「奥さん、この靴を買っていただけないでしょうか」

「そんな訳のわからんものいらないわ」

 女性は家の中へ消えた。山上佳祐は手にした靴を見てうな垂れた。この街で、否この国で靴など買う人などいるわけがないのではないか。山上は心底そう思った。

山上の会社は日本でも有数の靴製造を手がけている企業である。日本ばかりでなく、海外にも靴の販路を拡大しようという会社方針で山上が南太平洋に浮かぶこの最後の楽園ノホホンランド国に派遣された。

  *

 ノホホンランド国は、南太平洋上赤道直下に位置し、面積3300万平方キロメートル、人口3万人が住む最後の楽園と呼ばれる島国である。1年中、温かい気候で常に20度から25度の範囲内で変動している。国民の性格はいたって温厚。そして、何より、靴を履かない民族であった。靴屋ももちろん靴製造所も皆無である。道路はどこも土。だから、裸足で歩いても全然問題なかった。売れない根本的な理由があった。この国には貨幣が流通していなかった。未だに物々交換の社会である。山上から見れば、ユートピアと言っても過言ではない。靴を売る山上でさえ、靴を脱いで土の地面を歩いているほうが気持ち良かった。靴をはかない靴のセールスマンなど売れるわけがない。この土の感触は日本では味わえない感覚である。まさに雲のじゅうたんを歩いているという感覚だった。そんな国でどうして靴が売れるというのであろう。

ノホホンランド国に来て半年後、送金される給与は使い道がなかった。両替所もない国で貨幣など何の役にも立たなかった。山上はこの会社を辞職する決心をし、社長に退職届の国際郵便を出した。「退職を命ず」の文面の後に、「この役立たず」という付箋が追加されていたことはいささか心外であった。

それにしても、山上はとても晴れやかな気分になった。温暖なこの国では食べるものに苦労することはない。川へ行き両手を水の中に差し伸べれば、魚が手の中に入ってきた。海へ行き潜れば、海藻や魚貝類が豊富で、自分が食べる分だけ取ることが出来た。土に種を植えれば3ヶ月後実がなった。山上は毎日を楽しみながらいつの間にか32年が過ぎた。

 日課にしている山上が近所の道で豚を連れて散歩していると、道端にいつのまにか缶ジュースを売る自販機が置いてあった。数メートル歩くと、タバコの自販機も置かれていた。都会の文明がこの国に入り込んでいた。都市部だけで流通していた貨幣がついに広まってきていた。

ガムは虫歯になる、缶ジュースは太る、喫煙は肺癌の原因になる、など、山上が知る全てを広報するため市民活動を広げた。たくさんの支持者も出てきて、山上はやがてこの国の救世主になるなどと誰彼となく噂された。

さらに28年が経った。山上は齢80歳になった。目の周りに隈が出来るまで働いたが報われることはなかった。一部の利権者がノホホンランド国に害悪なものを容赦なく取り込んでいった。体に良くない物は人々に少しずつ少しずつ広まっていった。

「まあ、このくちゃくちゃしたもの美味しい。ガムって言うの。とっても美味しくて体に良さそうだわ」

「そうだ、そうだ、買っちゃえ、買っちゃえ」

 街にガムがポイ捨てされるようになった。

「この吸い込んだ時、クラクラする感触がたまらないねえ。タバコっていうのか。体に良さそうだな。毎日、吸うべ」

「そうだ、そうだ、吸っちゃえ、吸っちゃえ」

 街に吸殻がポイ捨てされるようになった。火の不始末による火災も増加した。

「こんな手軽に美味しい物が飲めるの? 缶ジュース、って言うの? もう、手軽に飲めて病み付きだわ」

「そうだ、そうだ、飲んじゃえ、飲んじゃえ」

「やったれ、やったれ」

街中、空き缶がポイ捨てされて、街の至る所にゴミが増えていった。素足では歩けなくなると、何処かの国の靴の販売会社が進出してきて政府に貨幣制度を導入させるなり、靴を売り始めた。

 善良な人々は悪しきものにとことん飲み込まれていった。山上には、もう、手のうちようがなかった。あれほど若かりし頃の山上が売ろうとしても売れなかった靴が今売れるようになったのだ。人々は安楽を求め、その見返りに「苦痛」を知らぬ間に手にしていた。最悪という火の粉を浴びなければ誰も熱さを感じない。

「こんな街、歩きたくない」

そう言い捨てた山上は、重いなたを手で握りしめると両手で頭上高く振り上げ自分の大腿めがけ落下させた。

 

 

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