森村武治郎氏とキンケイ食品

                                             河野 善福 記

   
                       品川区平塚橋のキンケイ工場                      自宅の庭で武治郎氏としげの夫妻 S35.04

 森村武次郎氏は明治42年10月9日、群馬県佐波郡剛志村上武士(現在の佐波郡境町上武士)に生まれた。父森村和一郎、母志づ、長男一郎、次
男武次郎、長女もん、次女たま、三男國夫の五人兄弟である。
  尋常小学校6年を卒業後、叔父を頼って京都に働きに出た。まもなく東京に帰って品川の星野屋という荒物、雑貨の小売店に奉公に出て、主にご用
聞きを行った。20才の兵役検査が丙種合格で兵役免 除となったので、東京・武蔵小山の裏長屋を借りて独立し店を出した。
   店が順調に伸びたので、長兄一郎やいとこたちを呼んで商売を始めた。一時は使用人も7〜8人となって順調に見えた。三男國夫の卒業を待って家
族を呼び寄せることにし、両親は妹二人と國夫を連れて上京したが、家族を呼び寄せて7〜8ケ月で店は倒産した。家に長兄を残し家族は別の家を借
り、武次郎氏は再び京都に行った。
 京都ではソ−ス、ケチャップなどのセ−ルスマンをやり、1年半後東京に戻ってきた。
 昭和11年、武次郎氏の出身地に近い群馬県佐波郡剛志村下武士の、須藤家の7人兄妹の三女しげのさんと結婚した。
 京都での経験から四斗樽のソ−スを桶買いし、瓶に詰め替えて売る商売を行っていたが、そのうちに住まいの裏手で自分でソ−ス、トマトケチャップの
製造を始めた。社名を『森村鈴河商店』とし、商品名を『銀座ソ−ス』とした。昭和12〜3年のことでソ−スは見よう見まねで作ったものだが、評判がよく
チキンライスやチャ−ハンなどに使われたという。店の経営が順調に伸びて、純カレ−、コショウ、マスタ−ド、コ−ヒ−豆も扱うようになった。
  昭和18年頃に一家は目黒区清水町に移った。国の命令で同業者6社(エビス屋・三ツ和ソースほか)が企業合同とされて、(日本食品合名会社の改
組)国の管理工場に指定されたので、全社のオ−ナ−が清水町の氏の工場に通うこととなった。当時はソ−スやケチャップも配給制で、酒屋さんが頭を
下げて買いに来たと言う
  昭和18年8月、群馬県の赤城山麓に家を借りて、両親と甥たちが疎開していた。その家の家主の子が赤痢となった。家族にも赤痢が伝染し、隔離先
で長兄の子、姉の子、従業員の子が次々と亡くなった。その直前に長兄一郎も病死した。
  戦後はアミノ酸と塩をカラメルで伸ばした代用醤油で儲けたが、やがて警察に捕まりこれはやめた。
 昭和22年アスパラガスを裏ごししたものに、リンゴの裏ごし品とサッカリン、ズルチンを混ぜてフル−ツソ−スを作り、『スイ−トフルクス』と名付けて売
った。ソ−スは公定価格(1.8リットルが16円50銭)が決められ、ケチャップにも公定価格があったが、物価庁に360CC、80円の届けをし認可を受け
た。これが飛ぶように売れた。
  目黒川のそばに荏原青果という会社があり、統制外のカボチャが山積みされていたので、荏原青果の隣に工場を借りてカボチャをボイルし、裏ごしし
たものを色素で赤く染めてサッカリン、ズルチンを加えて『トマトケチャップ』と名付けて売り出した。 これも問屋がトラックを横づけにして現金で買ってい
った。
  昭和22年9月、平塚橋に土地4百数十坪を借りて、工場を建設しその秋から稼働した。清水町の工場は遊ばせて、荏原青果の隣の工場は返却し、
全部をここに移して社名を『荏原食品工業(株)』とした。
  昭和25年に蚕の糞から抽出するクロロヒリンの製造を手がけ、社名を関東農産加工(株)に変更したが、昭和28年9月には再度社名を変更して『キ
ンケイ食品工業(株)』とした。このころは、昭和25年発売の『キンケイミルクカレ−』が順調に売れていたが、明治製菓からも同じ商品を『明治ミルクカレ
−』という名称で販売したいとの注文が来ていた。 この商品は石けんの樣な形状で1個50円。包装も石けんのようなものであったので間違って使用した
者がいたという。



  昭和33年には荏原食品(株)という別会社を横浜に作り、弟國夫の戦友の田中忠一郎氏に工場を任せて、ソ−スやケチャップを作らせた。
  昭和36年に後の総理大臣、福田赳夫氏の橋渡しで明治製菓との共有ブランド『明治キンケイミルクカレ−』を作り、明治製菓が販売したいとの話があ
ったが、これはご破算にした。
 翌37年にはキンケイ食品工業が東証二部に上場することとなり、明治製菓に出資を依頼し、株を持ってもらうことと、業務提携をすることが決まった。
やってみると明治製菓の販売を担当する『明治商事』と、キンケイの全国にある特約店との販売網が前線でぶつかり、自社商品の売り上げ が落ちてい
った。明治製菓はキンケイ食品に役員を送り込み、武次郎氏は会長に退いた。
  昭和40年、横浜の荏原食品鰍任せていた田中忠一郎氏が体調を崩し、経営意欲もなくしたので9月から弟の國夫氏に任せる事とした。これが現在
の『エバラ食品工業(株)』である。弟國夫氏はキンケイ食品の専務として、これまで常に兄・武次郎の事業に協力してきたがこの日から独立した。
  昭和43年にはキンケイ食品が造っていたキンケイブランドは総てなくなり、明治ブランドで統一されたため、武次郎氏も國夫氏もキンケイ食品工業
から離れた。武次郎氏はキンケイ食品工業鰍ノ、カレーの原料である純カレ−を納めていた葛煬{商会(現、平和食品工業梶jの経営に移った。
 キンケイ食品工業鰍ヘ、西武線小手指駅の駅前に1万坪ほどの土地を所有していたが、設備投資過大で資金繰りが困窮した。会社は西武グループ
が取得し、駅前の土地は再開発された。
 当時は株式を上場することは難しかったが、西武は昭和38年に設立した『レストラン西武』を上場させるために、昭和51年3月すでに上場していたキ
ンケイ食品工業鰍ノ、レストラン西部を合併させて自己のレストラン部門の上場を果たし、同年6月にキンケイ食品工業鰍フ社名を『レストラン西武』に
変えた。キンケイ食品工業鰍フ名前はここで消えた。小手指にあったカレー工場は西武が独立させて、昭和56年10月に埼玉県坂戸市の明治製菓の
隣地に移築した。工場は新たに『富士食品工業梶xと称してカレ−の製造を続けた。この会社は、その後は西武系列の会社と合併を重ねて『朝日食品』
『朝日工業』『朝日食品工業(株)坂戸工場』となった。この名称変更の間も平和食品工業(株)は、カレー原料のカレー粉を納め続けていたが、 平成15 
年3月、この工場を平和食品工業(株)が営業譲渡を受け、「平和食品・坂戸工場」とした。武次郎氏の設立したカレー工場を、子息達が再び経営すると
ころとなった。
 武次郎氏は、戦後すぐに焼き肉のタレを市場に出したり、テレビのモニタ−のようなものを店頭に置いてCMを流す『シネビ』というものを沖電気と開発
したり、自動販売機もブ−ムになる前に自分で作った。アイデアが豊富で実践する人であったが、これらの商品は時代に早過ぎて、世に受け入れられな
かった。 
 武次郎氏は昭和36年12月から全国カレーコショー業公正取引協議会の初代委員長、37年8月から全国カレー工業協同組合理事長に就任、業界に
尽くした功労により昭和50年11月藍綬褒章を受け昭和51年7月31日死去した。51年8月、生前の功績により勲五等瑞宝章を授与された。

 
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