第八章 「 星霜の宝珠 」
第四節 【闇の賢者】


 天蓋を埋め尽くす星霜の瞬きにほの暗く浮かびあがるのは、見渡す限りに連なる砂丘。ここは王都エルラダルの市街地から南の外れにある『幻惑の砂丘(イフラザム)』と呼ばれる砂漠の入り口。日中は輝く太陽に焼かれて灼熱と化す砂の大地も、陽が暮れてだいぶ経つこの時間には夜風さえ涼しげに吹き渡る。フェリスは夜の闇に沈む紺の導衣と長い黒髪を風に弄らせながら、波のうねりにも似た砂丘の連なりを望む。肉眼では確認できないが、これから彼女が向かうネファラク=アゼルダ教の神殿跡はその先に間違いなく存在するはずだった。
 フェンレード教学院から、見失ったセルベルトを探し回って街中を駆け回ってきた。教務室で住所を聞き出し、彼の家だと伝えられた生活感の無い住居や、近隣の家々の噂、彼が足繁く通ったとされる魔道用具の店と王立書簡院などなど。聞き出したり、心を読んだりした情報を照らし合わせて目星をつけたのが幻惑の砂丘(イフラザム)に埋もれる廃墟の神殿。本来なら昔の栄華を讃える名所として繁栄する所だろうけれど、その神殿が象徴するものは恐怖と残虐に満ちたアゼルディア帝国。帝国が真の創世神と呼んだメルガ神を奉る神殿だった。人々は意図的にその場所を忘れようと勤め、忌み嫌った。結果、神殿は放置され訪れる者もいない。もし、神殿の一部でも崩壊していない場所があるのなら絶好の隠れ家となるだろう。
 フェリスは半日以上もエルラダルの貴族街を駆け回り、悲鳴を上げている重い体を引きずるようにして果てしなく見える砂丘へと踏み出す。普段は熱気を払うために強くしていた呪術甲殻(アイナルグ)を弱め、夜風に火照った体を弄らせるほどの疲労。オルデリスを相手にするのに万全ではないが、そのために魔術を使わずにわざわざ自分の足で駆け回ってきた。老獪な魔道賢者との戦いに望むために少しでも多くの魔術を使えるようにしておきたい。本来なら休息を入れておくべきなのだろうが、この機会を逃す不安にじっとしていることなど出来そうにもなかった。オルデリスを見失い宝珠を奪い返せなければクオンの命を留める術を失ってしまう。柔らかなくちびるを噛み締めて動きの鈍りがちな体を繰り返し叱咤する。星明りに連なる砂丘の、悪夢のように陰鬱な闇にその華奢な体が一歩一歩ゆっくりと溶け込んでいった。

 何一つ目印も無く、夜の闇に沈む砂丘でその神殿を見つけることは至難の業だと旅の案内を生業とする中年の男はフェリスを引き止めた。幻惑の砂丘(イフラザム)に向かう前に立ち寄った平民街の酒場で場違いな装いのフェリスは好奇の的。魔道貴族どころか念覚導師となれば、彼らにとって一生に一度目にすることさえ難しい。国王にも劣らない高貴な存在が護衛も連れずに一人ふらりと現れて、誰しもが嫌うネファラク=アゼルダ教の神殿跡に向かうと言い出せば当然の反応なのかも知れない。けれど今、フェリスの煌めく瞳に映るのは、砂に埋もれかけたいくつもの石柱と無数に散らばる石壁の残骸。思ったほどの時間をかけること無くたどりついた。その場所を中年の男に問いかけたとき、彼の脳裏に浮かんだ道筋を読み取らなければ、いまだ砂丘の海の中を彷徨い歩いていたかも知れない。
 目的の場所を目の前にして、フェリスの足が止まる。肉体的な疲労は相変わらず募る一方だが歩けない程ではない。念覚を強めて敵の気配を探るが、神殿に使われていただろう大量の黒曜の呪石が邪魔をして魔力を感じ取ることが出来なかった。極めて不利な状況に思わず下唇を噛む。過去の遺物とはいえ確かに神殿なら魔力を阻む黒曜の呪石を使わないはずがない。まして倒壊し散乱した呪石は魔力の気配を覆い隠すのに絶好の条件を揃えていた。念覚導師など大層な肩書きに見合う器でないことは充分に承知していたが、そのことに今更気づく自分に情けなさが込み上げる。
 念覚が役に立たないと気づいたためか、荒廃した神殿が持つ陰鬱な雰囲気に彼女の鋭敏な感覚が警鐘を鳴らす。その地に満ちるものは死者の怨念か、それとも神聖なる神殿を汚されたメルガ神の怒りか。例えようもないほどに暗く澱んだ悪意が胸を蝕んでゆくようで軽い眩暈さえ感じる。確かに、闇の賢者と知られ人を人とも思わない実験に陰惨な情熱を注ぎ続けているオルデリスには似合いの場所なのかもしれない。
 フェリスが気を取り直して再び足を進めようとした時。崩れ傾きかけた石柱の間を吹き渡る泣き声のような風の音に混じって、明瞭な声が響き渡った。
 「ようこそ、おいでくださいました。念覚導師フェリス様。」
 その嗄れた声は目の前の大きく傾いた巨大な石柱の影、ぽっかりと穴の開いたかのような闇の中から響いている。
 「こんなむさ苦しい場所に供も連れず、わざわざお起こしいただけるとは恐悦至極に存じます。」
 目を凝らせば、闇は骸のような人形を纏い近づいてくる。
 「わたくし賢者オルデリスは、心よりあなたさまのご来訪を歓迎させていただきますぞ。」
 皮肉げにゆがめられた唇は頭蓋骨に張り付く薄い皮。落ち窪んだ眼球が、顔にあいた黒い穴の奥で不穏にぎらついているよう。漆黒の導衣は骨に被せた布切れのように垂れ下がっている。慇懃無礼に話しかけることで、自分の張った罠を自慢でもしているつもりなのか、不気味な骸の容姿は薄い暗がりの中で饒舌にまくしたてる。その姿は見間違いようもなく学院の教師セルベルトのものだった。
 (初めまして、賢者オルデリス。あなたが魔鏡導師院から奪い去った宝珠を返して頂きに参りました。)
 恐らくは魔術による用意周到な罠を張り巡らせているだろうオルデリスに向かって、小細工の一切無い言葉を光の文字に変えてぶつける。
 「ほう…沈黙の導師という通り名どおり、魔術で書く光の文字で会話する事はいささか感銘しておりましたが、攻撃魔術にもなるとは驚きですな。」
 顔色も変えず事もなげに返答する賢者は、懐から突き出した呪術杖(ガルナウド)で纏わりつく光の文字を振り払って打ち消していた。本来なら守護魔術でも使わない限り簡単には消せないほどの魔力を込めた一撃のはず。一筋縄ではいかない賢者の魔道技術の高さに気持ちを引き締める。
 (さあ、おとなしく宝珠を渡してください。あれは心無き者が使えば大いなる厄災を引き起こす禁断の宝なのです。)
 ふたたび光の文字を躍らせると同時に細い指先に広げる九枚の魔陣片(グレマガルト)。白亜呪石が星の煌めきを反射して彼女の胸元を幻想的な輝きに彩る。
 魔術の戦いで絶対に負けることがないという自信の誇示か、相手の油断を誘うためか。慎重を重ねるといわれるオルデリスが姿を現した時から魔法陣(エクシルス)を纏っていない。明らかに罠だろう。彼を良く観察すれば星明かりに照らされた足元に影もない。おそらくはオセニド地界神格神聖召喚の『悪鬼アギナン』を使って幻影を見せている。本物は念覚の届かない黒曜の呪石の影で魔法陣を纏い攻撃のタイミングでも計っているのだろう。解りやすい罠だが、気を抜けば致命傷を受けるに違いない攻撃は用意しているに違いない。彼が狙うのなら、魔法陣を構築しようとする今この瞬間。細く繊細な指先が九つの白亜の魔陣片を夜空に放つと同時に、そのひとつラデュオ象位神格神聖魔術『飛竜の翼』を刻んだ呪石に指先で開放呪文を送る。
 星明かりに煌めきながら舞う魔陣片が互いに伸ばしあう魔力の光に包まれながら、ひときわ激しく輝く一片が無数に溢れる光の粒を彼女の背に集め、まるで天使の羽根のような大きな翼を形作ってゆく。白く輝くやらわかなラインの翼はしなやかに羽ばたいて華奢な肢体を満点の天球へと優しく誘う。ふわりと中に浮く感覚のあと、視界は急に広がって、気づけば荒廃した神殿の全体を見下ろしている。
 『飛竜の翼』を使った時はいつも、鳥にでもなったかのような開放感に嬉しさが込み上げるものだが、今は残念ながら喜びに浸っている場合ではなかった。当然、上に逃げることを予測しているだろうオルデリスは空中にも何らかの魔術を仕掛ける可能性が高い。おそらくそれは空中をゆっくり漂って、触れるものをことごとく侵食し破壊させるような魔術…。彼がシングフェイ神格の魔術師なら一番得意で効果が強いのは、その瘴気に触れる生き物をことごとく壊死させるという象位神格の最高魔術『瘴気の壊死』。果たしてフェリスの念覚があたりを蠢く不穏な魔力を感じ取る。考える間も空けず、魔術杖に刻んでいたギュフラゲール神格象位の最高魔術『守護の円球』を開放する。
 彼女を淡い輝きに彩る魔方陣の完成と、『守護の円球』が魔力の壁を閉ざすのは同時だった。たった今まで立っていた場所を見下ろすと、物陰の漆黒の闇から伸びた無数の影が鋭い刃物の腕のようなものを一心不乱に突き立てていた。もし彼女が上空に逃げなければ、廻り全ての方向から襲い来る闇の刃に寸断されていたかもしれない。
 体全体を球状に包み込んだ『守護の円球』の壁が魔力のぶつかり合いを意味する火花を散らしはじめた。目には見えない瘴気が、その悪意を柔らかな肌に突き立てられずに呪詛の唸りをあげているかのよう。どんな魔術でも打ち破ることが叶わない『守護の円球』ながら、それは自らの魔術も打ち消す諸刃の刃。当然、フェリスが使っていた『飛竜の翼』はその効力を自らの『守護の円球』に阻まれ、彼女を空中に留めておくことが出来ない。重力は再びその可憐な肢体をとらえ、闇の刃が蠢く地面へと引きずり込もうとしていた。
 闇の賢者なら、守護魔術を得意とする彼女が『瘴気の壊死』を回避するために『守護の円球』を使うことぐらい軽く予想していたはず。ある程度空中に舞い上がった状態の時にあえてそれを使わせることで落下させ、地面に激突する自然の力させ自らの攻撃の一つとして彼女の精気を大量に奪おうという算段なのだと気づく。
 見る間に迫る影に覆われた地面。フェリスに残された選択は、このまま『守護の円球』を纏いながら地面に激突してオルデリスの目論見どおりとなるか、『守護の円球』を術解して『瘴気の壊死』に艶やかな肌を晒し醜く解け崩れさせるか…。思い悩む間もなく彼女は魔術杖を片手でかざして、それに刻まれた一つの呪文を開放する。同時に優美な指が何かを振り払うかのような呪印を結ぶ。
 次の瞬間に起きた出来事は、崩れかけた神殿の柱の物陰から様子を窺っていたオルデリスさえ思わず唸らせる光景。周囲にべっとりとまとわりついた『瘴気の壊死』を完全に食い止めていた『守護の円球』がたゆみ消えて、フェリスの白い柔肌を死霊の怨念に似た瘴気が蹂躙しつくすと思われた瞬間。水色の輝きに包まれた全身から発せられた魔力の波が瘴気と影を飲み込んで断末魔の閃光を夜の闇に花開かせていった。再び白い翼が力強く羽ばたき、影の地面に叩きつけられる筈の優美な肢体が星空へと舞い上がる。
 彼女が下した決断は、『守護の円球』を術解してオセニド神格地位魔術の『闘気』によって瘴気と闇の刃を持つ影を吹き飛ばすこと。闇の賢者とさえ歌われるオルデリスでさえ驚愕に瞠目させたのはその『闘気』を全身から全方向へと発する、天の位を持つ魔術師にしても成功するかどうかを危ぶむ程の技。そして、よりレベルの高い『瘴気の壊死』さえ駆逐してしまうほどの魔力だった。
 フェリスの発した『闘気』は『瘴気の壊死』を駆逐してなお勢いを殺ぐ事なく、不気味に地を這う影の群れさえ薙ぎ払ってゆく。それはホレーク地位神格神聖魔術の『結鬼』と『呪混結合』の合呪で生み出された、影と召喚悪鬼『刃竜』を融合させた『影刃』。触れるもの全て断ち切る厚みのない闇の刃であったが、まるで陽光に消される闇のようにあっけなく次々と消滅してゆく。そして、その先に立つオルデリスの姿にさえそれは容赦なく襲いかかった。
 「守護の盾!」
 『闘気』の激しい奔流に飲み込まれたオルデリスの姿がまるで鏡でもあったかのように粉々の破片のきらめきと化した時、正反対の柱の影から鋭い声が響いた。アスフェス神格地位魔術の『屈折の水晶柱』で自らの姿を投射していた施術が破られるのと同時に本当の身にも『闘気』が迫り、居場所が露見するとしても防御魔術を使って身を守る他なかった。
 フェリスにとっては苦肉の施術だったが、意外にもオルデリスの施術の弱点を突いて彼の本当の居場所まで見つけ出すことが出来た。いくら魔術戦闘に不慣れとはいえ、これほどの好機を見逃すほどではない。敵が老獪な賢者で魔道の技に長けているのなら下手な小技は意味がないだろう。強力な魔術にすべての精気を注ぎ込み一気に殲滅を狙わなければ、巧みな魔術に翻弄されて追い詰められるだけ。迷いも無く魔術杖を目の前に掲げて瞑目し意識を集中する。唱えるべきは、すべての悪しき闇を駆逐する光の奔流、ダヤグ神格象位魔術の『新星の光弾』。
 (始原の闇に光輝ける煌きの末裔よ、かの地に降り注ぎ命を育む慈悲深き陽光の聖母よ…)
 魔力に輝く『飛竜の翼』を背に声無き詠唱を満天の星霜に響かせる。魔術杖から生まれる魔力の輝きが夜の静謐な闇を切り裂かんばかりに溢れてゆく。
 (…激しく輝ける情熱の栄光に群がりて集い、連なる光輪の歓喜の舞にその集積された眩しき輝きをもって、その威光を知らしめたまえっ!)
 荒廃した神殿の闇を駆逐し、魔力の陽光と化したフェリスの魔術杖から眼も眩む輝きが迸る。施術が完了してしまえば如何なる術をもってしても逃れることの敵わない速さで敵を貫く光の柱。それは瞬きの間もなく黒衣に包まれたオルデリスを光の中に消し去っていった。弱年とはいえ念覚導師の称号を得るフェリスの最大に近い魔力を込めた必殺の一撃。象位の魔術とはいえ崩れかけた柱ごと大量の砂も吹き飛ばし、大きな窪地を忽然と
出現させるほどの破壊力を秘めていた。
 強烈な爆風に舞い上がった砂が深い霧となって荒廃の神殿を包む。忽然と現れた砂嵐のように一寸の先も見えない砂の帳がフェリスの視界さえ奪い去る。渾身の力を振り絞った一撃は、果たしてオルデリスを打ち破ることが出来たのか否か。『新星の光弾』の魔力が薄れ行く中に、やがて間違いようも無い彼の魔力を感じた。
 (…!!)
 朽ち果てているとはいえ、黒曜の呪石で造られた巨大な石柱を粉砕するほどの魔力を前にしたなら天位の魔術師でさえ無傷ですむはずはない。まして呪術甲殻だけで防ぎ切れる許容範囲を遥かに凌ぐ圧倒的な力の開放の前に、消失を免れるいかなる術があろう。施術が完成してから襲い来る時間はまさに光速。人間が普通に反応できる速度ではない。
 けれど、フェリスに驚愕を与えたのは、オルデリスは傷一つ無くその場に立ち尽くしている事実。フェリスが先ほど使った『守護の円球』の中で不適な笑みを浮べている。彼がフェリスの施術に気づいてからの間に、たとえ呪石に刻み込んだ呪文開放にせよ施術可能な時間があったとは考えられない。唯一つ方法があるなら、ラデュオ神格魔術の『駿足』で予め行動を速めておき最短の施術方法をとること。目の前の事実から考えれば、彼はフェリスが『新星の光弾』のような魔術を使うことを想定して先に『駿足』を施術していた事になる。敵の的確な読みと無駄にさえ思える用意周到さに、背筋を冷たいものが流れてゆく。
 『守護の円球』を施術されてしまった以上、如何なる魔術攻撃も彼を傷つけることは敵わない。先ほどの『新星の光弾』で大量に精気を消費したフェリスにとっては、最も避けたい長期戦に持ち込もうとする相手の意図は明白だった。唯一の救いはオルデリスもまた自らの『守護の円球』によって自らの魔術を封じられていること。攻撃は彼が『守護の円球』を解く瞬間に限定されるが、フェリスに残された精気では前程に強力な魔術を放つことは難しかった。おそらく、精気を温存したオルデリスが仕掛ける次の魔術は最大の魔力を込めた必殺の一撃。彼女の精気の残量を推し量って、真正面から力押しで放って来る。次に打ち合えばおそらく吹き飛ばされるのはフェリスの方だろう。
 艶やかな下唇を軽く噛み締め、不利な状況を整理する。いつまでも戦術に長けたオルデリスの手の内に踊らされていては、勝つことなど敵わない。何か彼の読みを外せる策がないかと懸命に頭を絞る。それは…尋常な方法では無理だろう。常識的ではない方法。魔道賢者である者が思いつけない発想…。
 時間はそれほど残されてはいない。彼がこちらの意図に気づく前に仕掛けなければ成功しないだろう。フェリスが思いついた方法は、どんな魔術も打ち破れない『守護の円球』を打ち破ることだった。まるで天使のように広げた『飛竜の翼』に精気を込めて天空たかくに舞い上がり、念覚でとらえたオルデリスに意識を集中する。静かに瞑目して意識を落ち着かせる。そして、心の中でここには居ないクオンに語りかけた。
 (無理に借りてしまったあなたの剣…勝手に使ってしまうけれど、許して。わたしには、あなたの剣よりあなた自身の方が大切なの。)
 この奇襲の勝負は一瞬。オルデリスが気づくのまでの間に、どれだけ彼との距離を詰められるか。まるで博打のような策にクオンの剣を握り締める手が震える。もし…失敗したら…。フェリスにも、クオンにも未来はない。
 (悲しき争いに涙を落とし聖なる慈母よ、御身の優しき揺り籠より世界は生まれいずる。四精霊樹の木陰に響き渡りし永遠なる産声に語りかけし神知の奇跡、暗き闇の底で争いし欲望の混沌より襲い来る荒廃の虚空を駆逐する清冽なる輝きよ…)
 まるで星々の海の中に沈んだような空間の中で、声無き詠唱を唱える。ギュフラゲール神格像位の最高魔術『守護の円球』。敵と同じ魔術で効力を相殺し、クオンの漆黒の剣でオルデリスを貫く捨て身の作戦だった。星霜を映しながら決意に満ちた漆黒の瞳がゆっくりと開かれる。願うのは、愛しき人の命。唱えるのは慈愛の魔神が愛でし歌。
 (今こそ慈悲の想いに答えてすべからく愛に満ちた生命を守りたまえ。あまねく破壊と殺戮の劫火より世界を守る恒久の盾とならん!!)
 詠唱の終了と共にオルデリスの頭上からまっさかさまに落下するフェリス。自由落下の速度は加速度的に増し、その高度を破壊力へと替える。矢のように落下する『守護の円球』の中で、愛しいクオンの剣を自らの魔力で包みながら落下する先端、彼女の頭上へと掲げた。魔術は『守護の円球』の壁を越えることは出来ないが、その内側でなら施術も可能。
 (…四精霊樹の混沌に渦巻く灼熱の大地より生み出だされ、研磨の技で鍛え上げられし鋼の盾よ、その冷たき重圧を我が前に示せ!)
 声無き詠唱で、彼女の頭上の漆黒の剣の柄を鋼鉄の板が覆ってゆく。唱えたのはマニ神格魔術『鋼壁』。落下速度を破壊力に変えた剣を支える強固なる土台を生み出す。さらにギュフラゲール神格魔術『守護の盾』を自分の体と『鋼壁』の間に施術して衝撃に備えた。
 瞬きの間だが一向に動く様子も見せないオルデリス。恐らくは、フェリスが最後の魔術を施術すると読み、それに倍する魔術で打ち倒そうとするための長く丹念な詠唱をしているのだろう。次第に近づく勝利を感じて、きつく引き締められたくちびるに僅かな微笑みをうかべる。当然フェリスに『守護の円球』を術解するつもりはない。相対する『守護の円球』の激突のなかで魔力を跳ね返す漆黒の剣だけがすべてを通過してオルデリスを貫くだろう。『守護の円球』が施術されているかぎり彼の魔術はフェリスに届かない。
 次の瞬間、『守護の円球』を纏ったままで突っ込んでくる彼女に見開かれたオルデリスの表情まで映した瞳が魔力同士の尋常ならざる激突による輝きに眩んだ。
 視界は漂白され、体中に激しい衝撃が走る。負荷に耐え切れなくなった『守護の円球』が意思とは関わり無く弾け、術解したのだろうか。空中を浮遊する感覚と背中に感じた重く鋭い衝撃…。かなり強い力で打ち付けられたものか、息をしようとしても呼吸ができない苦しさに身をよじる。
 どうやら砂の上に投げ出されているらしい。空気を求めて喘ぎながらも近くに居るはずのオルデリスを探す。果たして、漆黒の剣は敵を貫くことが出来たのだろうか。やがて、衝撃から立ち直った肺が大きく空気を吸い込み、思わずその急激な刺激に咳き込む。優美な肢体をくの字に曲げて、止まらない咳に涙を滲ませながらも捕らえたその姿に美しい瞳が見開かれた。
 「…さすがね、フェリス。わたしが居なければいまごろ、この賢者は頭から漆黒の剣で串刺しになっていたわ。」
 オルデリスを貫くはずだった漆黒の剣が、その刃の丁度中ごろ程を端正な容姿の女性の手に握られていた。あの速度と『鋼壁』さえ加えた加重の破壊力を素手一本で捕らえたかのような姿勢。普通の人間の手ならば触れ

た瞬間に千切れ飛んでもおかしくない。非現実な光景ながら、女性の皮膚が摩擦で焦げているのか、かすかな煙さえそこから立ち上っている。打ち抜くべきのオルデリスの姿がすぐその下にあった。腰でも抜かしたものか、尻を地面について呆然と漆黒の剣の先端を見詰め、わずかに体を震えさせているよう。死神のような所業の彼でも自らの死には恐怖を抱くらしい。
 「…お、遅いぞ。とっくに封印は解けていたはずだ、何故助けに来なかったっ!!」
 自らの消滅にどれほど動揺したものか、甲高い金切り声で叫ぶ闇の賢者に長い栗色の髪に冷徹に光る藍色の瞳が嘲るような表情を讃えている。
 「わたしは、天位の魔唱師イルミア・セイレラム。『影』の命をもってあなたを捕らえるために来たわ。」
 子供のようにわめき散らす声を無視して、細身の長身を包む漆黒の導衣を僅かに揺らしてフェリスに向くイルミア。ゆっくりと漆黒の剣先を倒れて咳き込む漆黒の髮に向ける。
 残り少ない精気にも関わらず、立て続けに使った魔術と高い高度から地面に激突した衝撃で、ほとんどの精気は失われていた。この状態で魔術戦を仕掛けることは不可能に近い。どれほど効力の小さな魔術でも施術は
無理だろう。それ以前に、強い衝撃を受けた体が満足に動かせる状態ではなかった。
 目の前に突きつけられた愛しき人の漆黒の剣が、異様に黒く冷たい輝きを放っているかのように感じられる。目の前に聳え立つイルミアと名乗った女性から異質な魔力のようなものを感じた。それはどこかで感じたことのある感覚。体中を蝕む灼熱と、それに取って代わろうとする激痛の中で脳裏に浮かぶのは女神の結界が崩壊してあらわれた不思議な少女アスティアだった。同じぐらいに強大な力を感じさせる感覚に動かない筈の体が震える。
 アステイアの感覚に比べてより冷たく混沌とした印象から、まるで殺戮兵器の前に立たされたような嫌悪感と恐怖が沸き起こる。絶望に近い感情が押し寄せるのと、激痛に混濁する意識が薄れてゆくのは同時だった。
(…ごめんなさい…クオン。わたしあなたを助けられないかもしれない…。)
 白い頬に伝ったのは咳のための涙だったか。意気込んで助けようとして失敗した自身に対する嘆きの涙か。意識が途切れる寸前に脳裏に浮かぶのは悲しげなクオンの面影。まるで自分の犠牲になろうとするフェリスを嘆くかのような瞳。そう、きっと彼が知ったら絶対に許してくれないのは分っていた。誰であろうと自分の為に苦しむ人が居ることを許せない性格…。心の中に大切にしまってある彼の心はそんな優しい心の破片だった。