TEST FOR ECHO
テレビは現代社会を映す鏡とも言えます。マスメディアが発達した現在、世界中のニュースがテレビを通じて、目の当たりに
見ることができます。ビデオを見るような感覚で。
小学生連続刺殺事件や世界貿易センタービルのテロなど、衝撃的な映像を見るたびに、この曲の冒頭のフレーズが私に脳裏を掠めます。
Here we go − vertigo
Video − vertigo
現代社会に救いはないのでしょうか?
DRIVEN
誰かの意思によって動かされるのではなく、自分の力で進め。人が運転する車に乗るのではなく、
誰かに行き先を指図されるのではなく、自分自身でハンドルを握り、進路を決めろ。自分の人生だ。
これ、RUSHの一貫したテーマですね。
HALF THE WORLD
half the worldを『世界の半分』とするか、『半分の世界』とするか、さもなければ『半世界』と訳すかで悩んだ末、結局一番
ベタな訳になってしまいました。
要は世界は完全に同じレベルで統一されているわけではなく、両極に分かたれている、と言う感じだと思います。
先進国と発展途上国、南半球と北半球のように、地球の上には二つの世界がある。
二つ合わさって完全な一つとなるのだけれど、今のところ半分に分かれたまま──ということでしょうか。
そして自分自身の心の中にも、二つの世界がそれぞれの半分として存在している、と言うのは深読みしすぎ?
COLOR OF RIGHT
何が正しく何が間違っているのかはその時の社会情勢や心のあり方で変わるものなのだから
、自分の中の『正義』にこだわりすぎてはいけない、と言うことでしょうか。
「正義」というのは、もちろん大切なものですし、この世に正義がなければ、ますます荒れ、無法地帯になってしまうでしょう。でも、
何が厳密な「正義」なのかと言うのは、特にボーダーライン上のものは、一つ間違うと、かえって危険なものになりかねない、ということかもしれないと思います。
たとえば、最愛の誰かを理不尽に奪われた、そんな悲劇に見まわれた時、奪った相手に復讐するのが正義でなのでしょうか、
それとも、法の裁きにすべてをゆだねるのが、正義なのでしょうか。
たとえば同時多発テロの報復に、軍事行動に出るのが正義なのか、あくまで平和的な手段を探すのが正義なのか──簡単には答えの出せない問題だと思います。
ちょっとたとえが重くなってしまいましたが、結局何が正しく、何が正しくないのか──それを見極めるのは、難しいことなのでしょう。
TIME AND MOTION
この詞は、通り過ぎる電車が、インスピレーションになったそうです。日々を貨車にたとえ、
その中に日々の出来事や感情といった荷物を満たして行こう、と。より多くの、実りある荷物をどれだけ積みこめるか、
それが「人生の意義」と言うものなのかもしれません。
TOTEM
精神分析で有名なフロイトの、「トーテムとタブー」という著作があり、それによると、
Totemとは、我々が崇拝するものの象徴だ、とされています。それが様々な神であったり、天体であったりするわけでしょう。Neilはスタジオの本棚にこの本を見つけ、
作業の合間に読んで、興味をひかれたのだそうです。ユングの心理学は、「Animate」の元となったように、「Counterparts」製作以前に接し、興味を持っていたようですが、
そのユングとのつながりで、フロイト心理学にも手を伸ばしたのでしょう。
この曲では、主に宗教的な主題がとりあげられているようです。「世界中いろいろ旅をしてきて、様々な宗教や社会システムを見てきたけれど、
それぞれに美点があり、素晴らしいと思ったので、なぜそれなら、すべての宗教を受け入れないのだろうかと思った」と、Neilは「JAM! Showbiz」
のインタビューで語っていたそうです。
RUSH FAQによると、最後の"sweet chariot〜"のフレーズは、霊歌の一つに、非常に良く似ているそうです。と言うことは、もしかしたら、これは最後の時をあらわすのでしょうか。
その時に、すべての真相がわかると。非常に不思議な感じのする、ラストフレーズです。
DOG YEARS
犬の一年は人間の七年分。でも人間も現代では、そのくらいあわただしく生きているのではないか、
七年が一年分くらいのスピードで飛んでいっているのではないか。もっとゆとりを持って生きたい、と。
POWER WINDOWSのRUSH RELATEDのコーナーに、"in the dog days,people look to Sirius"のフレーズに関して、
詳しい説明が載っています。Sirius(シリウス)は大犬座の一等星で、「The Dog Star」とも呼ばれています。
ギリシャ神話では、シリウスは猟師オリオンの猟犬でした。オリオンは、月の女神アルテミスに愛されたのですが、
アルテミスの兄アポロの嫉妬を買って、殺されてしまいます。アポロは妹の弓矢の腕前をからかい、「あの海の中の標的」を
射抜いてみろとそそのかしたので、アルテミスは矢を引いてしまいました。その標的とは、海を泳いでいるオリオンの頭だったのです。
うっかり恋人を殺してしまったアルテミスは嘆いて、オリオンを星座として天に上げました。それがオリオン座です。その時、
オリオンの忠実な番犬シリウスも、一緒に空に上げられたのです。これが大犬座。(今では、シリウスは「ハリー・ポッター」で有名
だったりしますが――「アズガバン」のSirius Black。この人、名の通り、動物変身で黒い犬になれる)
前フリが長くなりましたが、オリオン座が出ない夏には、シリウスも見えなくなります。それは主人に忠実だからと、それに
夏の間シリウスが太陽に加勢して、その光を増しているからだと、古代ギリシャでは言われていました。その間の、シリウスが
見えなくなる時期のことを、dog daysと言うのだそうです。それがこのラインの意味で、もう一つ、"people look too serious"とも
聞こえる、意図的な掛け言葉なのだそうです。うーん、奥が深い。
蛇足ですが、RUSHが「son of a bitch」なんて言葉を使ったの、初めてではないですか? この場合、意味的には決して悪態では
ないんですが、やっぱり軽い衝撃でした。
VIRTUALITY
alt.music.rush(ニュースグループ)で、「もしたとえばPermanent Wavesが出た頃の時代に、
『未来のRushからのボーナス・トラック』として、この曲が最後に入っていたりしたら、聞いた人は、
わけわからないだろうな」「いや、完全に2112のようなSFだと思うだろうよ」と言うような投稿が
ありまして、うーん、確かに20年以上前の世界観から見れば、今のインターネット社会はSF的以外の
なにものでもないのだろうな、と思えました。さらに、このVirtualityの世界でさえ、今(2003年)には
ちょっとアナクロっぽくさえあるのですから、テクノロジーの進化は速いものです。ちょっと、空恐ろしいぐらいに。
とはいえ、前世紀半ばくらいのSF作家たちが予想したほど、今21世紀の科学って、進んでいるわけではないですけれど。
曲自体ですが、これはネット社会とゲームの仮想現実についての曲で、Neil自身はそう言うものに否定的、
だと聞きます。(今でもそうかは、わかりませんが)一見歌詞を読むだけではわかりにくいですが、彼の一貫した隠れメッセージは
“No,You can't!”だそうです。難破船で漂流し、宝物を発見しても、ピクセル宇宙の救い主になっても、架空の女の子と恋に落ちても、
本当は、そんなことは出来はしない。結局ヴァーチャルはヴァーチャルでしかなく、現実と混同したり、現実逃避につながったりするのはよくない、と言うことでしょうか。
でもゲーム世界にしろ、ネットにしろ、それ自体に罪はないと思いますし、使い方次第では非常に助けになる。「Spirit Of The Radio」の一節のように、
「結局、君の誠実さの問題」なのだという気がします。
RESIST
オスカー・ワイルドの作品の一説が冒頭の一句に引用されていますが、たぶん第一ヴァースはいくぶんアイロニーを含んでいて
(それは結局誰にだってできるのではないかと言う)、本来の主張は第二ヴァース、これができて本物、と言う感じでしょうか?
You can surrender〜 のくだりは日本語にするとちょっとわかりにくいかもしれませんが、補足するなら、
「真に祈る時には自分の主体はなくなる」すべてを神にゆだねる姿勢でないと、「祈った」ことにはならないということではないかと思います。(あくまで私見)
ちなみにこの曲、仮タイトルは「Taboo」だったそうで、「Totem」と対になる概念を表しているそうです。フロイトの著書、「Totem And Taboo」の概念がここでも
基調になっていて、Tabooは、「我々が恐れるもの」の象徴なのだそうです。それが誘惑であったり、苦痛であったり、と言うことなのだと思います。
でもこれ、個人的には改題されてよかった──Resist、とても好きなのですが、Tabooだと、別の曲を連想してしまう・・
(ちょっとだけよ――ああ、古い! 年がばれる!)
CARVE AWAY THE STONE
シーシュポスの神話に基づいた曲です。シーシュポスはゼウスの怒りをかって、地獄で永遠に岩を押しつづける
という苦行を課せられますが、人間の一生もそれと同じようなものだと、カミュの著書にありました。
永遠ではないですが、石(各自の仕事なり義務なり)を坂の上に押し上げ、転がり落ちて行ってはまた押し上げ、
の繰り返しが人生なのだと。それなら、その石を少しでも自分で軽くできないか、というのが、この曲の主題なのです。(たぶん)
☆カミュ/シーシュポスの神話
アルバムについて
前作でハード路線に回帰して驚かせてくれましたが、これもけっこうハードです。でも、Counterpartsほどストレートではなく、
RUSHらしいひねりや仕掛けが、随所で聞かれます。今はもう休刊されてしまいましたが、「炎」誌のレビューで、「キャリアと伝統が考えもしなかったバランスで結び合わさっている」と書かれていました。
今までやってきたことの集大成、でも完全に昇華するまではもう少し、そんな印象でした。
「僕らは何処かへ行きつこうとしている、一緒にまとまって」──Neilが解説にそう書いていたのが、印象的でした。このまま順調に行けば、ライヴアルバムでなく、この路線でもう一歩進んだ、
完全に昇華したアルバムが出来たのではないか──そして、彼らが到達点に達した時、もしかしたらバンドはピリオドを打ってしまうのか──そんな危惧さえちらっと感じたのですが、
事実は皆さんもご存知のとおり、予想外のアクシデントが続いて、五年以上のブランクがあいてしまいました。
「それでも、僕らはそこへ行かなければ」──これは、Geddyのソロ作に入っていた「Still」のフレーズですが、私にはなんとなく、先のNeilの言葉に対する呼びかけのように聞こえたりします。(本人はその気はなく、なんとなく書いたのかもしれませんが)
しかし、彼らはどこへ行きつこうとしていたのか、思いがけないブランクがその進路を変えたのか、それとも、再び同じ場所を目指すのか──
そしてついに2002年5月、彼らは帰ってきました。予想も出来ない、エネルギーの塊のようなアルバムを引っさげて。
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