大人の恋愛 1

 

 

 

二人は、とてもいい関係だった。

ある一つの事実にさえ、目をそらしてさえいれば。

 

穏やかな日差しが、のばした足の先までも届くような昼下がりだった。

机の上に置きっぱなしになっているビールはすっかりぬるくなっていて、すこしのあくびをかみ殺しながら、ヴィゴは幸福を自分の家のソファーに座らせたままにしておける自分にすっかり満足していた。

「で、オーリがな」

目を細め、楽しそうに笑うショーンが、話を続けようとした。

ヴィゴは、わざとすねた顔をして話を遮った。

「ショーン、あんた、オーリの話が多すぎだ。後、一月ないんだったか? 二人で旅行に行くまでに?」

ショーンは、持っていた雑誌で、ヴィゴの足を叩いた。

「ヴィゴ。二人、のとこを強調するな。スケジュールを詰め込んだのは、どこのどいつだ。俺が計画を持ちかけた時、聞き流してたのはお前だろう」

「……なんだよ、ショーンだって知ってるじゃないか。あの時は、なんていうか、すごく微妙で……」

ヴィゴが、ショーンに声を掛けられた時、二人は、お互いを酷く意識しあっていた。

告白する一歩手前の状態で、意識しすぎたヴィゴは、ショーンを避けているような状態だった。

「微妙だからこそ、誘ったってのに」

「悪かった。ショーン。恋する男は臆病なんだよ」

ヴィゴは、ショーンの腰を引き寄せようとした。

告白の時期を計っていたヴィゴは、ショーンが提案した旅行に、すぐには反応を返せなかった。

そこへ、オーランドが早速名乗りを上げたのだ。

焦ったヴィゴは、結局みっともなくも、おたおたと気持ちをショーンへと打ち明けた。

「でも、ショーン。旅行、やっぱ、やめないか? あんたきっとオーリに襲われるぞ」

言うならば、オーランドが二人のキューピットだ。

もう何度繰り返されたかわからない旅行を取りやめにしろというヴィゴからの要求に、ショーンは眉をしかめた。

「勝手な事を言うな。いまさら、そんな無理難題を通そうと思ってるんだったら、直接オーリに言ってくれ。すっかり行く気なんだ。きっとキャンキャン吠えるぞ」

「やっぱ行くのか?」

「行くに決まってる」

ショーンは、じゃれかかるヴィゴを面倒がって押しのけると雑誌に目を通しだした。

ヴィゴは、あまりなショーンの態度にくすりと笑った。

確かに、旅行の話は、もう、二人の間でとっくに結論が出た話だった。

「なぁ。ショーン。じゃぁ。旅行の話はいいとしよう。でも、これだけは練習しよう。ショーン。助けて。って、叫べるか?」

ショーンは、ちらりと目を上げた。

ヴィゴは、顎をしゃくって促した。

「言ってみろよ」

ショーンが気のない声を出した。

「助けて。ヴィゴ」

ヴィゴは大きく頷いた。

「オッケー。ショーン。オーリに何かされそうになったら、必ず、そう叫べよ」

ショーンは完全に呆れ顔だ。

雑誌を放り出すと、わざとらしい品を作って、ショーンはヴィゴを引き寄せた。

こわいほど端正に整った顔がヴィゴにぐっと近づいた。

「ヴィゴ。オーリに、初めてなの。絶対にしないで。は言わなくていい?」

緑の目が誘惑するようにヴィゴを見つめた。

薄く開いた唇もキスを待っているとしか思えない。

ヴィゴは、誘惑に負けた振りでチュっと、ショーンの唇を塞いだ。

「ショーン。あんた、自分からオーリを興奮させるようなこと言ってどうするんだ」

「事実だけど?」

ショーンの目がヴィゴをからかった。

しかし、緑の目には微かな苛立ちも読み取れる。 

それは、本当のことだった。

気持ちを通わせている二人だが、身体の関係はまだない。

ヴィゴは、もう一度、ショーンの唇を塞ぎ、誤魔化すと、飽きるほど眺めた台本を、広げて目で追い始めた。

「……ヴィゴ」

しばらくの時間の後、繰り返し、缶ビールを傾けていたショーンが、小さなため息を吐き出しヴィゴに呼びかけた。

 

ヴィゴの名を呼んだショーンは、少しためらうような顔をしていた。

ヴィゴは、伸びた前髪の間からショーンの顔を伺った。

「……ショーン?」

ショーンは、一つ息を吐き出すと、ヴィゴが足を乗せている低いテーブルの上に、手の切れそうな何枚かの札を置いた。

「ヴィゴ、これ……」

ショーンは、少し照れたように頬を染め、不思議そうに見つめるヴィゴに対して自分の口をつまむようにして触るいつもの癖を見せた。

「なんだ? ショーン?」

「なんだじゃない。ヴィゴ。これじゃ、少ないのか?」

ショーンは、唇を尖らすと積んであった札の横に、財布から紙幣をもう五枚も引き出し並べた。

不思議なことに、新札を並べるショーンの手は神経質な動きをしていた。

ヴィゴは、髪の中に手を突っ込んで、かき回しながら、首をひねった。

「なんだ? 俺、なんかあんたに貸しがあったか? ショーン」

机に置かれた金額はホビット達を引き連れての食事代を立て替えたとしても多すぎだった。

勿論、ヴィゴはそんなことをしていない。

ショーンの顔には、おもしろがるような笑いが浮かんでいたが、同時にとても緊張していた。

ヴィゴは、手を伸ばして、もう一枚紙幣を増やそうとしたショーンの腕を捕まえた。

「ショーン。俺にダイアの指輪でも買ってほしいのか?」

理由の分からない焦りを感じてヴィゴはショーンの行為を冗談にしようとした。

バチンと音が鳴るほど大げさにウインクを決め、ヴィゴは、ショーンの目を面白そうにのぞき込んだ。

ショーンの顔から笑顔が消えた。

しかし、ヴィゴは、冗談を続けた。

「なんだよ、ショーン。そのくらい強請れよ。俺が貧乏だと思って、足らない分を援助しようという気にでもなったのか?」

ショーンは、不機嫌そうに唇をめくれ上がらせた。

「誰が、ダイアの指輪を欲しがってるって?」

「ショーン、あんただよ。俺からの愛の記念に欲しくなったんだろう? ああ、そうか。あんたが欲しいのは、違う指輪?」

持っていた台本を振ってみせたヴィゴに、ショーンは、とうとう財布をヴィゴへと押しつけた。

「じゃぁ、全部ならどうだ?」

「ショーン?」

ヴィゴは、ショーンから金を押しつけられる理由がわからず困惑した。

「足りないのか?」

 ショーンは、財布を返そうとしたヴィゴから決して受け取ろうとしない。

ヴィゴは押しつけられた財布を手に持ったままショーンに向き直った。

「だから、何が足りないんだ? ショーン」

ヴィゴは、ショーンの手を捕まえ、下から見上げるようにして、不機嫌そうに金髪の目を覗き込んだ。

「ショーン。なんでこの金を俺にくれるんだ?」

ヴィゴの目は、癇性に寄せられたショーンの眉の間に当てられた。

ショーンは、全く説明をしていないくせに、わかりの悪いヴィゴに、下唇を突きだしたわかりやすい不機嫌な顔をした。

ヴィゴは、シャツのまくり上げられたショーンのやわらかな腕の内側を親指でくすぐるようにしてショーンに小首を傾げた。

ショーンが反らした顔から視線だけをくれて、ヴィゴに尋ねた。

「足りないのか? ヴィゴ?」

「だから、何が?」

「…………」

ショーンは、答えなかった。

ヴィゴは、大人げない態度の恋人に小さく肩をすくめてみせた。

「ショーン。あんた、俺にどうわかって欲しいんだ? そういうあんたも可愛いけどな。でも、その説明じゃ、俺にはさっぱりあんたがどうしたいのかわからない。指輪じゃなきゃ、何が欲しいんだ? それとも、ただ、俺に金を恵んでやりたいだけ?」

ヴィゴは、眉の寄ったショーンの額に額を合わせた。

「ショーン、確かに、恋する男は、たとえ月だって欲しいと言われれば捧げるぜ。でも、できないこともある。それは、好きな相手の心の内を読むってのだ。たとえ、俺が世界一の読心術者だったとしても、あんたの心の内だけはわからない。俺の気持ちが邪魔しちまって、冷静に観察なんて出来ないんだよ。あんただって知ってるじゃないか。俺は、毎日あんたの機嫌に振り回されてるだろう? まるで俺はあんたの側で散歩を待ってる犬みたいだ。バウ!」

大きな声で鳴いてみせたヴィゴは、じゃれかかるようにショーンの頬をべろりと舐めた。

ただ機嫌が悪いというよりは、どこかこわばっているショーンの頬を舐め溶かそうというように、ヴィゴはべろりと長い舌を伸ばした。

ショーンはヴィゴを睨みつけた。

まるで気の利かないヴィゴを恨むような目をして一瞬睨むと、目をそらし口を開いた。

「……セックスしようぜ。ヴィゴ」

ヴィゴは耳を疑った。

「は?」

「その金じゃ、あんたのことが買えないか?」

「ショーン……?」

ショーンは、反り返ってヴィゴの舌から逃げていた身体を戻すと、きつくヴィゴの頭を抱いた。

噛み付くようなキスをヴィゴに与える。

大きく口を開いたショーンにかぶりつかれたヴィゴは、目を見開いたままでショーンのキスを受け止めた。

「ヴィゴ……、ヴィゴ、なぁ、あんた、俺をじらしてるつもりなのか? なぁ……ヴィゴ……」

緑の目は、責めるようにヴィゴを見つめた。

その合間にも、情熱的なキスは続けざまにヴィゴへと与えられる。

ショーンはヴィゴの唇を噛むようにしながら、ヴィゴを責めた。

「ヴィゴ。あんた、何を気取ってるんだ」

ヴィゴは驚きのあまり、大きく口を開いたショーンの顔を見た。

「……ショーン?」

「趣味が悪すぎだ。ヴィゴ」

叱るようにヴィゴを見たショーンは、大きく見開いたヴィゴの目を見つめたままで鼻の頭に歯をたてた。

「あんな情熱的な告白をしたくせに、なんで俺に触れないんだ。お前、最悪だ。臆病者め」

機嫌悪く睨みつけてくる目は、しきりにヴィゴをなじった。

「お前がそんなに優柔不断だっていうんなら、俺が、この金でヴィゴを買う。だから、これからの時間、ヴィゴは俺の言うとおりにしろ。それだけありゃ、十分だろ。お前は俺のもんだ。俺の好きなようにさせて貰う。めんどくさいこと言わずに、さっさと脱げ。俺とセックスしろ」

ショーンは、罰のようにヴィゴの頭を離さなかった。

ヴィゴは、またもや唇を近づけてくる金髪の顔を両手で挟んだ。

「ショーン……」

ヴィゴは、信じられないものを見るようにショーンを見た。

「……あんた俺に金を払う気なのか?」

ヴィゴは、ショーンの言いだしたことが信じられなかった。

確かに二人は、お互いの好意を受け入れ合ったいい年をした大人だった。

肉体関係に進んだところで、全く不思議のない間柄だ。

しかし。

ショーンは、ヴィゴを睨み付けた。

「買われろ。馬鹿」

「…………。買われろって、あんた……」

強引にキスに持ち込んだショーンは、ヴィゴの唇を何度も唇で挟んだ。

せわしないキスは、甘いというよりは、とにかく先を急いでいた。

やわらかな唇が、ヴィゴに何度も押しつけられる。

ヴィゴが口を開かないのに焦れたショーンは、顎を傾け、機嫌の悪さを隠そうともしない緑の目でじっとヴィゴを見つめ脅すと、顎をしゃくった。

突き出すように上げられた顎は、一刻だって待たないというショーンの意志の現れだった。

ヴィゴは、仕方なく口を開いた。

ショーンの舌が、我が物顔でヴィゴの口の中を占領した。

礼儀を返さないヴィゴの舌を引きずり出すように絡まり、ヴィゴが舌を伸ばすと、そこには歯が立てられた。

顔を顰めたヴィゴに、ショーンは、面白そうに笑った。

「ヴィゴ。あんた、自分の値段がもっと高いなんて言い出さないだろうな」

「……ショーン、あんた、」

「財布の中のクレジットカードは後で返してくれ。それ以外は、全部ヴィゴにやるよ。どうだ? いくら主役だって、それだけあれば、一晩くらいは買えるだろ?」

陽気に笑うショーンは、しかし、どこか苛立っていた。

しかし、ショーンを呆然と見つめるヴィゴの怒りは、それを上回った。

 

 

背中が、壁に当たり、ショーンは、後のないことを知った。

それでも、もう、一歩でもと、後ずさったかかとが、壁の固さを味わった。

ショーンは、いきなりヴィゴに胸ぐらを捕まれ、ソファーから立たされた。

そのまま、引きずられるようにして、壁際まで追いつめられた。

黒く染めた髪の間から激しい目をしてヴィゴが睨み付けていた。

「……ヴィゴ?」

ヴィゴは、おどおどと目をさまよわせるショーンの頬をじっと見つめながら、金の髪の脇へと手を付いた。

豹変したヴィゴの態度に、ショーンの頬は引きつり、唇は小さく震えていた。

「……ヴィゴ?」

「ショーン。……あんた、気の利いたことをしたつもりか?」

穏やかな日差しが差し込んでいるリビングに、ヴィゴのかすれた声が響いた。

喉から漏れた声は、自分が思っていた以上に低く、ヴィゴは、思わず咳払いをした。

その咳払いが緊張感を殺いだのか、その通りだとショーンの目は、ふてくされたように机へと積まれた書類の山へと固定された。

ヴィゴを見ようともしなかった。

苛立ったヴィゴは、意識して、口の端を大きく引き上げ、笑顔を作った。

「ショーン」

変わった声の調子にショーンの目が、ヴィゴを見た。

ショーンは、軽蔑するように冷たい目をしてヴィゴを見ていた。

その目は、ヴィゴを度量の狭い男だと責めていた。

「ショーン……」

「なんだよ。ヴィゴ」

ショーンは、自分を拘束するように壁に付かれたヴィゴの手を振り払おうとした。

ヴィゴの手には、ショーンがヴィゴを買うために差し出した紙幣が握られていた。

皺一つない紙幣だったが、今はくしゃくしゃだ。

「なんだよ。何が気に入らないんだ。安すぎるとでも言うつもりか、ヴィゴ?」

壁の手を追いやったショーンは、今度、自分の腕を振って胸ぐらを掴むヴィゴの手を振り払うため、腕を上げた。

片方の手はヴィゴの腕を掴み、もう一方の手で、ヴィゴの胸に付くと、二人の間をあけようとした。

今度のヴィゴは引かなかった。

それどころか、ショーンとの間を詰めて、落ち着かなげに、しきりに唇を舐めているショーンを追いつめた。

ヴィゴは、最初、ショーンが何をしだしたのか本当に全くわからなかった。

だが、わかった今では、札を並べたショーンの指が小さく震えていたことにすら腹が立った。

そう、確かに、二人は特別な感情を許し合うような間柄だった。

だが、まだ、ショーンは、金を出すという行為で、ヴィゴを傷つけるのではないか。と、疑いを抱く余地のある場所に立っているのだ。

二人の間には、まだ、ゆっくりと歩み寄る時間が必要だ。

「これが、相場だって言うつもりか、ショーン?」

ヴィゴは、ショーンに尋ねた。

ショーンは、ヴィゴを睨んだ。

「相場より、ずっと出してるつもりだ」

「じゃぁ、高く買ってくれてありがとう。と、俺は言うべきなのか?」

力強く睨んだヴィゴに、ショーンは顎をそらした。

「ああ、礼を言ってくれ。ヴィゴ」

その顔はいっそ見事なほど憎々しかった。

ヴィゴの怒りを理不尽な仕打ちだと見下すショーンは、金髪に縁取られた整った顔に冷酷な表情を浮かべ、顎を上げた。

ヴィゴは、このままでは自分の中に渦巻く暴力をはき出しかねないと、一つ大きく頭を振った。

「ショーン……」

ヴィゴは、この絶望的なまでに頭の悪い金髪が愛しかった。

そして、現実的な問題として、ショーンは、明日も撮影のある俳優だった。

ヴィゴは、自分の髪をかきむしり、床を見つめたまま、うなり声を出すと、顔を上げた。

ショーンの顎を掴み、逃げられないように固定すると、強引に顔を寄せた。

「ショーン……」

ヴィゴはショーンの名を囁き、噛み付くようなキスをした。

それは殴る代わりだった。

しかし、ショーンは、なじるように目を眇めたが、熱く押しつけられる唇と、抱きしめられる腕に瞼を閉じてしまった。

齧り付くようなキスを仕掛けてきたヴィゴに、ほうっと息を唇から吐き出し、舌を伸ばす。

力を抜いた金髪は、ヴィゴの怒りの原因について自分が思いついた答え、金を出してきっかけを作ったということが、ヴィゴのプライドに爪を立てたのだろうという答え。以外考える必要などない。と思っているようだった。

それどころか、ショーンは抱きしめられた腕の中で、ヴィゴの足を踏んだ。

ヴィゴの肩に顔を埋めたショーンは、耳元でヴィゴの事を責めた。

「俺に、こんなことをさせるなんて最低だ。……ヴィゴ、自分が臆病だったってことを認めたか?」

返事を返すのは、ヴィゴにとって業腹だった。

それは、全くの勘違いだった。

ショーンの耳が赤く染まった。

「……ヴィゴ。あんた、じれったいよ」

「ショーン……」

ヴィゴは、ショーンを焦らしているつもりなど、まるでなかった。

ただ、機が熟すのを待っていただけだ。

ヴィゴは、自分の怒りを押さえ込みながら色づいたショーンの耳を撫でた。

「俺に勇気がないばっかりに。……迷惑をかけたな。ショーン」

ヴィゴは、ショーンに調子を合わせた。

ショーンは顔を上げた。

「やっとわかったか。ヴィゴ。」

赤い目尻を隠しもせずにやりと笑った

「切っ掛けを作ってやった俺に感謝しろよ」

ヴィゴはショーンのその顔に苦笑を返したが、実際は、とてつもなく頭にきていた。

ヴィゴが怒っている理由はショーンが勘違いしているように、先手を取られたなどというプライドのきしみなどではない。

長く二人の間に愛情をとどめておくために必要な手間を惜しもうとするショーンの態度に腹が立てていた。

「ショーン、ありがとう」

ヴィゴは、ショーンを罰さないことには気がすまないと思った。

 

                                                         →続く