第二章 「詠唱者」
第三節 【詠唱者】

 施術を終え、精神力と体力を使い果たした身体を引きずってイノームと一緒に居なければならない事がシアナには苦痛だった。倦怠感が全身を包み、投げやりな気持ちが意識を支配しようとする。こんな時に不意を衝かれれば隠し通している『素顔』が無意識に出てしまうかも知れない。

 彼女の肉体を支配する『宝珠の力』さえ使えればこんな思いをしなくても済むのにと溜息をつく。シアナは『闇の賢者』と呼ばれるオルデリスによって魔鏡導師院から盗み出された『宝珠』の一つを身体に埋め込まれ、すでに『人にあらざる者』と化していた。

 『シアナ』という名も、もちろん本当の名ではない。知られてならないのはホレーク神格天位の魔唱師、イルミア・セイレラムと呼ばれる名。

 もし侵略によって故国を失わなければ、一国の王族とさえ呼ばれても不思議ではない身分。けれど十八年前の侵略戦争は彼女から全てを奪い去り、魔術師の最高位を持ちながらも、忌まわしき改造によって『影』の忠実なる僕として働かざるをえない身の上となった。

 もっとも、彼女は『影』に支配される以前の記憶を思い出せない。意図的に消されたものか、事故によるものなのか。いずれにせよ思い出した所で、開放されるはずもなく、人に戻れるわけでもない。いたずらに人としての『想い』が蘇れば、『僕』としての行動にも支障が出るだろう。彼女に求められているのは『影』の意図を冷静に素早く、確実に実行すること。たとえそれが人を殺めることを意味しても、一瞬の躊躇いも許されてはいない。

 イルミアが『シアナ』と名乗り、イノームの詠唱者となったのは『影』の命を受けてのこと。『影』は憑依した者の口を使って彼女に告げた。

 『メルカ国の王都エルラダルに赴き、かの地の朋友オルデリスを助けよ。その命を脅かす念覚導師を捕らえて下僕とせよ。』

 彼はフェリス・ファブレットと名乗る念覚導師が、盗まれた宝珠の手掛かりとしてオルデリスを探し出すべくエルラダルに潜入する事を知っていた。本来なら念覚導師院から外に漏れるような情報ではない。

 フェリス念覚導師は若年ながら類稀なる念覚と魔力を持つといわれ、味方とするなら頼もしい力となるだろうという。そんな念覚導師をいったいどうすれば『影』の下僕に出来るのかは分からない。それは闇の賢者オルデリスの仕事だ。フェリスと呼ばれる女性には会った事もないが、もし彼の凄惨な人体改造の生贄になるのだとすれば同情を禁じえない。考える苦痛を超えた激痛の果てに『人ならざる者』へと我が身を変えられてなお正気を保つのは難しいだろう。

 さらに『影』は、フェリスにイノームという養父がいて、エルラダルの治療院の院長をしている事をイルミアに伝えた。身体に埋め込まれた『宝珠の力』が発揮する超人的な力と魔力でフェリスを捕らえるのは彼女の任務だ。最初に標的の情報を集め、本人とその行動を確認し、絶好の機会を窺って捕獲する。地道で綿密な調査と計画を重ね、失敗の可能性は極力低く押さえなければならない。

 おそらく、調査任務に赴いたフェリスは、普段は会うことの許されない養父イノームの所へ顔を出すだろう。イルミアがイノームの仲間として疑われなければ、彼女の動きを把握し、情報を引き出すことが容易になる。

 イルミアはイノームの詠唱者になる事を思いつく。自らは未だに盟約を交わしていない魔唱師として改造されている。『主従の盟約』なら念覚の低い導師相手に強大な魔力を隠し通すことも可能だろう。実際、メルカ国のオベリス神殿神官の念覚導師ヤーザは、それほどの念覚を持たなかったものか『魔力』を隠したイルミアに気付く事なく盟約の儀式を行った。

 ヤーザよりイノームを騙しつづける方が難問だった。盟約を交わしたからには、一時的な付合いでは済むはずもない。四六時中行動を共にしなければかえって不自然に見える。 イルミアはオルデリスに頼み『宝珠の力』を封印して、無意識でも超人的な力を発揮することが無いように万全を策す。結果、魔術は使えず体力や運動能力も常人並みまで落ちた。運悪く隠した身分が露呈し、窮地に立たされても、身を守る術はない。けれど死と隣り合わせの感覚は、彼女を恐怖に怯ませなかった。イノームを騙しつづけてフェリスの動向を探ることが出来るのなら分の悪い賭けではないだろう。故郷も記憶もない彼女が縋れるものは『影』だけであり、その『命令』が彼女の存在の全てだった。


 看護人を呼んでクオンを病室に運ばせたイノームは受付前の待合場所にあった豪奢な長椅子に汗だくの丸い体をなげだした。イルミアも向かいの椅子にもたれかかる。端正な頬に髪が張りつき、やわらかそうな唇から溢れる荒い呼吸に胸が苦しそうだ。

 「無事に施術できましたね、おめでとうございます。イノーム様。」

 しばらく、息遣いだけを響かせたあとイノームに笑顔を向ける。メリルは何時の間にか閉院の案内を出してから姿が見えない。来院者のない待合所に残ったのは二人だけだった。

 「ありがとうシアナ。君がいてくれるお陰だ。無理を言ってすまんな。」

 「いいえ、あなたの力になる事が『詠唱者』としての使命なのです。それを果たせたことは、自分にとっての喜びですわ。」

 本来なら胸に響きそうな言葉のはずが、まるで用意された文章を暗誦したかのように聞こえてしまう。そこには彼女なりの個性が感じられない。イノームは以前から胸にわだかまっていた疑問が頭をもたげるのを感じる。感情的な状況であるほど彼女の言動は単調になってゆく。それはまるで感情を知らない者が感じているふりを装っているようだ。

 「…それならいいんだが。」

 イノームは自分の考えを振り払う。短い間だか懸命に尽くすシアナに対して、感情が無いなどと考える方がどうかしている。おそらく彼女は感情の表現が下手なだけなのだ。

 「ところで今回の『精霊の息吹』は、何故かいつもと様子が違っていたような気がします。」

 イルミアは視線を中に舞わせて記憶を探る。以前の施術と今回を比較して異なる感覚を彼女なりに解釈していた。魔術の施術と効果に対する技術的な分析や報告は詠唱師の大事な役割だ。

 「そう…、誰かが力を貸してくれたような…。」

 「シングフェイ様だよ。わしに語りかけてくださった。クオンを救え、それから『聖三界』の未来を閉ざすなと…。」

 イノームも施術中の記憶から自分でも驚くべき記憶を探し当てた。かつて施術中に盟約した主神が自ら語りかけるなどという事は一度もなかったし、噂を耳にしたこともない。精神的な疲弊が限界に近くなければ驚きに我を忘れた事だろう。

 「主神様が!?」

 イルミアには驚く余力が残っていたらしい。口に手を当て、深い紺色の瞳を興味に輝かせた。不思議と畏怖に感動する様子ではなく、無邪気な子供が見せる好奇心のよう。恐れも知らぬ素振りにイノームは目を丸くする。

 天位を持つ魔神の『しもべ』以外、全ての魔術師や詠唱者は普通、『魔神』に対して強い恐れと憧れを抱いている。生まれた時からの日々の信仰に加え、自らの内に在する魔力が魔神に属するという意識は、『魔神』の脅威をより強烈に印象づけていた。

 「…意味はわしにも良くわからんよ。自然の精霊界、人間の魔神界、天の創世界を聖三界と呼ぶが、それはこの世の全てということ。その未来とクオンにいったい何の関係があると云われるのか…。」

 イルミアほど魔神に対して平静になれないイノームは口の中で、もぞもぞと魔神に対する忠誠の聖句を呟やく。自分の不信仰ぶりがここぞとばかり脳裏に浮かぶ。魔神シングフェイは『生』を司ると同時に『死』も司る魔神だった。

 「はじめて聞きました。魔神様が人に語りかけるなんて。天位の魔術師にさえ人の理解できる言葉で何かを告げたということは…ないと聞いています。」

 イノームにとって意外にも、イルミアは端正な顔を紅潮させ、流れるような口調も乱して興奮しているかのよう。彼女にも人間らしい表情がある事に少し安堵する。

 「…彼、クオン君にも聞こえたのでしょうか?」

 慌てて話を逸らすかのように彼女が尋ねた。さっきまでイノームの目を覗き込むような瞳が逸らされて冷たい石畳を見つめている。

 「さあ…、シアナには聞こえなかったのだろう?」

 「ええ…、わたくしには何も。」

 「おそらく、主神盟約しているわたしにだけに聞こえたのだと思う。」

 イノームは汗に湿った栗色の髪が解け、うつむくイルミアの頬にかかる様子に見とれながら答える。魔神が彼に語った言葉の意味を知りたがっているのは、ただの好奇心なのだろうか。

 「そう考えるのが妥当でしょう。けれど何故、クオン君を救えと云われたのでしょう。イノーム様に『聖三界』を救えというのは理解できなくもないのですけれど。」

 「冗談じゃない、この世の全てを救う力などない。有能な君が居てくれてもそれだけは無理だ。だいたい、この世界がどんな危機にあるのかさえ分からん。」

 イルミアの言動にはイノームを過大評価する傾向がある。確かに詠唱者は自分の仕える魔術師にすべてを委ねるのだから、無理もないことなのだろう。それとも、本当に彼に世界を救う力があると信じているのだろうか。穏やかに笑顔を浮かべるイルミアの表情には、先ほど興奮して垣間見せた感情の面影すらない。

 「クオンの事にしたって、彼に特別なことは何もない。第一、彼は魔術が使えん。」

 「…え?」

 青い瞳が薄闇の中で見開かれ、イルミアは自分の耳を疑う。彼女が感じたクオンの魔力の大きさは、普通の魔術師レベル以上だった。普通に考えれば地位神格の魔術なら苦もなく使いこなせる程だろう。

 「魔術教学院にも通い、魔力も他の生徒より抜きん出ているが、魔術だけは使えない。」

 「どうしてですの。」

 『宝珠の力』を封印して魔術が使えなくなった事を思い返しながら、慎重に尋ねる。イノームが『宝珠の力』に気付いた様子はない。けれどクオンという名の青年に、イルミアは自分と同じ種類の何かを感じていた。

 「彼が望みもしなかったのに、そういう身体に改造した輩がいる。」

 「…改造って、呪術改造のこと?」

 「そう、君が受けた詠唱者になるための呪術改造と似ているが少し違う。クオンの場合は、実験のための改造だったらしい。」

 「人を使って実験するなんて、許さざるべき事です!」

 思わず荒げたイルミアの声が、待合室に響く。やはり精神の疲労からか本来の感情が漏れ出てしまうようだ。自らも受けた陰惨な改造を、あの青年もまた体験していた事が衝撃だった。あれは普通の人間が耐えられるようなものではない。

 「誰しもそう思う。たった一人、闇の賢者オルデリスを除いてはな。」

 「彼がクオン君を改造したのですか?」

 「ああ…確かな証拠はないが、おそらくはそうだろう。技術的に考えても、他にあれだけ高度な呪術改造を人体に施せる術者はいない。」

 イルミアは自らの感情を押し殺すのに懸命になる。痩せこけた髑髏のようなオルデリスの顔が脳裏に浮かぶ。彼はいったい何人自分と同じような『人にあらざる者』を造りあげたのだろう。あの暗い廃墟の神殿の地下深く今なお不気味な実験が行われている事に慄然とする。『影』は何故、あのような狂気の賢者を仲間と呼ぶのだろう。もし『影』が許すなら、彼女は進んで彼を抹殺したかった。

 「…クオン君の身体は治せるのでしょうか。」

 声が震えないよう祈りながらイルミアは疑問を口にした。それはクオンだけの事ではなく、自分に加えられた改造についての事でもある。

 「まだ本人には言っていないが、おそらく不可能だ。」

 「………。」

 予測もしていたし、自分でも分かっていたことだった。天位の魔術師でもあるイルミアは自分の身体に何をされたのかを理解もしている。一縷の希望もあったが、あらためてシングフェイの治療師に断言されれば、諦めもつくというもの。薄暗がりでイノームに顔色を見られる心配がないことが嬉しかった。

 「…さて、理解できない事を考えていても埒はあかん。とりあえずこの汗まみれの身体を洗って少し休むことにしよう。」

 イノームはイルミアの沈黙を疲労ととって、気を使ってくれた。彼は時々彼女が『人にあらざる者』であることを忘れさせてくれる。憎むべき敵であるはずなのに。もちろん正体が露呈すれば、彼もこんな態度を見せる事はないだろう。

 「ええ、すみません。話し込んでしまって。」

 イルミアは乱れた深緑色の法衣を正して、立ちあがる。

 「すぐにお風呂の準備をさせます。イノーム様は少しここでお休みになっていて下さい。」

 必要以上に優しげな声になったのをイノームに気付かれるのが怖くなって、彼女は慌ててその場を去った。『宝珠の力』を封印してから日増しに弱くなってゆく自分を感じる。それは魔力や力に関係がなく、人に近づきつつある気持ちの為なのだろうか。『人ならざる者』でも人の心を蘇らせることが出来るとでもいうのだろうか。治す事が出来ないというイノームのクオンへの言葉が、まるで自分に向けられたかのようにイルミアの頭の中に響き続けていた。


 密かにフェンレード魔術教学院に潜入して闇の賢者オルデリスの痕跡を探る使命を受けた魔鏡導師院の念覚導師フェリス・ファブレットは、フェンレード魔術教学院の中庭で出会った不思議な青年の後を追ってイノームの治療院にたどり着いた。

 護衛士達の反対を押し切り、黙って『隠されし結界』を訪ねた事を少し後悔し始める。派遣する前に告げられた『危険』は、いつどんな形で降りかかるのか予測もつかない。これ以上、使命に関係のない事に関わるのは危うい事態を招く可能性が増えるだけだった。

 学院の中庭で偶然遭遇した学院生とおぼしき彼を、助けるべきではなかったのかも知れない。フェリスは幼少の頃に訪れたきりの『隠されし結界』を偲んで、密かに訪れるだけのつもりだった。あの場所にいた幾人かの心の言葉を拾いながら、ふと恋人ですらない少女の為に命がけで戦う青年のひたむきな姿に目を奪われる。

 細身で均整のとれた体つきと整った目鼻立ち。この地ではあまり見かけない黒髪と黒い瞳が、同じ色を持つ彼女に親しみを感じさせる。よく見れば端正な顔つき。しかし優しげな目が印象的な甘い容貌は、あまりにも険がなく脆弱さを際立たせている。学院生の白い法衣を纏ったその青年は、クオンと呼ばれていた。

 フェリスが気づいたとき、クオンの命は魔法剣士の魔術の前に引き裂かれる寸前だった。とっさにラデュオ神格魔術『残像の俊敏』で人目に留まらないほど行動を速め、ギュフラゲール神格魔術『守護の円球』を使って彼を突き飛ばす。彼は高圧で対峙する魔力も突き破るほどの勢いで弾かれ怪我を負ったが、鋭い鋼の針で骸と化すことはなかった。

 魔境導師院からの使命は彼女が秘密裏に教学院に潜入することを望み、彼女もまた余計な事には関わらない覚悟だった。確かに、不当に人が殺害されようとする現場に出会い、無視するような教えを受けてはいない。ましてそれが『魔術』によってなされようとしていたのだから、魔力の均衡を監視する念覚導師としては助けることが使命ともいえる。ただ、もっと上手な助け方があるはずだった。フェリスがとった行動では、誰が見ても『力のある魔術師の仕業』は明白だろう。魔境導師院の多くの者が心配するように、念覚導師としての経験不足から意外に早く取り返しのつかない失敗を引き起こすのかも知れない。

 あの『隠されし結界』の中でフェリスは、衝撃で気絶した彼の傷に出来うる限りの治療を施した。シングフェイ神格の治療師ではなかったから、応急処置程度のことしか出来ない。ギュフラゲール神格の彼女は人を守る高度な魔術なら使えるが、傷ついた人を救う魔術は普通程度。近くに治療師がいるわけでもなく、呼びに行ける状況でもなかった。それでも彼女は、自分に残された魔力のあらかたを使い、少しでも傷を癒そうと試みる。

 繊細な手のひらを彼の傷口に近づけ『精霊の手当て』の魔力を送り込むことに全神経を集中した。魔力を使うほどに失われる精気が、重い疲労と脱力感となって彼女を襲う。両膝を地面に付け、横たわるクオンの肩に両手を突き出して屈んだ姿勢は、精気を失って力の抜けた優美な肢体を支えきれなかった。

 フェリスはまるでクオンの胸に顔を埋めるかのように倒れこむ。彼の白い法衣の上からでも、見かけによらず筋肉のついた胸板を感じて頬が少し熱くなる。彼女の耳には彼の緩やかな鼓動までもが聞こえていた。衣服を通してでさえ、人肌の温もりが与える安らぎが驚くほど心地よいことに初めて気づく。まだ性も意識しない幼い頃に『創世神の巫女』となって以来、これほど異性に近づいた事はない。意識もない彼に覆い被さるような格好が、急に恥ずかしく思えて体を離す。深い疲労に体を動かすことさえやっとの筈なのに、胸の鼓動は激しく高鳴り続けていた。

 クオンが気づく前に、彼女はその場を去るつもりでいた。出来るだけの治療は、彼を治療院にたどり着かせるのには十分だろう。意外にもそれが彼を思ったより早く覚醒させることになり、彼女を慌てさせた。自分でも驚くほど機敏な動作で逃げようとした体を止めたのは、無意識に抱きしめていた彼の剣と心に流れ込む彼の意識だった。

 あとで思い返せば、強大な魔力を発する天秤樹が彼女の読心能力に干渉して感度を高めていたのだろう。普段なら、相手の心が誰かに語りかけようとする思考や大まかな感情ぐらいしか読み取れない。それが彼の感じている感覚や心の奥深くに淀む想いまでも伝える鮮烈さで彼女に流れ込む。フェリスは初めての経験に戸惑い、めまいを感じながら立ちすくんでしまった。

 今までこれほどまでに深く他人の意識に入り込んだ経験もなく、それが可能とさえ思わなかった。若い男性という存在は、あれほどにしなやかで熱く純粋な心を持っているのだろうか。それに、彼の心を通して感じた自分の姿。甘い陶酔と胸を締めつけられるような感覚。何者からも守りたい想いと、抱きしめたい衝動を抑える切ない気持ち。目の前に居ながら、手を出すことの叶わない存在への憧れ。さまざまな想いが彼女の姿を形作っていた。その時の感覚を思い起こすと不思議に鼓動が激しくなる。誰もが彼と同じように感じるものなのだろうか。

 その気になれば魔術師でも殺害できる程の魔力と、心を見通す眼を恐れない者はいない。それでも優しい彼女の心根を理解し、接しようと努力する者もいた。その者達でさえ一定の距離を保ち、それ以上近づくことは決してない。けれど彼は素性も知らない自分に怯えも見せず、ただ純粋に近づきたがっていた。

 もしあの時、重い使命がなければ、自分の心を開いて青年と通じ合う事が可能だったに違いない。鋭敏になった彼女の意識は彼の意識の深くに自分と同じ孤独の影さえ感じていた。

 言葉を持たないため、強大な力を持つがゆえに同じ念覚導師を目指す仲間たちと打ち解けることが叶わない自分。魔術を学びながら、魔術を使えないために疎外される彼。同じように、両親と引き離されて育った記憶。同調する感覚はフェリスの中に溶け込み一体化する。

 クオンと呼ばれる青年は、知らずの内に他人ではなく彼女のかけがえのない一部となった。その感覚を共有できないことが不自然に思え、深い悲しさに胸をつく痛みさえ感じさせる。彼女にとって彼は一部なのに、今の彼にとって彼女は名も知らない少女にすぎない。自分がいくら親近感を感じていても、彼の心は動かないのだと考えると耐えがたかった。 彼の意識を感じたフェリスは、感情を押さえ込む自信が無くなって、逃げ出すようにあの場を去った。あのまま彼と語り合っていたら、きっと使命も忘れて自分のすべてを彼に伝えてしまったに違いない。素性も知れない青年に自らの身分を明かすことは大切な使命を裏切ること。考えるのも嫌だったが、万が一でも彼がオルデリスと繋がっていれば使命を果たすことは不可能になる。魔鏡導師院が血眼で捜す『盗まれた宝珠』の手がかりは『闇の賢者オルデリス』しかない。その足跡を探し、追う使命が果たされなければ、宝珠は何者かの手の内で『魔力の均衡』を崩し続けるだろう。

 傷ついたクオンを残して『隠されし結界』を抜け出したフェリスは、放心して地面にうずくまった少女を見かけた。突然出現した人影にも気づかず、心の声が繰り返しクオンを呼んでいる。彼女には気の毒だったが、彼の彼女に対する想いは愛情と呼べるものではないと知っていた。泣き腫らした目の美しい少女が彼と結ばれたいと願う想いは、彼女が考える障害とは違った理由で叶わないだろう。

 少女に気づかれないように、石造りの学院の物陰に隠れたフェリスは小さな魔方陣を作りラデュオ神格の邪鬼『伝魔シキ』を召還した。紫に輝く小鳥のような姿のそれは呪印の合図に頷くと、勢い良く羽ばたいて飛び立つ。召還魔獣の鳥はこの学院にまだ残っている生徒か教師を見つけ出し、少女が中庭に倒れていることを伝えるはずだ。

 しばらくすると、二人の教師が慌てた様子で学院の中から駆けつけた。二人は少女に声をかけ、事情を誰何しても一向に返らない答えに困惑する様子を見せる。尋常でない少女の様子に治療院に運び込むことを相談したようで、体格のいい教師が彼女を背負い学院の中へ姿を消して行った。

 フェリスがその場に留まる理由はなかったが、一向に結界から出てくる様子のないクオンに不安が募って離れることが出来ない。結界を抜け出す方法も教えることなく逃げ出してしまったことが悔やまれる。もう一度、結界に入って彼を助け出せば済むことだった。けれど、再びあの交感を高める場所で彼に会い、自分の感情を押しとどめることが出来なくなるのが怖かった。二人で同じ感覚を共有できなかった切なさが胸を締めつける。重い使命に関わる危険さえなければ、何も躊躇うことなく飛んで行っただろう。

 胸に手を合わせ、使命と感情の間に苦しむフェリスがクオンを認めたのはそれからしばらくの時を数えてからだった。彼は傷の苦痛に青ざめた顔を歪めながらも、誰かを探すような素振りを見せてよろめく。『精霊の手当て』を施したとはいえ、あれから経過した時間を考えると彼の体力と精気は限界に近いだろう。一刻も早く本格的な治療が必要だ。彼女は再び『伝魔シキ』を召還して、近くの治療師を呼び寄せようとする。

 今にも倒れそうなクオンだったが、意外にも踏みとどまって歩き出した。脂汗を流しながら歯を食いしばり重い足取りで体を引きずって行く。夕闇の中で遠めに見えるはずもない彼の瞳が強い意志に輝いているかのように思えた。それは彼女に助けを求める姿ではなく、自らの信じる何かに従って自分と戦う姿のように見える。フェリスは召還をやめ、魔陣片を腰帯に収めると静かに彼の後を追う。ひどい怪我を負ってなお自力で歩く彼から目を離すことは出来きるはずもなかった。

 フェリスは懐かしい石の門を見上げて立ち止まった。彼はよろめきを繰り返しながらも倒れることなくその中に姿を消して行った。優美なくちびるから安堵の溜息が漏れる。この場所にたどり着いたなら心配はないだろう。太った養父の人懐こい笑顔が脳裏に浮かぶ。遠い故郷ファンレントで深い傷を負い倒れていた小さなフェリスを、彼は救い出し養女として育ててくれた。やがて彼女は『念覚』の才能を見せ、魔鏡導師院に迎えられる事になって彼の元から離れる事になったが、優しく育ててもらった記憶を薄れさせた事はない。

 彼女の使命は養父と会うことさえ危険だと考えさせたが、ひと目彼に会いたい気持ちを抑えることは出来なかった。生死も分からない実の両親以外に、家族と呼べる唯一の存在。念覚導師院に入り創世神の巫女となってからは会うことも叶なわず、永い年月を数えていた。それから、後を追ってきた彼の容態も気になる。もしかしたら養父イノームは彼について何かを知っているかもしれない。フェリスは意を決すると、見知った治療院の一角にあるイノームの家に足を向けた。