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History of Pearl Jam

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エディー・ミューラー

エディ・ヴェダーは1964年にイリノイ州エヴァンストンで生まれている。
エディが2歳になる前にミュージシャンである父親は離婚してしまったため、母親に引き取られ、新しい夫との間の3人の息子と共に育てられた。エディはかなり大きくなるまで継父を実の父親と思っていたようだ。そして、名前もエディ・ヴェダーではなく継父の名字であるミューラーと名乗っていた。
70年代にサン・デェエゴに家族は移住し、地元の高校に通っていたエディは演劇に真剣に取り組んでいたが、共演していたガールフレンドとの仲が壊れてしまうと、失意の気持ちからかエディは突然役者をすることを辞め、演劇の世界から離れていった。
高校卒業を前にエディはサン・ディエゴを離れ、家族が戻っていたシカゴの周辺に住むようになった。その頃には、元々継父とあまり仲が良くなかったエディは、母親の旧姓である「ヴェダー」に自分の名前を変え、「エディ・ヴェダー」と名乗るようになっていた。

バッド・レイディオ

84年になると、エディは再びサン・ディエゴの郊外に戻り、歌を唄うようになっていた。
86年にバッド・レイディオというバンドのオーディションを受けて、正式にバンドのヴォーカリストとして迎えられるが、89年にパール・ジャムとして発表されている"Better Man"はその時にすでに作られている。
エディはバンドに入ると自ら積極的に活動していき、サン・ディエゴに来るバンドに接触をはかり、ジョー・ストラマーやレッド・ホット・チリ・ペッパーズのメンバーと親しくなることに成功する。
現在の妻であるベス・リーブリングとはこの頃に知り合い、二人三脚でバンドを売り込んでいった。
バッド・レイディオをアムネスティや熱帯雨林のためのベネフィット・コンサートなどにも出演させ、社会問題にも精通している姿勢をアピール。しかし、バンドの他のメンバーとの間にエディは距離を感じるようになり、バンドを自ら辞めていった。

グリーン・リヴァーとマザー・ラヴ・ボーン

一方、シアトルでは84年の秋頃にベースのジェフ・アメン、後にマッドハニーを結成するヴォーカルのマーク・アームにギターのスティーヴ・ターナー、さらに高校時代の友人であるドラムのアレックス・ヴィンセントの4人がグリーン・リヴァーを結成。そこにストーン・ゴッサードが加入して85年にはEP"Come On Down"をリリース。さらに、サブ・ポップから"Dry As A Born"と"Rehab Doll"の2枚のEPをリリースする。
しかし、グリーン・リヴァーはメタル志向のジェフとメタル嫌いなスティーヴの仲違いからスティーヴが脱退。新たにブルース・フェアウェザーを迎えるも、ヴォーカルのマークとの音楽性も合わなくなり、結局87年の秋には解散してしまう。
現在ではジェフ、ストーンのメタル組とマーク、スティーヴのパンク組の融合が上手くいっていたグリーン・リヴァーはシアトルの音楽シーンを語る上で、その創生期の最も重要なバンドの一つとされている。
グリーン・リヴァー解散後、ジェフとストーンはブルースと共に新たにグレッグ・ギルモアをドラマー、アンドリュー・ウッドをヴォーカリストとして迎え入れマザー・ラヴ・ボーンを結成する。88年の夏の頃である。
元々商業的な成功を夢見ていたジェフとストーンはこのマザー・ラヴ・ボーンでガンズ&ローゼズっぽい? ハード・ロックを展開し、みごと大手レコードのポリグラムと契約にこぎつけることに成功する。ニルヴァーナのカート・コバーンがパール・ジャムを執拗にケナシていたのは、こんなバックグラウンドがあったからだろう。
しかし、デビュー・アルバム「Apple」を完成させ、発売も間近に迫っていた90年3月19日、ヴォーカリストのアンドリュー・ウッドがヘロインのオーヴァードーズで急死。ウッドを失うと同時に契約も失ってしまったジェフとストーンはマイク・マクレディを誘って、みたびバンドを結成させる。

そしてパール・ジャム

ウッドを失った新しいバンドに必要なものは当然ヴォーカリストである。ヴォーカリストを探すために、元レッド・ホット・チリ・ペッパーズのジャック・アイアンズに相談し、ヴォーカルのないデモ・テープを渡した。
その頃エディはロサンゼルスで活動していた。ジャックはジェフやストーンの相談にエディを思いつき、テープをエディに渡した。
テープを渡されたエディはストーンが"ダラー・ショート"とつけた曲を聴いて、母親が自分の実の父親の事を打ち明けたことを思い出していた。そして、あの歌詞が書き上がったのだ。その曲にエディは"Alive"と名付けた。
エディは"Alive"を含む3曲(他は"Once"、"Footsteps")に自身のヴォーカルを吹き込んでテープを送り返すと、ストーンたちはエディをシアトルへと招き、すぐにスタジオに向かい、5日で11曲を書き、6日目にはステージに立っていた。決まっていなかったバンド名はNBAのバスケット選手から取って、「ムーキー・ブレイロック」としていた(本人から苦情を言われたため後にバンド名は変更を余儀なくされるのだが)。
90年11月から12月にかけて、アンドリュー・ウッドの追悼としてのプロジェクトにメンバー4人とサウンドガーデンからヴォーカルのクリス・コーネルとドラマーのマット・キャメロンが参加。「テンプル・オブ・ザ・ドッグ」として91年6月にアルバムをリリース。
エピックと契約を成立させたバンドは、エディの祖母のパールが作るジャムから新しくバンド名を「パール・ジャム」とすることに決定した。

オルタナティヴ・ムーヴメントの勃発

ストーン、ジェフ、エディの3人は映画「シングルス」の"シチズン・ディック"なるバンドのメンバー役として出演した後、91年8月にデビュー・アルバム「テン」を発表。当初はチャート・アクションはそれほど芳しくはなかったが、ニルヴァーナの「ネヴァーマインド」がチャートを駆け上がり、オルタナティヴのムーヴメントが巻き起こると、パール・ジャムの「テン」もそれに引きずられるように世界中で900万枚を売り上げ、ニルヴァーナと共に一躍時代の寵児に祭り上げられていった。
92年にはオルタナティヴ・ムーヴメントの祭典とされる「ロラパルーザ・フェスティバル」の第2回目に2番手として出演。レッチリをトリとしたこの年のロラパルーザには、他にもミニストリー、サウンドガーデンなどのまさにオルタナティヴなバンドが集結して開催された。
私自身もカナダのトロント郊外で運良くこの祭典を見ることができたが、とにかくパール・ジャムにたいする声援の凄さがとても印象に残っている。すでにアルバム「テン」はチャート上でもトリのレッチリの当時のアルバム「ブラッド・シュガー・セックス・マジック」を凌ぐ勢いで売れており、この時点で僕は「テン」を未聴だったどころか「パール・ジャムってどんなバンドなんだ? なんだかスゴイ売れてるなぁ」といった程度で見たのだが、観客の熱狂さと、そのライヴの凄さに圧倒されてしまった。エディのものすごいエネルギーがこちらにまでビンビンに伝わって、バンド自体のテンションの高さがその音からも感じられる内容だった。エディは曲の途中で(たぶん"Porch")ステージの骨組を登り始めると、メチャクチャ高いスポットライトの上まで行き、綱渡りのような感じで右から左へと渡りきり、また下まで降りていった。他の会場でもやっていたようだが、エディの感情の爆発がこのような行動に彼を駆り立てているのだろう。このライヴを見ていたから、日本に戻った時にパール・ジャムの評価が異様に低い事にすごくビックリした。「パール・ジャムはライヴを見なければ話にならない」初来日を果たすまで、ず〜と言われてきたことだが、実際にライヴを見ていたのでこれは本当の事だということがよくわかった。

カートの死を乗り越えて

10月にマジソン・スクエア・ガーデンで行われた「ボブ・ディラン30周年記念コンサート」にエディとマイクが出演し、翌93年1月には「ロックンロールの殿堂」のパーティーでザ・ドアーズのメンバーと共にエディがジム・モリスンの代わりとして"Break On Through"などを熱唱。9月には第10回MTVビデオ音楽大賞で"Jeremy"のビデオクリップが4部門で受賞。ニール・ヤングとの共演も果たす。
その勢いのまま10月にはセカンド・アルバムを発表。当初「Five Against One」と付けられていたタイトルは無題に代わり、最終的に「VS.」というタイトルに落ち着いた。このアルバムはリリース一週間で95万枚のセールスを記録し、ガンズ&ローゼスの「ユーズ・ユア・イリュージョンII」の記録を破り700万枚を世界で売りまくった。
アメリカン・ロックのこれが新しい王道だと言わんばかりの楽曲が並ぶこのアルバムはまさに、オルタナティヴの嵐がアメリカ全土を覆い尽くす当時の勢いを見事に表わしているアルバムとなっている。
しかし、あまりに売れすぎたためか、この辺りからバンドはメディアへの露出を極力控えるようになってくる。すでに自分たちではバンドをコントロールできなくなってきていたのだ。
同じ事はもう一方の雄であるニルヴァーナにも起こっていた。そして、それは最悪の悲劇を呼ぶことになってしまった。
94年4月8日、シアトルの自宅でカート・コバーンが猟銃で自殺し、帰らぬ人となってしまったのだ。
カートとの確執も何とか終息に向かっていたバンドは、この死にかなりのショックを受けていた。明らかにエディは動揺し、TシャツにカートのKのイニシャルを書いてテレビに出たり、ライヴを休止させるとまで一時言ってしまったりしていた。
それでも、気持ちを落ち着かせエディは6月に長年連れ添っていたべスと結婚。
3枚目のアルバムのリリースを前にしてドラマーのデイヴ・アブラジーズがバンドを脱退。本人は解雇されたと言っているが、バンドは「友好的」なものとまったく違うコメントを残している。
ここでは、バンドとエディを引き合わせたジャック・アイアンズがカバーし(後に正式なメンバーになる)、10月にはニール・ヤングが主宰する「ブリッジ・スクール・ベネフィット・コンサート」にも参加。12月にはエディが見つけてきた古い本からヒントを得た「ヴァイタロジー」と付けられたサード・アルバムをリリース。このアルバムは通常のCDのケースとは違い、本の体裁が取られている。その費用は通常よりも割高になるが、その費用は全てバンド側がもつというファンを大切にするというパール・ジャムの一面を感じさせる対応がなされている。
このザラザラとした、感覚を持つアルバムも一週間で88.7万枚を売り、再び上昇気流に乗ろうとした時に、大きな問題にバンドはぶち当たってしまう。

チケットマスターとの闘争

新作を発表していつも通りツアーに出る計画だったパール・ジャムだったが、ツアーでのチケット代を安く抑えてファンにライヴを見てもらおうと考えたメンバーは、チケットを取り扱うチケットマスターに手数料を下げて欲しいと要求したがチケットマスター側がこれを拒否し、問題が大きくなっていってしまった。
(詳しくはパール・ジャムの戦い (1) - チケットマスターとの闘争を参照)
最終的に法に訴えるも、パール・ジャムは敗訴。バンド側は新たにETMネットワークという会社を通してチケットを発売しツアーを開始するが、チケットマスターと契約していない会場はなかなか見つからず、見つかっても不便な場所であったりするなど、ツアーは困難を極めた。サンフランシスコでの公演ではエディが体調を崩して途中でニール・ヤングと交代するという事態になってしまい、最終的にはたった5都市、6公演のみで、その後のツアーは全てキャンセルされてしまった。
この騒動でアメリカ・ツアーがしたくてもできない状況に陥っていたパール・ジャムはアメリカ以外でのツアーを先行させ、その最初の地として選ばれたのが、日本だった。95年2月にメンバーが来日し、仙台、東京、大阪の3公演を行った。
大阪のライヴでは会場の壁をエディが登り、3階席まで上がっていくというパフォーマンスも見せてくれた。当初神戸で予定されていた関西でのライヴは阪神大震災の影響で大阪に変更されたこともあり、エディは震災についてもコメントし、お互いを尊敬し合おうというメッセージを残していった。

ニール・ヤングとの合体

ツアーができずにいたメンバーは、かねてから親交のあったニール・ヤングとのレコーディングをする機会を得ると、6日間で9曲を録音するハイペースであっという間に新作が完成してしまった。
レコード会社との契約の関係上このアルバムはニール・ヤングの新作「ミラー・ボール」として発表されたものの、これは紛れもなくパール・ジャムとニール・ヤング双方の作品である。
バンドはエディを除いてニール・ヤングのバック・バンドとしてヨーロッパ・ツアーに参加。レディング・フェスティバルの最終日の大トリも務めるなど精力的に活動を継続していた。
この合体はパール・ジャム名義としても成果を見せ、エディのヴォーカルにギターをニール・ヤングが務めた新曲"I Got ID"、"Long Road"の2曲を発表する。
さらに、キャンセルとなった全米ツアーの再開を発表し、チケットマスターを通さずにツアーをこなしていく。
この頃になると、パール・ジャム以外の活動もそれぞれ盛んに行われ、エディは愛妻べスとの4人のユニットである「ホヴァークラフト」でマイペースに活動し、ストーン・ゴッサードは自らのレーベル「ルースグルーヴ」を立ち上げ、自身のバンド「ブラッド」で自分の理想的なものを追い求めている。
マイク・マクレディはアル中のリハビリで一緒になったアリス・イン・チェインの今は亡きレイン・ステイリーと組んだバンド「マッド・ジーズン」で、ジェフ・アメンも「スリー・フィッシュ」なるプロジェクトでそれぞれの才能を発揮している。

グランジ狂奏曲の終焉

そんな課外活動を経て、再びメンバーが集まって作られた作品が「ノー・コード」。
96年8月にリリースされたこのアルバムでは今までのグランジらしさは後退し、それぞれの課外活動の成果の反映といえるバラエティに跳んだ音になっている。スローな曲から今まで通りの激しい曲、奇妙な短い曲もあれば、王道のロックもある。初めてゴッサードがヴォーカルをとった曲あり、果てはハワイアン調の曲まで収録されているのには本当に驚かされた。
それぞれの曲にイメージされたカードが36枚あり、ランダムに選ばれた9枚1セットが入っているのも今回の特徴だ。
ただこの写真、気持ち悪いものが多く、曲との繋がりもよくわからないし、必要あるの? と思ってしまうんだが。
180度音に対するアプローチが変わったことに戸惑いを隠せないファンも多かったようで、評論家筋には音楽の幅が広がった点を評価されることが多かったが、眉間にしわ寄せるエディを期待していたキッズには肩透かしを食らったようで、アルバムの成績は過去のどのアルバムよりも伸びずナンバー1にはなったものの、1週目の売り上げは36.7万枚止まり。過去の作品が売れ過ぎている事を考えれば、十分な売り上げなのだが、売れなくなったとメディアは騒ぎ立てた。
これに対し、本人たちはこれでようやくマトモな活動ができるようになると逆に嬉しがっていたようだ。この事はグランジ狂奏曲の終焉を意味してもいたのだろう。
ツアーは今回もチケットマスターを通さず、FT&Tという会社を使っているが、小さい会社のためチケットさばききれないこともあったり、会場がどうしても押さえられずチケットマスター傘下の場所でライヴを行う事もあったりとチケットマスター問題をまだ引きずって、問題を抱えながらのツアーとなってしまった。

新たなる出発

97年11月にオークランドで行われたローリング・ストーンズの公演に前座を務め、新曲もいくつか披露したパール・ジャムは、グランジの終焉と共に自由を手に入れ、今まで以上に音楽に対する情熱を次のアルバムに注ぐことになる。そして完成したのが98年2月にリリースされた5枚目のアルバム「イールド」だ。
このアルバムは若者の代弁者として十字架を背負うことをやめ、自由を謳歌し、完全に吹っ切れたパール・ジャムの今を見事に表わしている。
それは1stアルバムの"Jeremy"以来のプロモーション・ビデオの作成やインタヴューを再び積極的に受け出したことからもよくわかる。
そう、これがパール・ジャムの新たなる出発となったのだ。
しかし、ドラマーのジャック・アイアンズが昔から悩まされていた躁鬱病を悪化させ、ツアーから離脱してしまうはめに。
そこで元サウンドガーデンのマット・キャメロンに代役を頼み、なんとかツアー無事終了させることができた。
さらに、バンドが次に起こしたアクションはライヴ・アルバムのリリースだった。
10月10日にツアーを終えて、11月にはリリースするというかなりの早業を成し遂げたこのライヴ盤だが、これはその後のことを考えると単なるステップでしかなかったことがわかる。
このアルバムが16曲しか収録されていない(彼らのライヴでは半分ほどの曲数だ)ことなどで、中途半端な印象を与えてしまったことも関係あるのかもしれない。それでも今までのライヴ盤と比べて別段手抜きな印象があるわけではないのだが...。
99年になると、ユーゴスラビアのコソボでの紛争から難民が続出し、その難民救済のためにリリースされたアルバム「ノー・バウンダリーズ」に提供したJ・フランク・ウィルソンのカヴァー曲"Last Kiss"(元々98年にファン・クラブ向けにクリスマス・ソングとして配られたもの)がなんとビルボードのシングル・チャートで2位に入るという予想外の大ヒットとなる。

ロスキルデ事件とライヴ・ブートの発売

今までアルバムをプロデュースをしてきたブレンダン・オブライエンに代わって、次のアルバムではチャド・ブレイクを起用。ドラマーも結局マットがそのままメンバーとして迎えられ、「バイノーラル録音」で録音されたこのアルバムのタイトルはそのまま「バイノーラル」。
このアルバムを携え、再びツアーへと出発したバンドにまたしても不運が! ヨーロッパ・ツアー最中の6月30日にデンマークで行われたロスキルデ・フェスティバルでパール・ジャムが"MFC"を演奏している中、将棋倒しになった観客9人が圧死してしまったのだ。けが人も20人以上出てしまい、バンドは演奏を中止し、このフェスティバルに出演予定だった、オアシスやペット・ショップ・ボーイズまでが出演をキャンセルする事態に発展してしまった。バンドは残りのヨーロッパ・ツアーを中止せざるを得なくなってしまった。
バンドは追悼の声明として「何が起きたのか理解できていない。僕たちの人生も同じものでなくなってしまったが、なくなった人の周囲の人々の痛みとは比べものにならないだろう」と発表し、犠牲者の葬儀に花を送った。
この事件は79年にザ・フーのステージ中に11人が亡くなった事件に次ぐ惨事となってしまった。
地元の警察から取調べを受けたメンバーは相当にショックだったようだ。
このヨーロッパ・ツアーはこれとは別に違う意味で特別なものとなった。
なんとツアー全てを、それぞれ2枚組CDで編集修正など一切なく出してしまおうという計画だ。
(詳しくはパール・ジャムの戦い (2) - ライヴ・ブートレグを参照)
この企画は、その後の全米ツアーから2003年のオーストラリア、日本公演と現在まで、ず〜と続いている。

8年ぶりの来日を果たして

2000年のツアーを終えるとメンバーは、それぞれの課外活動に再び精力を注ぎ始める。パール・ジャムとしてはDVDをリリースしたのみであったが、その間に世界情勢が大きく変わり始めていた。9.11にアフガン戦争があり、イラクへ攻め込む勢いを見せていたアメリカ政府。
そんな中で02年11月に発表されたアルバムはタイトルが「ライオット・アクト」。
ロスキルデ・フェスでの事件への鎮魂歌となる"Love Boat Captain"やブッシュをこき下ろす"Bu$hleaguer"など、私的なものから社会的なものまで全てを飲み込み、さらにパール・ジャムは突き進んでいく。
世界情勢の不安からワールド・ツアーを組むのが難しくなるかもしれないためというのもあり、8年ぶりの来日も決定。常に全力投球をライヴで見せてくれるという姿勢は、今でも変わらないことを来日公演で改めて見せてくれた。
バンドは、今回のツアーで排出される二酸化炭素を試算し、その排出分を還元しようと大量に炭素を買いこんだ。地球に優しく、自分たちのできることなら何でもやってみる。常に正直でいようとするパール・ジャムの旅はこれからも続いていくだろう。


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