第一章 「結界」
第三節 【結界】


 クオンは目覚めゆく意識の朦朧とした状態のなかで、やわらかな若い女性の声が響くのを感じている。初めて聞く声なのに、不思議と彼を落ち着かせる声音だった。死後に出会う精霊は確かにこんな麗しい声をしているに違いない。耳に聞こえると言うよりは、心で感じるような声。穏やかに包み込みながらもわずかに容態を心配する気配が交じり合う。

 (わたしは治療を生業とするシングフェイ神格ではないから、こんな手当てしか出来ないけれど…。)

 声の女性はクオンを看護してくれたようだ。地面に激突した事を思い起こす。いったいどの位の傷を負ったのか不安になる。

 (…でも、この傷は戦いで負ったものではないわ…。多分、ここに転んだときに傷つけたのね…、すこし派手に突き飛ばしすぎたかしら。)

 クオンが魔法剣士の『鋼針』によって呪術甲殻を破壊される寸前、壁のようなものに突き飛ばされたのは彼女の仕業だったのだと納得する。魔術によって作られた壁でもなければ、魔力と魔力が高圧にぶつかり合う場所から彼を動かすことは出来ないだろう。その少し前に感じた強大な魔力の気配も、彼女のものだったに違いない。

 (だって、魔法で隠されたこの場所に、あなたが入り込めるなんて誰も思いつかない。わたしが悪いのじゃないわよね。殺される寸前の所を助けたのだからむしろ、感謝されて当然のはずだけれど…。)

 彼女は突き飛ばした事でクオンに怪我をさせてしまった事を不思議と気にしていた。魔術を使いにくくする結界の中庭で、いったいどれほどの魔術を使えば姿も見せずに彼を助け出すことが可能になるのか。強大な魔力はそれに見合った魔術の施術能力を意味する。魔術の力が全てを支配するこの世界にあって、彼女ほどの力があればクオン程度の学院生など虫けら同然と考えてもおかしくはない。

 (本当はあなたを突き飛ばしたあと、わたしだけが姿を見られないようにこの場所に隠れるはずだったのだけれど。まあ、この『アルマイック結界』の中枢に入ってしまえば、あなたを殺そうとしていた嫌な奴らには絶対に見つけられられないでしょう。逃げるのだったら一番いい選択。けれどそれは普通、魔術位も持たない学院生の出来る事ではないわ…。)

 彼女がクオンに認めている能力は魔術力ではないらしい。次第に意識がはっきりして来るにつれて、自分がいかに理不尽な状況に置かれているかに思い当たる。彼女はいったい何者か。魔法で隠された場所とは何なのか。

 「…君は誰だ?」

 はっとした感覚と共に、やわらかな感じのする気配が急に離れてゆく。重い瞼が開くと、夕焼けに染まりつつある青空が見える。その場所は、クオンが死にかけていた中庭の中心近くのようだった。

 「!!」

 起き上がろうとした時、右側のこめかみと肩に痛みが走る。転んだ時に打ちつけたのだろう。彼女の手当てによるものかどうか、軽い擦り傷もあるようだが出血は止まっていた。辺りを見渡すが、近くに人影はない。記憶にある中庭とあまり変わったところは見受けられないが、ひどく奇妙な違和感がつきまとう。

 すこし間を置いて、見渡している庭が『広すぎる』と気づいた。おまけに少しはなれた場所には、ある筈のない巨大な古木が聳えている。姿の見えない彼女が『アルマイック結界の中枢』と言った言葉を思い返す。もしかしたらと、クオンには思い当たる事があった。

 そう古い記憶ではない、彼が始めてこのフェンレード学院に来た日のこと。初めて会う白髪の学院長のクライツ・レノムダルクが自慢げに語りだしたのが、学院創設者の賢者アルマイック・フェンレードの伝説。ダヤグ神格天位の魔術師でもあった賢者アルマイックが、丘に聳える天秤樹の古木を依代として学院全体に『結界』を施し学院を創設したという。恐らくこの場所は、結界の依代となった天秤樹を封印した場所。まさに『アルマイック結界』の心臓部なのだろう。

 気がつけば、歴史を刻んだ古木の深く奥ゆかしい存在に満ちた空間が彼を包んでいた。恐らくは学院創設以来何百年と変わらない風景が目の前に広がっている。伝説の依代となった天秤樹は、樹齢すら想像もつかないほど大きさで見る者の目を奪う。この地では、死後に人の心が創生神の理に叶っているかどうかを秤にかける聖樹とされていた。

 本来なら放課後の学院生達が立てる喧騒がまだ続いているだろうこの時間に、不思議と物音一つ聞こえない。光も、空気も変わらなかったが、ここには『音』だけがなかった。結界を構成する魔術の影響なのだろうか。クオンにはその理由を思いつけない。きっと姿のない彼女なら説明出来るのだろう。『麗しい声』は彼が気づいた時から途切れたまま。意識を集中して魔力の気配を探ったが、天秤樹から湧き出す強大な魔力にすべてをかき消され何も捉えられない。

 視覚に頼って歩き回り彼女を探し出すしか方法がなかった。平坦な芝に囲まれた辺りに隠れられそうな場所がない。可能性があるなら、巨大な天秤樹の蔭しかないだろう。『結界の依代』に近づけばどんな影響があるのか想像もつかなかったが、彼女の対する好奇心の方が危険に対する恐怖を上回っていた。

 無意識に腰に帯びているはずの『漆黒の剣』の柄に手が伸びる。手になじんだ感触が伝わらない。突き飛ばされた時に、何処かへと吹き飛んでしまったのだろうか。丸裸にされたような心細さが襲う。彼女がまだこの結界の中に留まっている保障もない。危険を犯してまで探す必要があるのだろうか。理性が猛反対していたが、何の手がかりもなく帰るつもりにもなれなかった。いずれにしても結界から出る方法すら知らない。助けられなければ確実に死んでいたのだと無理やり自分を納得させてクオンは歩き出した。


 大きな天秤樹の古木の陰にその少女は立っていた。

 軽く瞑目し、やわらかに息づく形の良い胸元で組みあわされた繊細な腕に彼の『漆黒の剣』が大切そうに抱えられている。風にそよぐ肩までの黒髪に囲まれた可憐な色白の容貌。端正に筋のとおった鼻梁が、その表情に高貴な品の良さを添えて、神聖な気高ささえ感じさせるかのよう。愛らしく艶めく桃色の唇は、清純なる美しさの中にも背徳的な官能を呼び起こし、見るものを戸惑わせるに違いない。

 華奢な身体を包む深い紫色のフードで佇むその優美な姿は、神殿の壁画に描かれた荘厳な女神よりも美しく見え、王国の宮廷絵師達がどれほどの技量を尽くしても描ききることは出来ないだろう光景を生み出していた。

 ふと、少女の洗練された面差しがクオンに向けられ、ひそやかに佇む人知れぬ湖のように澄んだ漆黒の大きな瞳が見つめる。確かにその神秘的な瞳は彼を認めたはずなのに、少女は驚く様子もなく誰何する声を上げることもない。そよ風が沈黙して立ち尽くす二人の間に流れ、少女の黒髪と天秤樹の葉を揺らす。彼女の美しさに陶然としていたクオンは我知らず自分が彼女の方へ向かってゆっくりと歩みを進めるのを感じた。

 (この剣はとても懐かしい感じがする…。剣はその持ち主の心を映す鏡だと聴くわ。あなたも初めて会うのに、ずっと知っていたような気がする…。)

 『麗しき声』が再びクオンの頭の中に優しく響く。目の前の美しい少女の声だと疑いようも無いのに、彼女の艶めく可憐な唇は無表情に閉じたまま。

 (この場所に『音』は存在していないわ。風の精霊は震えて音を立てるけれど、それを広げようとはしない。この空間を閉じている『星霜の女神』の力が打ち消しているから。誰もこの神聖なる場所で声を使って話すことは許されていない。たとえそれが最上の天位を持つ魔術師でも。)

 クオンの疑問に答えるかのように『麗しい声』が告げた。彼女は心の声を使って彼の心に語りかけているとでもいうのだろうか。

 (わたしは、生まれながらに心で言葉を交わすことが出来る。あなたの心の声を読み取り、わたしの心の声をあなたに届けられるの。普通ならあなたが声に出そうとする気持ちだけが伝わる程度なのだけれど…不思議とあなたの考えたことが全て伝わってくるみたい…。天秤樹の魔力でこの能力も高まっているのかしら。)

 普段に聞いたのなら驚くべき話なのだろうが、異常な状況にあって高ぶった神経はごく当たり前の事のように受け入れてしまう。

 心で会話すること自体は、オセニド神格の魔術を使えば不可能ではない。ただ彼女は魔方陣も作らなければ、詠唱したような様子も見せなかった。生まれながらにそのような能力を持つ者の噂をわずかに聞いたような気もする。遥か東方のシャナ・ルーマ魔道国に住む、心を見通す異端の『邪眼』を持つ者達。彼らは人間ではなく『異神の徒』と呼ばれる怪物で、人の心を喰らうという。

 いかにも怪しげな噂であったし、言葉と共に流れてくる彼女の優しい感覚が悪意を持った魔物の類ではないことを確信させる。むしろその麗しさは創生の神が使わす精霊の化身ではないだろうか。

 (わたしは確かに『神に仕える者』ではあるけれど、人から生まれた人間よ。精霊になれるほど清らかではないし、魔物に身を落とすほど穢れてもいない。)

 気分を害した風でもなく、答える心の声。穏やかにクオンを見つめる表情には感情を読み取ることの出来る変化はない。ただ少女の顔つきから、年齢はクオンとたいして違わないように見える。年頃から推察すれば、何処かの魔術学院生なのだろうか。彼女の身体を優美に包む深い紫の法衣を着た学院生の記憶はなかった。強大な魔力とそれを使いこなしているらしい技量、どこか聖職者を思わせる言葉づかいが普通の学院生ではないことを知らせている。彼女の黒髪に見える複雑な文様の入ったテイアラは王侯貴族か、司祭階級の聖職者でなければ身につけることを許されないものだ。外見からだけでも感じられる気品で、一国の王族のようにも思える。

 仮に彼女が何処かの国の王女だとするなら、護衛も付けずに魔術で見知らぬ学院生を助けたりするものなのだろうか。むしろ、『アルマイック結界』の中枢に何らかの目的があって訪れたと考える方が自然だった。

 (…ここは『隠されし結界』と呼ばれる場所で、賢者アルマイックとは別の聖域でもあるわ。わたし達の信奉する星霜の女神アスティア様が、かつてここを訪れて依代の天秤樹がある空間を封印した。それが如何なる理由によるものか誰も知るものは居ないけれど、このなつかいし気持ちになる場所に来るとアスティア様が何を想ってこの地を永遠に閉じ込めようとしたのかが分かるような気になる…。)

 彼女は意図してなのかどうか、何者かを明かそうとはしない。美しい瞳をわずかに細め、清楚な物腰で天秤樹を見上げる。彼は記憶を探ったが『星霜の女神アスティア』の名を思い出すことは出来なかった。日頃、呼び親しんでいる『魔神』たちの名ではない。ただその『名』には特別な意味があったような気がする。特別な身分でなければ決して口にすることの叶わない『名』。彼女は何か特別な聖職者なのかも知れない。

 (…あなたは、わたしを恐れないのね。)

 再びクオンに神秘的な瞳を向けた少女は、かすかに口元をほころばせたかのよう。それが微笑みなのか、そうではないものかクオンには分からなかった。彼女の前で歩みを止めたクオンに、そっと『漆黒の剣』が差出される。繊細な手に掲げられた剣をゆっくりと受けとる。

 (今、わたしの名をあなたに告げることは許されていないけれど、違う場所で出会えたならきっと友達になれたかも知れない…。)

 クオンが剣を受けとって腰に収めた瞬間、少女は身を翻して巨大な天秤樹の幹の陰へと走り去って行く。

 「…あ、ちょっと待って!」

 少し出遅れて思わずあとを追ったが、肩の傷の痛みが全身に広がったようで思うように走れない。彼が息を弾ませて太い幹の裏側にたどり着いた時、すでにその姿は消えていた。

 辺りを見回しても、美しい少女がさっきまでここに居たことを語るものは何もない。さらに樹の裏側に廻り込んだのか、何かしらの魔術を使ったものか。焼け付く傷の苦痛に顔を歪めながら、もう一度巨木のまわりを巡ったが再び彼女の姿を捉えることは出来なかった。仮に見つけたとしても、今の身体の状態では追いつくことさえ叶わないだろう。もし名も知らない彼女に再び会う気がないのなら、もう二度と出会えないのではないか。そう考えると知らずに胸の奥が痛む。出合ったばかりの見知らぬ少女が、彼の中ですでに忘れられない存在になっていることに気づく。

 おそらく誰しも一度見たら忘れられなくなる容姿だったが、彼を彼女に捉えて放さないものはそれだけではない。『麗しい声』が心に伝わるときに彼を包む優しい気持ちは、クオンが知らない母の面影が抱かせる感情にも似て、かけがえのないもののような気がした。