葛煬{商会の創業者の 加藤栄吉氏は、明治22年7月7日、東京の小池家に生まれ加藤家に養子に行った。
加藤家は資産家であったがほどなく倒産した。栄吉氏は立教中学を卒業後、明治大学を中退し、三井物産に就職。その後、日蘭貿易潟Vンガポール 支店など南洋方面で勤務の後、旧満州の日露実業潟nルピン支店で支店長として勤務した。
妻、加藤すず(旧姓、植野)氏は、1892年(明治25年)群馬県前橋の生まれで、栄吉氏と結婚したときはすでにキリスト教の信者であった。日本基督教会
富士見町教会の植村牧師が、日本の上流社会である華族に伝導するため、尾張徳川家に伝道者を送り込んだ。その尾張徳川家の奥女中として雇わ れていたときに、同僚数人と一緒に洗礼を受けたのであった。すず氏は女中頭にもなったというが、女中頭は何人かいたらしい。栄吉氏の先妻は結核 により病死し、すず氏は後妻であった。
長男栄一氏は大正12年(1923年)父の勤務先である日蘭貿易鰍ェあった神戸で生まれ、後に一家は満州に渡った。帰国後に区立の小学校から東京
高等師範附属中学に入り、その後、早稲田大学に学び、学究者として生きる道を選んでいたので、父栄吉氏は栄一氏を事業の後継者とすることは早く から諦めていた。卒業の後に早稲田大学の教授として勤務し、鉄鋼や非鉄金属の精錬、鋳造の基礎研究を行い、熱力学の講義を担当した。また、半導 体製造に用いられる、化学蒸着法の研究も行った。定年退職の少し前には、理工学部長を勤めた。同大学の名誉教授(工学博士)として世田谷区代田 3-34-9でご健在である。現在89歳。
栄一氏の長女浩子氏の夫は建設省の事務次官を勤めた。浩子氏の結婚は後妻であった。最近は日本経済新聞に月一回音楽評論を執筆掲載してい
る。子供は二人おり長女は横浜にいる。次女の夫は東京大学卒業後NECにいたが、米国の半導体会社AMCに入社して、米国で任天堂のゲームソフト を作っている。
長女美栄氏は昭和2年生まれ、東京府立第五高等女学校を卒業後、慶応義塾大学を卒業し、経済雑誌のダイヤモンド社に勤務し、田中甫氏と結婚し
た。子供は男の子一人であった。美栄氏は一昨年(平成23年)他界した。
次男常昭氏は昭和4年(1929年)4月15日満州ハルピンの生まれ。生後6ヶ月で肺炎に罹り、母親は「もし癒されるなら、神よこの子はあなたのもので
す」と神に祈ったのだと言う。1954年東京大学文学部哲学科を卒業後、牧師になるために東京神学大学大学院修士課程に進んだ。大学院終了後、1 986年まで東京神学大学教授(実践神学)を勤めた。在任中の1965年にはベルリンに行って基督教を学んだ。 1997年まで日本基督教団鎌倉雪ノ 下教会の牧師を勤めた。引退後、国分寺市に居を移し、日本基督教団・隠退教師として生活している。
三男鎮(マモル)氏は昭和7年5月7日文京区小石川で生まれ、中学ではずっと級長だった。慶応大学を卒業の後、千代田生命に入社した。法人担当と
して優秀な成績を残したが、千代田生命が平成12年に経営破綻した直後に、精神的ストレスから癌に啄まれ、東京女子医大で手術したが、まもなく逝 去された。
栄吉氏が勤務した日蘭貿易は、後に船橋ヘルスセンターを作り、政商と言われた丹沢善利氏が大正3年に設立し、南洋貿易で成功した会社で、丹沢
氏は昭和11年の後楽園スタジアム創立にも参加している。
1931年(昭和6年)に栄吉氏は、旧満州の日露実業梶i貿易会社)ハルピン支店で支店長として勤務 し馬賊とも交易をしていたが、満州国内が騒然と
し、不穏な動きが聞こえるようになったので家族を一時帰国させることとし、栄吉氏を残し、一家は8月1日に神戸に着いた。神戸には直後の9月18日 に満州事変が勃発したので、結局一家は満州には帰れないこととなった。
昭和6年、一家は東京の文京区小石川原町13番地(現・文京区白山、千石あたりで、市電の原町の停留所に近い路地)に転居した。翌7年5月に三男
鎮氏が生まれた。
栄吉氏は、文京区に上京の当初は生盛製薬(丹沢善利社長)の胃腸薬を造っていたが、ワカモトの胃腸薬の方が安い原料で製造できていたので、こ
れに勝てず半年位で薬造りはやめた。その頃に墨田区にあったナイト(足立区入谷のナイト食品?)のカレー粉を仕入れて販売しており、商いで得た知 識と、南洋方面との交易で得た香辛料の知識・経験をもとに、即席カレールウの製造創案に成功した。
栄吉氏は小石川の自宅の階下約15坪を工場、二階を居宅に改築して固形カレーの製造を始めた。しかし、固形カレーは解けにくく消費者に不評であ
ったので、翌年粉末カレーに改良した。栄一氏は、 「粉末カレー粉は好評で、茶の間を改修して女工さんが座って包装していた。固形カレーの型抜きを 手伝った思い出があるが、味は粉末より固形の方が美味しかった。当時の唐辛子は青唐であった」と話された。
小石川原町の居宅兼工場は、伯爵・酒井忠正氏邸に近く、邸内にあった金鶏園には、栄吉氏が師と仰ぎ、栄吉の後援者でもあった東洋思想家・陽明
学者の安岡正篤(やすおかまさひろ)氏が大正15年に開いた私塾「金鶏学院」があった。栄吉氏は粉末カレーの製造所を「金鶏商会」とし、商品名を「金 鶏」としたが、安岡氏の勧めで商号及び商品名にしたと言われている。
「金鶏学院」は小石川区原町の伯爵酒井忠正氏邸内にあった金鶏園に、伯爵が大正15年に開いた私塾で、昭和2年には財団法人に認可され、酒井
伯爵が院長を努め、安岡氏が学監を努めていた。学院は、松下村塾・藤田東湖の塾の再現を期し、権藤成卿等が儒教や国体、制度学の講義を行い、 精神教化による日本改造の原動力となる指導者の育成を計ることを目的に創設されたのであった。この学院の方針は近衛文麿、結城豊太郎等政財界 の重要人物から広い支持を得、聴講生には陸軍将校、官僚、華族が多かったと言われている。
安岡氏は「金鶏学院」学監として、古典や歴史をもとに人間が生きる原理原則を説き、帝王学に立脚 した東洋古典の研究と人材育成に努めた。
安岡氏は昭和6年には「日本農士学校」を設立、王陽明や孔子、道元禅師の古典の言葉や人間としての生き方を学徒に教えた。政治の表舞台に出る
ことは好まなかったようであるが、戦時中には大東亜省顧問として外交政策などに関わり山本五十六、蒋介石などとも親交があったとされている。戦後 は、公職追放により雌伏を余儀なくされた時期もあったが、氏の道風を慕う人々が「全国師友会」を設立、政財界、官界、報道界のリーダーたちを指導し た。
安岡氏を師と仰いだ者は多く、政治家は吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳氏などが挙げられる。氏は政治の「陰のご意見番」の位
置にあり、「平成」の元号名を考案した人ともされている。昭和59年85歳で逝去時の青山葬儀所での葬儀委員長は岸信介氏、葬儀委員は稲山嘉寛・大 槻文平・新井正明・江戸英雄・平岩外四の各氏が勧行。政界からの参列者は中曽根・田中・福田・鈴木の歴代総理などで、会葬者は2千有余であった。
安岡氏は昭和58年、40歳近くも歳の離れた銀座のバーのマダムであった細木数子氏と再婚を約束した。当時85歳で認知症の症状があり親族が反対
したが、細木氏が「結婚誓約書」を元に婚姻届を提出した。安岡家が地裁に調停を申し立てた翌月に安岡氏は他界。調停は「婚姻は無かった」こととし て、細木氏が初七日に戸籍を抜いて決着した。
酒井伯爵が金鶏の名称を使ったのは、「源義家が東北遠征途上の野営中に黄金の鶏が夢枕に現れ夜明けを告げたので、義家がこれを吉兆として勇
んで北上した。」との言い伝えがあり、この故事を引用して使ったものと言われている。
また、「金鶏学園」の園内は旧姫路藩の藩邸跡で、園内にあった古井戸から金の鶏が出てきたとの言い伝えがあり、この故事を引用して学園の名称
にしたとも言われ、これを商号にしてはどうかと、安岡氏の勧めがあったとも言われている。
栄一氏は、「酒井伯爵邸は広大な敷地だった。三男鎮氏と安岡氏の子供が同級生であったので、この敷地でバスケットボールを一緒にやったことを覚
えている。」と述べた。
昭和9年、栄吉氏が製造する粉末即席カレーを森永製菓が採用し「森永カレー」として発売を開始した。
次男常昭氏は、クリスチャンであった母親に連れられて教会に行ったが、戦時下では、礼拝に先立ち「国民儀礼」と言って礼拝堂の壁に貼った「宮城方
向」という紙に向かって拝礼をした。その頃の礼拝には必ず特高刑事が同席し、説教を克明に記録していた。と述べている。
昭和10年(1935年)、栄吉氏は森永製菓との共同事業で落合食品研究所を設立、「森永カレー」「森永ソース」「キンケイカレー」を製造した。この年一家
は旧淀橋区下落合(下落合の駅の近くで妙正寺川のほとり)の工場隣接地の平屋住宅に転居した。常昭氏の小学校入学の直前で、氏は落合第4小学 校に入学し、この地には3年間近く住んだ。
昭和12年、森永製菓から落合食品研究所は、他のことに使いたいから出てほしいと言われた。
昭和13年(1938年夏)栄吉氏は新たに土地を求め、一家は渋谷区代々木富ヶ谷に転居した。
鎮氏はまだ5歳であった。この代々木の土地は従前には市場だったところで、隣には小さい教会があった。
次男常昭氏が3年生の2學期のことで、「転校した学校では教会に出入りしていることを理由にいじめにあったので教会通いは中断した」と言う。
栄吉氏はこの地で金鶏商会という会社を興しカレー工場を建設した。金鶏商会は、森永製菓と台湾製糖が協同出資で造った森永食品工業鰍フ専属工
場として粉末即席カレーを製造した。
次男常昭氏が卒業間近の冬に、「熊谷牧師の婦人、アイナさん(アメリカ人)が、工場の二階の住居まで誘いに来てくれてから、2歳上の姉美栄と伝導
集会に出るようになった。6歳上の兄栄一はしばらく教会に出入りはしていたが受洗はしなかった。」と言う。
常昭氏が洗礼を受けたのは13歳(1942,12,20)の時で、日本福音教会、代々木教会で熊谷政喜牧師から礼拝を受けた。当時教会員は50名ほどで、礼
拝出席者は20名ほどであった。
常昭氏は中学4年の時に、我孫子のゴルフ場を潰して作った農場で、ゴルフハウスを宿舎に農耕生活を送った。ここでは爆弾を抱えて敵の戦車に体
当たりする訓練を受けた。
さらに常昭氏は「工場に村山さんという若い工員がいたが、父の制止を振り切り少年飛行兵になった。彼は敗戦になり帰ってきたが、まもなく自死した
という知らせが届いた。」と記述している。
また、常昭氏は「家庭に音楽的な環境があったわけではないが、入っていた児童合唱団が東京都で3位になり、さらに選抜された東京子供唱歌隊が
組織され、これに私は入り毎週日本放送会館に通った。兄の妻の姉の子が中村紘子(ピアニスト)である。」述べている。
昭和16年、金鶏商会は横須賀海軍の軍需部が管理する工場に指定され、海軍用のカレー粉製造専属工場として営業した。戦火が激しくなり、練兵所
に近い代々木では危険であるとして、一家は郊外に土地を探し、昭和17年に世田谷区代田に居を構えた。昭和20年5月に代々木の工場は戦災で焼失 した。栄一氏は「父は戦後の同年10月、従前と同じ渋谷区代々木富ヶ谷に工場を建築して事業を再会した。商品は小売店への直売がほとんどで、営業 員8人ほどが全国に売り歩いた。問屋は東京の西野商事と福島県郡山のボーキ佐藤だけであった。」と語った。
栄一氏は、「子供たちが富ヶ谷小学校に通学したが、その小学校が戦火に焼けて再築する際に父が高額の寄付をしたので、学校では「加藤」は名が
知れていた。」と語った。
常昭氏は、「昭和17年12月、13歳のときに福音教会・代々木教会で洗礼を受けた。中学は東京高等師範学校付属中学校に通い、1年から級長となっ
た。3年の時の桐蔭報告会(今でいう生徒会)の副幹事長は、常昭氏と後に自民党代議士になった越智通雄氏が勤めた。
昭和21年(1946年)常昭氏は目黒区駒場の第一高等学校に入学、学内に「聖書研究会」を組織した。17歳のとき「地之塩会」(中学生会)の指導者を委
ねられた。」
昭和22年10月2日、栄吉は事業を法人とし、資本金50万円で葛煬{商会を設立。戦後の復興の第一歩とした。栄一氏は「当時は、カレーのほかに、
からし、わさび、胡椒、おでんの素、おしる粉などを加工していた。おしる粉はサッカリン、ズルチンが入って甘かったので学校に持って行ってみんなに喜 ばれた。」と語った。
常昭氏は昭和25年(1950年)から東京大学で哲学を学び、昭和29年(1954年)春に東京神学大学に入学した。 1965年にドイツのベルリンに行った。
吉祥寺教会で活動の後、1997年まで日本基督教団鎌倉雪之下教会の牧師を務めた。なお、常昭氏は「敗戦の天皇の言葉は父母と共に自宅で聞いた。 兄栄一が早稲田大学に学び、学究者として生きる道を選んでいたので、父は事業の後継者とすることを早くから諦めており、私が後継してくれることを望 んでいたので、東京大学の卒業後に私が東京神学大学に入ることに父は同意しなかった。」と述べている。
昭和28年3月10日に栄吉氏は脳溢血で急逝し工場は閉鎖された。63歳であった。栄吉氏の死後金鶏商会の事業は急速に傾きまもなく破産した。社
員数は30人くらいだった。
栄一氏は「父は、金鶏の商号を最初から使っていたが、商標を文字ではなく図柄で登録したので、キンケイの文字が誰でも使えて失敗したと話してい
た」と言った。
常昭氏は「父が学生時代にすでに洗礼を受けたキリスト者であったことは父の死後まで知らなかった。父はキリスト者である母と結婚して以降、自分の
キリスト者らしくない生活ぶりを恥じたのか、自分の受洗の事実を明かすことはなかったが、父の急逝時に父の親友がそのことと、葬式は教会でと父が 願っていたことを教えてくれたので葬儀は教会で行った。金鶏商会に雇われている者の中にも何人か洗礼を受けた者がいた。」と述べ、「その後は母が 質屋通いをして生計を守った。私は、国立音楽大学附属高等学校でドイツ語と英語の講師となった。」と記述している。
栄一氏は、「父は結構暴君で私などはよく殴られました。三男鎮と父は教会にも行かなかったし、クリスチャンはタバコも、酒を飲むこともだめなのです
が一升酒を飲み、鎮がそれに付き合っていました。女遊びもしていたし、江戸っ子的な人だったから、家族にもクリスチャンだとは言えなかったのでしょ う」と言った。また、「金鶏学園がそばにあったことは確かですが、安岡氏から金鶏の商号を使っていいと言われたと言う話は聞いた覚えがない」と言っ た。
常昭氏は、現在は日本基督教団の隠退教師という最高位にある牧師で、80歳、国分寺市に健在である。
平成25年4月24日、
加藤栄一氏と道玄坂「大石」で面談した。
平和食品工業株式会社 専務取締役 河野善福
総務部係長 鈴木清太
加藤栄吉氏一家、1歳の常昭氏と兄と姉 生後150日目の常昭氏
ハルピンにて 写真 加藤常昭氏著:「自伝的説教論」から転載
[参考]
昭和22年10月に加藤栄吉氏によって設立された葛煬{商会は、氏が昭和28年3月に逝去後約4ヶ月で倒産した。大口債券者であった生盛薬館の館
主、丹沢善利氏(栄吉氏が最初に勤務した日蘭貿易の経営者だった人で、政界の黒幕的人物)が中心になって、昭和28年10月に葛煬{という会社を設 立し、代表者として森永製菓に居た山崎雅司氏を連れてきた。山崎氏は川越の銘菓舗「かめや」という資産家のご子息であった。
栄一氏は「倒産後、宝町にあった丹沢氏の事務所に母と弟と三人で挨拶に行ったが、丹沢氏から「金鶏は調べてみたが、負債が大きいので一度整理
するしかない。整理は自分がやってあげる、加藤家は手を引けと言われ追い返された」と語った。
会社整理は三男の鎮氏と丹沢氏の秘書の清水さんが主に行ったが、大学に勤務していた栄一氏を清水氏は「会社経営には向いてない」と言い、栄一
氏は学校があったので、金鶏のその後を詳しくは知らないと言い、倒産した金鶏商会が平和食品という会社で引き続いてあることは、兄弟も誰も知らな いことである、と言った。
葛煬{は、倒産により閉鎖されていた葛煬{商会の設備を借り受けて、カレー製造の事業を継承した。
昭和31年に葛煬{と葛煬{商会の両社を、キンケイ食品工業鰍経営していた森村武次郎氏が経営するところとなった。森村は、葛煬{にキンケイ
食品が製造するカレールウの原料である「カレー粉」を製造させた。
森村は、昭和41年に設備を所有している葛煬{商会の社名を東京配給鰍ノ改称した。
森村は、昭和42年にカレー粉を製造している葛煬{の社名を平和食品工業鰍ニ変更した。
葛煬{の社長を勤めた坂巻寛一氏は日大卒で、森永製菓の三島工場に勤務されていた方だった、坂巻氏は、金鶏商会の頃に栄吉氏が自社に招き
専務をさせていた人で、葛煬{の在任中もまた退任後も弁理士として活動し、金鶏商会、葛煬{および後の平和食品の商標管理を行った。自宅は大田 区田園調布にあった。
昭和46年、カレー設備所有会社の東京配給鰍ヘ、カレー粉製造実務の平和食品工業鰍吸収合併し、合併後の自社の社名を平和食品工業鰍ノ改
めた。
森村武次郎氏は昭和51年7月31日逝去し、長男、森村憲二氏が平和食品工業鰍フ社長に就任した。
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