき消す。
 少女は倒れた男の方を向き、指先を薄桃色のくちびるに寄せてうつむきながら軽く瞑目し、神聖なる巫女を思わせる姿で何かを祈るかのよう。少女の魔術棍から、ふたたび光の粒が立ち上り、今度は優しく男の身体を包むように煌いて消えてゆく。その行為が何を意味するものか、固唾をのんで様子を窺う町の人々には推測すら出来なかったが、やがて畏怖に似た驚きとともにそれを知ることになる。

 岩石を溶かして滑らかに舗装した路面に激突した衝撃で気を失っていた大男の目がぽっかりと開く。やがて大の字に転がっていた男は上体を起こすと、夢でも見ているような表情でぼんやりとする彼に厳しい目つきを送る美しい少女を認めた。緑色に輝く光の粒がその傷を癒したものかどうか。強く路面に打ちつけた筈の肉体に激痛が走ることもなく、手足はもちろん身体を動かすのに支障はなさそうだった。神秘的に輝く黒い瞳が語るものは殺意か、それとも警告か。少女の白く透き通るろうたけた容貌に読み取ることの出来る感情が浮かぶこともなく、薄桃色の艶やかなくちびるが何かを話し出す気配もない。

 「…なぜ助ける、おまえは俺を殺そうとしたんじゃねぇのか。」

 奇妙にしわがれた声が汚い髭面から漏れる。粗暴だけがとりえの男にも、目の前の可憐な少女が魔術師であり、自分の命など気づくゆとりも与えずに奪い去る力を秘める存在だということを理解していた。領民に命の価値を認めない魔道貴族なら、貴重な魔力を使って彼の怪我を治すことなどあるはずもない。けれど、目の前の少女は魔術で彼を助けたらしい。そうでなければ、ゴーレムに空中高く放り投げられ強固な舗装に激突してなお動ける状態にあることが説明できなかった。

 男の声が少女に届いたものかどうか。長いローブに隠れていた華奢な腕を上げ、繊細な指先が空中に何かを描くように小さく踊る。その空間には指先の動きに添って細かな光の帯が輝き、見る間に収縮して一つの光点となった。

 少女が手を小さく振ると、浮遊していた光点は何かの意思を持ったかのように男に向かってゆく。新たな攻撃魔術と思い、巨体を一瞬硬直させる男の顔めがけまっしぐらに飛来する眩しい光点。思わず顔の前に腕をかざして防ごうとした男の手にそれは吸い込まれ、光の帯に育ってゆく。しばらく顔を覆って魔術の衝撃に耐えようとしていた男は、やがて左の手に感じる奇妙な感覚を感じて腕を下ろすと、そこには光の線で形作られた文字が輝き浮かんでいた。

 (魔術で領民を傷つけることはわたくしの本意ではない。わたしの召還魔獣が不本意にもおまえを傷つけたことを詫びる。しかし、おまえが同じ同胞たる領民に与えようとした仕打ちは、創世神の神意に反するものだ。わたくしは創世神の巫女として、それを黙って見過ごすことはできぬ。命が惜しくば、創世神の神意に忠実であれ。それが守れぬのであれば、わたくしと魔鏡導師院はお前を滅ぼす剣となり、未来永劫おまえの罪を裁き続けるだろう。)

 「…あなた…、いや、あなた様は、念覚導師さま…。」

 男はたどたどしく光の文字を読み取って、どす黒い容貌を蒼白に染めた。左手の上で薄れ消え行く文字を恭しく捧げるかのように頭の上に掲げ恭順の仕草さえ見せている。

 一般の領民にとって、一国の国王の位にも匹敵する念覚導師の尊顔を拝する機会などあるはずも無い。それは冷酷なる魔道貴族達の頂点に立つ存在。男が仕える郷士のラルゴの上にいる領主とそれを監督する魔道貴族、さらに彼らを治める国王と同じ高位に就くものであれば、望んで会うことも出来ない雲の上の存在だった。確かにそれぞれの国に数えるほどの念覚導師が神殿神官として勤めているが、神殿に勤める特異な領民を除いてその姿を目にすることはない。主人のラルゴはエルラダルにあるオベリス神殿の建物を保全する役に就くが、その神殿神官のヤーザとさえ男が顔を合わせることは許されなかった。

 男の卑屈な姿を可憐な瞳に映したものか。少女は何事もなかったかのように、再び優雅な歩みを進める。その先にはファルから渡された漆黒の短剣を砕かれたまま呆然と立ち尽くすゼンが居た。