2003.03.27-03.28
宗谷本線漫遊(音威子府−稚内)
音威子府駅で列車は5分間停車して13時55分の発車となった。
発車してすぐ右側に築堤が分岐していく。天北線の廃線跡だ。
短いガーダー橋も残っていた。
天北線築堤 (右)は翌日撮影
雄信内駅で上り特急を待つため列車は5分程度停車した。
宗谷本線には珍しく古い駅である。
雄信内駅
名寄駅から起算すると2時間余り、列車は安牛駅に到着して綾小路さんはここで下車した。
客車タイプの待合室だった。宗谷本線には12の無人駅が解体されこのタイプの待合室が設置されたと言う。
安牛駅
安牛駅からは徒歩で1.9キロ、南幌延駅を目指した。
雨も降っていて思っていたより大変であった。
ここは待合室と言うより倉庫だな、まるで。
ホームは道を挟んだ向う側に設置されていた。
南幌延駅
徒歩でさらに上幌延駅に行こうとも思っていたがここまで時間がかかり雨もあったので断念。
16時20分発の列車で歌内駅へと行ったのである。
翌日も何度となく目撃したが客車タイプの待合室は取り壊された駅舎の基礎の上に設置されていた。
歌内駅
ここで本日の予定は終了となった。
17時07分発の列車で稚内へと向かった綾小路さんであった。
翌日になった。今朝も早い!
列車本数が少ないので乗車できるダイアがあれば朝早くてもしかたないのである。
昨日宿泊したホテルはフェリー乗り場の近くだったので10分ぐらい歩いて稚内駅に到着した。
まだ6時30分にもなっていないのに駅そばが開いていたので早速朝食となった。
稚内駅そば 天ぷらそば ¥350
今日はまず勇知駅を探索、次に抜海駅を探索して一旦稚内駅に戻ってくる。
その時間帯には辺りは明るくなりいい写真が撮れるだろう。
その予定で6時38分発の始発列車でまずは勇知駅へ向かった。
稚内駅を発車した列車は南稚内駅を過ぎしばらくは市街地を走っていたがそのうち宗谷丘陵地帯に入った。
しばらく走り続けてようやく右手に日本海が見えたのもつかの間。再び海岸線からは遠ざかって行く。
すぐに抜海駅に到着するが海岸からは少し離れているみたいである。
とすると宗谷本線で日本海が見えるのは先ほどのわずかの区間だけと言う事である。
綾小路さんが6年ほど前に夜行列車で稚内に行ったとき明け方に利尻、礼文島が見えるとの放送があった。
列車のスピードを落として島がよく見える粋なサービスがあったがこの区間だったのである。
抜海駅はこの後に勇知駅から折り返して探索する予定なのでここはやり過ごした。
列車はここから内陸部を進行して勇知駅に到着した。
時間がそんなにないのでさっそく探索開始。
カメラはと???
えっ、ない!そんなバカな。綾小路さん真っ青になる。
どこだー!一番怪しいのは駅そばか。そばを食べている時にカメラを棚の下に置いた。
そこでさっそく携帯電話で稚内駅に連絡した。しかし調べてもらったがないとの話し。
ではどこだ!あせる綾小路さん。じゃ電車の中しかない。先ほどまで乗車していた列車に忘れた可能性はある。
そこで列車と連絡を取ってもらう手はずを依頼して一旦携帯を切った。その列車が幌延駅に到着するまでには連絡が取れるだろう。
さて、どうする?綾小路さんの頭に最悪のシナリオがよぎる。もしカメラが戻らなかったらどうするか?
しかし正確に言えば最悪にはならないのであった。
なぜならデータは昨日の時点でメモリーカードがいっぱいになり差し替えていたからだ。今日のはさっき写したそばの写真だけだった。
データまで無くしたらいい年こいてても綾小路さんは泣いちゃうぞ!たとえ公衆の面前でも。
ともあれ盗まれていたらどうする。稚内でカメラを買うか?
量販店はないだろうから安いのは手に入らないだろう。それにこんな朝早くに開いてないだろうし。
中古の安いのでいいが店があるかどうか?あーどうする。
もしカメラが手に入らなかったらまっすぐ札幌に帰るか。早く着いていいじゃないか。へっへっへっ。
最終日だから不幸中の幸だ。
こんな時のためにやはり予備がいるな。
しかし予備を持っても荷物になるしそのために他の荷物を忘れるハメなるな。
いろんな考えが頭に浮かぶ。かなり混乱している。
しかしさっきの駅員はすこし頼りなさそうだったので一旦稚内駅に戻り自分の目と耳で確かめる事にした。
もし電車の中で見つかってもたぶん稚内駅に搬送可能だろう。
どっちにしろ稚内駅には戻る予定ではいたし。
そして7時15分発の列車に乗車して稚内駅へ向かったのである。
小心者の綾小路さんは気が気でない状態で車内を過ごした。
しかし南稚内駅では特急待ちとなる。こんな時に限って。
列車に乗っている人が置き引きに見える。だれか綾小路さんのカメラを盗んでないだろうな。
しかしこんなところで対抗列車待ちするなんてどういうダイアを組んでいるんだ。特急の出発を1分いや2分早めれば列車待ちはなくなるのに。
綾小路さんおこりっぽくなってきた。
そして列車が稚内駅に到着しようかというその時、列車にカメラがあったか否かの連絡が入った。
電話の向こうからは有りましたとの話があった。綾小路さんはその駅員のおっちゃんの声が天使の声に聞こえた。
すぐに窓口に駆け込み詳しく話を聞いた。
カメラはやはり乗車した列車に忘れたらしく今は幌延駅に有るとの事であった。
綾小路さんは稚内に向かう列車があるはずだからそれに乗せてくれませんかと依頼した。
駅員さんはさっそく幌延駅に連絡を取ってくれ手配は完了した。
ほっ、よかったーー!
まさに不幸中の幸。地獄に仏。
結局は勇知駅と抜海駅の探索が出来なくなっただけで済んだ。
9時02分に列車が到着、カメラは無事綾小路さんの手元に戻り稚内駅の写真が撮れた。
稚内駅 (左)日本最北の駅舎 (中)宗谷本線終端 (右)ホームの柱には札幌、東京など主要都市までの距離が記載されていた。
日本最北の駅である稚内駅。
ここまで鉄道が来るまで紆余曲折があった。
旭川から順次敷設されてきた鉄道は大正元年には音威子府までが開通した。
そこから稚内(現南稚内)まではまず浜頓別経由で敷設され後に天北線と改称された。
大正11年11月1日の事であった。
一方、大正11年11月8日に天塩南線として音威子府−誉平(現天塩中川)が開業した。
翌大正12年11月10日には誉平−問寒別間が開業。
そして天北線の稚内から天塩北線として大正13年6月25日に稚内−兜沼間が開業した。
大正14年7月20日に天塩南線問寒別−幌延間が開業。
翌大正15年9月25日に幌延−兜沼間が開業して音威子府−幌延−稚内間が全通して天塩線と改称。
昭和3年12月26日には稚内−稚内港(現稚内)間がようやく開業して翌々年に宗谷本線と改称された。
先に開通した天北線はやがて廃止され現在は稚内までは現宗谷本線のルートのみとなったのである。
綾小路さんは10時58分発の列車で稚内駅を後にした。
南稚内駅には4分で到着した。
今日は行き損ねた抜海駅へは11分かかった。
(左)南稚内駅 H14-10-29撮影 (中)抜海駅 車内より撮影 (右)抜海駅 H14-10-29撮影
抜海駅から9分の乗車で一度は立ち寄ったが探索出来なかった勇知駅に到着した。
そして次の兜沼駅には6分で到着した。
(左)勇知駅 (中)兜沼駅 (右)兜沼駅駅名標 徳満の表示は新しいここに芦川の文字があった。 全て車内より撮影
兜沼−徳満間には平成13年6月に廃止となった芦川駅があった。
車内から確認しようと試みたが分らなかった。
そして兜沼駅から9分で徳満駅に到着した。
(左、中)芦川駅跡 (右)徳満駅 全てH14-10-29撮影
次の豊富駅には6分で到着した。
豊富温泉は駅から少し離れた所にある。
続く下沼駅、南下沼駅は通過駅となった。
特に南下沼駅は通過列車が多い。
(左)豊富駅 (右)南下沼駅 共にH14-10-29撮影
豊富駅から13分で幌延駅に到着した。
ここでは列車待ちで6分ほどの停車となった。
先ほどのカメラの処理でお世話になったので駅員に一礼していそいで探索した。
列車は12時02分に幌延駅を出発したが上幌延、南幌延、安牛の3駅は通過した。
(左、中)幌延駅 (右)上幌延駅 車内より撮影
幌延駅から15分程度で雄信内駅に到着した。
ここではまた対抗する特急列車待ちとなった。
そして雄信内−糠南間にも平成13年6月に廃止となった上雄信内駅があった。
廃止後日が浅いが痕跡はほとんど残っていない。
そのため駅の跡地を特定するのが非常に困難である。
宗谷本線は海岸沿いに進む区間は僅かである。その代わりに天塩川沿いに敷設されている区間が長い。
だいたい名寄駅から幌延駅までは車窓には天塩川が見える。
その中でも特にこの付近は鉄道と天塩川が接近していて眺めは壮観である。
もし天塩川をテーマにした写真集があったなら宗谷本線からの景色が不可欠であると思う。
(左)上雄信内駅跡(稚内方面を望む) 線路の左側、中央の電柱あたりにあった。 (中、右)天塩川 全て車内より撮影
そして糠南駅は通過して、雄信内駅から8分で問寒別駅に到着した。
歌内駅も通過となり問寒別駅から14分で天塩中川駅に到着した。
この歌内−天塩中川間にも平成13年6月まで下中川駅が存在した。
ここも上雄信内駅同様に駅の痕跡がほとんど無く駅の跡地の特定は困難である。
(左)糠南駅 H14-10-30撮影 (中)問寒別駅 (右)下中川駅(稚内方面を望む)線路左側に存在した。 以上は車内より撮影
天塩中川−佐久間、この間には平成2年9月に廃止となった琴平駅があった。
天塩中川駅の次は8分で佐久駅に到着した。
(左)琴平駅跡(稚内方面を望む)踏切の向こう側、線路左側に存在した。(中)琴平駅跡(旭川方面を望む)線路右側。このあと筬島→天塩中川の移動時に撮影。 (右)佐久駅 佐久ふるさと伝承館と併設 H15-1-14撮影
佐久から筬島までも天塩川に接近する区間である。対岸の国道から望んでも川沿いの絶壁に敷設されているのが分る区間もある。
この間18キロ、この間にもかつて神路と言う駅が存在した。
この駅は”写真で見る北海道の鉄道”の上巻(北海道新聞社編)にも記載されておらず廃止年は今のところ分らない。
中川町史によると大正11年11月に開設。昭和26年には学校も出来たそうである。
昭和37年には神路大橋も出来たがその年の冬に落橋したとの話である。
現在、その橋が存在したら国道側から渡って駅や町の探索が可能なのだが今の所は困難である。
”昭和42年には鉄道官舎と駅だけになった。現在は官舎もなく駅だけが残り”とのくだりも記載されている。
この中川町史は昭和50年出版のものであるが写真に写った建物が駅であった可能性が高い。
(左)神路駅跡(稚内方面を望む)木の陰に建物が見える。(右)神路駅跡(旭川方面を望む)このあと筬島→天塩中川の移動時に撮影。
佐久駅から筬島駅までは19分かかった。
綾小路さんはここで下車した。
ここも客車タイプの待合室とホーム1面だけの駅である。
駅入口には何故か駅名標が建っている。
しかし駅を探索していると色々な事が分ってきた。
ホームの音威子府側に階段をコンクリートで埋めた様な跡があった。
とすると対抗するホームがあったのか。
線路の音威子府側を見ると一旦こちら側にカーブしてホームに入ってきている。
佐久側に出て行く所も向こう側にカーブして出て行っている。
そうか単線のこの不自然なカーブは昔は列車交換が出来た名残なのだ。
そうすると他の駅にも結構あった。
そしてトドメは先ほどの駅入口の駅名標である。現ホームにある駅名標は右側に佐久、左側に音威子府の表示である。
それがこの駅名標は逆なのである。撤去された対抗ホームに建っていたものと考えるとすべてが一致した。
筬島駅 (左)駅入口の駅名標 (中)待合室 (右)音威子府側の線路
音威子府駅を目前にして筬島駅からは一旦天塩中川駅に戻った。
天塩中川駅 (左)駅舎 (右)駅名標 左右の駅名共に書き換えられている。かつては”うたない”は”しもなかがわ”、”さく”は”ことひら”と表示されていた。
天塩中川駅から音威子府駅までは特急を利用した。
各駅停車を待っていては3時間後になり、それでは今日中に札幌に到着しないからであった。
音威子府駅には天北線を記念した展示がある。
その中で興味深いのは昭和30年代の音威子府駅構内の模型である。
もちろん天北線も分岐していて鉄道の要衝だったのである。
駅舎は木造(現在も木造ではあるが)の平屋、転車台に給水塔、レンガ造りの車庫等が構内に配置されていた。
綾小路さんは駅舎から一番奥のホームに立ちかつて鉄道施設があった空き地を見て思いにふけった。
今、この雪の下には何も残っていないのか?転車台の跡ぐらいはあるのか?
こんど雪解けの後に来て見ようと思った。
音威子府駅 (左)駅舎 (右)駅名標 この後の空き地に転車台、給水塔等の鉄道施設があった。
今回の漫遊は終了した。
16時25分、綾小路さんは各駅停車を乗継いで札幌へ帰ったのである。
至 新旭川 | ![]() |
音威子府 | ![]() |
筬島 | ![]() |
神路(廃止) | ![]() |
佐久 | ![]() |
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天塩中川 | ![]() |
下中川(廃止) | ![]() |
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糠南 | ![]() |
上雄信内(廃止) | ![]() |
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上幌延 | ![]() |
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