養老の滝

 

  山田一朗は4月高校を卒業し、地元の役場に勤務した。高校生を終え、初めてもらう給料袋を手にしてやっと一人前になったような気がした。支給額8万円のうち、税金、年金、保険などをひかれ手取り6万円ほどである。

母・鈴よから就職したら家計に生活費を入れるよう言われていた。いくら出せばいいのか分からない。取りあえず、2万円出した。お金をがま口にしまいながら母が言った。

「あんた、着てくものが一張羅じゃ駄目だよ。今度は自分で買うんだよ」

彼は就職前に母に買ってもらったスーツが一着のみ。スーツを着て行かなければいいのであるがそんな訳にも行かない。会社では制服が貸与されているが、ずっと同じスーツで行く訳にもいかないと思った。日曜日に近所の紳士服店に行き1万円の上下揃いのスーツを買った。残り3万円。

次の給料日まで、昼飯代、お茶代など、2万円は残しておきたい。すると、1万円ほど残ることになる。買ってきたスーツを母が見ながら言った。

「あんた、月々の給料から少しずつ貯金するんだよ。貯金がないと結婚もできやしないよ」

 彼は鈴よから言われて5千円を預金することにした。残り5千円。これが自由になるお金。とほほ、である。お金を稼ぐということがつくづく難しいことを知った。わずかなお金、このお金で父と母に何か買ってやりたいと思った。

 彼の父・幸吉は建物を造る大工という職業をしている。朝、暗いうちから建築現場に出ていく。帰りは大抵暗くなる。時々、幸吉は酔って帰宅する。建前という儀式がある。基礎の上に柱、梁を組み立てたとき、お祝いをするのである。また、大きなうちになると、3時になれば、おやつが出て、仕事が終わると、ご苦労様と言って毎日一合の酒をふるまってくれる家があった。そういううちに当たると幸吉はとても上機嫌で帰宅した。酒が大好きな父である。

 そんな幸吉の好きな酒を出す店が一朗の近所にあった。かの有名な大衆酒場養老の滝である。かなり大店舗で、1階2階合わせ、200人は入れた。50センチほどの奥行きのテーブルを挟んでビニー張りの丸椅子が向かい合わせで座れるように並んでいた。固くてすわり心地は決していいとはいえない。

小学生の頃から一朗はこの店の前を何度となく通り過ぎた。正面玄関の脇では威勢のいい声を出す男子店員が片手に団扇を持ち、パタパタと音を立てながら、焼き鳥を焼いていた。

「えー、らっしゃい、焼き鳥、焼き鳥はいかが? 焼きたての焼き鳥だよ」

店員がだみ声で道行く人に声を掛けていた。一朗はこの前を通るたび、グーグー、腹の虫を鳴らした。育ち盛りの一朗には鳥を焼く臭いが食欲をそそりたまらなかった。この焼き鳥のオジサンが、クリスマスの時期ともなると、大きな鶏の丸焼きを焼くのである。いったい、どんな人がこの鳥の丸焼きを買っていくのであろう。

「いい匂い。食べてみたいなあ」

 一朗は本当に食べてみたかった。こんな丸焼きを食べてみたいと何度となく思った。一朗にとって焼き鳥を食べることはささやかな願いであった。

   * 

 2ヶ月ほど経ったある朝、一朗は台所で新聞を読んでいる父の所に来ると言った。

「お父ちゃん、今度の夏のボーナスが出たら、酒をご馳走するよ。養老の滝なら連れて行けそうだから」

「え? おまえがか? え、そうかい? そうかい?」

 幸吉はうれしそうに大きな歯を見せ喜んだ。大人げなく喜んだことが照れくさそうで、また新聞に目を向け何事もなかったように新聞を読み始めた。父の嬉しそうな姿を見た一朗もまた小さな楽しみができた朝であった。そして、まだ始まったばかりなんだ、と思った。

 

超短編小説の目次に戻る