行徳は神輿の町です。 古くから江戸の神輿の多くは行徳で造られたことが記録に残っています。 本行徳4丁目に代々続いた「浅子周慶」
作のものが多く、完成した神輿は江戸と行徳を結んだ定期航路の船着き場であった新河岸(今も常夜灯の残っているところ)から古式に則
った「舟渡御」の儀式で積み出されていたのです。 「浅子周慶」は新河岸から100mほどのところにあります。 近所に中台神輿屋と後藤
神輿屋があり、行徳は今も修理の神輿が常に入っています。 1986年秋に東京都三鷹市の下連雀八幡大神社に納めた神輿は1億円と言
われました。 「浅子周慶」は500年続く神輿屋で、15代の主人はベレー帽を冠り、格子柄のカジュアルスーツを着た人でとても神輿屋の
棟梁には見えませんでした。 私はこのご主人が兼業していた不動産屋さんで土地を買ったので話をしたことがあります。 15代のご主人
は平成元年に亡くなり、先代亡き後の「16代浅子周慶」を奥様が襲名されていました。日本初の女性神輿師でしたが、ご夫人も2006年に
亡くなられました。 お子様はお嬢さんで女医と聞いておりましたが、現在の棟梁はどなたなのでしょうか?。
行徳には昔の集落ごとに神社があり、集落によって祭りの日が違っていました。 小さい集落でしたが、集落ごとの対抗意識も強くて境界と
なる道ではお互いに気を使う祭りでした。 神輿の担つぎ手も決して有り余ると言うことではなかったのですが、他の集落から担ぎに来る人
を排除するために、腰紐の色を替えて他者が来ればすぐに見分けがつくようにしたときもありました。
行徳の神輿の担ぎ方は独特で、通常よりかなり重い神輿なのですが、先導者の笛を合図に、地面すれすれまで下げて廻ったり、持ち上げ
て止めたり、上に放り上げて拍手を二度行ってから受け止めたりと、激しい動きをします。
朝から担いで皆が疲れきった夕刻、神社の入り口があるバス通りを30分くらい、神輿を担いで何度も往復して練り歩きます。 定期バスが
止まり、警察の道路使用許可も時間が終わって、地区の役員が神輿の宮納めを伝えますが、若者たちは承知しません。 そのうち役員が
数人で神社の参道へ押し込もうとしますが、若者たちは神輿を担いで逃げて行きます。 再度戻ってきたところでまた揉みあいがあり、数度
繰り返して、若者が疲れきったところで、役員数人が神輿に飛び乗り、さらに他の役員が参道に押し込んで「宮入」をさせます。
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