第七章 「 死線 」
第四節 【死闘】

長期戦が不利だと気づいたクオンは、一撃でグラムズを打ち倒す術を思いあぐねた。かなりの深手を負った様子のファルをそう長い間放置することも出来ない。けれど、どちらも決定的な一撃を有しない故に静かな睨み合いだけが続く。何とか焦りを押し殺し、有効な作戦を思い描くクオン。グラムズの足さえ止めることが出来れば、この剣の一撃で打ち倒せるだろう。しかし、それを可能にする方法は思い浮かばなかった。

「グラムズ様、もうやめて下さいっ!  それ以上『宝珠』を使ったら…本当に心を持っていかれてしまいますっ!!」

 意外にも、その沈黙を破ったのは赤いマントを着たグラムズの詠唱者らしい少女だった。ファルに焼かれた右手を痛痛しげに左手で抱えている。

 「うるさいっ! 邪魔をするなっ、この役立たず!!」

 グラムズは、何のためらいも見せることなく、折れた漆黒の剣先を少女に向けて呪石詠唱の呪文を開放する。黄色の輝きが剣先に集まり、鋭く長い針が無防備な少女へと吸い込まれていった。

 鈍い音を立てて簡単に少女の華奢な腹部を貫通する針。

 「かはっ!」

 絶叫する間もなく、腹部への衝撃で後ろに崩れ落ちる深紅のマント。

 「よ、よせえっ!!」

 間に合うはずも無い制止の叫びを、思わずクオンが上げる。仲間以上の連帯があるはずの詠唱者に向かって手をあげる行為が理解できない。まして無抵抗の者を傷つける暴力を黙って見過ごす訳にもいかなかった。

 「ルーリアよ、お前は馬鹿な詠唱者だ。役にも立たないばかりか、この俺の秘密さえ敵の前で軽々しく口にするとは。奴らがこの俺の手によって死すべき定めにあるとはいえ、まだ死んだ訳ではないのだぞ。そんな性根で詠唱者を務められたら俺の身が持たん。せっかく高い金でお前を買ったが、用済みだ。盟約は打ち切るからどこぞへ消えるがいい!」

 怒気を含んだ低い声が、血を吐きながら腹部を抱えてのた打ち回る少女を振り向きもせずにかけられる。あまりの非道ぶりに声さえ失ったクオンだったが、ルーリアと呼ばれた少女を救う為にも、一刻も早く打ち倒さねばならないと静かな怒りを膨らませていった。

 「…お前も、人のことなど心配する余裕はないぞ。俺がルーリアにした仕打ち以上に残忍なことを知らずにやってるお前にはな!。」

 暗く陰湿に沈んだ声音が楽しげに語る。互いににらみ合ったままの状態。一瞬も気を抜くことは許されない状況で話しかける敵に不審が募る。言葉で動揺を誘い隙をつくるつもりか、時間稼ぎか。自問自答に揺れるクオンの前で黒衣の男が左手で一角を指差す。思わずつられて追った視線のさきに、倒れて蹲るメリルの姿を捉えた。

 「メリルっ!?」

 既に意識さえもはっきりはしいてないのか、クオンの呼びかけに少しも動かない姿に不安を覚える。

 「お、お前、何をしたっ!」

 陰湿な眼光をギラつかせてにやつくグラムズを向いて叫ぶ。彼がメリルに何かを仕掛ける時間があったとは考えられないが、駿足で動けることを考えれば不可能ではないのかもしれなかった。

 「俺がやった…と、言いたいところだがな。残念ながらそこの女が衰弱しているのはお前のせいだ。おめでたいお前のことだから気づかないだろうが、自然精気も流れて来ない閉じられた結界の中で精気のないお前が立派な魔方陣を使っていられるのは誰のおかげなんだろうなぁ。」

 結果を見透かしての勝ち誇った笑い。質問される側をより苦しめようとする意地の悪い問いかけ。男が何を言わんとしているのか予測はつくが、それを信じる訳にはいかない。黙殺して攻撃できるチャンスに集中する。

 「信じられないのも無理はないが、俺はな、知っているんだよおまえ…クオンのことをな。」

 いかにも意味ありげに名前を呼び捨てにする男に嫌悪が込み上がって思わず顔が歪む。急に饒舌になった不信感に思わず集中が途切れた。

 「おまえはな、オルデリスという男に作られた魔力の人形なんだよ。だからおまえ自身に無い精気を外から知らずに奪ってしまうのさ。お前には俺と同じように『宝珠』が胸に埋め込まれている。俺みたいに魔鏡導師院の宝物を奪った本物じゃなくて、似せて造ったまがい物だがな。それでもそいつは周りの精気を盗み取ってお前を生かし続けている。魔術を使えるほど瞬時に大量には奪えないみたいだが、魔方陣を作れる程には奪い取れるらしいな。」

 敵が語る言葉を信じる方がおかしい。けれどクラムズがそんな込み入った嘘をつく必要などどこにもない事も分かっていた。それ以上に、クオン自身が意識もせずそれは本当の事なのだと感じてしまう。理性が嘘だと絶叫する心の内で何か大切な幻想が崩れてゆく。

 「お前は改造の苦痛に記憶を無くしているかもしれないが、封印された記憶の奥底で知っているはずだ。お前が人ではなく、人の形をした魔力の塊で、命とさえ言えない活動を続けるために、そこに倒れる女と護衛士の女の精気を吸い取って…やがては吸い尽くし、二人を殺してしまうのだと言う事をなあっ!」

 クオンに与える精神的な苦痛を想像して喜びに震えるグラムズの高笑いに狂気が混じる。そんな姿を目の前にしても、何処か遠くで起きているように現実感がなくなっていた。敵の狙いがクオンの心を打ち砕き戦意を喪失させる所にあると分っていながらも、それ以上の喪失感に身体さえ震えている。自分が人ではないと他人から言われて信じる人はまずいないだろう。けれど、人ではないものが人から人ではないと告げられたとき…今まで自分が人だと無理やりに信じていた心を見透かされたとき…恐らく人でないものは理解してしまう。いくら嘘を重ねても人にはなれない事に。

 「…そうだ。見て判るだろう、お前なら。そこに倒れた女はもう虫の息だ。これ以上おまえが結界を張り続ければ死んでしまうかも知れないぞ。護衛士の女だって、だいぶ手酷く痛めつけてやったからな、意外と早く精気を吸い取られてくたばってしまうかもなぁ。」

 グラムズは可笑しくて仕方ないといった様子で、血に染まった腹の傷を押さえながらも高笑いを続け、呆然と立ち尽くすクオンにゆっくりと近づいて来る。

 「クオン…負けちゃだめ、信じないでっ! わたしもメリルさんも大丈夫だからっ!」

 敵の信じがたい話を聞いて真実と理解してなお、ファルは激痛に痺れる肢体をもがかせて声を上げる。たとえクオンが人ではないとしても、人の風上にも置けないグラムズに打ち倒させる訳にはいかない。グラムズに嬲り殺されるぐらいなら、結果クオンに精気を奪われて死んでしまうのだとしても後悔はない。

 けれど、決死のファルの叫びも自分を失ったクオンには届かなかった。ゆっくりと白銀の剣を下ろすと、呪解の言葉を低くつぶやいて眩しく輝く魔方陣を消してしまう。精気を失った漆黒の瞳が一瞬だけファルを見つめ、沈黙の内にそらされる。まるで自分の為にファルの命が失われることにはどうしても耐えられないと伝えるかのように。

 幾たびの戦闘を生き延びてきたであろうグラムズが、この好機を見逃すはずもない。たとえ優位にあるにせよ、油断すれば次に命を落とすのは自分。同じように『宝珠』らしきものを埋め込まれた人ならざる存在であるにしても、同情など不必要な感情を覚える時ではなかった。

 「人ではないお前が、人である女がそれほどに大事か? お前が魔力の霧となって霧散する僅かの間の命しかないのだぞ。命を賭けて命を救ったにしろ、人ではないと知られた今、以前どおりにお前を受け入れてくれると思うのか? まだ人ではないと信じられないならば、その証を見せてやろう!」

至近距離からの駿足の技は、目に留まることもない。相変わらず呆然と立ち尽くすクオンの、視点の定まらない瞳が結果を映すだけ。ファルがあげているのだろう悲鳴が遠くに聞こえていた。折れた漆黒の剣を使ってグラムズはどんな攻撃を仕掛けたものか。魔方陣の呪解によって、その姿を薄くしていた白銀の剣を握る左腕に一瞬の衝撃が走る感覚。反射的に向いた瞳が映すはずの見慣れた自分の腕が、見当たらない。代わりに網膜に焼きつくのは、普通に見ることができないはずの腕の断面。皮膚の下にある脂肪や筋肉の赤い彩りに、白っぽい骨の断片すら覗いている。当然…瞬時にして断面から噴出す大量の血。現実に片腕を寸断するほどの一撃は、クオン自身すらその衝撃で後方に突き飛ばすほど。血を吹き上げながら転がる切り取られた腕が、体から身の丈ほども離れた場所に落ちる鈍い音だけが奇妙なほど耳に響き続けた。

 不思議なほどに痛みは無く、灼熱の感覚だけが次第に傷口から広がってゆく。受身をとってなんとか立ち上がろうとする間にも、腕の血はあとからあとから溢れ出して止めようもない。左腕を切落されたショックに意識は呪縛を破って目覚めたが、取り返しのつかない失態に体力と希望が血と共に流れ落ちてゆくような脱力感に襲われる。敵の言葉に惑わされ、魔方陣さえ解かなければ次の一撃に死を覚悟することもなかった。自分が打ち倒されれば、残るファルとメリルの命が危うい。かといって、再び魔方陣を発現させれば彼女たちの残り少ない精気を無意識に吸い上げてしまう。思わず押さえた傷口から右手に伝わる血の鼓動が、自分も長く持たないと知らせる。魔方陣を解いたのは良かったことなのか。敵の甘言に惑わされただけなのか。そこに賭けられていた自分の、人ではない命。少なくとも自分が知らないうちに二人の精気を吸い尽くし、死なせてしまう事だけは避けられたのだ。自分が消えた後の二人の安否が気になるが、もう…どうこうする時間は残されていないだろう。ならば、この体が保つ限り消えずに居ることが二人の生きられる時間を数秒でも延ばせるのだと気づいて歯をくいしばる。

 「…その状態で、まだ戦う気力があるとはな。正直、それは致命傷だ。普通の人なら助からん。」

 少し離れた場所で傲慢に立ち尽くす黒衣の男は、熟練の魔闘士らしく緊張を解くこともなく、相変わらずクオンに鋭い視線を浴びせながらも嘲る調子で事実を冷酷に言い放つ。戦いの最中なら瀕死の相手に油断して命を落とす事も珍しくはないが、クオンはそこに付け込む隙を一片も見出すことはできなかった。

血まみれの手で魔陣片の一枚を握り締め、闘いに身構える。魔術師相手にナイフの代わりにもならない魔陣片では戦いようもないが他に使える武器もない。皮肉な事に九枚の中から取り出した魔陣片は生と死を司る魔神ギュフラゲールの呪印が施されたものだった。そのわずかな間にも血はとめどなく流れ続け、灼熱に焼かれるような激痛と、次第に宙に浮くような浮遊感が襲う。死の間際を密かに感じながらも、これしか持たないのか、と自分の身体を叱咤する。

死にかけるのはこれで二度目。学院の中庭でライエル達に襲われたときは偶然フェリスが助けてくれたが、今回はそう上手くはいかないだろう。グラムズが張った魔術結界は中から出られないのと同じぐらいに外から進入することも難しい。誰かがこの場所に向かったとしても結界に阻まれてクオン達を助けるのは至難の業。いまこの瞬間に助けを期待すること自体が妄想に過ぎないとわかっていた。

学院に残って名残惜しげに見送っていたフェリスの眼差しが蘇ると切なさが込上げる。忘れることが出来ないほどに大切な人だと伝えてくれた彼女は、自分が死んだと知ったときにどんな顔をするのだろう。悲しんでくれるのだろうか。泣いてくれるのだろうか…。

 「おい、落ちた腕を見ろ。それが、お前が人ではない証だ。」

 不意にグラムズがクオンの切り取られた左腕を示す。腕は何かを握った形のまま、切り口から血を滲ませて静かに転がっているだけのよう。けれど、それは見る間に奇妙な燐光を放ちつつ、砂のようにサラサラと崩れ落ちて、雪のように消えていった。まるで幻が現れる前の姿に戻るかのように、いかなる痕跡も残さず奇麗に霧散してしまう。

 「お前の腕に残されたほんのわずかな精気を魔力が食い尽くして、純粋な魔力に還元したのさ。それがお前の末路だよ。あとにはこの世に存在した痕跡さえ残らん。所詮は人の子ではない忌むべき存在だからな。」

 グラムズの高笑いとともに、クオンは失ったはずの左腕に傷の痛みとは違う灼熱感を覚えた。血を垂れ流していた傷口は燐光に包まれ、見る間に元の腕の輪郭を浮かび上がらせる。まるで魔術を使ったかのように、細かい光の粒が無数に現れて腕の輪郭を示す燐光へと溶け込んでゆく。やがて光は輝きを失い、クオンの目に切り取られる以前とまったく変りのない左腕を映し出した。

 「ほう…これほどの回復力があるとは驚きだ。確かにオルデリスの言う通りにお前は不死身かもしれんな。魔術が使えないから失敗作だといっていたが、なかなか楽しませてくれる。だが、次で最後だ。おまえは贋物の宝珠で生きているからな、そいつを胸ごとえぐり出せば、殺せると奴は言っていたよ。あれでも生みの親だ、おまえに関してはおまえ以上に詳しい。」

 オルデリスの名がクオンに覚えているはずのない骸じみた姿を思い出させる。それは灼熱の苦痛に彩られた暗闇の記憶。確かな感覚は身体の内側を焼き尽くす苦痛だけ。自分が何者でどんな状況にあるのかさえ理解していなかった。言葉や生活に必要な知識は直接脳に刷込まれたらしく、特定の刺激があればそれに反応することは出来た。ただそこには感情も意思もない。クオンにとっては意味もない反射的な動作。それに意味を見出せるようになったのは、オルデリスとは別の誰かに拾われてからの事。確かに彼と過ごしていた間、まるで人形のような存在だったのかも知れない。そこに愛情はなく、ただの物体としてしか扱われなかった。確かにこの身体を形作ったのはその男なのかも知れないが、決して父と呼べる存在ではないと頑なに心が否定する。

 その事実を拒んだとしても、自分が人になれる訳ではない。グラムズの言うとおり、今までクオンを人として受け入れてくれた人達が、人ではないと知ったなら…いままでのように受け入れ続けてくれるとは思えなかった。呪術生命は生よりむしろ死に近く、魔に属する存在。それは人にとって精気を奪い取るだけの寄生虫にも等しい。確かに改造を受けた詠唱者は半分呪術生命と言えるし、呪術虫なら完全な呪術生命体。どちらも人から精気を与えられなければ消えうせるべき存在。けれど詠唱者は魔術師の魔術を強化するし、呪術虫でさえ特定の目的のために能力を発揮する。けれど魔術が使えないクオンに出来ることは人に出来る事と大差ない。大切な精気を分け与えながら役にも立たないクオンを生き延びさせようとする奇特な人など望むべくもないだろう。

 どうしても最後に浮かぶのは、クオンの剣を抱いて真摯な眼差しを注ぐフェリスの姿。彼女の大きく美しい瞳が見つめる先にあったものは、人としてのクオンだけなのだろうか。もし、それを知ってもなお、前と同じように大切なのだと伝えてくれるのだろうか…。あり得ない甘美な空想を打ち消してしまうのは難しかった。フェリスは創世の神意によって生命を魔力より守護する魔鏡導師院の巫女。生命に害なす人ならざるものに、敵意は抱いても好意などよせる筈もない。彼女の面影さえもが次第に遠のいていく気がする。人としてクオンが与えられていたもの全てが、押さえた手のひらから砂のようにこぼれ落ちてゆく感覚が、静かに心を蝕み腐食させてゆくようだった。

「…まして、お前は俺の楽しみ奪ってしまった。せっかく苦しめながら嬲り殺しにするつもりだったが、意識が無くては話にならん。お前が自分の腕を復活させたおかげで、もう他の二人は死んでいるのかも知れんぞ。」

 本当は人ではなかったから、人のようでいてそうではなかったから。たぶん…人になりたくて、人にあこがれて人を大切にしたかった。人の温もりが、生命の暖かさが恋しくて人を守りたかった。自分にもあると嘘をつき続けていた分、その大切さを身にしみていた。それを守ることがいつからか生き続けてゆくことの目的になっていた…。

 はっと振り向き、動かなくなったファルとメリルを見て、今まで大切に守り続けていた何かが、クオンの中で崩れてゆく。

 「うあああぁぁぁぁっ!」

 頭を両手で鷲づかみ絶叫する。自ら命が次の瞬間に途絶えるかも知れないことさえ忘れた。守るべき命、大切にしたかった想い。本当は人になれるのかも知れないという希望を失ったことだけが、絶望という名の耐え難い苦悩となってクオンに襲いかかっていた。

 (特異点空間跳躍は、閉鎖空間の中に擬似ブラックホールの高重力場を発生させもう一つの閉鎖空間で守られた反重力場をその特異点に侵入させることで可能になる。跳躍の距離と方向は、発生した特異点に対する厳密な侵入角度とその速度によって絶対空間位相から導き出される一つの座標でしかない…。)

 脳裏に教科書のような言葉を思い返しながら、誰の声だったかしらといぶかしむ。記憶結晶が形作る『記憶の海』からの直接データ入力なら本人には会っていない。参照した記憶情報に付加された性格の断片が混じりこんでいるだけ。いつの時代なのか、何歳なのか、性別すら中性的な内容なら判然としない。この緊急時に冷静すぎる声音なのも許せないが、的確より正確さを求める教授のような淡々とした語り口を怒鳴りつけたくなる。

 アスティアはフェンレード学院の中庭でフェリスという名の少女と別れ、瞬間転移を行う真っ最中だった。恐らく彼女の姿を外から見ている人にとってそれは瞬きさえ追いつけない一瞬だろう。閉鎖空間のなかで極限まで反射速度を高めた身体は行動だけでなく思考のスピードさえ速めてくれる。結果、記憶から蘇る知識の声に悪態をつきたいと思うほどの余裕はあった。けれど、そのこと事態が身体に与えている膨大な負担はあまり考えようにした。体内監視センサーはあちこちですでに悲鳴を上げ始めていた。これ以上の無理を続ければ意外に重いダメージを受けるかも知れない。

 空間転移自体はけっして難しい技術ではない。アスティアほどの人工生命なら朝飯前にこなせる初等課題。莫大なエネルギーを消耗するのでそう回数は使えないが、日常的に以外と使い勝手がある技だった。普段だったら決して失敗などしなかったろう。例え自分の居場所が分らなくて、全てが推論に基づく仮定値で、ナノコンマの精密さが求められる特異点侵入角度をはじき出しているにせよ、特に問題はない。ただ一つの盲点は彼女の身体にあった。瞬間転移に入るため危険範囲に抵触していたフェリスを優しく突き飛ばし、柔らかな芝の土を蹴って封鎖空間を形づくるための距離をとった時、極めてわずかな差異が予測値と実際値に現れた。普段に動く分にはなんら支障のない数値。けれど、それが瞬間転移のための特異点侵入になれば話が別だった。小数点以下ゼロが続く果ての数値で惑星間を移動してしまう原理に嘆きたくなる。もちろん角度だけに限っての話。実際に予測した角度で侵入できなかった場合、大抵は侵入力の不足で光さえも曲げる高重力の餌食と化す。幸いな事に、封鎖空間が高重力場のエネルギーに依存しているので、場を作り出した本人が消滅しても、高重力場から先に自壊し周辺にはあまり影響を与えることはない。

 転移プログラムの緊急回避警報が鳴り響くと同時に、彼女は極限まで反射速度を上げて原因分析に没頭した。目覚めたときの身体機能チェックに漏れがあるはずもなく、外界分析による重力、空気成分分析、気象、磁場測定どれも的確な数値を示してる。けれど一つだけ見落としていた項目に気づく。普段意識することもなく過ごしてきたために忘れていた身体運動機能の個体設定…。一度、緊急退避のスフィア形態に移行して復元された彼女の身体は初期化されてまっさらの状態にあった。それは個体別の身体運動機能の癖や個性を規定するパラメータ。フェリスがはじめに自分を目にしたときに浮べた恐怖の表情が思い浮かぶ。きっと自分は壊れた人形みたいに見えたに違いないと頬を赤らめる。守護女神とさえ呼ばれる人工生体の頂点にある者としては、あってならない失態だった。

 ともかくも、記憶にある個体設定を呼び出しパラメータを変更する。これで予測値が外れることはないだろう。けれど、今まさに特異点に突入しようとしている体はに残された時間はわずかしかない。極限まで反応速度を上げていても、間に合うかどうかの瀬戸際。実際の感覚にすれば、砂の中に埋められた体を無理に動かそうとしているような状況。目的は指のすぐ先なのに、そこまで動くためには予想を遥かに超えた苦難の道のりを超えなければならない現実に溜息が出る。もちろん、諦めるわけにはいかない。この身には自分の命だけでなく、ブラィティア帝国の未来がかかっているのだと思い起こし、成功確率が一桁のパーセンテージにも満たない無理を承知で限界以上に反応速度を上げていった。

 

  視覚的にとらえるなら、目の前に白い霜の薄い壁がある。もし外側から誰かが観察していたなら、アスティアを包んでいる霜の巨大な球体が忽然と空中に出現する様子を目の当たりに出来ただろう。絶対零度まで冷えた封鎖空間が通常空間の狭間に作る球状の霜は、彼女が閉鎖を解くと同時に自由落下を始め、地面に衝突した衝撃で粉砕する。陽光に煌き舞い散る霜の破片と共に姿を現す彼女のシルエットは、夢幻に浮かぶ妖精のように幻想的な趣さえ湛えていた。

 相対速度を人並みまで落とす間にも、生体センサーが金切り声で次々と異常報告を告げてくる。状況的には無事だったというより、よく壊れなかったと言う方が正しい。人並みの行動には支障ないが、特殊機能は軒並み壊滅的なダメージを受けている。何が起きるか分らない異界の地でこの状態はかなり頼りないが、元々個体設定を忘れていた自分の手落ちだと考えると文句も言えない。再会を心待ちにはしているが、目の前に姉達が居なくて良かったと安堵の溜息がでる。特に空間転移を得意とする厳格な姉のメティスがこの事を知ったら…帝国の頂点に立ち範を示さねばならない者が…どうのこうのと優に一時間以上は小言を聞かせられ続けることは間違いなかった。

 懐かしいという程には感じない情景がふと心に浮かんで、急にたった一人異界に取り残された寂しさが込み上げる。父や母に姉達と宮廷の人々に優しく抱かれた日々が、すでに遠く離れた過去なのだと告げる真実が冷たく胸を刺す。空間転移の失敗で消滅するかもしれなかった緊張から開放されたためか、気づけば深い藍色の瞳が涙に滲んでいた。軽く頭を振って瞳と同じ藍色の髪を揺らせ、アスティアは感傷に溺れそうな自分を振り払う。今は泣いている時ではない。奇跡的に成功したとはいえ、どうやら目的の場所とは違った所に出現しているようだった。フェリスの心像で捉えた彼女の養父が居る治療院の大きめな建物はあたりに無く、倉庫のように装飾と窓のない壁を持つ建物が並んでいるだけ。その奥に見える大きな水路と、対岸に遠くひしめく雑多な建物の群れは古い市街なのだろうか。特異点への侵入角度にどれぐらいの差異があったのだろう。風景の感じからおそらくは同じ惑星上には間違いなさそうだが、同じ街の中なのか、それとも大陸の反対側の街中なのか、異界の者にはすぐに判断がつかない。

 見知らぬその場所には幸運か不運か住民らしき人影さえあった。センサーに捕らえたのは周囲に活動する生体が五体。うち三体は深いダメージを受けているらしく昏睡状態の女性。一体は一見無傷のようでいながら生体を維持するエネルギーの枯渇が目前の若い男性。最後の一体は、腹部に傷を負いながら活動に支障はなさそうな大柄な男性。推論を試さなくとも尋常ではない事態が起きつつある場所に遭遇してしまった事を思い知らされる。フェリスに人に会わないようにと忠告されていたが、彼女が望むか望まないかなどお構いなしに巻き込まれかねない状況。次から次へと襲い来る苦難の大安売りに、さしものアスティアも淡い桃色に艶めく唇を少しひらいて思わずため息を漏らしていた。