2004.09.26

のと鉄道漫遊(其の四)   路線図を表示

 綾小路さんはタクシーが嫌いである。 せっかくの名駅舎も駅前にタクシーがたむろし、興ざめとなったことが何度あったことか。 駅は日常の生活に密着した場所なので、タクシーや乗客があってこそ生きた写真が撮れる・・・。 なんて考えもあるかもしれない。 しかし、名駅舎は邪魔者なしで撮りたいものである。
 のと鉄道の漫遊も今日が最後となった。 これから午前中一杯をかけ、のと鉄道の残るすべての駅に立寄るつもりでいた。 そのためにはタクシーを利用しなくてはならない。 和倉温泉駅を撮影して、田鶴浜駅までの3.5キロをタクシーで行けば、のと鉄道の全駅の撮影が叶いそうだった。 そのために和倉温泉駅に到着したのは6時30分だった。 和倉温泉駅はコンクリートの駅舎で、JR七尾線の終着駅ともなっている。(左) 駅入口の脇には七尾駅にあった大きな山車の車輪のようなものも展示されていた。 ホームは相対式で、列車交換や金沢からの特急列車の折返しの停車が行われている。(右)


 和倉温泉駅の撮影は20分弱で切上げ、タクシーに乗ることにした。 すぐに乗車することが出来れば7時前には田鶴浜駅に到着することができるだろう。 そうすれば7時15分に和倉温泉を発車する列車が田鶴浜発7時20分で、20分以上の撮影時間が取れるだろう。 ・・・そう考えていた。 しかし、綾小路さんには一抹の不安があった。 先ほど駅舎の撮影をしたときや、駅にたどりつくまでに、ただの一台もタクシーにお目にかかっていなかったのである。 それでも、7時近くになれば何台か来るだろうと楽観していた。 そして駅前に出てみたものの、いまだタクシーの姿はなかった。 ここで綾小路さん、少しあせりだす。 駅前の国道にでて見渡しても、いっこうに来る気配がない。 時間は今7時を回った。 今すぐ乗車できれば、まだ10分ぐらいは撮影時間が取れる。 早く、早く来てくれ。 ・・・、・・・、・・・。 こんな時に限ってタクシーが来ない! ああ、タイムアップ! 綾小路さんは、のと鉄道の全駅撮影を諦め、再びホームに向かった。



 ホームで下り列車を待っていると、発車時刻の3分ほど前に、穴水駅6時36分発の上り列車が先にやって来た。 これはラッキー。 このまま綾小路さん乗車予定の下り列車をここで待ち、列車交換となるようだ。 そしてその目論見通りの列車交換風景が撮影できた。 のと鉄道の全駅撮影は幻となったが、この光景を撮影でき、少しは溜飲が下がった。


 やむなく7時15分発の下り列車に乗車した綾小路さんは、田鶴浜駅を断腸の思いで通過して、まずは能登中島駅で下車した。 ここには階段の上に古そうな木造駅舎が建っていた。(左) それにしても何かのキャンペーンの幟が邪魔だ。 ホームは2面3線であるが駅舎から奥の線路は使われていないようだった。 駅舎脇には切り欠きホームもあり、線路の付替え作業用の車両が放置されてもいた。(右)


 綾小路さんは次に7時54分発の下り列車に乗車、能登鹿島駅で下車した。 ここには屋根に風見鶏が乗った、メルヘンチックな待合室が建っていた。(左) 見えている看板には『能登さくら駅』と書かれている。 それはこの相対式ホームの脇には桜並木が続いていて、春には列車が桜のトンネルを通過するようだと言うことに由来するらしい。(右) 桜には季節外れだが、ここは七尾線で、能登線廃線後も残る。 何年先になるかは分からないが、再訪のチャンスは残っている。


 能登鹿島駅から乗車した下り列車は、一昨日に乗車したダイヤと同じものだった。 当然、穴水では車両の切離しと接続が行われるものと思ったが、後部車両を切離しただけだった。 そして、あの『列車の前部に立たないで下さい。』とのボードも架からなかった。 一体あの時は何だったのだろう。 以後は結局一度もお目にかからなかったのである。 しかしこれ幸い。 今日はすでに廃止された七尾線の分岐点をしっかりと撮影できそうだった。 8時52分に発車した下り列車は並行した線路の右側に移動しだした。(左) まるで複線のようだが、右側の線路が能登線で、左側が七尾線の線路であったという。 やがて左側の線路の上には車止めが設置され、ご丁寧に枕木まで置かれている。(右)


 車止めの先の線路は撤去されていて、すぐに小さな河川に架かったコンクリート橋を渡った。(左) 線路の撤去された路線跡は尚も続いており、広い築堤上には能登線の線路のみが敷かれていた。(右)


 そしていよいよ廃止された七尾線の路線跡が見えてきた。 先に敷設された輪島までの七尾線はまっすぐに敷設され、後から敷設された能登線がカーブして分岐していくようだ。 能登線との並走区間は除草されていたようで、分岐した先は草に埋もれている。



 能登線最初の途中駅である中居駅を過ぎると、右手の海上にやぐらが見えた。 『ぼら待ちやぐら』である。 海底に張ったフクロ網をやぐらの上から見張り、『ぼら』の群れが網に入るのを見届けると網をたぐり寄せて取る、日本最古の漁法らしい。 もちろん現在はこの手法は行われておらず、これはオブジェ。 この付近に2箇所あるとは聞いていたが、列車の車上から見えるとは思わなかった。


 列車は9時07分に鹿波駅に到着し、綾小路さんはここで下車した。 片面ホームに待合室と、能登線のスタンダード駅である。(左) 『鹿波』という駅名ではあるが、ここは完全な山間駅で、駅周辺は無人の様相を呈している。 その中でホームの奥には、大きくボロイ小屋が建っている。(右) この不気味な建物は保線小屋だったという話もあるが、本当だろうか?


 鹿波駅からは9時43分発の上り列車に乗車し、ひとつ隣の比良駅で下車した。 相対式ホームの上り側には、待合室と大きな上屋が置かれている。(左) この上りホームの奥には使われなくなって久しい引込線があり、その奥にはブロック積みの保線小屋が建っていた。(右)



 比良駅から能登線で廃止となる駅中、最後の到達駅となる中居駅までは徒歩で行くことにしていた。 駅間2.3キロの内、2.0キロほどを歩いたところだっただろうか。 休憩施設が国道脇にあり、先ほどの『ぼら待ちやぐら』が立っていた。 やぐら上には見張り役の人形まで再現され、ちょっとドキッとした。 しかし、たまたま徒歩で移動する計画の区間で『ぼら待ちやぐら』を発見できるとはラッキーだった。


 そこからは程なくして、中居駅に到着した。 最期まで能登線のスタンダード、片面ホームに待合室の駅だった。(左) 待合室内には『穴水町花いっぱいコンクール』なる賞状が飾られていた。(右)
 見てのとおりで、ここも10分間も撮影すれば充分なことが分かるだろう。 先ほど比良駅に到着したのが9時47分で、そこから徒歩2.3キロと比良駅、中居駅、ぼら待ちやぐらの撮影をしても、まだ10時45分すぎだった。 そして、ここに能登線の上り列車が次に来るのは11時44分だった。 まだ1時間弱もあった。 隣の穴水駅までは5.3キロあるので徒歩では行けないが、ここをタクシーで移動できれば残る田鶴浜駅にも立寄れるかもしれない。 そう考えて、駅前の国道で待った。 しかしここも30分以上待ったが、ただの一台も通らない。 やはりだめか。 どうも綾小路さんはタクシーと相性が悪いようである。



 綾小路さんはやむなく中居駅11時44分発の上り列車に乗車した。 列車は例の七尾線の廃止区間との合流点を前にして、小さな河川を渡った。 ここで河川の上手を見ると、いまだ七尾線の鉄橋が残っていた。


 列車は11時50分に穴水駅に到着した。 これで綾小路さんの一生に一度であろう、能登線の漫遊は終わった。 おそらくこの先に二度と乗車することはないだろう。 穴水駅のホームは2面3線で、さらに能登線専用の切欠きの0番ホームの配置となっている。(左) 奥には大きな車庫も見えている。 島式ホームの奥というより駅舎正面あたりだろうか、先ほど見たぼら待ちやぐらのオブジェが置かれていた。(右) 駅名標の右側にはもちろん『なかい』と書かれているが、左側に書かれている『のとかしま』の文字の半分の大きさほどしかない。 ここには七尾線の『のとみい』と書かれた文字が消された跡が読み取れた。


 島式ホーム奥の車庫前には何両もの車両が待機していた。(左) ぱっと見は3両のみだが、ホーム脇の右側と中間に待機するのは2両編成で、車庫のなかにももう1両が見えている。 のと鉄道の七尾線だけでは穴水−和倉温泉間の28.0キロ、七尾−和倉温泉間を加えても33.1キロの路線である。 このうちの何両かは不要になり、どこか他の鉄道路線に売却される運命かもしれない。 ここでようやく改札をでた。 駅舎はコンクリートの大きなものである。(右) 能登線が廃止されると穴水駅は終着駅となる。


 ここから七尾線の七尾方面行きの列車は13時06分発だった。 まだ50分以上の時間があった。 ここで綾小路さんは先ほどの能登線と七尾線の分岐点に行くことにした。 コンクリート橋のすぐ先まで来ると、踏切があった。(左) これは輪島方面から穴水駅方面を望んだ一枚である。 奥が能登線で手前には廃止された七尾線の線路が残されている。 やがてここには撤去に困難な踏切部の線路が2本並ぶことになるのだろう。 そして輪島方面を見るとまさしく一直線に路線跡は伸びている。(右) もちろんここから輪島までの区間も乗車したかったが、それはもう叶わない。 それならこの先の鉄橋まで、さらには輪島までの路線も探索したかったが残された時間はあまりにも少なかった。


 綾小路さんは穴水駅から七尾駅まで移動して、14時16分発(5分ほど遅れて発車)の特急『しらさぎ12号』に乗車した。 一息つくと七尾駅で購入した笹寿司¥500をいただいた。 この辺りの名物なのだろうか。 鯛と鱒の押し寿司のようだ。


 JRの七尾線から北陸本線に入り、下車予定の金沢駅が近くなってきた。 ここで車窓から北陸新幹線の高架工事が見えた。 去り行く能登線に代わる訳ではないが、新たな路線の誕生も喜ぶべきか。 高速鉄道も必要だが、やはり綾小路さんは地域に根ざしたローカル線が好きである。


 金沢駅で各駅停車に乗換え、下車したのは加賀笠間駅だった。 古そうな木造駅舎を素通りする訳にはいかなかった。(左) ホームは相対式で・・・、いや元は2面3線で、ホーム左側の線路は撤去されたようだ。(右) 跨線橋付近の線路が撤去されたホーム脇には、東口の駅舎が新たに建てられている。



 撮影を終了して一息ついていると、通過列車がやってきそうだった。 この区間は特急列車の運行も多く、貨物列車も走っている。 まあ、撮影するまでもないだろう・・・。 そう思っていたが何か雰囲気が違った。 ここで綾小路さんの頭には、ある列車の事が頭に浮かんだ。 あれっ、ひょっとして・・・。 その列車はカメラを構えた時にはすでに綾小路さんの前を通りすぎていた。 大阪発12時00分で、翌日の9時07分に札幌着となる寝台特急『トワイライトエクスプレス』だった。


 加賀笠間駅では少し時間が余ったので、金沢駅で購入した駅弁を撮影した。 これを今食べる時間はないが、このまま持ち歩いていては形がくずれる可能性が高いので、ここで撮影することにした。 駅弁は百万石弁当¥900で幕の内弁当である。 これは結局、羽田空港の乗継時にいただいた。


 撮影終了、この後は小松駅から小松空港に・・・。 その予定だったが、綾小路さんの頭の片隅には引っかかるものがあった。 それは粟津駅だった。 実は中居駅でタクシーが捕まれば田鶴浜駅ではなく、早めに移動して、そこを撮影する頭もあった。 ええい、時間は少ないが行け! という訳で、小松駅をやり過ごして粟津駅に降り立った。 ところが、これは大正解だった。 もちろん堂々とした木造駅舎はそれだけで満足いくものだった。(左) しかし予期していなかったのが構内の配置だった。 ホームは2面4線でこれだけでも多いが、その他にも幾多の線路が敷かれている。(右) 右側ホームのさらに右手となる、駅舎の脇には引込線が2線敷かれ、車止めが見える。 左側ホームのさらに左手には線路が2線見える。 そして写真の一番左側にも架線柱が見えているのを見落としてはいけない。 この下にも引込線が延びているのが想像できるだろうか。



 わずか11分間の粟津駅滞在だったが収穫は多かった。 そこから小松駅へ移動した後に慌しく空港行きのバスに乗り込んだ。 どうやらぎりぎりで帰りの飛行機に間に合いそうだった。 信号待ちをしたバスの中からはとある中華料理店が見えた。 その建物は駅舎のような風貌をしていた。



 のと鉄道、能登線は残念ながら、2004年の5月に決定した通り、2005年の3月31日限りで廃止となった。 七尾線の七尾−穴水間は存続するものの、これで奥能登から鉄道が消えたことになる。 今後はバスに転換されて、鉄道は永久に走ることはないのだろう。 しかし綾小路さんは幸いにも廃止前に漫遊することができた。 この充実した4日間のことは一生忘れられないものとなるだろう。


1932年 8月 旧国鉄・七尾線が穴水まで開通
1935年 7月 七尾線が輪島まで開通
1964年 9月 能登線の蛸島―穴水間が全線開通
1968年 9月 能登線に廃止勧告
1981年11月 能登線の貨物列車廃止
1986年 3月 能登線の廃止、第三セクター化決定
1987年 4月 国鉄分割民営化。第三セクター会社の『のと鉄道』設立
1988年 3月 『のと鉄道』がJRから鉄道施設を継承し、能登線のと穴水(現在の穴水)−蛸島間開業
1991年 9月 『のと鉄道』七尾線の七尾−輪島間開業
2001年 3月 七尾線の穴水−輪島間廃止
2005年 3月 穴水−蛸島間廃止


トップ アイコン
トップ
アイコン
鉄道