苦悩の練金術

 

 

2.

 

頬を打たれたパリスは一瞬だけ戸惑った様に見えた。

長く息を吸いながらヘクトルは指を喉元へと動かす。

首を包み、掌を喉仏に当てる。

押し潰せばパリスは死ぬ。

なのに、弟は血の滲む唇を綻ばせて兄を見上げる。

それを見た途端、ヘクトルの手は力を失った。

叱咤をやり過ごせば望みを叶えてもらえる。

拒絶などありえない。

兄は決してそんな仕打ちをしない。

そう思っている表情でしかなかった。

ヘクトルは奥歯を噛みしめ、焦がす様に弟を見続ける。

考慮の全く窺えない、ただ求めるだけの笑顔を。

それを育んだのはヘクトルの仕業でもあった。

泣きながら許しを乞いに来た日。

まだ十にもならない弟が初めて「僕を愛してる?」と尋ねた日。

あの時から縋る手を拒むまいと決めた所為なのだ。

請われるままに許し、応えてきたが故に華の様な笑顔は育ち続けた。

自分の前では何の衒いも無く咲く程に。

力無い指で、ヘクトルは弟のまだ細い顎を撫でた。

吹き上がった怒りは倍の速さで震えながら鎮まっていく。

頭の芯が覚め、心が軋んだ。

疎ましさを愛しさが上回るのは何故なのか。

根底には兄弟だという事実がある。肉親への愛は揺るぎないものだ。

だが二つの感情の平衡を取るため、ヘクトルは常に耐えてきた。

拒絶にすら弁明が必要な状況に慣れかけていた。

殴り倒したくなる程、弟が憎く思える時も。

「殴って悪かった」

ヘクトルは全てを隠して笑う。

パリスは嵐が過ぎ去ったのを察知する。

与えられて当然だと思いながら、その不遜さを表さない。

相手に期待を超えた喜びを与え誑かす程の麗しい笑顔で感謝と好意を示す。

それほど兄の微笑はパリスを錯覚させるに足る優しさと、諦念を含んでいる。

だがヘクトルに折れる気持ちは無かった。

気が済むなら真似事でも何でもしてやろう。

痛みに弱い弟は耐えられまい。泣いて止めてくれと言い出すに決まっている。

そう思い、苦笑したにすぎなかった。

ヘクトルは香油を取る為に寝台を下りる。

 

ギリシャの技娼達とて慣れているからこそ出来る行為だ。

蓋を開けてもいない香油の壷を手に持ち、ヘクトルは弟を見下ろす。

「お前には我慢出来ないかもしれないぞ?」

寝台に俯せたパリスは、肩越しに勝者の興奮で揺らぐ熱い眼を兄に当てた。

薄く開けた唇から白い歯が覗き、その間では舌先が言葉を探る。

「どうかな」

短い答にヘクトルは頭を振り上を向いた双丘の狭間に香油を垂らす。

背丈は伸びたがパリスの身体は細かった。

乙女と見違える程ではないが逞しさにはまだ遠い。

未だ筋肉のうねりは浅く、皮膚の下で控えめにしか動かないからだ。

平らな尻は肉付きのよさが男を受け止める力を感じさせる女の腎部に比べ貧弱ですら

ある。突かれたら壊れそうだ。

ヘクトルは香油に濡れた指先で撫で上げる様に箇所を探った。

そこは技娼の様に慣れてもいなければ、力を抜いてもいない。

少し力を加えるとパリスが小さく身を捻った。

剣を握る節の立った指先は、ほんの少しずつ進む。

無意識に侵入者を弾き返す狭い所へ。

ゆっくりと押し込んでは止まり、無言で問いかける。

止めるか、と。

その度パリスは深い呼吸で呻きを消す。

顔だけが動いて横を向く。

張り付いた髪の下で顰めた眉が汗を受け止める。

喉を掠めて漏れる声の響きは霞んで息と混ざり、寝台に零れた。

強情な弟を降参させるべく、ヘクトルの指が急いて進む。

パリスが肩を竦め再び顔を伏せる。

それを苦痛の所為だと思ったヘクトルが、引き抜く為に締められた指を内で捻った時

傷ひとつ無い背中が大きく震えた。

敷布を握り締めた腕の先まで震えが走る。

「あ・・・・あつ!」

ヘクトルが弟に顔を寄せた時、ついにパリスは声を上げた。

生々しい色事の匂いにヘクトルは胸をえぐられる。

血がそこから溢れたかの様に汗が胸板を伝う。

動けない指はまだ内にある。

弟が震えた分だけ刺激を与える。

「あ、あつ、あ・・・・」

パリスは堰を切った様に兄の耳元で声を上げた。

快楽に塗れた声は、汗ばんだ脚が掠めるヘクトルの下腹部に痒痛をもたらす。

それが熱いペニスの脈打つ痛みだという事に気付かない程、初心ではない。

ヘクトルはただ、震える身体に覆い被さったまま驚愕していた。

乱れた巻毛が包む火照った横顔の淫猥さ。

肌が薄闇を纏ってうねる毎に腕や腰に触れる、その感触の滑らかさ。

男でありながら自分に劣情を抱かせた、女にも劣らぬ恐るべき艶かしさを隠していた

弟とそれに反応した自分自身をヘクトルは呪った。

「・・・・兄さん、まだ?」

淫らな声色でパリスが尋ねる。

もう笑ってはいない。

ヘクトルは女の様な言い草だと思い、指を引き抜いた。

腰布を開き、ペニスを同じ箇所に押し込む。

「くっ!う・う・・・・」

無理に開かれる痛みにパリスは呻く。

思うように入り込めないきつさと熱い感触に顔を顰めたヘクトルは呻きを吐息に変える。

秀でた額と眉の影になった眼が全てを見ていた。

黒曜石が雨に溶けずとも濡れはする様に、揺れながら留まっていた。

「あ、あっ・く・・・うっ!」

パリスは激しく頭を振り、寝台に擦り付けた。

緩やかな香油の香りに生臭い血の匂いが混じる。

強引にペニスを埋めてしまうとヘクトルはもう動かなかった。

その下でパリスの身体は硬いまま痙攣する。

「あ・あ・・・・!」

濡れた髪を項に落としながら顎が仰け反り、雫を零す。

空気の味を試すかの様にパリスは切れた唇をゆっくりと開いて震えた。

そして、寝台へと落ちる。

ヘクトルは達して柔らかくなった身体から抜け出し、傷ついた唇を拭う。

求められ与えたのは相姦だ。

起立したままのペニスを濡らしたのは弟の血なのだから。

だが引き様の無い場所に近付きつつあろうと誓った以上は留まらねばならない。

それがヘクトルを縛り、支える掟だった。

呆れるほど賢く、狂人の如く優しい兄は自分を嗤う。

自分だけを。

 

END

 

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