行徳の旧街道と昔の商家
(このページの写真はすべて私のカメラで撮影したプライベート写真です) 河野 善福
江戸から房総方面に行く道は陸路も利用されたが、船で江戸小網町を発って市川市の行徳に上陸する道を利用する人が多かったと言う。
成田詣でをする人々が江戸を発ち、深川の水路にあった数ヶ所の検問を通った後、最初に上陸した船着き場が市川市の本行徳であった。
行徳の塩を江戸に運ぶために造られた小名木川、新川の航路が人や物資の回送に使われるようになり、その運行収益が大きくなったので、
水路沿いの村々が関東郡代、伊那半十郎に回送許可を願い出たが、江戸小網町〜行徳間の船路海運許可は寛永9年(1632年)に行徳
村に下りた。これによって行徳村はこの航路の運行独占権を得た。 江戸小網町から本行徳までの13kmに就航した船を「行徳舟」とよび、
当初は24人乗りの船が16艘で運行されたが最盛期には62艘も運行された。 この船着き場を行徳新河岸と呼んだ。
船賃は1790年頃には一人50文、貸切り1艘が250文だったとある。これが明治初期には4銭になっていたのだという。 船は毎日、明け
六ツ(午前6時)から暮六ツ(午後6時)まで就航したので、この船を利用した人も多く、松尾芭蕉・十返舎十九・小林一茶なども利用したとある。
船着き場跡に今も残る常夜灯は、江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の成田山講中が夜間の安全運行を祈願して文化9年(1812年)に建立した
ものが今も川岸に残っている。
この行徳村から妙典を通り、江戸川放水路がまだ造られていなかったので原木に出て、木下街道から成田街道に入る道と、海神の方まで
行って成田街道に入る道があったようだ。特に文政の頃には成田山参詣が盛んになり、文人墨客にも訪れる人が多かったので、行徳の町
はかなりの賑わいを見せていたという。
本行徳に残っている昔の常夜灯 (平成21年の暮に市が公園として周りを整備した。)
(船着き場と行徳街道の賑わいの様子 常夜灯説明図から)
関東平野の南部は荒川・利根川・渡良瀬川が洪水のたびに流れを変えていたが、利根川の治水に力を注いだ徳川幕府が、60年かけて
利根川の本流を東に流し、銚子で太平洋に出るように改修した。 1641年以降は銚子から利根川をさかのぼって関宿に至り、小名木川
を経て日本橋に至る航路が開かれた。 明治4年には深川から行徳を経て、関宿に至り、栗橋まで行く蒸気船が就航している。
明治14年には銚子から利根川を登る蒸気船の会社と、東京から江戸川を登る蒸気船の会社が業務提携をして、東京・銚子間の航路が
就航された。 これによって奥州・常陸・下野・房州の物資が大型船で運ばれるようになった。 中間荷積み地となった行徳は房州産物の
江戸への出荷物の集積地となり、宿屋・演芸場・商家などは繁忙を極め大繁盛をした。しかし、蒸気船の出現によって行徳船は姿を消した。
行徳の塩浜と塩焚きの図 (行徳駅前の行徳案内図から)
行徳にも札所があった。 札所と言うのは、33ヶ所の観音または88ヶ所の弘法大師の霊場のことで、板東札所めぐりや秩父巡礼などの
観音様詣でが信仰と行楽とに結びついて各所に出来た。 所によっては門前町が形造られた場所もある。 行徳の札所は元禄3年に本
行徳、徳願寺の覚誉上人が自ら三十三体の観世音菩薩の像を刻んで、行徳領内の33ヶ所の寺に分かち、札所としたのが始まりで、成
田、佐倉、白井、印西、船橋など下総各地から巡礼者が訪れたと言う。 行徳札所は徳願寺を振り出しに、浦安の大連寺まで行徳領内を
「のし」の字を描くように巡拝するコースが出来ていた。 このページの一番下で「戻る」をクリックすれば、トップページに行徳の案内図があ
る。 旧江戸川添いの行徳街道を挟んで北から南にお寺が密集している。 この殆どの寺が行徳札所であった。 文化・文政の頃になって
成田山や千葉寺の参詣が盛んになると、江戸小網町から行徳舟に乗っての船旅で行徳に来遊する江戸市民も多くなり、行徳札所巡礼も
塩浜見物、千鳥見物、潮干狩り、お寺めぐりといった信仰と行楽をかねたレジャーコースになった。
行徳街道に最近まであった商家は、二階を住居としているところが多い
藤井畳店 (関ヶ島) 大橋酒店・綿為ふとん店(伊勢宿)
浅子神輿屋(本行徳)
(
明治27年、総武鉄道会社が錦糸堀〜佐倉間の鉄道建設認可を得た。 当初の計画では市川最大の繁盛地であった行徳を通って船橋に
出る計画であったが、水運業を中心に発展していた行徳では、鉄道が通ると営業妨害になると反対運動が起こり、路線が北のほうを通り船
橋に通ずるように変更されたのであった。 当時の八幡辺りは「藪知らず」と言う、立ち入ると祟りがあると言われた雑木林があり、人家もま
ばらな行徳の一部であった。
笹屋うどん(本行徳) (本
加藤家(本行徳) 後藤神輿屋(関ヶ島)
行徳の歴史は、僅かに1,000年である。関東平野は太古の昔から、洪水のたびに流れを変える大河が、休むことなく運んできた土砂の砂洲
地が多い。特に海岸部は干潮時には遠くまで歩いて行ける遠浅地だった。
行徳・浦安地区も江戸川が運ぶ土砂で出来た遠浅の海地であったが、約1,000年ほど前に海退が起こり、土砂が堆積しただけの砂州が表
れたのだという。江戸川の対岸の篠崎方面に住んでいた農民が、農耕のために市川砂洲に渡り来るようになった。永仁元年(1293年)当代島
が津波に襲われ全滅したとの記録があるので、その少し前から住み着く人も現れたものと思う。
西暦1500年頃には寺の建立も始まっているので、住民も増えたと言うことでしょうが、地下鉄が通った昭和40年頃までは、住宅は江戸川に
沿って通った行徳街道沿いにほぼ限られていた。1591年に徳川家康が行徳の塩焼きを上覧し、塩浜開発資金を下付したと記録にある。
1600年頃になると、徳願寺の前身である普光院など、多くの寺が行徳に建立されている。1768年には本行徳で大火事があり、罹災家屋が
300軒という記録が残っているので、この頃には住民も増えていたと思われる。
新浜に御猟場が設けられたのが明治26年(1893年)で、行徳町が市川市と合併したのが昭和30年(1955年)だった。
市川の土地は、北部の国府台・国分・北方に至る大地から、南の砂洲沖積地区につながっている。その中間地区の八幡・須和田地区は数
千年にわたってアシが密生し、それらの腐敗物が堆積して出来た沼地であった。 水捌けが悪く水田も畑も作れなかった。 市川10ヶ町村が
耕地整理組合を作り、明治44年から10年間をかけて菅野付近で停まっていた真間川を江戸川まで流すようにして、洪水をなくし、畑が作れ
る土地にした。
明治43年の利根川の大洪水で利根川本流の流れが変わり、江戸川への流水量が大幅に増えた。 江戸川の川幅を替えるだけでは対応
できないので、行徳地区に放水路を開削することとなった。 明治44年(1911年)から昭和5年(1930年)まで20年間をかけて江戸川方水
路は完成したが、この開削によって行徳地区の160町歩の耕地が消え、一つの部落で原木地区は原木と行徳に分断された。 現在はこの
放水路を江戸川と呼び、江戸川本流は旧江戸川と呼ぶことになった。行徳橋は大正11年に完成した。水量調節のためのローリングゲートは、
行徳橋として昭和25年から7年間かけて造られたものである。
行徳小学校が徳願寺を仮校舎として開校したのは明治6年(1873年)で、同時に妙行寺に原木分校、源心寺に欠真間分校が出来ている。
尚、同年に湊の法伝寺に湊小学校。翌7年には新井村に新井小学校。翌8年には河原小学校が開校している。
明治6年に「徳願寺」を仮校舎として開校した行徳小学校は、明治18年には、現在の本行徳4丁目のバス停あたりにあった宿屋「山田屋」を
改修してここを行徳小学校とした。しかし、大正6年9月30日の暴風雨で高潮が襲来し、妙典・河原地区にあった河原小学校が流され子供た
ちの行き場所がなくなったので、大正8年に現在本行徳公民館となっている場所の隣に行徳小学校を新築し、両地区の子供を通学させた。
校舎はマス型で当時ではモダンなものだった。この行徳小学校は昭和29年に現在の場所(市川市富浜一丁目1番40号)に移転した。
本行徳の役場(現在本行徳公民館)は明治26年に造られたもので、行徳小学校は後に隣地に造られた。
豊受神社の参道 子供みこし
太古の昔から砂洲の沖積地で、もともと海の中にあった行徳・浦安地区が、海退によって表れてからやっと1,000年。行徳地区は江戸川が
運んできた土砂が堆積しただけの三角州で、沖合いまで干潮時には歩いて行ける干潟地であった。海面より僅かに高地であるだけのこの土
地は、毎年のように氾濫する江戸川の洪水と津波や高潮の繰り返しであった。したがって、津波が村全体を越えていったという記録がいくつも
残っている。古い記録では慶安4年(1651年)に発生した津波により葛西・行徳の民家が多数流出とあり、延宝8年(1680年)の津波では行
徳領で死者百余人とある。また寛政三年(1791年)8月の大津波は、原木村の家数70軒のところ、家宅人馬ともに押し流されて残った家3軒、
溺死者130余人とある。
徳願寺に溺死者の供養塔が 建ったのが1807年で、近時では大正6年10月の最大風速43mに達する台風時に、烈風吹きまくる中で二度
にわたって津波襲来があり、江戸川の水位は松戸でも最大6mを超えた。この津波で東葛飾郡下(行徳・浦安・船橋地区5町村)だけで、死者
121名、家屋流失636戸にのぼった記録がある。 現在は護岸工事が進み周囲はすべてコンクリート塀で囲まれており、その内側にはポンプ
所が数多く設置されて排水設備は万全であるが、津波を防ぐ高さには造られていない。
参考文献 青山書店発行 「行徳物語」
著者 宮崎長蔵 綿貫喜郎
行徳郷土文化懇話会 資料
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