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ノアの箱舟(はこぶね)

「神は地上に増えた人々の堕落を見て、これを洪水で滅ぼすと「神と共に歩んだ正しい人」であったノアに告げ、ノアに箱舟の建設を命じた。
 箱舟はゴフェルの木でつくられ、3階建てで内部に小部屋が多く設けられていた。箱舟の内と外は木のタールで塗られた。ノアは箱舟を完成させると、妻と、三人の息子とそれぞれの妻、そしてすべての動物のつがいを箱舟に乗せた。洪水は40日40夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくした。水は150日の間、地上で勢いを失わなかった。その後、箱舟はアララト山の上にとまった。
 40日のあと、ノアは鴉を放ったが、とまるところがなく帰ってきた。さらに鳩を放したが、同じように戻ってきた。7日後、もう一度鳩を放すと、鳩はオリーブの葉をくわえて船に戻ってきた。さらに7日たって鳩を放すと、鳩はもう戻ってこなかった。
 ノアは水が引いたことを知り、家族と動物たちと共に箱舟を出た。そこに祭壇を築いて、焼き尽くす献げ物を神に捧げた。神はこれに対して、ノアとその息子たちを祝福し、ノアとその息子たちと後の子孫たち、そして地上の全ての肉なるものに対し、全ての生きとし生ける物を絶滅させてしまうような大洪水は、決して起こさない事を契約した。神はその契約の証として、空に虹をかけた。と、ウイッキペディアに書いてある」
 帝国大学教授である田所平八郎は天文学の権威である。彼は口を時々ゆがめながら、ネットからの聖書の要約を読んだ。大学院生大川真一がソファーに座ってそれをじっと聴いていた。田所が先ほどから口の中へしきりに人差し指を差し入れている。歯の間に何か挟まったようだ。
「先生の今回の予測は、この箱舟と同じということですか?」
 大川は田所の言葉を待った。
「ふう、やっと取れた。昼のレバニラ炒めライスだな。旧約聖書では神がノアに教示した形だが、今回は私だけの予測だけだからな、神は関わっていないから少し怪しいぞ」
 そう言うと、田所は親指と人差し指の先をじっと見つめた。指の先のゴミらしき物を指ではじいた。放たれた異物は弧を描きながらデスクの傍らにあった屑籠には入らずデスクの側面にしっかり付着した。
「くそ、失敗か? 」
 田所はその異物をどうするか考えているのであろう。人類の存続に関わる話をしている最中にもかかわらず、田所は大川の問いをすぐに返してはくれない。
「君も薄々察しは付いているだろう。八王子に建設している地下都市はその箱舟だ」
「3年前、先生が政府に助言し対策として取られた地下シェルターですね」
「日本の全人口を避難させる地下都市だ。総工費1000兆円。とてつもない金額だ。人口1億1千万の国民収容施設、それと日本の各地に生息する全種類のつがいの動物保護施設も備えている。どの国も同じ対策を取った。シェルター建設ラッシュだな。各国も独自の対策で奮闘している。しかし、私の予測したこの発表は正確ではない」
「というと? どういうことでしょう?
「3年前、私は太陽の大膨張説を政府に助言した。その当時では、7年後に太陽の燃焼が一時的に強くなり、太陽の炎の直径が3倍に膨張するという予測だ。実は私は嘘を付いていた。太陽の大膨張は7年後ではなくもっと近くて工事は間に合わないかも知れないとも思っていた。私はパニックを恐れた。膨張の被害を受ける前に、人々に恐怖の大王が舞い降りる。人々の心の中に巣くうパニックほど怖いものはない。人は死ぬと分かったら何をするか分からないだろ? だから私は大膨張の発生期日を偽った。私にはその期限が計算できなかった。しかし、結論として、少しでも災難は遠いほうがいいだろう、ということだ」
 大川は田所の突然の発言に驚きながら聞いていた。
「そんなすごいこと僕に話しても大丈夫なのでしょうか?」
 大川は二人しかいない研究室の中を見回し、誰もいないことを確認した。
「君も突然死んでしまうのは嫌だろ? 大膨張が発生したら、いや、気が付かないうちに動物は死ぬだろうな。そのぐらい高速で熱波が到達する」
「え? 僕は分からないうちに死ぬのでしょうか? シェルターに入れば安全ではないのでしょうか?」
「ああ、シェルターに入るにはあと4年掛かるからな。今日の5時では無理だろ? 」
 あまりにも突然の話しに大川は我が耳を疑った。それを聴いた大川が腕時計を見る。
「5時まであと1時間しかないではありませんか? 」
「もうそんな時間か? 僕はもう大好きなレバニラ炒めを食べたから悔いはないが、君はどうかな? 」
「えええ−、どうしよう。やり残したこと。ええっと、あああ、そうだ。今おつきあいしている彼女に結婚を申し込んできます」
「おお、そうか。早いほうがいいな。善は急げだ。もう少し、早く教えてあげれば良かったが、そうもいかない。みながてんでにやりたいことをやり出したら収拾が着かないことは予想できるからな」
 顔が蒼白した大川は席を立つと田所に軽く会釈をすると、慌てて研究室を飛びだしていった。田所は窓際に歩いて行く。カーテンを開けると太陽はいつもと同じに照っている。
「太陽の大膨張か。正確に予測することは困難だ。本当に4年後かも知れない。もっと先かも知れない。仮に分かったとしても、人類にはその対処など不可能なことだ。仮に、3年先、完成したシェルターに入ったところで太陽の熱波はすべてを焼き尽くすであろう。地球表面は一瞬で1500万度以上になる。人々はありふれた日常の中で瞬時に灰と化す。あたかも電車に乗って居眠りしたように。みんな一緒に一瞬のうちに消滅する。苦しみを感じる時間すらない。それがせめてもの救いだ。いや、人類のことだ、この予測がもっと先になれば、宇宙船を製造し宇宙に脱出することが可能かも知れない。それにしても大川君は血相を掻いて飛びだして行ってしまった。冗談だ、という暇もなかった。まあ、明日、怒って顔を出したら謝ろう」
 ソファーに座っていた田所はデスクの前に移動すると、椅子に座り電話のプッシュボタンを押した。コール音が何度か鳴ってから妻の声が聞こえた。
「もしもし、私だが、きょうは定時に帰るから」
「あら、珍しい。研究の目鼻が付いたのね。そう、真理子が今度の日曜、幸太さんと生まれたばかりの源太郎を連れて顔見せに来るって、きっと、賑やかになるわ」
 妻が甲高い声を出して嬉しそうに話す。田所は孫の源太郎を生まれたときに病院で見たきりである。大きくなっただろうか、と思った。その時、田所はまだやり残した研究があることを思いついた。大膨張の正確な時期を予測できるかも知れないと思った。時間があれば宇宙版ノアの箱舟の製造は人類ならできるかも知れない。彼ら達の未来を守るためにも人類の英知を信じたい。
「ごめん、今、思いついた。もう少し、やっていくよ」
   *
 2022年、地球の各地から何十万という数の宇宙船が宇宙に向けて飛び立っていった。田所は正確な大膨張を予測した。大膨張は2022年1月31日。彼の出した予測が正しいかを実験により検証する術はなかった。検証しそれが正しいことを知るとき、その時、人々には確実な死が立証される。当然のこと、田所の予測は世界中の天文学の識者が検証した。しかし、あくまで理論に過ぎない。誰もが正確な消滅時期を算出することに恐怖を感じた。知らない方が幸せなのではないか。田所は自分の出した数字の意味に恐怖し続けながら65歳で他界した。
 人類は誰もが人類存続という本能に目覚めた。一致団結し新天地を地球から他の宇宙空間へ求めた。地球と同じ環境の星は宇宙空間に何億もあるという予測がある。それに人類は駆ける決意をした。まさに、誰もが寝る間も惜しんで開発と製造に励んだ。そして、ついに人類は宇宙空間を長期間滞在できる環境を備えた大型宇宙船を完成させた。
 脱出した宇宙船には高齢になった大川が乗船していた。離れるに従い徐々に小さくなる青い地球を見て大川は涙を流した。
「わが大地よ、大海原よ、私のすべてよ、さようなら」
 大川の乗った宇宙船団は太陽系から離脱し、次の銀河系への飛行を開始した。
 しかし、田所が出した予測から3年が経つというのに太陽が大膨張をした兆候は確認することができていない。もしかすると、地球は大丈夫なのかも知れないという空気が船内の人々に生まれてきた。人々の心に地球に帰りたいというホームシックが蔓延していた。そのとき、太陽から異常な電子波が放出された。大川の船室の照明が落ち暗闇になった。船室の窓から周囲の星が輝いているのが見える。
「先生、あなたの理論が、たった今、実証されました。もう、我々に帰る場所は完全になくなりました。もう、進むしか道はないようです」
 しばらくして、大川の船室の照明の明るさが元に戻った。その明るさは、暗黒の宇宙の中で、未来に向けての一縷の明るさと言えるかも知れない。
「新しい地球はきっと見つかります。未来の光はこの宇宙の何処かで光っているはずですね、先生。私もこの先に進みます」
 大川は昼も夜も区別の付かない寝室の窓から外に広がる無数の星々を眺めた。その窓ガラスに隣で眠る妻の姿が映っていた。これまで妻と随分長い月日を歩んで来た。あの時、地球の最後と田所に教えられた大川は、交際中の恵子の住む家に夢中で走って行った。恵子は彼にとってかけがえのないものと、彼の本能が確信したとおり、彼女の存在は今日まで彼の心を支えてくれた。これからもずっと支えてくれるだろう。彼は眠った妻の皺(しわ)が増えた頬に軽く口を当てた。穏やかな寝顔はずっと変わらない。
「さあ、まだまだ、行くぞ」
 彼はそっと音を立てずに寝室の扉を開けた。第2の地球を探査するため、彼は自分の研究室へ向かうため宇宙船の長い通路を歩いた。

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