「自分を自分と意識することが、己の中でのすべての進行を阻んでいる」と、現在に至るに、私の中に戒めるべき定義として、明瞭に確立されつつある。他人の様々な意見を、自身の思考の中で理解、判断し、「自己の導き出した回答」として、あたかも私自身が探し当てた一つの真実であるかのように、他者の見出した真実(もちろんここで言う真実というものは、本来間違っても普遍的に語れるような代物ではない、しかしそれに気付いていない者は多い)と照らし合わせ、その相違について議論するという一連の知的邂逅作業が、他者と自身との間に行われる際、様々な事象、思想、感情についての相互的理解の成立及び不成立という結果を生み出す。そして現在、その作業について、誰もが一切の疑問を持たずに、実直に、他者との理解を深める唯一の手段として、当たり前のように四六時中ひたすらに繰り返し行っている。私を含め多数の人々が、そのサイクルに日々追われ続け、自己と周りを『対立しない程度に』牽制し合い、時に取り込み、時に寄せつけず、『保つ』ようにと苦心しながら、生活を送っている。しかし、そのような一枚岩で形成された「自意識」を用いた他者との接触から生まれ出でる「自他混同」の破片を拾い集め、それを他者との対比の中で、「自己」の保身のための戦力として、一枚板へと貼り付ける作業をいくら積み重ねたところで、はたして、その作業の先に、苦心を伴うせめぎ合いを乗り越えたその先に、自らの内部は何で満たされているのだろう。数え切れぬほどの色を塗りたくられ、鮮やかさとともに表情を失った暗色の平面、その黒色で覆われた世界にはもう、自由に羽ばたき、空を駆け巡る鳥がたどる軌跡に伴い広がってゆくように広がる、真に旅をするべき、自意識内の世界、「自己と呼び得る漠然と広がりつつ変化していく意識空間」への旅路の最大の障害となり、それと同時に、冴え渡る新たな色相、精神世界(これこそ聞くとやたらと宗教的な意味合いに取られがちだが、変革には常に新しい世界への道が付属しているものだ)へと通じる鍵である「能動的」(無)意識空間へ停滞と閉塞、そして混濁をもたらす。
個人の存在のすべてを包括し、その中からすべてを生み出し、受け止め、意識、無意識すべてを司る「自我」について、それは様々な意見、認知、判断を処理する上での土台になるものの、その存在はむやみやたらに、「自身」が生き抜くのに必要不可欠な絶対指標、と考えては危険だ。多く「自我」に基づき「自己」を掲げる理由に、そこから導き出す意見の外部世界でも通用の確実性を夢見ているというパターンがある。現在まで生きてきた中で作り上げ『られ』てきた、最も頼れる、根の張った大木。正誤を問わずに私見を通してくれる唯一の場。頼り、最後に舞い戻る安住の揺りかご(依存し、自己を保つための温床と言うほうが正しいだろう)として存在している。本来、「自己」とは瞬間瞬間に生まれ、変わり続け、連鎖してゆく姿が健全であり、停滞、維持とは「混濁」へつながる危険因子である。いくら澄んだ水でも、同じところに溜まっていると淀み汚れてくる。絶対的なものに心酔するなど自己に酔い、他を省みないということと同じであり、それは即ち『我』にのみ通ずる鬼門である。「自我」は日々自身の内部で練り直されつつ「自己」へとつながる橋として、ひたすら下地に徹するべき存在なのである。「自我」の段階でとどめた意識が固定化され「我に基づく自己」になると、そのプログラムで動く個人の意識は、周りとの間に精神的、人間的なしがらみを生み出す物としかならない。自身は、確固たる意思と存在を認識し、存在している、一人の人間だと「我に基づく自己」についてを声高にあたりに言いふらす必要は無い。そこから生み出される意見といえば「自分はこう思うから・・・」という根拠からしか芽が出ない、まず我ありきであり『相手と戦うことを想定された思考』からはじき出された機械的な回答。もはや公式といったほうが正しく見えそうな産物である。一本の紐が自身の特徴と存在をより強く示すために、曲がり、ねじれ、切れないように丈夫になるほど、他の紐とはもつれあい、複雑に絡みあい、抜け出せなくなるものである。紐に固執するのではなく、その多くの紐を包括する空間自体にアクセスするべきである。つまり「自我」すら包括し、「自己」へとつながる空間を広げることが重要なのである。真なる「自己」を感じるためには一度全てから、「自己」と思っていたもの、常に自身の一つ一つの行動、思考をはじき出していた思考回路を疑わなければならない。価値観、からも脱却するほかない。「自我」という、時間の経過に伴い発生してきた「経験」と他者との情報交換から発生した「情報」を交え、自身の意識の中で完成されたかのように見えた道しるべを持たずに、漠然と自分の周りに果てしなく広がる意識空間の中へと、一度足を伸ばしてみるのがいい。頼るものがない、不安になるかもしれない。しかし足をつける地がないことを不安に思うことは無い。判断材料が無いということは、すべてが新鮮ということだ。動き、流れ、変化するものには、自然に他と共鳴する輝きと、すべてに通じ得る最小限の、しかし最も信頼とのできる鍵を得る。ただしこういう生き方は、ひどく生命力を削る。日々の新しい世界への旅の中で「自己」という空間を飽くことなく捜し求め、長く生きた者が作り上げてきたほんの小さな、守りの堅そうな城には目もくれず、ただそこにある、様々な事を見つめ続ける「自己」。その淀みなく流れ、広がる意識空間は、輝きを放ち、すべてを照らし出していく。しかしこの流れは長くは続けられない。「自己」を城として立て籠もると、もう中からの輝きは見えず、外に広がりつづける空間とも交わることは無い。人々は「賢く」なったと言いながら、遊牧の解放を忘れ、安住と安らぎ溢れる農耕に収まる。しかし収まる範囲と期間には限界がある。物理的にも、精神的にも。人々は、旅をすることを、恐れ、忘れてしまった。周りの人間が自身を、何かにつけて急き立て、はやらせ、追うべき目標を、「富」「名声」「地位」などにすり替えさせようと必死だ。私たちは、いつからこのような行動を当たり前と思うようになったのだろうか。
私は悲しい。それも、ひどく。生まれて、そして今まで生き延びてきたのは、本来の私なのだろうか。自分が自分を苦しめる日々が、周りから期待される行動に重なり合うなんて、これはもう、全てが病魔に冒されているとしかいえない。
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