通り過ぎた街

 

三学期の終業式が終わった温かな春の日。小学校からの帰り道、正ちゃんが、あきらくん、ひとしくん、みのるくんといっしょに歩いていたときのことだった。

「さあ、あしたから春休みだ。うれしいなあ。これから昼ごはん食べたら、荒川まで遊びに行こうよ」

先頭を歩いていたあきらくんがふり向きながらいった。

「うん、いこう!」

正ちゃんが元気に答えると、

「正ちゃんはだめだよ。だってさあ、正ちゃんは自転車持ってないだろう。荒川まで遠いから、自転車でなければ行けないよ」

あきらくんがそっけなくいう。

「正ちゃんも早く自転車買ってもらえよ」

みのるくんまで冷たくいう。正ちゃんは、仲間はずれにされてくやしくて、あきらくたちとはこんりんざい、遊ぶものかと思った。正ちゃんは、この四月で小学校の六年生になるが、まだ自転車に乗れなかった。ぼくにも自転車があったら練習して乗れるようになって、みんなと遊びに行けるのになあ…と、自転車を持っていないことをうらめしく思った

正ちゃんの二人のお兄さんたちとお姉さんは、正ちゃんと同じくらいのとしに、お父さんの大きい自転車を使って練習したらしい。正ちゃんには、体の小さかったお兄さんたちが、どうやってお父さんの大きい大人用の自転車にまたがったのかふしぎでならなかった。正ちゃんは、一番上のお兄さんに自転車の乗り方を聞いた。

「三角乗りっていってなあ、三角のフレームの中に片足をいれて、立ってこぐんだ」

どんな乗り方をするのかじっさいに乗って見せてもらえばいいのだが、自転車はお父さんが仕事で使っていて家にはなかった。毎日、正ちゃんのお父さんは、仕事に行くのに乗っていってしまう。

正ちゃんのお父さんは、左官屋という家の壁をぬる仕事をしていた。外の壁を塗るときは、太陽が出て、日が沈む間の明るい時間に、壁を塗るのだ。新しくつくった家の壁や、古い家の壁を新しく塗り替えたりもする。だから、いつも仕事先が変わる。毎日、正ちゃんのお父さんは、自転車の荷台に仕事に使う重い道具をいっぱいのせて、どこへでも行ってしまう。荷物がいっぱいあるときは、リヤカーという箱形の貨車を自転車の後ろに付けて、えんやかえんやかと掛声を出して引っ張っていく。お父さんは、自転車乗りのベテランだった。お父さんに休みがあるとしたら、雨が降っていて壁が塗れないときくらいだ。だから、お父さんの仕事が休みだったら、お兄さんのいう三角乗りがどんな乗り方なのか、実際に乗って見せてもらえるのにと思った。どっちみち、お兄さんたちの乗り方は、正ちゃんにとってはとてもこわそうだったから、まねるつもりはなかった。

お母さんに自転車を買ってくれるようにたのんでみようかなあ、と正ちゃんは思ったけれど、二人のお兄さんたちやお姉さんも買ってもらえない自転車が、正ちゃんに買ってもらえるわけがないと思った。でも、どうしても自転車がほしかった。

「自転車がほしいなあ……」

正ちゃんは部屋でさいほうをしているお母さんに聞いてみた。

「まだ、早いわよ」

「でも、みんな持ってるよお。あきらくんだって、ひとしくんだってさあ、みのるくんだってさあ」

「自転車はあぶないし、もう少し大きくなってからね」

正ちゃんはひっしになってお母さんにいったけれど、とても買ってもらえそうになかった。正ちゃんは、こんどはお父さんにたのんでみようかと思ったが、たのむだけ無理な気がした。

春休みのある晴れた日。正ちゃんの隣のアパートに、かおりちゃんという女の子が引っ越してきた。かおりちゃんは、お父さん、お母さんと三人暮らしだった。

「今度、こちらに越してまいりました花田でございます。よろしくお願いします」       

かおりちゃんの家族が、正ちゃんの家に引越しのあいさつに来た。かおりちゃんは赤いスカートをはいて、白いブラウスの上に淡いピンクのカーディガンを着ていた。髪は肩まで伸ばしたかわいらしい女の子だった。正ちゃんは、はずかしくてお母さんの後ろにいた。

「まあ、うちのかおりもこの四月、小学校の六年生で、亀戸小学校に転校しますの。ぼっちゃんと同じクラスだといいですね」

お母さんの話しによると、四月からかおりちゃんのお父さんは単身赴任とかいって、仕事のつごうで別のところに住むらしい。だから、とうぶん二人暮らしだそうだ。

かおりちゃんチの玄関の横には、さびた赤い自転車が置いてあった。かおりちゃんが乗るには、少し小さめの自転車。小さすぎて乗りにくいせいなのか、かおりちゃんがその自転車に乗っているところを見たことがなかった。正ちゃんはかおりちゃんの小さい自転車なら乗れそうな気がした。

四月、春休みが終わり、新学期が始まった。クラス替えが決まって、正ちゃんは一組、かおりちゃんは三組になった。

かおりちゃんはすぐにクラスにうちとけて、友だちもできたようだった。

一学期のなかば、国語の時間のことだった。

正ちゃんは、六年一組の教室でけんいちろう先生から作文を返してもらった。作文用紙に五重の花まるが付いていた。

「先週みんなに作文を書いてもらいましたが、いわまくんのは、働くお父さんのことがよく書けていましたので、読んでもらうことにします」

けんいちろう先生が、クラスを見まわしていった。正ちゃんは自分の名前を呼ばれて心臓がドキドキした。正ちゃんはきょうだんの前に立つと大きな声で作文を読み始めた。正ちゃんは、お父さんがどんな仕事をしているかを作文に書いたのだった。

「ぼくのお父さんは左官屋です。新しい家の壁を塗ったり、古い家の壁を塗り替えたりします。雨の日は塗った壁が雨に濡れてはがれてしまうから仕事は休みになります。けれど、家の中の壁塗りのときは働きに行きます。祝日も土曜も日曜も休まず働きに行きます。

近所に中村さんというお米屋さんがあります。お父さんは、中村米店さんのおじさんに頼まれて家の壁を塗り替えることになりました。お母さんも、お父さんの手伝いに行くことになりました。ぼくもお父さんの仕事を見に行くことにしました。お父さんとお母さんは家具を部屋の真ん中にうつして、仕事がしやすくなったところで、古い壁をはがしていきます。古い壁は、へらという三角形をした鉄の板でけずり落としていきます

「正ちゃん、そこにいるとほこりだらけになるよ」

 お母さんとお父さんは口に手ぬぐいを巻いてほこりを吸わないようにしていました。髪の毛にも手ぬぐいをまいています。ぼくも持っていたハンカチを出して口に当てました

『ぼく、見たいから、ここにいるよ』

お父さんは、壁をどんどんはがしていきます。お母さんが床に落ちた壁のくずを、ほうきを使ってちり取りに集めてます。ものすごい砂ぼこりが立ちました

『うわあ、すごい』

見ていたぼくも思わず外へ飛びだしました。それでも壁は半日のうちにはがせました。住んでいるうちの壁塗りなので、部屋は一部屋ずつやります。いよいよ壁塗りです。材料をはかって四角い桶に入れたら、水を加えて、たんねんに混ぜ合わせます。      

『ぼくにもやらせてえ』

ぼくは、鍬を使って、壁をこねました。初めてこねるので、なかなかうまくできません。

『こりゃ、こねるのに一日かかちゃうなあ』

お父さんは顔をしかめて笑いました。

正ちゃんはこねるのに疲れて、途中からお父さんに代わりました。お父さんがものすごい早さなので、ぼくは驚きました。

『もう、このへんでいいだろう』

お父さんは左手に持った板に、壁をくわですくって壁の材料をのせます。壁の材料を左手の板にのせるのはお母さんの仕事です。お父さんは、左手の板にのせた壁の材料を、右手に持った笹の葉の形をしたコテというかべをぬる道具で、塗っていきます。左上から右に向かって壁を広げていきます。お父さんの顔は真剣でした。      

『ぼくも縫ってみたいなあ』

正ちゃんがお父さんにたのみました。

『むずかしいぞお』

ぼくは、お父さんから道具を受け取ってためしてみましたが、かべの材料が壁に付かないで、ぼたぼたと下に落ちてしまいました。それに左手に乗せた壁の材料が重くて手が疲れてしまったので、お父さんに交替しました。

『やっぱりだめだろう。でも、練習すればお父さんみたいになれるぞ』

お父さんはだまってお母さんから壁を受け取るととどんどん塗っていきます。そのうち部屋の壁があらかた塗り終わりました。

『終わったね』と、ぼくがいうと、

『この後の仕上げがあるんだ』と、お父さんは平らな刷毛を取り出しました。

『このはけを使って、壁の周りに付いたよごれを取ってくんだよ』

なるほど壁の周りの柱に、はみ出した壁の汚れが所々付いています。お父さんは刷毛で汚れを少しずつ慎重に取ると、バケツに入れた水で洗います。      

『さあ、きょうはこれでおしまいだ。片付けて帰るかあ』

お母さんはお父さんが刷毛で掃除している間に片付けをだいたいすませていました。ぼくたちは家に帰りました

ぼくは、お父さんがどんな仕事をしているのかわかりました。ぼくは心の中で(お父さん、毎日、仕事大変だなあ。だから、帰ったらお父さんとお母さんの肩をたたいてあげよう)と思いました。おわりです」

正ちゃんは作文をなんとか読み終えたけれど、緊張して何を読んだか分からなかった。      

「いわまくんはお父さんの仕事を見てきたことを書いてくれました。左官屋さんが、どんな仕事かみんなにも分かって大変よかったと思います。きれいに塗られた壁の裏に、一生けんめい働いているいわまくんのお父さんの姿が伝わってきました。仕事は大変です。でも、何かをやりとげるということのすばらしさがみんなにも伝わったと思います」      

言い終わると先生は手をたたいてくれた。そしたら、みんなも手をたたいてくれた。正ちゃんは、はずかしくて頭がポーとしてしまった。正ちゃんはきっとお父さんの仕事がみんなからほめられたんだな、と思った。五重の花丸はお父さんがもらったのかもしれない。だから正ちゃんは家に帰ったらお父さんにこの作文を読んであげることにした。      

正ちゃんは、作文のことをお母さんに話したくて家に帰るなり大きな声をあげた。      

「ただいまあ。お母さん、作文に五重の花丸をもらったんだよ」

「へえー、がんばったねえ。何書いたんだい?」

「お父さんのこと」

正ちゃんは、台所で夕飯の支度をしているお母さんの横で、作文を読んだ。

「じょうずに書けてるねえ。お父さんが帰ってきたら読んであげるといいよ」

 日が落ちて暗くなったころ、お父さんが帰ってきた。食事のときにみんながそろっている前で、正ちゃんは作文を読み始めた

「たいしたもんだなあ。五重の花丸なんて。おれなんて、もの書くのはにがてで日記しか買いたことないからなあ。まったく、たいしたもんだ」

正ちゃんのお父さんは、なるほど、毎日日記を書いている。正ちゃんもお父さんを見習って、小学校二年生になったときに書き始めた。それからきょうまでどうにかこうにか続いてきた。

「正一も日記を書いてるから、作文がうまくなったのかなあ」

お父さんは晩酌のお酒が入って顔が真っ赤になってごきげんだった。

とにかくも正ちゃんの家では、五重の花丸の作文は、ひさびさの快挙だったが、だからといって、ごほうびは何も出ない。正ちゃんはごほうびに自転車でも買ってくれないかなあ、と思った。正ちゃんの家はおもちゃやなんかを買ってくれるということがない。ものすごくお父さんがケチんぼなのだ。

でも、日記は別だった。正ちゃんが小学校一年のとき、お父さんの日記が不思議なものに見えた。

「去年のきょうは、鈴木さんの家の壁を塗っていたんだなあ。あっ、水戸黄門のドラマを見たんだよ。あのドラマは面白かったよ。またやんないかなあ」

お父さんは古い日記帳を出してきては、お母さんと話している。お母さんはそれを聞いて笑っている。お父さんは家族のことも特別なことがあると書いているらしい。あるとき、いけないことだけれど、お父さんの日記帳をこっそりのぞいてみたら、あんまり字が下手で読めなかった。お父さんは、正ちゃんが書初めの練習をしていると、      

「しっかり練習するんだぞ。字がうまいと得するからなあ」と、いう。きっと、お父さんは、字が下手で損ばっかりしているのかもしれない。

そんなわけで、正ちゃんは日記というものを書いてみたくなった。

十二月の終わりころ、お父さんが正月休みで仕事がなくて、家にいたとき、

「ぼくも日記書いてみたいなあ」と、いった。そしたら

「これから日記を買いに行くから正一も来るか?」と、いう。正ちゃんはお父さんといっしょに近所の書店についていった。正ちゃんはお父さんに手のひらに乗るくらいの小さい日記を買ってもらった。日記は、お父さんがはじめて買ってくれたのものだった。正ちゃんは大事に使おうと思った。

それから正ちゃんの日記書きが始まった。正ちゃんは何を書いたらいいかわからなくて、だいたいが朝、昼、晩の食事の献立を書いた。正ちゃんの楽しみといったら、食べることくらいしかなかった。いや、ほかにも何かしらあったのだろうけれど、ほかのことは書くのがむずかしかっただけだった。後は、学校の行事のことや何をして遊んだとか、何のテレビアニメを見たとか、そんなものしか書かなかった。それでも、お父さんと同じように「去年のきょうは何をしていたかなあ」と独り言をいって、日記を見るのだ。それがものすごく楽しい。

温かな春から、少しずつ日差しも強くなり、いよいよ夏休みがやってきた。

夏休みに入って二日目に、かおりちゃんのお母さんが正ちゃんの家にやって来た。      

「一週間ほど、かおりをつれて、お父さんのところへ行ってまいりますので、留守をよろしくお願いします。何かありましたら連絡先はこちらへお願いします。

かおりちゃんのお母さんは、電話番号を書いたメモを正ちゃんのお母さんに手渡した。かおりちゃんとかおりちゃんのお母さんは大きな茶色のかばんを手に下げていた。

次の朝。正ちゃんはかおりちゃんの赤い自転車のところへ歩いていってハンドルをにぎった。

正ちゃんはサドルにまたがってみたが、足のかかとがべったり地面につくので少しもこわくなかった。そっと地面をけってみた。自転車はゆっくり動いた。正ちゃんは赤い自転車を家の前の道路まで出した。せまい道路なので、自動車は来ないから安心だったが、かおりちゃんに見つかるとまずいと思った。かおりちゃんが今にも帰ってきそうなので、正ちゃんはとちゅうで乗るのをやめて、自転車を元の場所へ返した。けれど、その日、かおりちゃんは帰ってこなかった。

「お母さん、かおりちゃんち、どっかでかけたのかなあ」

正ちゃんはお母さんに聞いてみた。お母さんも正ちゃんが自転車を練習しているのを知ってて、

「かおりちゃんは一週間くらいでかけてていないようだから、その間、自転車を使わしてもらうといいわ」

「でも、だまって使ってたらいけないよね」

「それなら大丈夫よ。きょう、正ちゃんが練習してるのを見て、かおりちゃんのお母さんとこへ電話したら、自転車使ってもいいからっていってたから」

正ちゃんは自転車に乗れる自分を夢見て胸がわくわくした。

次の日、朝ごはんを食べた正ちゃんは、さっそく自転車を家の前の道路に出した。正ちゃんはペダルの上に足を乗せる練習から始めた。でも、こわくてペダルに乗せた足をすぐに地面にもどしてしまう。そんなことを何回もくりかえしていた。体は汗でびっしょりになっていた。

 次の日も、ペダルに足を乗せることのくりかえし。何回かためしていたら、ペダルに足を乗せたまま三メートルくらい自転車を進めることができるようになった。

ペダルに乗せた足で、ペダルをふむ練習だ。まず、右足からふむことにした。右足に力を入れると、自転車が右にかたむく。

「わあー」

 正ちゃんはそのまま自転車を右にかたむけ、へいに右肩をおもいきりぶつけ、そのままころんでしまった。

「いたあー。やっちゃったよ」

右の手をすりむいた。ちょっぴり血がにじんで出ていた。白いTシャツはどろだらけになってしまった。

よくじつも、ペダルをちょっとずつふむことにした。きのうの手の擦り傷が痛む。      

一度にふむと、またきのうのようにバランスをくずしてしまう。しんちょうに自転車にいきおいがついたところで、ペダルに乗せた右足を少しだけふみこんだ。ちょっとだけ自転車が前に進んだ。

「わあーい、進んだあ」

正ちゃんは、右足だけを使って前に進んでいく。何となくバランスの取り方がわかってきたような感じだった。何回かくりかえし、正ちゃんは勇気を出して、こんどは左足をふみこんだ。グーン。いきおいがついて進んだ。まるで自転車から音が出たような気がした。自転車はさらに進んだ。でも、その一回だけで、その後はハンドルが右に左にふれて、また転ぶのだった。

「いたあーい」

今度はひざをすりむいたみたいだ。ズボンのひざが破けてしまった

「お母さんにおこられちゃうよ」

正ちゃんはがっかりした。また、やる気がなくなった。家に入って、ズボンの破けたことをお母さんにいったら、

「継ぎを当てればわからないから大丈夫よ」といって、しかられなかった。

「自転車乗るのを手伝わないけど、ほんとうに大丈夫なの?」

お母さんはけがをした正ちゃんのことを心配した。

次の日。こわいと思っていたらいつまでも乗れないぞ、と自分にいい聞かせた。でも、やっぱり右に行ったり、左に行ったり、そのたびに塀にぶつかりそうになってブレーキをかけてしまう。

「がんばるぞ」

 正ちゃんは気合を入れた。自転車を止めたまま、ペダルに右足を乗せて最初からこぐことにした。右足のペダルをふみおろす。自転車がゆっくり進む。左足のペダルをまた踏みおろす。さらに自転車は進む。また、右足のペダル。そして、左足。自転車はスーという風を切って進んでいく。十メートルは進んだ。さっきよりまっすぐ進んだ。自転車の方向を戻し、もう一回ためしたらまた十メートル進んだ。正ちゃんは家にいるお母さんのところへかけていった。

「お母さん、見て。乗れるようになったよ!」

正ちゃんのお母さんが家から出てきた。

「乗れるようになったのかい?」

 正ちゃんは得意そうに乗った。笑ったお母さんの口の出っ歯が輝いて見えた。

 正ちゃんが自転車をこいで、私道を行ったり来たりしていたとき、

「いやあ。何であたしの自転車乗ってるの」

 正ちゃんはあわてて、ブレーキをかけた。ふりかえると、かおりちゃんが立っていた。正ちゃんは何もいえずだまっていた。かおりちゃんがかけ寄って来た。

「それ、あたしの自転車よ。勝手に乗って、どろぼう!」

かおりちゃんは顔を真っ赤にして今にも泣きそうな顔をしていた。すぐ後ろにかおりちゃんのお母さんが立っていた。

「かおり、どうせ乗ってないんだから、正ちゃんにかしてあげればいいじゃない。お母さんがいいっていったのよ」

「あたし、そんなこと聞いてないもん!」

かおりちゃんはついに泣いて、家の中にかけこんでいってしまった

 正ちゃんはそのときからかおりちゃんに会うのが気まずかった。正ちゃんはかおりちゃんの自転車を、かおりちゃんの玄関の脇へ置いて、家の中へ入った。

その日の夕暮れだった。正ちゃんのお父さんが仕事から帰ってきた。

「ぼく、自転車が乗れるようになったんだあ。かおりちゃんの自転車で練習したんだよ」      

「そうか。そいつはすごいなあ。よくがんばったな」

正ちゃんは、お父さんに自転車を買ってほしいとたのもうとしたが、正ちゃんのお父さんはすぐに風呂へ入ってしまった。体を使う仕事をしているお父さんは、仕事場で汗をびっしょりかくから、いつも帰るなり風呂へ入ってしまうのだ。特に夏場はよけいだった。

「はあ、いい湯だったなあ。風呂が一番だあ」

風呂から出てきたお父さんは、冷蔵庫からびんビールを出してきて栓を抜く。泡がこぼれないように慎重にコップにつぐと、待ってましたといわんばかりに、ごくごくいっきに飲む。

「ふぁー、うめえーなあ。生きててよかったよお」

お父さんの一番の楽しみだった。お父さんはいつもビールをうまそうに飲んでいる。ごきげんなひとときだ。自転車を買ってもえるようにたのむのは今しかない。正ちゃんはこのときとばかりとお父さんにいった。

「ねえ、ねえ、自転車買ってほしいなあ」

正ちゃんはおそるおそる小さい声でいった。

「へえ、こまったなあ。うちには、そんな自転車を買う金はないからなあ」

「あきらくんや、ひとしくんや、さとるくんもみんな持ってるんだ。かおりちゃんだって持ってるんだよ」

正ちゃんは買ってもらうために懸命だった。

「うーん、こまったなあ。兄ちゃんたちも買ってやんなかったしな。お前だけというわけにも行かんからなあ。まあ、お兄ちゃんたちと時代が違うしなあ。もう少し大きくなったらだなあ」

「もう少しって、どのくらいなのお?」

正ちゃんのお父さんはそれきりだまってしまった。やっぱりだめだった、と正ちゃんは思った

その後、正ちゃんがお父さんに自転車の話をすると、「もう少し大きくなったらなあ」というだけだった。

自転車どろぼう事件があってから二週間後、かおりちゃんの家族は、越していった。もう少しで夏休みも終わろうとした時期だった。みいみいゼミが夏の終わりをおしんで、最後の力をふりしぼって鳴いていた。

かおりちゃんは、もちろん、あの赤い自転車を持っていった。なんでも、かおりちゃんたちもお父さんの住んでいるところへ行って家族でいっしょに生活することに決めたらしい。正ちゃんとかおるちゃんは、どろぼう事件があってから口を聞いていなかった。だから、正ちゃんは、かおるちゃんが荷物をのせたトラックに乗る後姿を見送っただけで、さよならさえいえなかった。

かおりちゃんのいたアパートは、すぐに別の家族が引っ越してきた。正ちゃんより大きな高校生の女の子のいるお父さんとお母さんの家族だった。もちろん、かおりちゃんの玄関の脇の赤い自転車はない。そのかわり大きな大人用自転車が置かれた。正ちゃんはその自転車のあった場所を見るたびに心が痛んだ。

 夏休みも後一週間となった夕方のこと、正ちゃんが遊んで帰ってくると、めずらしくお父さんが早く帰ってきた。

「正一、物置に行ってみな」

正ちゃんが物置に行くと、お父さんの自転車のとなりに青い自転車が並んでいた。

「これだれの自転車だろう?ひょっとすると、ぼくの自転車なの?」

自分の自転車であってほしいと願いながら、正ちゃんは急いでお父さんのところへもどって聞いた。

「ねえ、おとうちゃん、あれ、だれの自転車なの?」

正ちゃんのお父さんはにこにこしていた。

「正一のだよ。もう、暗くなちゃったから、あした乗ってみな」

「わあーい、やったあ、ありがとう」

正ちゃんはうれしくて物置にかけだしていった。物置の電気をつけたが、物置のあかりは暗いのでよく自転車が見えなかった。正ちゃんは朝が待ち遠しくて仕方なかった。      

次の日の朝、正ちゃんは顔を洗うとすぐに、お父さんといっしょに物置に行った。お父さんは自転車を物置から出してくれた。

「仕事先の友だちからゆずってもらったんだ。だいじに乗りなよ」

青い自転車は、お父さんの友だちの子どもが乗っていたらしい。青い塗装がところどころくすんでいたり、ちょっとさびたりしていたけれど、だいじに乗ってたようで、ほどんど、新品と同じに見えた。

「さびてるところは油でみがけばきれいになるから」とお父さんはいった。

正ちゃんは、お父さんがお兄さんたちにも買ってあげなかった自転車を、正ちゃんに買ってくれたことがものすごくうれしかった。

 正ちゃんは、朝ごはんを食べると、近所の文泉公園へ自転車に乗らないで押して行った。自転車が乗れるようになったとはいっても、かおりちゃんの自転車に乗れてから、だいぶ日にちがたっていたから乗れなくなっているのがこわかった。

公園に着くと、正ちゃんは自転車にまたがりサドルに腰掛けた。右足をペダルに乗せゆっくりとペダルを踏む。自転車はゆっくり走りだす。やっぱり乗り方のこつを覚えていた。最初はふらふらしていたけれど、一時間ほど走っていたら、まっすぐに走れるようになった。正ちゃんは自転車を走らせながら家に帰ってお母さんにいった

「ぼく、だいぶ上手に乗れるようになったよ」

「よかったわねえ。車の走ってる道路はあぶないから、なれるまで走っちゃだめよ」      

お母さんは交通事故を心配していた。

よくじつ、正ちゃんはあきらくんのところへ電話した

「ぼく自転車買ってもらったんだあ」

「へえ、正ちゃん、やったね!」

あきらくんの驚く声が、受話器から聞こえてきた。正ちゃんは、あきらくん、ひとしくん、みのるくんを誘って、荒川まで行くことにした。

「正ちゃん、ほんとに買ってもらったのかい?」

みのるくんが、正ちゃんの自転車を見ていった。

「うん、そうだよ」

正ちゃんは大きな声でいった。新品じゃなかったけれど、一生けんめいみがいてみのるくんのより光っていたから、まさに新品と同じだった。

道路は車がいっぱい走っていた。正ちゃんたちは歩道を走っていった。

 三十分くらい走ると、荒川に着いた。コンクリートで作られたていぼうが、ずっと続いている。夏の青空が川にうつって川まで青色だった。みんな自転車からおりて川の傍まで行った。小さな波が打ち寄せている。

「クラゲがいたぞ!」

ひとしくんが叫んだ。円形の透明な色の傘をしたクラゲがいっぱい波にゆられていた。川なのに海に近いこの場所は、塩分が含まれていて海と同じなのか、川のところまでクラゲが入って来ている

 水面が光できらきらしている。そのすきまから、クラゲがプカプカただよっている姿が見える。見えるだけで二〇匹はいる。掛け声に合わせ、みのるくんが、クラゲ眼かげて傍にある小石を投げた。

「みのるくん、やめなよ。クラゲが、かわいそうだよ」

正ちゃんが顔をしかめていった。

「なんだあ。おもしろいのになあ」

みのるくんは、ひらめいた遊びをけなされて残念そうだった。

「クラゲはいいめいわくさあ」

あきらくんが言った。クラゲはぷかぷか浮いたり沈んだりしている。夕日が沈みかかけて四人の影が長くなってきた。四人は、家に帰ることにした。

 

夏休みが後三日で終わろうとした日。正ちゃんに一通のはがきが届いた。かおりちゃんからだった。

「正ちゃん、まだ、暑い日が続きますが元気ですか。わたしはこっちでも元気でやってます。自転車のことですが、あの自転車はお父さんに買ってもらった思い出の自転車です。わたしは、乗る練習をしたとき、お父さんが助けてくれて乗れるようになりました。だから、その自転車を正ちゃんに勝手に乗られて頭に来ちゃたけれど、今は怒っていません。正ちゃんは一人で頑張って乗れるようになったと聞いて驚いています。自転車買ってもらえるといいね。では、元気で」

正ちゃんはやっと気分が晴れた気がしました。けんか別れしたかおりちゃんのことがずっと気掛かりだった。正ちゃんもかおりちゃんにさっそく手紙を書いた。

「かおりちゃん、元気そうでよかったです。かおりちゃんの自転車、黙って乗ってごめんなさい。僕もお父さんに青い自転車を買ってもらいました。とっても乗り心地がいいです。だれかが乗っていたお古だけど、とってもうれしかった。ぼくのお兄ちゃんたちも羨ましがってます。また、会えるといいね。元気でね。さようなら」

 

夏休み最後の日、とつぜん、お父さんの仕事が休みになった。

「あした、海水浴に行こうかあ」

「わあーい、行こう、行こう」

夕食の席、お父さんの提案で、急きょ、海水浴に行くことになった。お父さん、お母さん、お姉さんと正ちゃんの四人で行くことになった。場所は千葉にある船橋ヘルスセンターというところ。二人のお兄さんたちは、友だちと遊ぶ約束をしていたから、家で留守番をしていることになった。

電車に乗って約一時間半。センターへの案内板が、駅を降りると目に入ってきた。

「もっと、早く歩こうよぉ」

正ちゃんは少しでも早く泳ぎたくてみんなをせかした。お父さんやお母さんと遊びに来たのは、小学校へ入る前に海水浴へ行ったきりだから、本当にひさしぶりだった。      

このセンターには、高さ五十メートルもある特大の滑り台がある。正ちゃんはお姉さんといっしょに長い階段を上った。滑り台の頂上に立つと、東京湾が見えた。       

「正ちゃんが先に滑る?」

お姉さんが正ちゃんを心配している。正ちゃんはちょっとこわかった。

「うん、お姉ちゃん、見ててくれる?」

正ちゃんはどのくらい滑り台が滑るのか分からないので、隣の滑り台を見た。正ちゃんより三学年くらい下の男の子がいた。男の子は大きな声を出して滑り出した。瞬く間に下りていった。

「早く行けよ!」

後ろの方で、正ちゃんをせかす声がした。

「やっぱり、お姉ちゃんが先に行ってよ」

正ちゃんはこわくてしりごみした。

「じゃ、後から来るのよ」

お姉さんは滑り台の手すりに手を置いて、ゆっくり滑って下りていった。

「何だァ、ああやって下りればいいんだあと、思ったら急に気が楽になった。

正ちゃんも途中まで手すりに手をついてゆっくり下りていたが、半分ぐらいおりたところからから手をはなした。スピードが出た。まわりの景色がどんどん近づいてきた。ジャバーン、という音がして水の中深くつっこんだ。

「正ちゃん、どう?こわかった?」

お姉さんが笑って見ていた。正ちゃんもあんまりおもしろかったから笑った。

「正ちゃん、もう、一回、行こうよ」

「うん」

二人はまた滑り台の階段を上っていった。正ちゃんにとって、海水浴は楽しかった。お父さんやお母さんといっしょに来られたことがうれしかった。楽しい夏の思い出になった。また、来たいと思った。けれど、次の年の夏に、お父さんに不幸な出来事が起こるなんて、正ちゃんたちは知るはずもなかった。

 

 正ちゃんは中学一年生になった。楽しい夏がまたやってきた。

正ちゃんの家の風呂は、薪を燃やしてわかしていた。その薪をつくるのは、お父さんの仕事だった。お父さんが行く建築先の現場からあまりの木材をもらってきて、斧で割って風呂の釜に入るように小さくするのだ。

 夏休みに入って一週間ほどたったあたりがうす暗くなった夕方のことだった。

「たいへんだ。目に釘が刺さった!」

庭で木材を斧でわっていたお父さんが、玄関から片目を手で押さえながら、大声を出してかけこんできた。玄関にいた正ちゃんはわけがわからず立ちつくしていた。お父さんの声からただならないことが起きたことは見当がついた。

「どうしたの?」

夕飯の支度をしていた正ちゃんのお母さんが、台所からお父さんの声を聞きつけて急いで出てきた。お父さんとお母さんは、正ちゃんに「城北病院へ行く」といって家を出ていった。      

八時ころ、お母さんだけがもどった。お父さんは入院することになったからといって、お父さんの着替えを持ってまた病院へ向かった。

次の日の午後、正ちゃんは二人のお兄さんとお姉さんで、病院へお父さんに会いに行った。病室へ入ると、お父さんがベッドに寝ていた。片目に眼帯をしていた。ベッドの脇の椅子にお母さんが座っていた。

「おう、みんな来たか。まいっちまったなあ」

お父さんは悔しそうに眼帯をしていない片目をつぶった。よく見ると、お母さんが泣いていた。正ちゃんはお母さんの泣く姿をはじめてみた。きっと大変なことになったんだ、と思った。

「目に釘が刺さったんだ。間が悪かったんだなあ。もしかすると、壁、塗れなくなっちまうかなあ」

 お父さんは泣いているお母さんに向かっていった。お母さんはだまっていた。お父さんは、お兄さんたちに右手を差し出した。

「こいつが刺さってたんだ。まったくよお」と、いう。お父さんの右手に長さ四センチメートルほどの光ったくの字に折れ曲がった釘がのっていた。それがお父さんの目を直撃してささったのだ。

「みんなせっかく来てくれたんだ。お見舞いにいただいたバナナでも食いな」

お父さんの声は明るかった。

 正ちゃんたち兄弟は、お父さんからちぎったバナナをわたされると、だまって食べた。お父さんの右目は完全に見えなくなった。

一週間後、お父さんは退院した。釘がさびていなかったので、ばい菌が目に入らなかったのが、不幸中の幸いだった。でも、まだ白い眼帯はしていた。

一週間ぶりに家族そろって夕飯を食べた。お父さんは大好きな酒もきょうばかりは飲まなかった。傷に悪いからだそうだ。みんなは黙ってごはんを口に運んだ。お父さんは当分仕事を休むことになった。

 

あくる朝、早起きのお父さんがいつになく布団に入っていた。正ちゃんはお父さんのことが心配だった。

 正ちゃんが、あきらくんたちと遊んで家に帰ってくると、お父さんはいつもより早く日記を書いていた。

「ああ、なさけないなあ……」

 お父さんが独り言を言っていたのを、正ちゃんは聞いた

 片目で見るようになったお父さんは、細かい字を見るとなれないせいで頭が痛むようだった。

 一ヶ月後、お父さんの眼帯が取れた。傷口が化膿する心配もないようで、後は片目で見ることに、なれるしかないらしい。

夏も終わりになりかけた。

「正一、あした、お父ちゃんとサイクリングに行くか?体を動かさないとなまっちゃうからなあ」

仕事でいつも体を使っていたお父さんは、けがをしてからずっとうちにいた。正ちゃんとお父さんは、葛飾にある柴又帝釈天までお参りをかねて、サイクリングに行くことにした。夏の日差しが強いから二人とも帽子をかぶっていくことにした。お父さんは麦わら帽子。正ちゃんは野球帽をかぶった。

亀戸から京葉道路を通って江戸川大橋まで来た。江戸川大橋へでると江戸川が流れていた。街中から川に出て見通しが良くなった。ときどき吹いてくる川風が、体に当たって気持ちがいい。正ちゃんの着ていたTシャツは汗でぐっしょり濡れていた。ここから江戸川沿いを北に走る。目的地までもう少しだった。

川の両岸に葦が生えている。所々に畑が見える。夏の日差しを受けて、緑の匂いが鼻をつく。

二時間ほどで、柴又帝釈天についた。まずはお堂でお参りをする。正ちゃんはお父さんの目がよくなるように心の中で祈った。境内には鳩が、餌をくれている男の人のまわりに集まっていた。ゴロッポ、ゴロッポと鳴きながら群がっていた。お父さんが餌売りのおじさんから餌を買ってくれた。      

「正一も餌を上げてみな」

お父さんは餌売りのおじさんから買った餌を正ちゃんに手わたした。正ちゃんの足元にたくさんの鳩が集まってきた。正ちゃんたちは、しばらく鳩をながめていた。

「正一、お腹すいたろう。ウナギでも食べようかあ?」

帝釈天の門を出た。団子屋の店が、道の両脇にいくつか並んでいる。正ちゃんはウナギより団子の方がいいと思った。河内屋という店の前に来た。

店先で、おじさんがウナギを調理していた。おじさんは、樽に入ったウナギをじょうずに片手でつかみとる。ウナギをまな板にのせると、頭に鉄の串をつきさした。あっという間に腹をさいていく。それに竹の串をさしてたれを付けて焼くのだ。ウナギとたれが焼かれてなんともいえないいいにおいがした。

「ここへ入るぞ」

お父さんが、先に暖簾をくぐって店の中へ入っていく。正ちゃんたちはうな重を注文した。

「高いから残すんじゃないぞ」

正ちゃんたちはだまって、ウナギを食べた。

「さあ、帰るかあ……」

お父さんはみんなのお土産にとウナギを買った。正ちゃんにとって、ウナギを店で食べたのはこれが初めてだった。お父さんはときどきお土産といっては買ってきていたが、この店のだろうかと正ちゃんは思った。

 

三日後、お父さんは昔と同じように仕事に出た。正ちゃんは帝釈天へお参りに行ったご利益かと思った。

 けれど、昔と同じだと思ったのは間違いだった。お父さんは片目が見えなくなったからやはり壁が塗れなくなってしまったのだった。それで、お父さんは仕事先で壁の材料を運んだり、道具の片付けをしたり、主に雑用といわれる仕事をやっていたのだ。 今まで腕のいい左官職人としてやってきたお父さんが、その雑用仕事をするようになったのはよほど苦しかったに違いなかった。お父さんは重い材料運びなどを専門にやっていた。

 

 正ちゃんが高校へ入ってまもなくのときだった。お父さんはまったく働けなくなったのだ。腰が痛くて立つ事が出来なくなった。

お父さんはそんな体になったが、ある程度は予想していたようだ。体を使う仕事はいつかだめになるかもしれないと思っていた。だから、一生けんめい働いてためたお金で、アパートを建てていた。その家賃で入るお金で何とか生活を支えた。でも、正ちゃんたち家族はなるべく節約して生活した。

一番上のお兄さんと二番目のお兄さんもそのころは働いていたから生活費を入れてくれていた。一番上のお兄さんは会計事務所につとめ、二番目のお兄さんは化学プラントの設計事務所に勤めていた。

「お父さん、もう、五十六だし、今まで一生けんめい働いたんだからもう休んだら……」      

みんながお父さんの体を心配した。お父さんは腰の手術をして、前のように何とか歩けるようになった。でも、もう肉体労働は無理とお医者さんに言われて仕事をすることはあきらめた。

「ゆっくり遊んで暮らすか。なんだか、おてんとうさんの罰が当たりそうだなあ」      

お父さんは、正ちゃんが働けるようになるまではがんばって働かなけりゃと思っていたがちょっと隠居が早くなった。

次の年、正ちゃんは高校を卒業して公務員になった。

「おとうちゃん、おかあちゃん、今まで旅行しなかったから、これからはいっぱい旅行しようよ。お金はみんなで出すからさ」

すぐ上のお姉さんが提案した。このころ、お姉さんも銀行に就職していて、けっこういい給料をもらってきていた。

「そうしよう」

正ちゃんは、心からお父さんやお母さんに楽になってもらおうと思った。

その年の夏、兄弟で働いてもらったボーナスでそろって水上温泉へ一泊旅行に行った。      

「長生きしてこれからもいっぱい旅行できるといいね」

このころ、一番上のお兄さんが、女の人を家につれてやってくるようになった。正ちゃんは社会人二年生になってなんとか仕事先の先輩や同僚にもなれてきたころだった。 

    

「こんにちは」

住んだきれいな声であいさつされた。お兄さんの連れてきた女の人は、きれいな服を着て正ちゃんの家にやって来た。正ちゃんははにかんであいさつをした。それからも女の人は、何度か正ちゃんの家に遊びにやってきては夕飯をいっしょに食べて帰っていった。みんな初めのころは黙っていることが多かったが、そのうち笑い声も出てくるようになった

六ヶ月後、お兄さんは女の人と結婚した。女の人は正ちゃんにとって義理のお姉さんになった。義理のお姉さんは正ちゃんの家に同居することになった。正ちゃんの家に家族が増えた。正ちゃんが生まれてからしか知らない別の人が、家にやってきたのだ。      

こうして正ちゃんの少年時代はいつのまにか終わった。だれもが通りすぎた何でもないが、楽しい少年時代の幕はおりた。

二番目のお兄さんも結婚して家を出ていった。別の家に新しい家族として生活を始めた。生まれ育った正ちゃんの家から、別の家で、別の家族として出発していった

すぐ上のお姉さんも運送屋を経営する男と人と結婚して家を出ていった。考えてみれば亀戸町にいくつもの出来事があり、いくつものの思い出があった。

正ちゃんも結婚して、長い間住んだ故郷の街を離れた。正ちゃんにもやがて子どもが生まれ、正ちゃんの家族にもいくつもの出来事が「こんにちは」といって、きっとやってくるのだろう。

 

(了)

 

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