苦悩の練金術

 

 

1.

 

「兄さん、兄さん起きて」

声と共に水滴が落ちてくる。

十五になったばかりの弟は泣いているのかと、ヘクトルは思った。

「兄さん」

呼び続けるパリスに手を上げて見せ、額から顎までを掌で拭う。

「どうした」

腕に触れたつもりの指が滑る。

ヘクトルは飛び起きてパリスを凝視した。

見慣れた平服の色が、闇の中とはいえ少しおかしい。

ずぶ濡れのパリスは竦めた肩の間から、縋る様な眼で兄を見上げていた。

「どうしたんだ?」

「・・・・僕を救けてよ。兄さん」

眉を下げると、パリスの額に浅く皺が寄る。

それが見える程ヘクトルの眼は闇に慣れてきた。

「神の罰が下るだろうか?」

伏せた睫の先までパリスは濡れている。

ヘクトルは質間を変えた。

「何をやったんだ?」

「拝殿の池に落ちた」

パリスは眼を伏せたまま震えた。

「・・・・.突き飛ばされて落ちたんだ。わざとじゃない」

それだけでヘクトルには全てわかった。

新しく来た巫女の一人に眼を付けているのは気付いていた。

彼女に迫った挙げ句、振り払われて池に落ちたのだろう。

巫女の方は王子にした己れの振る舞いに怯えて姿を消してしまったに違いない。

そして醜聞より神の怒りを恐れる弟は真直ぐ此処へ来た。

「お前は敬度さが足りない」

戒める為にヘクトルは険しい顔を見せる。

怯えているパリスが眼を見開く。

「どうしたら・・・・」

薄い唇が震える。

優美な容貌が恐怖で歪む様は、既に残酷な刑だ。

ヘクトルにはそう思えた。

「とりあえず身体を乾かせ」

「兄さん!!」

脇を通り過ぎようとしたヘクトルにパリスがしがみつく。

万能の神を見る様な眼は幼い頃と変わらない。

ただ力はずっと強くなっていた。

「反省するんだな」

肩を抱いて揺すってやると手を離したが俯く。

ヘクトルは棚から乾いた布を取り、うなだれた弟に差し出した。

「・・・・罰が下る」

俯いたパリスは受け取らずに唇を噛む。

弟の何処にこんな真摯な信仰心が隠されていたのか。

「パリス」

半ば呆れつつ首を傾けて呼び掛けた。

「どうしよう、兄さん・・・・罰が・・・・」

ゆっくりと上がった顔を見て、ヘクトルは言葉を飲み込んだ。

引きつった頬の上で焦点を失った眼が異様に揺れている。

「パリス!」

もう一度呼ぶと震えながらパリスはヘクトルを見た。

「大丈夫だ」

両手で頬を包んで擦る。

「反省しているんだな?」

水滴を飛ばしながら頷く。

「なら、いい」

瞬いた眼は見る間に潤んで涙を零す。

しゃくり上げる弟を抱き締めてやりながらヘクトルは苦笑する。

パリスは昔からそうだった。

父が許さなくとも、兄が宥めれば泣き止んだ。

兄に許されない時は何時までも泣いていた。

そして神の怒りすら、兄の許しが緩和するらしい。

ヘクトルはくずおれそうな身体を支えてパリスの服を脱がせてやった。

今度は受け取った布で、身体を拭くのを手伝う。

こんな事がある度に弟を疎ましく思うが、同時に湧く愛しさ。

それはヘクトルの内で何時も疎ましさを上回る。

つまりパリスは可愛い弟のままだった。

「一緒に寝たい」

言いながら全裸でパリスが寝台に上がる。

黙ってヘクトルは手を振り、詰めるよう促した。

隣に横たわり頭を引き寄せて額に接吻けてやるとパリスの腕が肩に絡んだ。

「兄さん、ギリシャ人の技娼はどうだった?」

「なんだって?」

唐突な言葉にヘクトルは弟を凝視する。

パリスは真剣な眼で兄を見返した。

「彼女達は後で男の相手をするんだって聞いた」

「何が言いたいんだ?」

「女は兄さんに愛してもらえる」

そう答えて身体を起こし、ヘクトルを見下ろす。

「一夜限りの相手なんかに妬くな。兄弟の愛の方がずっと強い」

ヘクトルが腕を優しく掴んだが、パリスは振り払った。

「僕は沢山の女と寝た。だから身体を繋いだ者にしか持たない愛を知ってる」

乱れた髪の下から訴える。

「それが欲しいんだ。僕は兄さんの愛が全部欲しいんだよ」

笑みこそ浮かべていなかったが、眼はねだる時の癖で少し細い。

こんな顔をすると、パリスは承諾するまで決して譲らない。

ヘクトルは投げ出された腕を掴み直した。

逃げないよう、きつく握る。

パリスの顔が歪んだがそれでいい。

「僕の事を愛してる?兄さん」

顰め面で聞く。

その言葉が納まったはずの疎ましさを起こした。

「小賢しい事を言うな!寝台で学んだ事はそれだけか!」

低い声で怒鳴りながらヘクトルはパリスの胸を突いた。

倒れた身体に伸し掛かり顎を掴んで揺さ振る。

そうして間近に顔を寄せて睨んだ。

「お前が言っているのは愛じやない!!そんなものが兄の俺から欲しいのか?!」

「欲しい!!」

叫んだ弟をヘクトルは左手で打った。

 

 

          INDEX           NEXT