2002年10月から発行してきた「こんにちはしんどめ久味子です」は今年で12年。第1号は「しんぶん赤旗 読者ニュース」として発行。
No.11号からは「読者だけに配るのはもったいない。駅でも配布したら」と党員の方々に激励され、タイトルも「こんにちはしんどめ久味子です」に改め赤間駅(南口)でも配布するようになった。
当初は、200枚用意していても余って・・・落ち込むことが度々だったが、定期に配布していると少しずつ顔なじみになり、「いつもご苦労様!」「寒いのにお疲れ様」など声をかけられ、少しずつ枚数も増え、教育大前駅でも配布しはじめ今では、週2回の駅立ちとなり配布枚数も増えてきた。
この頃では、ツイッターやフェイスブックなどで“つぶやき”も多くの方々がやり始めているが、私の“つぶやき”はNo.2号からはじまった。もう12年もつぶやいてきている。
1回目の“つぶやき”は、私の父が他界した思いを綴っている。懐かしい・・・
私の人生の節目節目に、そして子育て日記のように・・・また夫婦あり方にも、喉頭がんになったときも・・・私の人生の記録のように・・・
私がこの活動を10年以上も続けてこられたその原動力は、市民のみなさんとの大切なつながりが支えてくれている。「お疲れさん!」のひとこと、入院ししばらく活動をお休みすることを知らせたら、
多くの“つぶやき”読者から激励のメッセージを頂いたこと、高校生だった子ども達が「やっと、新留さんのビラをもらえます」と声をかけて受け取ってくれたこと・・・
市政に対する要望や要求を話してくれたこと・・・
やっぱり!私の活動の柱です。とことん市民の皆さんの声に耳をかたむけ、その声を議会に届けること・・・これが市民の代弁者としての私の議員スタイル!
これからも“こっぴとがんばっぺ!”(朝ドラの観すぎですねフフフ・・・)
(2014年10月)
昨今の出来事やニュースで嬉しい話題の少ない今日この頃。でも私にとって嬉しいことが2つ。
ひとつは、2016年10月発行のつぶやきNo.472に掲載した福教大の学生からの生活相談。その学生は、家庭の事情で健康保険証を持たず、無保険で学生生活を送っていたが、教育実習の時に健康保険証を持参しなければならず、私の所に相談に来た。
あれから7年。風の便りで、いまは県内の小学校の教員となり、日々奮闘していると聞いていた。
そして先日、連絡があり「結婚することに・・・」とても嬉しかった。
相談の時「私は貧乏でもまだお医者さんにかかれるから幸せだと思います。友達は、何日も高熱が続いても『お金がかかるから』といって我慢している人も何人もいます。私達にとって5千円とかでも大変ですから」とつぶやいていた。
今でもこの状況は変わらず、さらにコロナ禍の中で深刻になっているのでは・・・何やってんだ!と悔しい!
えっ!今日は嬉しい話だったはずだが? とにかくMちゃん、おめでとう!
もうひとつは、先日の教育大前駅での駅立ちの時に、ひとりの女性の方が散歩の途中で、わざわざ道を渡り私の方に来て「ビラください」と・・・
「あっ!ありがとうございます」「私、10年ぐらい前に現役で働いている時、いつもこのビラをもらって読んでいました。頑張ってね!応援していますよ!」と、大変嬉しい声かけをして頂いた。
駅立ちを初めて20数年・・・いろんな出会いが私の議員活動を支えている。
“継続は力なり” この言葉を信じてこれからもレッツゴー(昭和の言い方?)
今夜は月見で乾杯!
(2023年10月)
「新留さんは、どうして共産党に入ったんですか」「いつ頃、入られたのですか?」とよく聞かれる。そこで今回は、私と日本共産党との出会いを“つぶやき”に・・・
私は、20歳のときに入党した。ちょうど保育科に通う短大生の時に、子どもに生のお芝居を!自然の中でキャンプや地域で遊びを通して子ども達の仲間づくりを!などを中心に活動していたサークルに青年として参加。 その活動で出会った仲間と交流する中で、社会の仕組みや平和の問題、文化的な生活とは・・・などなど考えるようになり、なにより平和な社会を!この思いから入党へ。
それから、福岡市早良区の私立幼稚園に就職が決まり、そこでもまたこれまでの活動に加え、保育運動、組合活動そして、日本共産党の党員としての活動もはじまり、たくさんの仲間達といろんな経験をした。楽しかった!ひとり暮らしもはじめ、自由に親から干渉されることなく、好きなように活動ができる生活だった。
職場には、その時代には、めずらしく幼稚園教諭の組合があり、先輩の先生たちから本当に多くのことを学んだ。 1年目に一緒に担任させていただいたA先生には保育者としての生き方、子どもの発達をどうみるのか、また働きながら学び、子育てをしているA先生の女性、母親そして、日本共産党の党員としての生き方も学んだ。このA先生との出会いも人生の中で本当に貴重なものとなった。
いちばん印象に残っているA先生の言葉は「保育は科学よ。だから、どんな子でも発達する。ひとりの人間として発達する道のりはどの子も同じ。それは、たとえ障がいがあってもなくても、みんな同じなんだよ」これは、それから私が20年間、保育者として保育をする柱となった。 ある年、養護学校の幼児部から編入を希望してきたA君を私の職場で受入れるときも、A先生は、この考えを貫き、入園を拒んでいた園長に食下がった姿が今でも忘れられない。結局、A君はみんなと同じように幼稚園での保育を受け卒園していった。今頃、どうしているかな?
しかし、このA先生は、私が就職して3年目の5月5日に亡くなられた。骨髄性の白血病だった。子どもの日を選んだように、保護者や職場の仲間、何よりも多く子どもたちに見送られ、真っ青な空へ旅立った。
もうお会いすることはかなわないが、今の私の生き方をきっと応援してくれると思う。「へえ!久味ちゃん!がんばりよるね!嬉しいね!社会はきっと変わるよ!どの子もどの人も、人間らしく生きられる社会に変革せないかんよ!」と・・・
(2015年6月)
今回は、日本共産党員としての活動の原点にしている「平和」への思いを少し・・・
今年は戦後70年。「平和」は私の活動の原点。私にそのことを強く考えさせた存在は私の両親だ。すでに二人とも他界した両親は、結婚してすぐに長崎で被爆。私は戦後生まれの被爆2世。 生きている間には、多くを語らなかった両親だったが、被爆して30年以上経った時、父が胃がんと診断され胃の摘出手術を受けた。その時はじめて私は、放射線の恐ろしさをいやと言うほど知らされた。
当時の父は、三菱造船所に勤務していたので、原爆投下当日は、潜水艦の中で作業していて、直接放射線を浴びたわけでもなくその時の外傷はなかった。しかし、長崎から実家のある佐賀まで避難するまでの間に被爆したと考えられる。 本人も被爆しているとは思っていなくて、胃がんの手術をするまで被爆者手帳も交付していなかった。しかし、父の身体の内部は放射線によって内臓が癒着し、胃を摘出することも難しい状況だった。長い時間をかけ、摘出したものの術後の状態は悪化し、長い間、食事をすることが全くできなかった・・・
この時に、私は原爆の恐ろしさを知った。30年以上もの間、父の身体を蝕み苦しめる、目に見えなくとも身体の内部まで浸透し、異常な身体にしてしまっていた・・・
自宅の2階にいた母は、お昼の準備をするために階段を下りているときに被爆。「一面がぱぁーっとオレンジ色になったその瞬間ガラスが飛び散り本当に何が起きたのか・・・父さんが飛んで帰ってきてくれてほっとした」と語っていた。母は軽い傷を受けた程度だった。しかし母も高齢になってから大腸がん、胃がんと苦しめられた。
あの一発の原子爆弾が、身体も心もそして人としての人生も・・・大きく変えさせてしまった。何十年も経ってもその傷は癒えることがない!消されることはない!私は、両親の被爆から学び、二度と戦争を起こしてはならない!核兵器廃絶こそ平和への道!このことが私の活動の原点となった。
そして、日本共産党が党創立以来一貫して平和の旗を掲げ、運動してきたことを知り、自分も入党して平和を願う人たちと運動し、平和な社会を築くことに力を尽くしたいと決意した。両親から繋いでもらったこの命を大切にして平和のために奮闘したい!
(2015年8月)
今回は、日本共産党議員としての思いを・・・
1期目の時、「宗像に日本共産党3議席を!そしてはじめての日本共産党の女性議員を誕生させよう」と宗像市の党組織は団結して奮闘した。私もその思いに応えようと立候補への決意となった。
はじめての選挙は1999年4月の統一地方選で、福岡市から転居したばかり。福岡市早良区の幼稚園に勤務していたので、3月までは幼稚園教諭の仕事と候補者活動と、二足の草鞋を履いての日々。いま考えると、よくがんばったなあ~。そして夫や二人の息子たち、党員や党支持者にも感謝の気持ちで一杯だ。
初当選してからは、これまでの仕事とは全く違う仕事に就いたわけだが、戸惑う暇などない毎日だった。
議会での初質問は、今でも緊張したことを覚えているが、自由ヶ丘にお住いの支持者から「新留さん!当選おめでとうございます。これから議場に立つ時は、新留さんが立っているのではなく、その後ろに貴女に票を託した方々がいることを常に心に刻んで、市民の思いを代弁してください」と話していただいたことを今でも忘れない! 今は、もうその方は残念ながら他界され、きっと遠くで私の活動を見守ってくださっていると・・・。
さて、私の議員としての姿勢は、先ほどの「市民の代弁者」「市民の声を議会にとどけ、その要求実現に奮闘する」こと。 そして質問にあたっては、とことん自分の足で調査し、過去の議事録をひもとき納得いくまで調べあげる。そして追求の糸口を見つけ、実現へと力を尽くす。この追求の糸口が見つかった時の「よっしゃ!」の気合は最高だ。(笑)
この姿勢で臨むとき、私は父の仕事への思いを重ね合わせて「やっぱり親子やなあ」と思うことがある。 父は長崎で被爆した後、実家である佐賀市に戻り佐賀県警に勤務した。刑事の職に就いていたが、出世に全く興味がなく、事件を追うことに使命感を持っていた。まさに、昔のドラマ「七人の刑事」にでてくるデカのイメージだった。 救急車や消防のサイレンが鳴ると、夜中でも飛び起き出ていっていたことを覚えている。だから、父親に遊びに連れて行ってもらったり、運動会などの学校行事も一緒に参加したりした経験も退職するまではなかった。
私が議員に当選した時、父は既に警察を退職。警察と共産党とは因果な関係だが、「真実をとことん追求する」、「間違ったことは厳しく追及する」など仕事に対する頑固な姿勢は仕事に向かう父親の生き方に少なからず影響を受けたのでは・・・と最近よく思う。 父からもらったこの生き方は、私の宝物かも・・・。
さあ!また12月議会がはじまる。みなさんの声を届け奮闘する決意だ。がんばるぞ!
(2015年11月)