北里一郎氏(北里研究所)講演会



                       「健康社会・明日への貢献」

                 「食品経営者フォーラム」

                    主  催  日本食糧新聞社
                    日  時  平成23年5月18日 (水)
                    場  所  八重洲富士屋ホテル 2階 桜の間

          【講師略歴】
       ペスト菌の発見者であり、慶応義塾大学医学部の創設者である北里芝三郎の孫。
       明治製菓株式会社 元社長で、学校法人北里研究所の相談役。
                                                                      河野 善福 記
                                                              (講演の概要を筆記したもので、お話のすべてではありません)
          【講演要旨】

 企業の社会貢献が問われている今日、企業や医療研究機関が、社会環境の変化に対応して、いかに社会貢献に結び付けて行くかについて、歴史的
背景と社会的位置づけをお話します。

 わが国のGDPは98年に実質・名目共に成長率が逆転現象を起こしました。その後は実質経済成長率が順調に伸びておりました。しかし、2008年の
リーマンショック時に大きくマイナスとなりました。
 資料は震災の直前に出されたものですが、スイスのIMDが出した「世界競争力ランキング」によると、1999年に中国24位、日本29位です。2003年
には中国27位、日本24位です。2010年には中国18位、日本は27位に落ちました。
 マクロ経済で観ると日本は、世界54カ国の内1999年の13位から2010年には39位に落ちました。政府の効率性は29位から37位です。インフラ
の整備はシンガポールや香港が素晴らしい実績を残しています。日本は14位から一時は3位になら増したが現在は又13位に落ちています。
 このような環境において、我々はこれからの社会貢献をどのように考えているのでしょう?。
人生50年といわれた終戦の年1945年頃に、日本人の平均寿命は女性50歳で男性は47歳です。その5年後には衛生環境が良くなり、ペニシリンが
出て、妊産婦の死亡が減ったことなどから平均寿命は年々伸びており、09年には女性86.4歳、男性79.6歳となりました、しかし、依然として7歳の差
があります。当時のペニシリンは不安定なものだったのですが、これを人間に使えるようにして、1946年11月に日比谷公会堂で、無料で公開説明会
が行われたのです。森永製菓、明治製菓などがこれをつくり初めて、門前に製品を待つ人の列が出来たのです。 シロップの壜が7000本あるのを見つ
けた先輩がいて、カビを取って持ってきたので、4キロリットルの培養素を5基作りました。 1948年からは、液体の中で撹拌しながら造る方法を見つけ
て、大量生産が出来ました。この頃は明治製菓が90%のシェアを持っていました。

 1843年産まれのロベルト・コッホが、40年の研究生活の間に病原菌の三原則を発表しました。(感染症の病原体は一定の微生物があり、それは分
離することが出来る。分離した微生物を他の動物に感染させて同じ病気を起こさせて、その病巣部から同じ微生物が分離できる)
 彼は皮膚からうつる強い病原菌の炭疽菌をみつけました。炭疽菌は微細粒なので米国の3:11テロの後で封筒に入れたものが送りつけられ病人がで
ました。
 コッホが結核の治療薬として使えると思ったツベルクリン(結核菌ワクチン)は、現在結核の検査薬として残っています。当時の薬は対処療法で、頭痛
でも下痢でも止めるだけの薬だったのです。その原因を突き止めて、元をたたかないと駄目だということをコッホは言ったのです。コッホは素晴らしい細
菌学者であると共に、学者の任務を越えて病気の治療に当たりました。
 
 北里柴三郎は血清療法の道を歩みました。彼は1853年熊本の生まれで、18歳の時、熊本医学校に入り、マンスフェルトに出会っています。マンスフ
ェルト先生に「医者になる気は無いが、両親がうるさいから医学校に来た。政治家か軍人になりたいと思う。折角この学校にいるので外国語の勉強をし
たい」と言ったそうです。先生が「医学また学ぶに足る。私はオランダに帰るから、東京に出て学び、卒業したらヨーロッパに来なさい」と言ったので、東京
医学校(後の東大医学部)に進み、卒業後内務省(厚生省と警察が一緒になったようなところ)にはいり、1885年10月に船に乗って、翌年2月ベルリン
に着いています。
 ドイツベルリン大学のフルーケ先生から、「破傷風菌は単独では培養できない。他の菌と一緒で生きられる」と言われ、「コッホの三原則に合わない。そ
んなことはおかしい」と思ったそうです。破傷風は傷口に風で入ってくる馬と人間の病気だとされていたのです。彼は水素を使って、空気を追い出してお
かないといけないことを知ったのです。一東洋人が大御所の説を覆したと話題になりました。柴三郎は菌を分離して、毒が残る、その毒をやっつける必
要があることを見つけたのです。
 志賀潔先生は、柴三郎から赤痢菌の勉強を命じられ、そこである毒素を見つけました。この毒素と大腸菌O−157の毒素は同じものです。O−111(ベ
ロ毒素)も仲間です。
 秦佐八郎も梅毒の治療薬が渇望されていたので、柴三郎の命により研究し治療薬を完成させました。
 柴三郎は、ペニシリンの工業化に成功したチエーン博士から「ペニシリンが出来て、人の命を救うことも出来て大変良かった、これからは、心の病に効
く薬を作らねばならない」と言われた。先生の言葉が非常に新鮮で、クリアに聞こえた。と語っています。
 1902年、柴三郎の生誕五十年を祝い、ノーベル賞を取って米国に帰る途中に日本に立ち寄ったワッツ博士は「日本の若手の研究家の実情が余りに
ひどい、これではよい研究は出来ない。ノーベル賞の賞金の一部を寄付するから、研究所を造ったらどうか」と言われて寄付を戴いた。その寄付で出来
た財団が、私が今理事長を勤めている(財)日本ワックスマン財団です。
 柴三郎は、39歳の時に日本に帰ってきました。帰ったら福沢諭吉(57歳の時)のところに行って相談をせよと言われていたので訪ねていきました。福
沢は、日本に伝染病の研究機関が無いことを知って協力を約し、福沢が芝に借りていた土地があったので、ここに日本初の伝染病研究所が作られたの
です。柴三郎が日本に帰ったのが1992年5月、研究所が出来たのは、その年の11月です。
 福沢はさらに、森村市佐衛門に口ききし、「土筆ヶ岡養生園」を作ってくれました。二人は「今の日本は肺結核の死亡率が高い、外国とのこの差は何な
のか?。とにかく専門の研究機関を作ろう。経営のことは任せろ」と言うことで、養生園が出来て、門前市をなす状態だったと言います。
市佐衛門は柴三郎に、「研究と治療に専念しなさい。経営は玉三郎に任せるから・・」と言われ、儲かってから返しに行ったら、「世の中は何が起こるか判
らない。取っておけ」といわれたそうです。今の慈慶医大病院のそばだったのですが、「ばい菌を撒き散らす病院を作るとは何事か」と大変な反対があっ
たが、福沢諭吉は「そんなに大変な病気なら大切な息子を住まわすことは無い」といって次男を近所に住まわせたのです。
 柴三郎は、回復して行くヒツジの中に、良い病原菌があることを見つけ、ワクチン(免疫血清良化法)を完成させたのです。その年にペストが大流行を
し、東大から3名、北里研究所から3名が選抜されて、一週間かけて香港に行ったのです。彼はペストに二種類の菌があることを見つけ仮説を立てまし
た。「臓器中の菌は血液中の菌の老廃形である」として、両方遣ってもしょうがないので、「血液中の菌だけ研究する」としたのです。
 ある日、香港で英国人がパーティーをやってくれたのですが、翌日東大の青山教授と石神氏の様子がおかしくなりました。二人ともペストに罹っていた
のです。さっそく病院船に収容してもらいました。石神氏は遺書を書いたくらいですが、程なく回復しました。
 その頃、福沢諭吉から柴三郎に「スグカエレ」と電報が届きました。福沢は、「柴三郎を無駄死にさせては損だ、すぐ返せ。」と言うことだったのですが、
柴三郎は「二人を置いて帰れない」と打電し、二人の回復を見届けて帰国しました。ペスト菌を見つけた顕微鏡は香港に置いて帰ったのです。
 私が香港に行ったときに博物館の倉庫まで探したが見つけることが出来ませんでした。「訪尋古董顕微鏡」という新聞広告を、3紙に2回づつ、6回も
出してくれたのですが、残念ながらまだ見つかっていません。

 1914年、福沢の予感が当たって、研究所は内務省から文部省への移管となりました。養生園が東大の研究所になりそうだと思った柴三郎は、すぐに
辞表を出して北里研究所を造ったのです。自分に資金がなければ、文部省の言う方針に従うほか無かったのですが、森村市佐衛門に言われて蓄えて
いた蓄財があって出来た研究所です。1901年に福沢先生は亡くなられました。
 1916年12月、文化財内定の話がありましたが「福沢先生の恩顧は受けたが、福沢先生の門下生ではない」との評議員会の議決でこれを断わりまし
た。
 1923年9月1日、関東大震災がありました。北里研究所は救護班3班を作って、救護活動に当たりました。この思想が現役にも伝わり、今回の東日
本大震災でも、すぐに駆けつけました。柴三郎は、上司に諂う者が多かった時代に、奉公人根性は駄目だ、「独立不羈」の精神を持て、「剛健な人格を
備え、軽薄を排し、青年の純情を導くこと」と常に教えていました。

 近年、平均寿命は延びたのですが、健康寿命(身も心も健康)でなければだめです。男女の平均寿命には7歳の差があります。厚生労働省が、男女の
差をなくそう。寿命が延びても寝たきりでは駄目だ。と言っています。人間の寿命は最高120歳です。ピンピンコロリが良いのです。老化を遅らせるため
にヨーグルトは腸に良い、悪玉の菌が溜まるのを防ぎます。ヨーグルトやオリゴ糖は血管の健康に良いとの実験の結果が出ておりますので、チョコレート
を食べると健康寿命になります。

 21世紀における健康社会は、ガン・心臓病・脳卒中などの生活習慣病を、栄養・食生活・運動などを行い予防しなければ作れません。1997年から2
009年まで、食塩は13.5gが11gに(目標は10g)、野菜は290gが295g(目標350g)、と達成できず。肥満者の割合は男性24%が32%(目標1
5%)逆に増えています。一日の歩数は、男性8200歩が7200歩(目標9200歩)で達成は無理です。
 ストレスは、職場における心のケアが重要です。職場や上司による偏りをなくすこと、記銘力(新しい経験を覚えこむ能力)が大切です。脅迫観念や社
会恐怖を取り除く手伝いをするのです。
 健康社会は、食を通じた少子高齢化への対応、子供を取り巻く環境の変化に応じた食の提供、生活環境病の予防に役立つ情報の提供が必要です。
女性の出産理論値は2.2人でないと人口は減っていきます。現状は1.26人です。一人っ子が多く、家族とは話し合わないし、ゲーム・パソコンに夢中
になる。ピアノ・ダンスを習え、勉強もせよ。それで過保護、大学の入学式に親が付いてくる。部屋に入れないから別室でビデオを観て貰っている。私に
は考えられないことです。
 企業の社会的責任は、客が求める安全・安心の期待に応え、質の良い商品とサービスを提供することです。


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