第一章 「結界」
第一節 【衝突】

  メルカ国の王都にあるフェンレード魔術教学院に転入して数ヶ月しか経たない八学年生の青年クオン・ファーラントは、放課後になるといつものように学院内の探索を始めた。丘を取り囲むように建つ古い校舎の迷宮をなんとか一通り見て歩き廻っていたので、今日は中庭に出る。朝からの晴天が続き、午後の授業中には『睡魔』が多くの学院生を虜にしたほどで、散策するには絶好の日和だった。
 城壁のような石造りの校舎に取り囲まれた中庭は、その中心に向かって三重の石垣の階段づつに盛り上がり、緑の芝に包まれた丘を作っている。石垣の端には、緑の木が低い垣根を巡らし、所々にメルカ国王都のシンボルとされる噴水が極彩色の花壇に囲まれて、陽光にきらめく水流を涼しげに踊らせていた。
 クオンは教室のある東の塔から中庭にでる。日差しはまだ強かったが、冷ややかな風が心地よく側らを吹きぬけてゆく。目の前に広がる中庭では数人の学院生が散策していた。級友の間では別名『恋人の庭』と呼ばれるぐらい有名で、当たり前のように学生同士のカップルが目につく。
 見慣れた同級生の顔もあれば、始めて見る顔もある。いくぶん頬を染めながらも、楽しげな笑顔に弾む下級生の男女が目の前を過ぎて行く。初々しい少女を無意識に目で追っていたクオンに、控えめに向けられた少女の視線は冷たく、場違いな陳入者を非難するかのように思える。いまだに恋人どころか、異性から好意を寄せられた記憶がない事が、妙に寂しく感じられた。
 ふと、気になる同級の少女の面影を思い浮かべて、恋人のように彼女と庭を散策する場面を想像した。それは、胸が高鳴る心地と甘い陶酔を呼び覚ましたものの、現実となる可能性が絶望的に低い妄想。学院一の美少女と名高いリアンナは魔道貴族の名門カルトライト家の令嬢で、にわか貴族のクオンとは格段に身分の差がある。しかも、クオンが気になるというだけで彼女が好意を抱いているとは限らない。
 それでも、リアンナはクオンが転入して来た当初からいつも優しい態度で接してくれた。本来、身分の差を考えれば口を交わすことさえ嫌がるだろう。彼女はクオンの知る限り、魔道貴族でありながら身分にこだわらない希少な人間の一人だった。
 リアンナの面影は、いつもの優しげな瞳から上品な意志のきらめきが失われ、どこかうつろで生気がない。明朗でなごやかに女友達と談笑する姿を遠めに見かける程度のクオンが初めて見る表情。空想にしてはあまりに生々しい姿に、妄想でない現実のリアンナが目の前にいるのだと気づくのにしばらく時を数える。
リアンナの瞳が思わず立ち止まるクオンを認めて見開く。期待した微笑みに満ちた上品な挨拶はなく、まるで逃げ出したいかのように色白の面差しが伏せられた。その様子は他の高貴な魔道貴族がクオンを無視するような冷たいものではなく、彼に見せたくは無い何かを恥らう姿にも見える。それが何の為のものか推測する間もなく、彼女の傍らに必要以上に寄り添う人影が目に入った。
 メルカ王国の王族のきらびやかな法衣を身にまとい、薄い唇にいつも冷たい微笑を浮かべた同学年のライエル・ランローズという青年。決して醜悪な容貌ではないが、その目に宿る冷酷な輝きが彼のヒステリックな性格を物語る。密やかな噂では王子の特権を乱用して口外するのも憚れるような悪事の限りを尽くしているという。まだ級友とも慣れないクオンだったが、彼にだけは明確な嫌悪を感じていた。
 ライエルがあからさまにリアンナの細い腰を抱き寄せ、クオンに笑いかける。二人の仲の親密さを見せ付けるような行為に、リアンナは抗う様子も見せずにただ顔を伏せている。クオンはいつもと様子が違うリアンナに、ライエルに何かをされたのだと直感した。
 「この神聖なる魔道貴族の憩いの場に、なんとも不釣合いなゴミがあるものだ。」
 神経質に青白く節くれだった手を振り払い、尖った鼻先を嫌悪に歪める。ライエルはリアンナに語りかけるふりをして、クオンを挑発していた。弱気なリアンナの瞳が恐る恐るクオンを窺う。何かに打ちのめされたかのように青ざめた表情が彼女の苦悩の深さを物語るものの、クオンにはそれが何を意味するのか読み取ることは出来なかった。
 「ファーラント君、お願い。何処かへ逃げて…。」
 囁きにも似たか細い声がクオンにかろうじて届いた。形の良い唇がかすかに震えている。リアンナは彼の身を案じて、無理に言葉を押し出したかのようだ。確かに、このままライエルの言葉を無視して立ち去れば、無意味ないざこざは免れる。陰険の塊みたいな彼が何の悪巧みもなく人に絡むとは考えにくい。おそらくクオンを挑発して喧嘩をするきっかけを作りたがっている。いざ喧嘩がはじまればクオンを殺害する方法はいくらでもあるし、第一王子の権力をもってすれば、護身のための殺人だって合法化されるだろう。
 返事もなくただ立ち尽くして二人を見据えるクオンに、なおも声を掛けようとするリアンナ。しかしライエルが彼女の白い頬に爪をたて、顔を自分の方にねじ向けた。苦痛に眉間を歪ませて喘ぐ紅い唇を、乱暴に薄い唇が蹂躙する。恐怖に見開かれた蒼い瞳が中を舞い、反射的に抵抗しかけた体から力が抜ける。一筋の涙が優美な顎まで落ちる頃、ライエルの筋だった手はリアンナの頬に紅い筋をつけて離れていった。
 「ライエル!!」
 自分でも驚くほどの怒号が口を突いて出る。彼の思うつぼだと分かってはいたものの、リアンナの涙を見た瞬間にクオンの理性は激情に支配され、左手がいつの間にかライエルの胸倉を掴んでいた。
 いくつかの人影がクオンの周囲に集まりつつあるのを感じる。ライエルの護衛たちが主人の危険を取り除くために動きだしたのだろう。
 「身の程も知らず、高貴な者に楯突くのは下賎で野蛮な証拠だな。」
 冷酷な笑みが狡猾な表情に浮かぶ。何かの合図で、クオンは彼の護衛達に取り押さえられなかった。不吉な悪寒がクオンの背筋を走る。ライエルが護衛を制したということは、クオンをこの程度の罪で咎めるつもりがないことを意味した。彼は、はじめからクオンを抹殺する気でいるのかもしれない。空かせていた右手が自然と腰に帯びた剣に伸びる。
 「貴様、リアンナに何をした?」
 護衛の気配に殺気が立つ。クオンの手が剣の柄を握ったからだろう。ライエルがそれに気づいたかどうか。怯えの様子すら微塵もなく、苦笑を顔に貼り付けたまま悪意に満ちた視線を返していた。
 「淑女に不本意なことを強要するのは趣味ではない。リアンナとはお互いに望んで関係を持ったのだ。まあ、彼女の御両親の切実な希望でこのような形になったのだがね。」
 宮廷流のわざとらしい発音が癪にさわる。言葉を返せば傷つくのはリアンナだと分かっていたが、クオンはその問いをぶつけずにはいられなかった。
 「そうか、リアンナの両親を脅して関係を強要したんだな?!」
 ライエルの腕の中で彼女は身じろぎし、繊細な手が表情を覆う。かすかに手の奥から嗚咽が聞こえる。何故リアンナはそれほどまでにうろたえるのだろうとクオンは気になった。
 「下賎な者は表現まで稚拙なのだな。まあ、いずれにしろリアンナとは昨日の晩に結ばれたよ。彼女は初めてだったからね、泣き叫んで大変だった。縛り付けて、友人たちにも手伝ってもらって、やっと思いはとげたけれどもね。」
 リアンナはその言葉に崩れ落ち、声を上げて号泣しはじめた。胸倉の法衣を握るクオンの手に血管が浮かび上がる。護衛たちの殺気が肌に刺さるぐらい強くなっていた。ライエルの口調は妙に淡々としていたが、その金色の目に淀むものは憎悪のようだった。
 「彼女がその間ずっと口にしていたのは…君の名だよ、クオン・ファーラント君。」
 リアンナの絶叫と、衛兵の怒号、おそらくはライエルの悲鳴。雑多な音がクオンの周囲を駆け巡っていた。自分がいつ、剣を抜いてしまったのかよく分からない。ただ、私情に流されて剣を抜くべからずと教わっている剣術の掟を破ってしまった事で、破門になるだろう事がひどく心残りだった。ライエルの衛兵は三人で、いずれも一流の魔道剣士と聞く。剣士としてだけならクランスファード師範の道場で天才的な技量を認められたクオンにも負けない自信がある。学院創立以来ここを守ってきた『アルマイックの結界』は彼にとって都合が良い事に、魔術を打ち消す力を発揮して魔法剣士達の卓越した攻撃魔術も封じてくれる。魔術が思うように使えないクオンにとって、それは自分が殺されない可能性を示していた。
 ライエルは突き飛ばされ、無様な格好で芝の上に転がる。怒号とともに魔法剣士の体格のいい方が、正確にクオンの心臓を狙って一撃を放つ。もし、彼の剣士としての腕前がもう少し未熟だったら確実に貫かれていただろう速さと力を秘めた一撃だった。
 クオンが身をひるがえして剣を避けるのと同時に、もう一人の魔法剣士は倒れたライエルとの間に入り込む。一分の隙もない連携。王国軍の近衛隊でも生え抜きの兵士に違いない。クオンは背筋に冷たい汗が流れるのを感じる。遮蔽物の少ないこの場所で、技量の高い剣士を三人相手にして勝つ見込みがあるのだろうか。
 悪い予想は的中し、三人目の痩せて長身の剣士はクオンが避ける方向に立ち塞がり幅広の剣を振り下ろす。青い制服の法衣が踊るように舞う陰にライエルに取りすがり泣き叫びながら哀願するリアンナの悲壮な姿が見えた。
 「お願い、彼を殺さないで!」
 ライエルはしがみつく白い手を邪険に振り払い、青ざめた頬に容赦のない平手打ちを浴びせる。崩れ落ちたリアンナは頬を抑え、涙に濡れた瞳を憎悪に染めてなお哀願を続けた。
 「わたしに出きる事ならなんでもするから、お願い…」
 目の前の剣が、視線の片隅にとらえたその姿を、気にし続けるゆとりをクオンから奪う。技が高度であるほど剣術の定石に近く、予測がつく。不意を突かれれば避けようのない攻撃をしのぐ事も彼には可能だった。
 翻った青い法衣の裾が剣に貫かれて、切り裂かれる。リアンナの視線にはクオンが刺されたように見えた。悲鳴が、中庭に響く。近くの学院生達はすでにこの騒ぎに気づいていたが、ライエルの姿を認めて目を塞ぐ。国王の権力に逆らってまで平凡な学生のクオンやリアンナを助ける者が居る筈もない。助けを求めて辺りを見回すリアンナは冷たい視線に見つめ返されて、うなだれ泣きじゃくる事しかできなかった。
 クオンは、法衣を裂いて宙を舞う剣を払いざまに、長身の剣士の胴体を薙ぐ。鈍い衝撃が手に伝わり、決して軽くはない剣士が弾き飛ぶ。
 「!!」
 他の剣士達が息をのむ間に、間合いを取り構える。息を整えながらリアンナの危険を考える。ライエルが殺したがっているのは自分だから手出しはしないだろうが、哀願する彼女の態度によっては殺害される可能性があるかも知れない。いずれにしても、彼がこの平坦な場所であと二人の剣士と戦い続ければ不利な状況になるだろう。中庭の丘の上に誘い出し、反対側に逃げ込むのが最良の策に思えた。
 「面白い剣技を使うな、小僧!」
 傍らに倒れた仲間を一瞥し、憎憎しげに無骨な顔を歪めたのは体格のいい筋肉質の剣士だ。警護隊の隊長なのだろうか。よく観ると風格があるような風貌にも思える。王国軍でも生え抜きの部下が、いまだ十六歳の青年に倒されたのでは面目があろう筈もない。クオンは相手の底知れない闘士に火を点けてしまったことに気づいた。
 「黒曜の呪石で造られし刃…、それは『漆黒の剣』か。魔道貴族の卵が魔力も持たない者の伝説の武器を使うとは世も末だな。魔力を跳ね返す黒曜の呪石に魔力を纏わせて力以上の破壊力を持たせるとはな、わしとした事が一杯食わされたわ。」
 自分でも理解していない技の解説を敵から聞かされる屈辱にクオンは身体が強張るのを止めようが無い。まして相手はさっきの一撃の交戦だけで、彼の技を見切っている。技術だけではなく、幾多の実戦経験を積み重ねてこその眼力。それは数多くの戦いで死ななかった程に強敵だということを物語る。
 「珍しい技を見せてもらった礼に、いい事を教えてやろう。この学院の結界は魔術を使えなくすると言われているが、それは魔術の位ももたない生徒達に限ってのことだ。魔術師には地、象、天の三つの位があるが、少なくとも象位以上の魔術師なら結界内でも魔術を使えるのだよ。まあ威力は半減するかも知れないがね。」
 ライエルの前に立ちはだかる魔法剣士は、仲間の意味ありげな目配せを受けて腰に付いた革のポケットから『魔陣片』と呼ばれる細い三角形の薄い石版の束を取り出す。魔方陣結界を作り出す個人用魔術用具で、敵の魔術からある程度身を守るとともに、魔術の元になる精気を補給する役割も果たす。彼は無造作に九枚の薄い板状の『魔陣片』を頭上に投げ上げた。自然では決して落ちようのない場所、魔法剣士の足元をきれいな円状に囲む位置に的確に鋭角な先端を突き立ててゆく。
 クオンは目の前が暗くなる気分で魔法剣士が魔術を使う前に行う魔法陣の構築を見つめていた。学院の授業でも習い、自分でも出きる事だったが、実戦で見るのは初めてだった。魔法剣士は一部の隙もなく必要最小限度の手馴れた動作だけで構築を終える。足元には橙色に光る九つの魔神の符号で形作られた複雑な魔法陣が浮かび上がった。
 魔力で輝きを与えられた魔法陣の線から淡い輝きが立ち上り、泣きはらした瞼の奥の蒼い瞳で必死にクオンを見つめるリアンナを揺らめかせる。死が手の届く距離で蠢く感覚に立ちすくむ。魔術を使えないクオンにとって魔術を使える魔法剣士を相手にすることは、生き残る可能性が無くなったに等しい。攻撃魔術に対して剣一振りだけで立ち向かうのは、素手で猛獣を相手にするようなものだ。手の届かないと諦めていたリアンナの好意を知った時に命を奪われる無念さに、クオンは絶叫を放ち詠唱を始めようとする魔法剣士めがけて突進していった。
 クオンの行動を予測していたかのように、筋肉質の魔法剣士が目の前に鋭い剣戟を繰り出す。あらん限りの魔力を『漆黒の剣』に込め、剣も折れよと渾身の一撃で剣を払う。魔法剣士の剣は弾き飛び、粉々に砕け散る。爆風にもにた魔力の風が重量の有るがっしりとした体躯を宙に舞い上げた。
 リアンナの叫びや、ライエルの怒号、剣士の唸りが満ちる中庭の喧騒が遠のいてゆく。クオンは魔方陣の中心に立ち尽くす魔法剣士だけに意識を集中していった。すでに、手は印を結び魔術の詠唱が始められている。彼がどんな魔術でクオンを死の国に送り届けようとしているのか興味が湧いたが、すぐに打ち消す。どんな魔術攻撃だろうと術が完成してしまえば逃れる手段は無い。なんとしても、詠唱が終わる前に打ち倒さなければ未来はなかった。
 ふと、クオンは傍らに無視できない存在が近づきつつあるのを感じる。ライエルや魔法剣士の物ではない気配。もしかしたらライエルの護衛は魔法剣士だけではなかったのだろうか。死の瀬戸際で決死の闘志に燃えるクオンの気力さえ怯えさせるほどの魔力。魔術師としか考えられないが、魔力から推察されるその威力は想像したくない。その魔術師に比べたら魔法剣士の魔術など児戯にも等しいのではないか。そう思わせるほどの力を秘めていた。突進し続けるクオンに、暗い絶望が喉元まで込み上がった。もしそれが、ライエル配下の魔術師のものなら万が一にも助かる見込みはない。
 「神知聖界の長き戦いに散りし幾千の闘志よ…」
 魔法剣士の詠唱が高らかに響き渡る。橙色の魔方陣から幾つもの光の粒が舞い上がり、呪術剣の先に集まってゆく。密集した光は次第に数本の鋭い針の形を現した。地界神格神聖魔術の『鋼針』。人の腕ほどの長さを持つ鋼の針を飛ばして敵を貫く攻撃魔術。一、二本程度なら避けることも可能だが、五本となると難しい。しかもただ飛ぶだけでなく、術者の意思で軌道を変えることまでが可能だ。クオンは魔法剣士が彼の間合いに入るまで詠唱が終わらない事を祈るしかなかった。
 「…何人にも屈すること無き鋼の針となりて我が敵を貫け!」
 願いもむなしく詠唱は終わり、七本もの長く鋭い針が血に飢えた獣のようにクオンめがけて殺到する。
 「やめてぇー!」
 リアンナの恐怖の絶叫が耳朶を打つ。誰が見てもクオンの身体は幾本もの太い針に串刺しにされ、血まみれの骸へと切り裂かれるのは明らかだ。目の前に迫る冷たい先端。至近距離で放たれた『鋼針』は打ち出された勢いを殺されることなく殺到した。頭、胸、腹、両足の急所だけを狙って、それぞれの針がクオンの逃げようとする方向を探している。『呪術甲殻』と呼ばれる彼の最後の砦、魔力を持つ者が誰しも身に纏う魔力の壁だけが命を救うかも知れない。しかし、攻撃魔術から身を守れるほどに頑丈なものを持つのは最高位クラスの魔術師だけだ。彼も同学年の者と比べれば秀でた魔力を持ってはいたが、目の前の針を消し去るほどのものでないことくらいは知っている。
 差し迫った『死』の恐怖はクオンのしなやかな若い体を金縛りにしていた。不思議と恐怖に混乱することはなく、シンと冷めた意識の中に今までの温かな記憶が現れては消えてゆく。これから、自分を慕ってくれたリアンナを守ることが出来なくなることだけが心残りだった。
 牙を剥いた猛獣のように激しく襲い掛かる鋼の針は、その先端を荒々しく『呪術甲殻』へと突きたてる。クオンの魔力が火花を散らせて激しく抵抗した。七本の針はそれぞれの場所で思うように進めない苛立ちを鋭い先端に込め、クオンの最後の砦をさらに突き破ろうとする。
 思ったほどに簡単に貫くことができない事に魔法剣士は目を剥く。仮にも象位の位を持つ自分の魔術が十六も数えない青年の魔力に推しとどめられているのは屈辱以上の驚きだった。鋼の針は、抵抗を突き破る為の力を魔術師の精気と引換えに得る。すさまじい力の放出は、それに見合った精気の損失で贖われ魔法剣士の顔を土気色に染めてゆく。クオンの呪術甲殻が放つ火花が揺らめきはじめる。魔法剣士は脂汗が浮いた顔を醜く歪めて笑みをこぼす。もうすぐ魔力の壁は破れ、自分の放った針がもろい肉体をズタズタに引き裂くだろう。
 意外と簡単にその時は訪れた。クオンは呪術甲殻がもう保てないことに気づく。不思議と、強力な攻撃魔術を受けながら自分がここまで抵抗できたことに誇らしさを感じる。もう助からないと覚悟した時、クオンの目は美しい目を覆って地面にうずくまるリアンナの姿を追っていた。
 心のなかでさよならを言いかけた瞬間、クオンの身体は突然何かに強く弾き飛ばされた。一瞬、周りの空間ごと裏返しにされたような気持ちの悪い感覚が襲い、平衡感覚が無くなる。次の瞬間には柴のやわらかな地面が目の前に現れ、受身をとる暇もなく頭から打ち付けられた。目に火花が見え、意識が暗転するわずかの間に、若い女性の驚きの声が頭の中に響く。
(…この、『隠されし結界』には象位の魔術師でも入れないのに…。)
 天国で聞こえる声にしてはあまりに世俗的だし、現実の声となると壮絶な戦いの場にしては緊張感が欠けている。朦朧とする頭の片隅がわずかに反応したが、その先を考える前に意識は闇の中に吸い込まれていった。