2004.03.14

留萌本線漫遊(深川−増毛)   路線図を表示

 白石駅でパーク&トレイン、6時13分発(注:ダイヤ改正で1分早まる)の函館本線各駅停車で旭川方面に向かう・・・。 恐ろしいぐらい毎週同じ行程であった。 これで3週間目になる。 先々週は滝川駅から根室本線へと乗換えた。 先週は深川駅から特急に乗換え、旭川駅から石北本線の漫遊だった。 そして、今週は深川駅から留萌本線の漫遊を計画したのである。 ところが、このまま各駅停車に乗車していれば、深川駅への到着時刻は8時34分だった。 そこから次に発車する留萌本線の列車はというと・・・。 ここで取出した物は2004年3月の道内時刻表、先週の失敗に懲りてさっそく購入したものである。 その時刻表によれば、次の列車は9時10分発のSLすずらん号だった。 おおちょうどいいではないか。 起点駅である深川駅をじっくり探索して、いざSLで留萌本線の漫遊へ・・・。 ちょっと待った、運転日注意とあるぞ。 なになに、5月29・30日および6月12・13日の運転ではないか。 なんだ、この日は運行していないのか。 その次に記載されている列車は9時11分発の増毛GWノロッコ1号であったが、もちろん5月1〜5日の運行である。 そしてこの日(というか平常時)に運行する次の列車は11時08分発だった。 うーん、それではお話にならない。 11時08分発の列車よりひと列車前、深川駅8時06分発の列車になんとしても乗車したいものである。 そのために綾小路さんが練った計画は途中7時23分に美唄駅で下車。 7時29分発のスーパーホワイトアロー1号に乗換え、深川駅には8時前に到着するものであった。 美唄−深川間の特急の自由席料金は乗車券を含めると1500円だった。 それ以外の行程に利用する、青春18切符の1日当たりの料金が2300円なのを考えると少々高かった。 しかし2時間半も時間を無駄にすることを考えると、答えはおのずと決まったのである。

 首尾よく深川駅に到着したが、この行程では乗換時間が9分間しかなかった。 いや、岩見沢駅より南の駅からの出発では最初に接続する列車だったようで、これが精一杯の計画だった。 改札を抜けると雪もかなり降っていたが贅沢もいっていられない。 留萌本線分岐のジャンクション駅にふさわしく、立派なコンクリート造りの駅舎だった。(左) さかのぼれば平成7年までは廃線となった深名線も分岐していたのである。 駅舎の撮影を終え、あわただしくホームに戻るとキハ54 529が待っていた。(右) 実はスーパーホワイトアロー1号が到着した時、すでに入線していたようだった。 ところがこの列車が留萌本線だとは思わなかったのだ。 列車の奥に写っている駅舎から最奥のホームが、留萌本線が発着する本来のホームだからである。



 そしてこのときは時間が足らず、留萌本線の発着ホームには行けなかった。 しかし、帰り際の乗換時に留萌本線のホームに立つ0キロポストを発見した。 この0キロポストはホームの奥側に設置されていた。 ホームは一見すると片面ホームのように見えるが、本来は島式ホームだった。 0キロポストの下にはホームの片側が雪に埋もれていて、かつては深名線の列車が発着していたらしい。



 8時06分にキハ54 529は深川駅から南に向かって発車した。 そして発車後すぐに函館本線から分岐する。 ここはH14-9-10に撮影した写真があった。 1番右側は車庫への引込線で、その左側の線路が増毛方面である右方向に分岐していくのが見える・・・。 えっ、今日は撮影しなかったのかって? いや、撮っても雪で分かりづらいから・・・。 うそつけ、今まで散々分かりづらい写真を載せていただろう! すんません、そのとおり。 実は深川駅で購入した駅弁を楽しんでいて、すっかり忘れてました。 最初の下車駅は恵比島駅だったので、この分岐点を撮影してから駅弁にとりかかっても十分間に合うはずでした。 いやあ、失敗、失敗。


 その駅弁は昨年に某旅行雑誌の企画で登場したものだとか。 番屋めし¥735である。 聞くと、現在は土日祝日限定で販売しているらしい。 留萌本線沿線の留萌−増毛間でかつて豊漁だった身欠きニシンが主役の駅弁である。 深川駅では他にお楽しみ特選弁当が販売されている。 また駅弁ではないが魚(鰊?)のうろこの形をした”うろこ団子”が名物となっている。


 綾小路さんは前述したように、まず恵比島駅で下車した。 留萌本線開業時の明治43(1910)年に開駅されている。 ドラマ”すずらん”の明日萌駅として、いちやく知名度が全国的になった駅である。 駅前通りの1番奥に古そうな駅舎が建っていて、レトロな雰囲気が漂っている。(左) しかし、残念ながらこれはロケのセットであり、撮影終了後に保存・展示されることとなったようである。 駅前にも中村旅館を始め古い建物(セット)が数多く残され、観光資源として活用されているとか。(右)


 そしてこれまで何度か来たときに、てっきりトイレと思っていたものが従来からの恵比島駅だった。 この木で覆われたもの、今まで何度も見てきた形に気が付かなかった。(左) そう、車掌車”ヨ”を改造した待合室だったのだ。 となると、この待合室が設置される前がどうだったのか気になった。 ここで除雪作業に来ていた人がいたので聞いてみた。 この待合室が設置される前にはすぐ隣、明日萌駅のセットが置かれた位置に駅舎があったという。 なるほど、”ふるさとの駅”にも明日萌駅とは形の違う、やや大きめの駅舎が描かれている。
 ここはホームも片面ホームで一見してただの途中駅のように思える。 しかし一線しか敷かれてない線路の向こうには広いスペースがあり、廃屋がポツンと建っている。(右) この廃屋は留萌鉄道の本社社屋だったそうである。 留萌鉄道は石狩北部の雨竜炭田から産出された石炭を、留萌港まで積み出すために敷設された鉄道である。 恵比島−昭和炭鉱間14.3kmを、昭和5(1930)年から休止(再開される事なく廃止)となる昭和44(1969)年まで運行していた。 現在のホームとこの建物との間には何本もの線路と留萌鉄道のホームなどが設置されていたのだろう。


 恵比島駅からは8時46分発の上り列車に乗車、秩父別駅で下車した。 留萌本線開業時の明治43年には筑紫といったが、昭和29(1954)年に村名に合わせて改称された駅である。 ここには古い木造の駅舎が残されている。(左) 無人の駅舎内には出札口と貨物取扱い窓口の跡が確認できる。 もと列車交換駅でもあったようだが、現在は片面ホームのみである。 昨年と同様に、除雪は1両の列車が停車する部分ぐらいしかなされていなかった。 ホームの端にある駅名標の前に行くまでは雪が積もっていて、この時期に撮影するのは困難である。(右) しかし今日こそは・・・、やっぱやめとくか。


 秩父別駅からは増毛方面の北秩父別駅まで2.4キロ、徒歩で行くことにしていた。 駅前通りを200mほど歩いて右折すると、あとは北に向かって一本道であった。 この道路、よく除雪されていたが、何故かすべりやすかった。 ツルッ、あーれー。 その時、綾小路さんの頭に浮かんだのは自身の雪道無転倒記録が途切れることだった。 綾小路さんは札幌に来て早や4年半。 1年目や2年目の冬には何度か転んだが、それ以降は運良く、転んだ記憶がなかった。 この記録をずっと伸ばしていく気にもなってきたところであった。 こんなところで記録が途切れるのか・・・、っと、はーはー、何とか踏みとどまった。 ほっ、こうしてこの日も何とか雪道無転倒記録を伸ばした綾小路さんであった。
(注:この雪道無転倒記録は翌週にあっけなく途切れました。)


 かくして30分ほど歩くと北秩父別駅に到着した。 昭和31(1956)年に仮乗降場として開設され、JR発足時の昭和62(1987)年4月に正式に開駅したようである。 短い板張りのホーム上にボロイ待合室が建っている。 そしてすでに10時前だというのに、ホームに積もった10cm以上の雪の上に足跡ひとつない。 それも無理のない事だ。 北秩父別駅には深川方面の上り列車は1日に4本しか停車しない。 そして下りの増毛方面の列車に至っては、なんと1日に2本しか停車しないのである。 それにしてもここまで、すでに上り列車の2本が停車したはずだが、乗降客は1人もいなかった事になる。


 10時15分発の上り列車に乗車して、乗降が困難な北秩父別駅を後にした。 ちなみに、ここに停車する次の列車は6時間後の下り列車である。
 綾小路さんは深川駅からひとつめの北一已駅まで戻り、下車した。 難読で有名、これは”きたいちやん”と読むらしい。 ところが開駅の昭和30(1955)年から平成9(1997)年までは、北一己”きたいちゃん”だったらしい。 綾小路さんは何度か読み直さなければ分からなかったね、漢字も読みも。 ちょっと分かりづらいが、ホーム側の駅舎にはいまだに”きたいちゃん”の駅名が掲げられている。(右) ホームは片面一線のみであるが夏に撮った写真を見ると、相対するホームがあったような可能性も否定できない。


 ここで11時12分発の留萌行き列車に乗車した。 やはり特急を利用したのは正解だった。 ずっと各駅停車の利用だと、これが留萌本線で乗車する最初の列車だったのである。 列車は北一已駅を発車するとまず秩父別駅で停車して、次の北秩父別駅は通過、そして石狩沼田駅に停車した。 今日はここで下車できないので一昨年に撮影した写真を見ていただこう。(左:H14-9-13撮影) 明治43年の開業時に沼田氏所有の農場内に設置されたため、当初は沼田と名付けられたらしい。 その後に上越線に同名駅が出来たため、大正13(1924)年に現駅名に改称された。 昭和47(1972)年に新十津川−石狩沼田間が廃止されるまでは、札沼線の終着駅でもあった。 ホームは2面3線であるが現在使用されているのは駅舎側の1線のみ。 島式ホームの線路は両側ともに撤去されていた。(右:H14-9-13撮影) このとき駅舎脇には貨物ホームも残っていた。


 石狩沼田駅を発車した列車は単線の線路上を走ると、3分ほどで次の駅が見えてきた。(左) 開設、開駅ともに北秩父別と同時期の真布駅だ。 短い板張りのホーム上にボロイ待合室まで同じのようだ。 それにしてもやけに天井の高い待合室である。(右:H15-2-26撮影) ここも今日は下車することはできなかった。


 真布駅を発車すると次の停車駅は恵比島駅だった。 この時間になると観光客もちらほら、ここで何人かが下車していった。 綾小路さんはすでに探索を終えていて正解だった。 そして列車はここから恵比島峠に向かった。 留萌本線で峠らしい唯一の区間である。 綾小路さんはここで列車の先頭に立ち、線路を伺うことにした。 そんなにきつい勾配ではないが、しばらくの間、列車は上り続けた。(左) そして深川駅から最初に敷設された恵比須トンネルに入った。 このトンネル内で峠を越えたようで、トンネルを出るとこんどは下りだした。(右) そしてこのあとすぐに峠下トンネルに入った。 あー、しまった。 レンガ積みのポータルを撮影することを忘れていた。 まあ、またの機会ということで!


 峠下駅で停車して、東幌糠駅は通過、列車は幌糠駅に近づいてきた。(左) 留萌本線開業時の明治43年に開駅したようだが、駅舎はすでにない。 車掌車改造の待合室があるばかりだった。(右) ホームも片面1線で列車交換はできない。 しかし”ふるさとの駅”では木造らしい、やや大きめの駅舎が描かれている。 そして線路も2線、やはり列車交換できたのだろう。


 列車は11時52分に藤山駅に停車、綾小路さんはここで下車した。 明治43年、藤山氏所有の農場内に敷設された駅である。 どうやらあの話は本当のようだった。 それは駅舎の左半分が取り壊され、縮小されたというのだった。 左の写真では、駅舎の左側の壁は何枚かの大きな板で覆われていて、荒っぽい造りである。 しかし、右側の壁面の造りは違っていた。 15センチ巾ぐらいの何枚もの横板で覆われているのである。 下見板貼りというのだろうか、今日これまで見てきた木造駅舎のすべての壁面の仕上げである。 しかも屋根の部分はモルタル塗りであった。 なるほど”ふるさとの駅”でも大きな駅舎が描かれていた。 ”建替え”されたのでなく”縮小”されたのだった。 ホームは片面1線であるが、元列車交換駅のような雰囲気が漂っていた。(右) なにぶん農場に駅が設置されたらしく、この左側のスペースにホームがあったのか。 それともただ農場のスペースだったのか、雪に埋もれてまったく分からない。


 ここで12時26分発の上り列車に乗車、またも深川方面に戻ることにした。 藤山駅を発車して留萌本線と並走する国道233号線の跨線橋をアンダーパス。 ゆるやかに右方向にカーブした先が廃止された桜庭駅のあった位置だと思われる。(左) 昭和38(1963)年に開駅、平成2(1990)年に廃止されたらしい。 駅の跡は雪の中では分かりづらいか。 では雪がない時期の写真を。(右:H15-6-23撮影) 綾小路さんはこの建物の奥辺りに、短いホームと小さな待合室があった確率は90%以上と睨んでいる。


 列車は12時40分に峠下駅に停車、綾小路さんはここで下車した。 留萌本線開業時の明治43年に開駅されている。 ここにも古い駅舎があったが、他の駅と同じくすでに無人駅となっている。(左) ただし事務所部分は保線関係の詰所として、現在も使われているようである。 相対式ホームは千鳥に配置されていて、構内は広い。(右)


 次の東幌糠駅まではバスで、そしてさらに東幌糠駅から幌糠駅までもバスで行けそうだった。 そのために峠下駅では10分の滞在で切り上げ、バス停に向かった。 そしてバスに乗車して東幌糠駅前に到着した。

 バス停に降り立った綾小路さんはまず、幌糠駅までのバスが発車する時刻を確認することにした。 時刻表は少し雪に埋もれていてたが、かき分けて確認。 あった。 13時13分発だ、間違いない。 発車まで15分間しかなかったが目的の東幌糠駅はホームのみの駅、まさに板張りの短いホームのみで待合室さえ設置されていない駅だった。 十分すぎる。 そして、またしてもホームに積もった雪上に足跡はついていない。 きれいなものだ。 この雪は綾小路さんによって足跡が付けられるが、ここから乗車しないのでただ荒らされるだけとなるだろう。 ここは昭和38年に仮乗降場として開設、JR発足時に正式に開駅したそうである。



 ひと通り撮影を済ませたところでひと息つく、まだ5分しか経っていない。 ここでホームに立っている時刻表を見た。 どれどれ、東幌糠駅に停車する列車はと・・・、なんと1日に上下各2本のみのようだ。 これまでに7時10分発の上り深川行きが停車しただけで、綾小路さんが幌糠駅から乗車予定の下り列車が東幌糠駅を発車するのが13時59分だった。 あとは18時34分発の深川行きと、19時46分発の増毛行きがあるばかり。 ふーん。 ここで綾小路さんは考えた。 この先、留萌本線に乗車する事は何度もあるだろう。 しかし2度と東幌糠駅から乗車、または下車するチャンスはないだろう。 ところがあとたったの1時間、ここで待てばこの超乗降困難駅から乗車できるのだ。 そう考えると無性に東幌糠駅から乗車してみたくなったのである。 少し風は吹いていたが、天気自体はよさそうだった。 という事で結局、東幌糠駅で1時間過ごして増毛方面に行くことにしたのであった。 今、乗車予定だったバスも過ぎていったようだ。 もうあともどりはできない。


 ふいー、やっぱきつい。 これは1月や2月の厳冬期では厳しかっただろう。 まして吹雪だったらと思うとぞっとした。 しかし綾小路さんはおそらく一生に一度の東幌糠駅からの乗車を果たした。
 東幌糠駅を発車した列車は幌糠駅、藤山駅に停車して次に大和田駅が見えてきた。(左) 明治43年、大和田氏経営の炭鉱所在地に設置された事が駅名の由来である。 そういえば炭鉱への側線もあったと聞いた事があった。 その炭鉱もすでに閉山されて久しい。 ”ふるさとの駅”では閉山後であったがまだ賑やかな駅前、木造の駅舎と何軒かの建物が描かれている。 ちょっと待った!凄い資料を発見した。 線路が1、2、3、4、5線、少し間隔を置いてさらに1線、計6線も見える。 開業年の写真である。 しかし現在は車掌車改造の待合室があるばかり。(右) 線路は1線で、駅前にも小さな倉庫らしき建物が1軒見えるだけだった。



 大和田駅を発車した列車は引続き増毛方面に向かった。 ここまで線路上は一面に雪の積もった状態だったが、このあたりで線路間の雪が解けている光景に変わったようだ。 内陸部を抜けて日本海が近くなってきたのだろうが、綾小路さんのお気に入りの冬の旅が残り少ないことを感じた。


 そして沿線で最大の町、かつ最大の規模を誇る留萌駅に間もなく到着することになる。 今日、留萌駅に下車するのは日もとっぷり暮れてからになるだろう。 綾小路さんは何度か来たときの留萌駅を思い出していた。 コンクリート2階建ての堂々たる駅舎だった。(左:H15-2-26撮影) そして見えてきた留萌駅は一見すると、跨線橋でつながった相対式ホーム2面のようである。(右)


 しかし駅舎に相対する右側のホームは島式ホームだった。 それどころか、さらに右(北)側には広大なスペースがあり、かつては何本もの引込み線が敷かれていた。 留萌駅を取り上げるからには、廃止された羽幌線抜きには語れないだろう。 昭和62年、JRが発足する前々日に廃止されたローカル線である。 留萌駅から日本海側を北上、羽幌を経由して宗谷本線の幌延駅まで141.1キロに渡っていた。 その羽幌線ホームは上の写真では跨線橋よりさらに右側にあったようで、当時の跨線橋は羽幌線ホームまでつながっていたらしい。 跨線橋の上には乗換案内板があり、ライトは2度と点灯される事はないのだろうが、いまだ羽幌線への乗換表示が残っている。(左:H15-2-26撮影) そして留萌本線や羽幌線を経由して留萌駅に運び込まれた石炭やニシンなどの貨物があった。 ここから専用線で留萌港に運び出されていたのである。 この貨物営業も廃止されて久しいが、貨物営業があったからこその広大な構内となったのだろう。 構内には転車台こそ確認できなかったが、かつて使用されていた大きな車庫は残されていた。(左:H15-11-11撮影)


 留萌駅では停車時間はほとんどなく、駅到着後に列車はすぐに発車した。 羽幌線が廃止となった現在、列車の接続の必要もなくなった。 広大な構内の線路もほとんど撤去され、ただの通過駅と化したようだ。
 留萌駅から乗車3分ほどで瀬越駅が見えてきた。(左) 大正15(1926)年開駅の片面ホームに待合室の駅である。 留萌本線は深川駅から留萌駅までは内陸部を走るが、留萌−増毛間はほぼ海岸線沿いに敷設されている。 ここで、さっそく海岸段丘の下に設けられた駅のようである。(右:H15-2-26撮影) 段丘の上には国道231号線が通っている。


 そして次の駅は礼受駅であるが、その途中にもうひとつ駅があったらしい。 浜中海水浴場前駅である。(左) 資料が乏しく、開駅年度や廃止年度は分からないが、おそらく国鉄時代の仮乗降場だったのだろう。 しかし国土地理院の古地図にも載っていたので間違いない。 このとき何年の地図に載っていたのかまで記録しなかったのが悔やまれる。 ここは以前来たときに線路脇に枕木が並べられているのを確認していた。(右:H15-11-11撮影) 古地図で確認していたのもこの位置なので、おそらくはここが浜中海水浴場前駅(または仮乗降場)だったと思われる。


 列車は尚も増毛駅を目指して進んだ。 礼受駅、続いて舎熊駅に停車してその次は信砂駅である。(左) 開設、開駅の時期はともに東幌糠駅と同じ。 片面ホームに・・・、これは市販の物置を改造した待合室のようだった。(右:H15-2-26撮影)


 列車は14時48分に留萌本線の終着駅である増毛駅に到着した。 増毛は留萌本線が開通するまでは陸の孤島状態だったらしい。 札幌から石狩を経由して増毛・留萌に至る国道231号線が開通したのは昭和56(1981)年、僅か20年ほど前の事である。 留萌本線の開通当時、札幌から列車で深川・留萌を経由して増毛にやってきた人々はひとしおだっただろう。 増毛駅が開業した大正10(1921)年に建築された木造駅舎は縮小されたと聞いていた。(左) 構内側から見ると駅舎の端から土間が見えていて、ここに事務所部分があったのだろう。(右) 構内には転車台もあったようだが何も残っていなく、片面ホームと線路1線のみである。
 そして駅舎内には駅そば屋があるが、いつ来ても閉まっている。 休日に限り営業しているとの話を聞いていたので少し期待していたが、今日も閉まっていた。


 留萌本線はまず、明治43年11月に留萌線として深川−留萌間が開業した。 留萌−増毛間の増毛線は予算の都合上遅れ、大正10年11月に開業した。 開業後にこの区間も留萌線に編入されたようである。 そして昭和6(1931)年に留萌本線と改称された。

 さて、折返しの列車が発車するまでは1時間ほどあった。 これまでに何度、終着駅まで行き、5分程度の滞在で折返した事か。 何度、後ろ髪を惹かれながら折返した事か。 この1年でも弥彦線、吾妻線、富山港線、氷見線、城端線、参宮線、大湊線・・・。 最近ではそれに懲りて出発をひと列車遅らせ、隣駅まで歩く事が多くなってきた。 しかし、留萌本線は1時間程度の間隔があく列車が多い。 綾小路さんの乗車してきた列車も1時間余りの時間があった。 この時間を利用してプチ観光をした。 増毛駅前には北海道遺産に選定されている、”増毛の歴史的建物群”がある。 増毛町は甘エビやサケ、ニシンの漁場として賑わった漁業の街で、明治〜昭和初期には栄えていたという。 当時の石造りや木造の歴史的建物が数多く残されている。

 まずはJR増毛駅、前述したように大正建築である。 次に、増毛駅前に立つと木造の建物が並んでいるのに気づく。(左) 手前側の大きな建物は旧旅館『富田屋』、昭和8年建築の木造3階建である。 この時期、屋号は右側から左側に向かって書かれているのも雰囲気がある。 そう言えば綾小路さんも木造3階建の建物なんて最近はめったにお目にかかっていない。 そして奥の小さな建物が多田商店、昭和8年建築で現在は観光案内所となっている。 この建物は昭和56年に公開、高倉健主演の映画『駅〜STATION〜』で風待食堂として登場した建物として有名。(右)


 駅前の道を増毛港と反対の西に向かうと、右手には旅館『増毛館』が見えてきた。(左) 昭和7年建築で現在も営業しているとのことである。 そしてその先には石造りの旧商家『丸一本間家』が控えている。(右) 明治初期、増毛に居を構えた佐渡出身の豪商・本間泰蔵が20年もの歳月をかけ、明治30年代に完成した建物らしい。 わずか10分余りでこれだけの建物が見学でき、綾小路さんのお気に入りスポットでもある。 他にも明治38年建築の造り酒屋『国稀酒造』、昭和11年建築で木造2階建て、約3500平方メートルと木造の校舎では道内最大規模の増毛小学校など。 これは増毛町、あなどれないぞ!


 さて、本当にお腹が空いてきた。 増毛駅の駅そばを食べるつもりだったので無性に蕎麦を食べたかった。 どれ、ここの食堂で蕎麦でも食べるか。 ところがどっこい、この食堂は『ただの食堂』ではなかった。 そらそうだ、タダで食べられるはずがない! いや、そういう意味ではない。 志満川食堂といい、創業85年、3代続く老舗のそば屋らしい。(左) しかしそれだけで『ただの食堂』でないという訳ではなかった。 実はこの食堂の建物も増毛の歴史的建物群の一角を成すもので明治25年築、元は廻船問屋だったとのことである。
 そうか、ここはそば屋だったのか。 某旅行雑誌でラーメンが紹介されていて、以前食べに来たことがあったが、正直口に合わなかった。 しかし、きょうの大ざる(右)はうまかったね! 歴史的建物の中で食べていると思うとなおさらだった。


 増毛駅前に戻ると発車まではまだ少し時間があった。 ここでバスの発車時刻を確認すると間に合いそうだったので、一足先に隣の箸別駅に行くことにした。 結局は終着駅から隣の駅まで列車で移動しないこととなった。(徒歩ではないけどねえ) 短い板張りホームに、トタン板張りの物置タイプの待合室が建っている。 開設、開駅の時期は東幌糠駅、信砂駅と同じである。


 増毛駅を発車した、折返しの列車が15時52分にやってきた。 中には何人か綾小路さん同様に、折返しの列車に乗車している人も目立ち、結構な人気ぶりである。 一般の地元乗客のほうが少ないくらいかもしれない。 この列車で下車したのは礼受駅である。 車掌車改造の待合室が建っているが、その下にはコンクリートの基礎が覗いている。(左) ”ふるさとの駅”では増毛駅まで開通した時の駅舎と思われる木造駅舎が描かれている。 ホームも片面一線であるが、擁壁の手前に相対するホームがあったようだ。(右)


 礼受駅からは1.3キロ、徒歩で阿分駅に向かった。 この駅は国道脇に建っている学校の裏側に敷設されている。 待合室やホームのスペック、開設・開駅時期は全て箸別駅と同じで、まるで双子のようである。


 阿分駅からは17時16分発の下り列車に乗車し、舎熊駅で下車した。 車掌車改造の待合室の下にはコンクリートの基礎、片面ホームだが元は列車交換駅と思われる事など。 さらに大正10年の開駅時期も同じで、こんどは礼受駅と双子のようだ。


 夕闇が迫る中、ここからはまた徒歩で1.7キロ、隣駅に向かった。 ここで見たものは・・・、実は箸別駅と阿分駅との三つ子だった朱文別駅である。


 舎熊−朱文別間の1.7キロは寒かったが、今日一日の累積疲労もあったろう。 綾小路さんは17時52分発の上り列車に乗車したがぐったりしてきた。 なんとなく熱っぽいし。 この後は留萌駅で下車し、徒歩で瀬越駅まで行く予定だったが断念した。 今日のところはおとなしく帰り、次週の漫遊に備えたのであった。

トップ アイコン
トップ
アイコン
鉄道