第三章 「 夢 」
第二節 【夢】

 クオンは自分が『夢』を見ているのだと、おぼろげに理解していた。『隠されし結界』を抜け出し、イノームの治療院で手当てを受けたはずの自分がこんな場所に居るのは理に合わない。おまけに肩には深い傷の後も無く、体調は良好だった。
 そこはデニファル国、聖都フェイラの中心にある巨大なオベリス神殿を望む丘の上。クオンが知るはずもない場所を夢の中の自分は知っているらしい。
 「…とうとう来たわね、これからが本番よ。気を締めてかからないとね、クオン。」
澄んだ鈴の音ように流れる声音に振り向くクオンは、月の雫を集めて造ったと伝わる白銀のティアラでつややかな栗色の短い髪をとめた少女を見た。『隠されし結界』で出会った不思議な美少女に負けないぐらいに美しい容姿。初めて見た顔だが、夢の中の自分とは親しい間柄らしい雰囲気だった。
 彼女は陶器のごとくに白く透き通る肌に艶めく櫻貝色の形の良い唇をわずかに開いて、かすかに甘い香りを漂わせながら言葉を紡ぐ。
 「…リネイアは無事でいるかしら…。」
 意思の強さを思わせるすらりとした鼻梁の上で、瞬きもせずクオンを見つめる大きな瞳は何かを伝えるかのように、深海を思わせる神秘的な藍色にきらめく。生命の美しさに満ちたその繊細で柔らかな容姿は、見るものを陶然たる心地にいざなうに違いない優美さをふり撒いていた。
 「リネイアは自分の身を犠牲にしてまで僕達を救ってくれた。今度は、僕達が彼女を救う番だ。…きっと無事でいる。『帝国の守護女神』はそんなに簡単に死んだりはしない…。」
 知らない事を知っている夢の中の自分はまるで別人のよう。『リネイア』という知らない女性の名を口にしている。彼の切ない感情が剣を握り締めた手をかすかに震えさせていた。いったいどんな関係の女性なのか気になる。記憶の片隅に『帝国の守護女神』という聞き慣れない言葉が引っかかった。その言葉は確か…『隠された結界』の中、天秤樹に浮かび上がった女神の警告に語られていたものではなかったか。
 「…いつか、みんなで『ブラィティ・アルメーン』に行きましょうとリネイアは約束したわ。それが彼女の故郷の星なのよね…。きっと約束は守られる。今まで約束を破った事のない彼女だからきっと…。」
 神々の造詣の恩寵を一身に受けたかのような少女は、優しげな微笑を浮かべてクオンの視線を受け止めた。大きな瞳がためらいがちに悪戯っぽく輝く。その優美な容姿を見て、言葉もなく呆然と立ちつくすクオンを面白がっているのかも知れない。
 わずかに息づく胸元を金の刺繍が入った絹のチュニックで覆い、華奢な身体を洗練された緋色のマントで包む姿が身分の高さをうかがわせる。それはメルカ王国から西南に位置する、詠唱者の呪術改造において世界一の技術を持つオルアス聖国王侯貴族の証。緋色の宮殿で年に一度、天樹月に行われる祭礼で、盟約が叶った詠唱者のみ着用を許される法衣。目の前の美しい少女は、かなり裕福か高い地位にある魔術師の『詠唱者』なのだろうとクオンは嫉妬めいた感情を抱く。その麗しい容姿と高い知性を物語る瞳が誰か知らない男の所有物だと考えるのは耐えがたかった。
 もし、魔術が使えたならと考えずにはいられない。もしかしたら目の前に居るような美しい女性を自分の『詠唱者』に迎えられるかも知れない。『隠されし結界』でアイルナの花に願いをかけた記憶が蘇る。今は魔術を使うことが出来なくとも、将来ずっとこのままという確証も無いはずだった。リアンナを救い、一人前の魔道貴族として再び黒髪の美少女と出会う為にはどうしても魔術が使えるようにならないといけない。夢の中でさえ、クオンはどうしようもない苛立ちに苛まされていた。
 「…どうかしたの?」
 クオンが気づくと栗色の髪を午後の陽光に煌かせる少女が頬を赤く染めて、恥じらいにうつむいていた。知らない内に彼女をじっと見つめ続けていたことに気づく。
 「いや…。アルテを見ていたら、不思議と昔に初めて出会った頃の事を思い出したよ。たしか…メルカ王国の王都エルラダルの魔鏡神殿に居た時だった。」
 返答に困っていたクオンを他所に、夢の中の自分は懐かしそうに話しをしている。美しい少女を目の前にして緊張する事もないらしい。自分が彼女を『アルテ』と呼びかけたことで、初めて少女の名を知ったが、もちろん記憶にある名ではなかった。
 「急に見つめられると恥ずかしいよ…。」
 豊かな胸元をしなやかな両手で抑えて、華奢な背を向ける。その仕草に冷たい拒絶ではなく心を許した者への甘えにも似た感情を読み取ったのはクオンの願望だったのだろうか。少女らしく柔らかな曲線を見せる背中があまりにも無防備過ぎるようにも見える。
 「覚えているわ…。あなたが、初めてわたしに会ったときなんて言ったかさえ。そう、あなたは会った事もないわたしに向かって『やっと逢えたね』って声をかけた…。」
 アルテと呼ばれた少女の声は、やっと感情を押し殺すかのようなささやきだった。
 「その時のわたしは、なんて不躾な男なんだろって思ってた。でも、その頃のわたしの周りには、あなたみたいに無条件に心を開いて包んでくれる人なんて誰もいなかったの。本当の事とを言うと嬉しかった…。天位の魔力を持つフェリスがあなたと『血の盟約』を交わして『詠唱者』になったと聞いて、どうしても納得できなかったけど…身分を捨ててあなたの元に走った彼女が羨ましかったのかもしれないわね。あの頃、わたしは自分の魔力に溺れて、一人で世界が救えるのだと思っていた。おかしな話だけれど、あなたでさえわたしが助けると誓っていたのよ。そして、わたしだけをずっと見つめていてくれる夢をみていたの…。」
 クオンはアルテの様子に動揺する。彼女が語っているのは彼への告白のように聞こえた。そして、『フェリス』という名の誰かが自分の『詠唱者』になったという言葉。しかもその女性は最上位の魔力を持ちながら、お互いの一生を束縛する『血の盟約』を交わしたという。夢にしても出来すぎた話のようだ。魔術が使えない自分の詠唱者になろうと考える者は、たとえ一時的な『主従の盟約』だとしても居るはずがない。きっと、アイルナの花に託した願い事がこんな夢を見させたのかも知れなかった。現実には到底叶いようの無い事なら、せめて夢で叶えようとでもするかのように。
 「…ごめんなさい、クオン。こんなことするとフェリスに悪いけど…。でも、もしかしたらもう逢えなくなるかも知れないって…。考えちゃいけない事だって分っているのに、あなたに言っちゃいけないってずっと耐えてたのに…。」
 アルテの思ったより柔らかで華奢な身体がクオンにすがりつく。彼が何処かへ去るのを必死に防ぐかのように、しなやかな両手がきつく背中に回されていた。彼女の甘い香りと熱い吐息がやさしく包む。ゆっくりと彼の腕が胸の中の彼女を抱きとめると、秘めやかなすすり泣きに優美な身体が震えていた。
 「約束しよう、必ずみんなで生きて戻ると。リネイアを救い、この世界も救わなければいけない。僕が救いたいと思う世界は…アルテ、君が居る世界でないと意味がない。」
 泣き濡れた藍色の美しい瞳が、無理やりに笑顔を浮かべてクオンを見上げた。艶やかなくちびるが震えながら間近にささやきかける。
 「わたしが救いたいと願う世界も、あなたがいないと消えてしまうのよ…。」
丘の上を渡る冷たい風が重なり合う二人の影を幾度か吹きぬける。たとえ二人の求め合うものが同じであっても、決して叶わない願いもあった。風のように移ろい行く時の中で永遠とは見果てぬ夢。けれど、そのわずかな一瞬でも二人の願いが重なるのならば、それは永遠よりもかけがえのない輝きとなるのかも知れなかった。
 アルテとクオンが互いの身体を離して、しばらくしてから一人の少女が丘の上に駈けてきた。長い黒髪を風に舞わせ、まるで何かの精霊のような優雅な身のこなし。それは、クオンが再び出会うことを願った『隠されし結界』の不思議な少女だった。
黒く大きな瞳が彼を認めて微笑む。記憶にある深い紫の法衣ではなく、ギュフラゲール神格魔術師の正装であるフェアリーピンクのチェニックに薄い桃色ケープを纏った清楚な姿。『隠された結界』の中で会った時に感じた、思いつめたような孤独の影は消え、何かが吹っ切れたかのような明るさに輝いていた。
 「クオン、探したわよ。叛乱軍の総司令官が居るような場所じゃないわね。アルテが居ても油断はしないで、『影』はあなたの命を奪う為ならどんな事でもするはずだから。それから、帝国守護女神のクリュセとメティスから連絡が入ったわ。ラングスフィン連邦の監察軍がこの星系に到着したそうよ。」
 初めて聞く美しい少女の声は、心に響いた声が想像させたようにやわらかな優しさに満ちている。言葉の内容は事務的なもののようでクオンに理解できる事は少なかった。ふと、輝く黒い瞳をアルテに向けて涙の後を拭う姿を見つめる。一瞬、彼女の生き生きとした表情が消えて感情を感じさせない無表情がクオンに向けられた。
 「…アルテを泣かせてはいけないわ。いつも強がっているから、しっかりしているように見えるかもしれないけれど…。本当は今にも倒れそうなぐらい頑張っている。誰かの期待を裏切らないために、到底無理だと思える事にだって笑顔で立ち向かってゆくの。こんな厳しい戦いの中だから誰しも無理を通しているけれど、アルテは誰にも疲れた顔さえ見せた事が無い。それは…クオンというたった一人のため。あなたに心配をかけたり、足手まといになるのが怖くてそうしている…。」
 真摯な瞳が彼の顔を映している。彼女が話したのはアルテを心配してのようだったが、まるで自分の心情を語っているようにも聞こえた。『隠されし結界』で彼に語りかけたように、心に直接意識を伝えてくれれば気持ちもわかるのにと考える。なぜ目の前の少女はあの時の『能力』を使おうとはしないのだろう。
 「ありがとう、フェリス。でもクオンに無理な事を言われたわけじゃないの。フェリスが言ってくれたように…わたしがもっと強かったら、こんなに弱いところを見せずに済んだのにね。」
 名前を明かそうとしなかった少女は、フェリスと呼ばれた。クオンの記憶にある同じ名は、フェリスと呼ばれる念覚導師。若年に関わらず強い念覚を持つことで導師の位を授けられた事が噂となっていた。特に興味もなく、級友の噂を小耳に挟んだ程度だったから本人を見た事さえない。ただ念覚導師の位は年老いた老婆が名乗るものと誰しも疑わなかったから、若いとはいわれていても五十の齢は過ぎたイメージを抱いていた。どう見ても十八以上には見えない少女が同一人物だとは思えない。
 フェリスは優しい視線をアルテに向け、技量の高い彫刻師が魂を込めて彫りこんだ女神像のような横顔を見せている。その美しさはどこか神聖な趣さえ感じさせてクオンの目を放さない。世俗を感じさせない清楚な物腰はまるで神殿に使える巫女のよう。そんな彼女をアルテはクオンと『血の盟約』交わした『詠唱者』だと言っていた。果たしてそんな事があるのだろうか。確かに願いが叶うと伝わるアイルナの花に、彼女を自分の詠唱者にしたいと願ったが、それは到底実現するとは考えられない事だからだった。夢の中だとしてもあまりに身勝手な妄想に過ぎる。想像を越えた美しさを持つ二人の少女の、一人に慕われ、一人は詠唱者として盟約を交わした仲だという状態が信じられない。魔術も満足に使えず魔道貴族の最下位に位置する自分が、どう見ても最上の位にいるような二人と関係を持つということ自体が理解できなかった。
 「…本当の事いうとね、フェリス。これからの戦いが怖くなったの。もう二度とクオンと逢えなくなるんじゃないかって考えはじめたら…自分を抑えられなくなって…そうして…。」
 フェリスは表情も変えず、優美な顔を伏せ艶やかな栗色の髪に隠したアルテを静かに見守っている。おだやかな静寂の内にやわらかく息づく繊細な胸元に去来する思いはどんなものなのだろう。彼女は二人の間にあった出来事を推測しているのだろうか。クオンは何故かアルテにさっきあった事をフェリスに告げないでいて欲しいと思う自分に気がついた。
 「…ごめんなさい、クオンに抱きついて泣いてしまったの…。」
 『血の盟約』を交わした『詠唱者』は通例、使える魔術師の『しもべ』とされる。当然、主人となる魔術師を裏切ったり、反抗したりすることは許されない。その関係に恋愛感情を持ち込んで寛容に扱う魔術師も多いが、それでも主人の精気を貰えなければ消え去る定めが根底にあり、詠唱者を主従の関係に束縛し続ける。魔術の位の高いものが、低い位の詠唱者にならない理由だった。恐らくアルテは盟約に縛られたフェリスを気遣っているのだろうとクオンは思った。夢の中の自分は間違いなくフェリスとの関係に恋愛感情を持っているはず。だとすれば、たとえクオンが浮気をしてもフェリスはくちごたえすることすら許されない。それを好機と捉えるか、罪悪と感じるかは人の人格によるのだろうが、アルテは誠実な女性らしさを見せていた。
 「いいのよ、あやまらなくても。アルテがしたことは決して悪い事じゃないわ。わたしだって、そう思ったら同じ事をするかも知れない…。わたしにまで気を遣うことはないでしょう。だって…おなじクオンの詠唱者なのだから、わたしたちの想いはきっと一緒のはず。だって、同じクオンの精気で生かされる存在だから姉妹以上に親密な関係だと信じているわ。アルテ、あなたがそういう存在でいる事を嫌だと思った事は一度もない。むしろ、クオンが選んだのがあなただったことに感謝しているくらい。」
 フェリスは輝くような微笑を見せて、優しく言葉を紡いだ。アルテも恥ずかしそうに笑いながら、藍色の瞳を再び涙に霞ませている。そして、可憐な二人の愛くるしい瞳が同時にクオンを見つめた。
 「…二人には、こんな明日も知れない前線の兵士としてではなく、一国の姫として平穏に暮らし続けて欲しいといつも願っている。『人ならざる』僕は、『人』であり続けるために『人』を滅ぼそうとする『マリフィエクスの影』と戦い続けなければならない。やむ終えなかった事にせよ二人を『血の盟約』でここに縛り付けている事は、君達を待つ故国の人々に対して許されない事なのだと思う。だからたとえ、どれ程に苦しい戦いになっても僕は…二人とも、決して死なせはしない。永遠を共に歩む盟約の誓いは、僕の命が続く限り必ず守られる。『マリフィエクスの影』に沈み行くこの世界で、詠唱は叶わぬ願いなのかも知れないが、願いは叶える為にある。僕の願いは君たちが生きて暮らす世界を救うことだ。僕に与えられた『力』とは過去から連綿と続く人々の希望なのだから、それを叶える事が僕の使命だと思う…。そして約束する、何時の日か二人を縛る盟約を解放するまで、僕は決して死なないと。」
 瞬きもせず、クオンを見つめ続けた二人のきらめく瞳から涙の雫がこぼれ落ちていた。夢の中で語るクオンの決意に対するものではなく、これから始まるだろう苛酷な戦いの中で彼を失うかもしれない現実を受け入れるための涙のような気がした。
「わたしは…クオンの盟約から開放されたいなんて思っていない。わたしの願いはあなたとずっと一緒に居ることだから…。お願い、開放するなんて言わないで…。」
涙に震えるフェリスの声が告げた。アルテは声も出せず、クオンの瞳をのぞきこんだままゆっくりと頷いて同じ気持ちを伝える。
 夢の中のクオンが二人の気持ちに答えようと口を開いたが、彼にその思いを告げる時間は残されていなかった。突然、緊張に強張ったフェリスの心の声が頭の中に響く。
 (クオン、魔力が近づいてくる!)
 振り向くクオンに涙を白い手の甲で拭いながら西の空を仰ぐフェリスの華奢な肢体が映った。アルテもフェリスの心の声が届いたのか不安に緊張した面差しを見せる。
 (西南の空の向こう、信じられない速度で近づいて来るわ。力は天位クラス、詠唱者が三人付いているわ。あの波動は多分…、闘争の魔神テュリア神格のものよ。)
フェリスの念覚で捕らえているのだろうビジョンが彼女の意識伝いにクオンの脳裏に浮かぶ。肉眼では捕らえられない赤い光焔が巨大な神殿の左手の空から近づいて来る様子が見える。ゆっくりとした動きにも見えるが、召喚魔獣を使って空を飛行しているのだとすれば、光の点の大きさから推察されるその速度は常識外れだった。このまま速度が落ちなければ、あと僅かの間に目の前に現れるだろう。
 「たぶん彼だ、元イゼフィア帝国の四魔宗師の一人でテュリア神格天位魔術師ギャフレイ・ロンジュオス。おそらく『力』欲しさに『影』との異質な盟約を交わしたのかも知れない。」
 「それなら、はっきりした敵だわ。わたしたちを『影』に支配されたファルマリスが閉ざすオベリスの神殿に入らせないための伏兵なら打ち破るだけ!」
 アルテは腰の呪術剣を抜き放ちながら毅然と言い放つ。さっきまで涙にくれていたとは思えない凛とした闘志を感じさせる。間違っても力を侮れるような相手ではないのに恐怖に怯む弱さを彼女が見せる事はなかった。
 「魔術で応戦する!」
 クオンは間を置かず判断する。迷う時間はない。彼の推測が正しければギャフレイは『影』の力を纏って本来の魔術能力以上の攻撃を仕掛けてくるだろう。そしてその目的はクオン達の抹殺意外には考えられない。
 「布陣は、三聖術相。フェリスは『守護の甲殻』で敵攻撃に備える。アルテは『飛竜の翼』で空中戦の準備を。僕は火精霊魔術『劫火の審判』を使って打ち落とせるかやってみる。」
 声と共に『封神石片』と呼ばれる十枚の魔陣片を蒼穹に投げ上げる。半透明に透ける鋭角な三角形の薄く黒い石板が、午後の陽光に煌きながら舞う。アルテとフェリスがクオンの合図に応じてすばやく魔方陣の定められた位置に立つ。優雅な放物線を青空に描いた九枚の石片がその鋭い先端を次々と地面につき立て、九魔神の息吹に輝きを放つ。
魔道の青、蒼海の紫、守護の桃色。蛮勇の赤に月の緑と輪廻の橙。さらに疾走の藤色、夢幻の水色、鋼鉄の黄色が互いの輝きを伸ばして繋がり合い大きく複雑な魔方陣を地面に浮かび上がらせた。目の前に落ちてきた最後の一枚をクオンが左手につかみ取ると、それは一振りの黒い呪術剣へと姿を変える。
 もし敵の魔術師にそれが見えたなら、羨望に我を忘れたかもしれない。それは創世神格を帯びた者のみが持つ事を許される『封神剣』。魔力が弱まったこの世界で誰も帯びることが叶わない創世神格を得た証を示していたからだ。
 夢の中のクオンは二人の美しい詠唱者を伴い平然と魔術を使おうとするだけでなく、魔術師の頂点である創世神格の位を持っているようだった。
 「ねえ、フェリス。ルシリアは何処に居るの。あの子がいないと攻撃魔術が少ないわ。」
 白く輝く魔法陣の光に包まれながら、詠唱に入る前にアルテが尋ねる。
 「ルシリアは確か…宿営の厨房で料理を作っていたはずよ。」
 フェリスは念覚の意識で敵の動きを二人に伝えながら、本当の声で答えるという器用な芸当を演じていた。
 「料理…今日はあの子の当番じゃないはずだけど?」
 アルテが訝しげに首を傾げる。
 「実は今日は、わたしとクオンがエルラダルの『隠されし結界』で初めて出会った日なの。ルシリアにその話をしたら、お祝いしないと駄目だって聞かなくて、ご馳走を自分で作ると言い出したのよ…。」
 少し頬を赤らめたフェリスが斜め前に立つクオンの様子を気にしながら恥ずかしそうに語った。殺伐とした戦いの中で、気持ちを癒す話題は好意的に受け止められる。多くの者がそこに命をかけて戦う意味を見出そうとするかのようだった。
 「そう…、それは祝日だわ。おいしい料理が出る楽しいパーティにしましょう。その為にもまず敵は倒してしまわないと。…フェリス、念覚でルシリアを呼べる?」
 「距離的には問題ないけれど、敵を監視しながらでは無理だわ。」
 「もう少し近づけば、僕の感覚でも捉えられる。ルシリアを呼んでくれ。空中戦になったら彼女の風を操る力が必要になるかも知れない。」
二人は頷いて、フェリスの念覚のイメージが途切れる。しばらくして、心の声がクオンの脳裏に響いた。
 (ルシリアを呼んだわ、慌てて駆け出す拍子に何かの食材を床に落としたみたいだけど。直ぐにここに駆けて来ると思う。それから…気がついたのだけれど、あなたの過去が見に来ているわ。)
 思わず振り向いたクオンを大きな黒い瞳が悪戯っぽい輝きを宿して見つめていた。フェリスは夢の中の彼を見ているのではなく、夢を見ている自分を見ているのだと直感する。
 (クオン、まさか『アイルナの花』に願いをかけたのじゃないでしょうね。)
深刻な問い詰めではなく、どこか面白がっているような感情が彼を包んでいた。
 「アイルナの花? 確か…初めて見たのはフェリスと会った時、『隠されし結界』で天秤樹の根元に咲いているのを偶然に見つけた…。」
 夢の中にも関わらず、クオンは自分が赤面するのを感じる。アイルナの花に願いをかけた事は何か良くないことを意味するのだろうか。
 とうとう、くすくすとフェリスが笑い出した。アルテが驚いた顔でこちら側を見ている。生死を分かつ敵を目前にした雰囲気ではなかった。
 (時が流れてもあなたは同じ事を考えるのね。昔のクオンも、今のクオンも知らないようだから教えてあげる。『アイルナの花』に願いをかけると、その花は願った者に一度だけ願いが叶った未来を見せるのよ。まるでその願いで良かったかどうかを確認するみたいにね。実際に願いをかけた人が見た未来の話を読んだ事があるけれど、かなり悪趣味な体験らしい。確かに願いは叶うのだけれど、それは願ったことだけ。願わなかったことが原因で人生に絶望したとまで書いてあったわよ。)
 フェリスが笑いを堪えながら送った思考には、言葉にならなかった疑問が込められていた。未来を垣間見て後悔しなかったのかと。夢の中のクオンは苦笑いしてその疑問を即座に否定していた。夢を見ている筈のクオンは、これが未来の現実だと急には信じ難い状況に戸惑うことしか出来ない。
 (いったい…、『アイルナの花』にどんな願いをかけたの?)
夢の中のクオンも夢を見ているクオンも同時に慌てた。フェリスの底知れなく澄んだ黒い瞳は心の奥深くまで読み取らんばかりに煌いている。まさか本人に向かって、あなたを自分の『詠唱者』にしたいと願ったとは言えない。まして『隠されし結界』で出会った直後の事だ。しかし、『血の盟約』を交わした交感能力を持つフェリスに隠し事など出来るはずもない。夢の中のクオンは、彼女は初めからこの事を知りたくて心の声を使った事に気がついた。
 一瞬、物思いに耽る表情を見せたフェリスは、艶然たる笑みを美しい顔に広げる。
(そう…、あなたの願いはわたしだったの…。そうね、アルテには知らせないほうがいいわよ、きっとやきもちを焼くから。今のわたしにはとっても嬉しい事だけれど…、あの時のわたしがそれを知っていたら、たぶん怒ったでしょうね。だってわたしは念覚導師だったから…。)
 夢見るクオンに身体があったら硬直していたかも知れない。彼女が噂に聞いた念覚導師のフェリスだと思い当たったからだった。本当にそうなら、『隠されし結界』の少女が持つ強い魔力も、心で会話する不思議な力もすべて繋がるような気がする。さらに、あの時フェリスが着ていた深い紫の法衣は念覚導師の正装だと思い当たった。
動転した夢見るクオンは夢の中にいる事も忘れて、目の前の美しい少女に声をかけずにはいられなかった。夢の中のクオンではなく、本当の自分を彼女に認めて欲しかったのかも知れない。
 (フェリス…。)
 夢の中に身体を持たない彼の強い思いは声になるはずもなく、そのまま消える定めのはずだった。しかし、語りかけた相手は心の声を聞く事の出来る不思議な少女。時を越えてもなお彼女の力が通じるというのだろうか。
 神秘的な黒い瞳が再び夢見るクオンに向けられ、艶やかなくちびるに謎めいた微笑みが浮かぶ。おそらくはこれから二人に起きるだろう事を既に知っているその心が、優しく包み込むような感覚と共に言葉を伝えた。
 (…また、あなたの未来で逢いましょう。)
 あの『隠されし結界』で心に語りかけられたやわらかな感覚が蘇る。それは紛れもなく同じ少女が伝えたと信じさせるもの。信じ難い未来の光景に魅せられたクオンの心は、信じられないと叫ぶ理性を押し殺し、夢の中でさえ現実の事なのかも知れないと思いはじめていた。