番外27 それぞれのストーリーがある
  〜「答え」は一つではない〜

事故がおきると「捜査」をする人、「調査」をする人、時にはメディアの人、それぞれ「我こそが “真実”をあきらかにする」とばかりに胸を張る。

 ところで

・事故において皆が求める“真実”ってどんなことだろうか?
・皆が満足する“真実”ってなんだろうか?あるのだろうか?
・目的によって、人によって求められる“真実”は違うのではないだろうか?

というのが今回のテーマだ。


★ 刑事捜査のストーリー

「被告人○は○○すべきところを、○△をした」「注意を十分払うべきところを・・・」「これは刑法○▲の××義務に違反する」
きわめて単純明快、誰が読んでもわかる「筋書き」だ(筋書きが先にある?)。

 刑事捜査で想定するのは「個人の犯罪」、この場合に必要なのは○のなかの文字だけ?警察はそのために一生懸命になる。「誰が犯人だー!」「誰だ!」。求めるのは犯人。  「犯人が原因」なのだ。切り取った「断面」以外のストーリー(可能性や証拠)はいらない。立件に必要がないものは捨て去られてしまう(時には意図的に)。
 シドニー・デッカーの「JUST CULTURE」(邦訳「ヒューマンエラーは裁けるか」芳賀繁 監訳、東京大学出版会)プロローグでは、小児に濃度の高いリドカインを取り違え(過量に)追加注射した看護師マーラだけが「犯人」とされてしまう。 事象の連鎖の最後の一押しをした看護師だけが自己申告したばかりに刑事告発され有罪とされたのだ。
PCを使わずに読みにくい文字で伝票を書いた医師、いっしょに注射を確認した同僚看護師、消えた処方箋、急変時にさらに追加投与した医師・・・の問題は裁判では話にも出なかったし、マーラの弁護士も無視したのである。


裁判所で求められたのは真実ではなかった。求められているのは司法手続きと法的解釈であり、その手続きが正当であることと、法的解釈が正しく行われ適用されるかどうかということだった。
 つまり「きめられた小さな“定規”のどこに誰が違反したのか」ということだけが問題だったのである。
しかし、これもひとつのストーリー(「真実」)にすぎない。「ウソ」ではないといえば確かにそうだ。だが「ウソではないが、本当(真実)でもない」。
この裁判で誰が何を得られたのだろうか?

★ メディアの描くストーリー  〜 眼を引く見出しから始まる?〜

メデイアにとって、まず必要なのは、「眼を引く見出し」。言葉一つで事件を「わかりやすく」「象徴」させようとする。これはメデイアだから仕方ない、とはいえない。 第一印象は重要だ。この一言でステレオタイプのイメージが社会に作られてしまう。
簡単に言うとまず、レッテルを貼る。それで「くくって」報道する。そして、メデイア自身も自分で作り上げた「世間(メデイア間)の(一斉放送的、メディアスクラム)雰囲気」から決してはみ出さない。 「世」の大勢に従うことが(バッシングなど)いまどきのマスメデイアにとってはルールなのだ。そこでは自らの責任が問われることはない。何せみんなが「そう言っている」(そう誘導している)のだから・・・。 そしてマスメデイアは自らの過ちを修正することはほとんどない。

メディアの「あるべき論」からの下向きの論理は危険だ

「あるべき」論、「医者(病院ならば)ならば」論の多くは現場の現状(惨状)をみることもなく、背景を想像することすらないようだ。 「あるべき」論を振り回す時に一番最初に振り落されるのは「あるべき形になれない理由(わけ)」(人、作業量、時間、・・・)だ。 しかし、自分たち自身が作り上げた最初のイメージから抜け出すことなく、批判はパターン化し、あくまで「ワンフレーズ」で済ませようとする。 救急車を夜間断ると「たらいまわし」「空きベッドがあるのに・・・」「廊下でも診れないことはないはずだ」、「ずさんな管理」。 交通機関であれば「パイロットミス」「運転士のミス」。せいぜい「○○のヒューマンエラーが原因」。 「べき論」や「ワンフレーズ」が危険な理由はそれで何かがわかったような、説明されたような気になるからだ。 思考停止を誘導してしまうのである。

社会部(社会面)の第一報に比べて、時間がたった後の学術部の解説は一見冷静の事が多く、複数の視点を書くこともある。 「社会部」発の第一報とは異なる事があるので一般的には落ち着いた論調なのだが、読者の印象は第一報(見出し)で形成されてしまっている。 自らが第一報をひっくり返すことはめったにない(これは反省しているわけではないからだ。訂正記事の目立たなさを見るとそれがわかる)。 社説といってもひどいものも多い。羽越線事故における 「(プロであるなら)風の息遣いを聞け」などという“耳障りの良い”M新聞社説がその代表格だ(さすがに書類送検後不起訴にはなったが)。

つまり現実と無関係な「あるべき論」を現実に起こったことに対置するのは、解説・非難する場合一番楽な方法だ。「教科書はいつも正しく見える」からだ。  しかし解決策を明示せずに「べき論」を押し付けると現場は無駄に疲弊し、そして崩壊する。

「あるべき」論は取材能力のなさの裏返しでもある

 「べき」論でくくり、レッテルを貼る、というのは取材能力のなさ(低下)によるところも大きい。まったく取材していないのではないかと思うことまである。 取材元(情報源)が唯一役所の記者クラブで、記事のシナリオに必要な情報は電話でちょっと聞く(取材?)だけ、などということが多いような気がする。 放送でも同じで、知識も下調べもなしに「質問」としてカメラとマイクを突きつける。だから「〜べき」としか言えない。これでは上にあげた「あるべき形になれない理由(わけ)」を明らかにすることはできない。

★ 家族のストーリー

では、家族が求めるストーリーはどんなことだろうか?
「誰がやったんだ―!」「誰のせいだ!」、問い詰めたい、自分の苦しみを知らせたい。場合によっては同じ思いをさせたい。  自分の周囲に起きた不幸な出来事は「仕方のないこと」でも「確率の問題」でもなく、こう考えるのは仕方ないかもしれない。一時的には・・・

しかし、おなじ「誰が!」でも刑事捜査のそれとは意味していることが違うのが大事な点だ。なぜならその時、家族(悲しみ、怒り、不安の)の思いの基準になっているのが(100年前の)「刑法」ではないからだ。 だから、数年後にでる刑事裁判の結果に満足することは殆ど無い。仮に有罪になったとしても、捜査の過程で知りえたことがすべて明らかにされるわけではなく、 裁判という「リングの中」だけでのやり取りへの法的解釈では家族の心がみたされることはない[1] 。 それは裁判に勝利してもあまりかわらない。

「患者家族の5つの願い」(加藤弁護士)

 何度もこのHPで紹介した名古屋の加藤良夫弁護士(一貫して患者側弁護士)は患者家族の5つの願いとして以下をあげている。これはBMJでもほとんど同じことを読んだことがある。

死亡又は重篤な後遺症を負った被害者は「5つの願い」を持っている。

第1は、死んだ人を返して欲しい、もとの身体にもどして欲しいという「原状回復の願い」。
第2は、本当のことが知りたいという「真相究明の願い」。
第3は、反省点があれば率直に謝って欲しいという「反省謝罪の願い」。
第4は、二度と同じ過ちは繰り返して欲しくないという「再発防止の願い」。
第5は、きちんと償いをし、支援をして欲しいという「損害賠償の願い」。


(加藤弁護士の構想は「救済」からスタートすることが特徴だと思う。
二次的な回復不能の損害を防止することから開始する、というのは一つの見識だと思う。厚労省の案より余程良い)

「ベン・コルブ君の事故」  家族が求めるのは患者のストーリー[2]

李啓充先生の「アメリカ医療の光と影」(医学書院)のなかで“医療事故防止事始め”として紹介されている医療事故例がある。 ここでも(米国なので経済的問題は別なのだろうが、)家族の求めているのが単に「誰がやったんだ!」とは違うような気がする。以下、一部引用。

なんということもない小さな手術中の薬の取り違えからベンという少年がなくなった。病院は事故を徹底的に調査、担当者のハスはその結果を正確に、隠さず両親に報告した。 そして、その後の経過である。このケースは是非読んでいただきたいと思う。医学書院のHPから全文読むことが出来る。

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週刊医学界新聞1999.7.5.(医学書院ホームページから)

「ベンは苦しんだのでしょうか?」
ベンの父親ティム・コルブが医師たちが待つ部屋に入室して真っ先にしたことは手術をした耳鼻科医を抱擁することだった。
ティムは,ベンが亡くなってからずっと家族を悩ませてきた疑問について医師たちに尋ねた。
 「心臓の状態が変わった時に,ベンは怖がりませんでしたか?ベンは痛がりませんでしたか?ベンはどれだけ苦しんだのですか?」と。
 訴訟となり病院と争っていたとしたら,担当医たちに直接こういった質問をすることは不可能であったろう。医師たちは全身麻酔がかけてあったから,
ベンが苦しんだということは絶対になかったということを説明し,家族をほっとさせた。
さらに,麻酔医のマクレインは自分の取った処置について,「自分の子どもだとしてもまったく同じことをしていたでしょう」と説明した。
 「これからも私たち家族はマーティン・メモリアルでお世話になってもよろしいでしょうか?」という問いは,ハスと医師たちにとってまったく予期しないものであり,
「もちろんですとも」と感激しながら答えるのが精一杯であった。
 「同じ間違いで他の子どもが死ぬことが 2度と起こらないように,どうかベンが亡くなったいきさつを,世間に広く知らせていただけますか?」
 ハスと医師たちとはベンの死から学んだ教訓を他の医療者に伝えると即座に約束し,これまで忠実にその約束を守り続けてきた。

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★ 事故調査のストーリー

事故調査の目的は箱の中の「腐ったりんご」を探し出すことではない。
「誰の、どの行為が・・・」と「点」と「点」を後ろ向きに結ぶだけの調査結果ならいらない
私たちが事故や事件を考える(調査する)目的はなんだろうか。「何が目的か」でストーリーが変わることが多い。登場人物も、舞台も、みえてくる背景も違ってくる。 私たちの事故調査の目的は「将来の再発防止」「経験の水平展開」、それしかない。そのためのストーリーを調査していかなければならない。 何がエラーを起こしてしまったのか?どうしておけば連鎖をきることができたのだろうか?とかだ。

事故調査の目的を調査や会議の初めに改めて明言することが必要だ。

また、事故に結びつかなかったとしても規範的エラー(怠慢や故意)は問題視すべきだ。「正義の文化」はみずから努力して維持するようにしなければ腐敗する。

物語を単純化させることによって失われるものがある
真実にたどり着くには複数のストーリーが必要


Dekkerはいう:
「ある視点からだけストーリーを語ることは、別の視点からの見方を排除することになる事がある」
ストーリーはいくつもあっていい。調査においては複数のストーリーを受け入れるべきだ。それぞれのストーリーから離れた「客観的視点」などありえない。 なぜなら現実におきたことだからだ。複数の当事者とそれに影響した立体的、3次元あるいは(時間を加えた)4次元の真実を無理やり2次元の紙一枚(あるいは1次元の短い定規)に写し取り、 云々することがおかしいのである。

★「必要のない真実」が切り捨てられる「捜査」「裁判」は安全に有害

一方にとって「不要なこと」が切り捨てられる捜査は事故のストーリーをゆがめてしまうことは今まで書いた。 我々の最終的な目的である「対策」を考える上においても有害だ。済生会宇都宮病院の中澤先生は刑事捜査が事故防止に役立たない理由として 「犯人(唯一の原因)が解らなければ(いなければ)対策がはじめられない刑事捜査」をあげる。 調査であれば事故をおこす可能性がいくつかに絞られたら、それを一つに絞ることにそれほどこだわる必要はない。可能性をつぶしていくことを考えればいい。

ところが刑事捜査ではそれはできない。おまけに「捜査」の経過中に得られた有用な情報(物も)も「犯意の説明(シナリオ)」に不必要と判断されると開示されない。 このやり方は文字通り「他のストーリーを抹殺」してしまうことになる。

★ ヒューマンファクターの調査で重要なのは「可能性」である

「AがBになり、誰かのエラーでCにいたった」という調査はもちろん重要だ。しかしこの過程だって直線的ではなかったはずだ。B’の可能性もあったし、bの可能性もあった。 そして違う経路でCに達する可能性もあった。他のタイプの不都合を誘発する可能性もあったし、事象の連鎖を止める可能性も「複数」あったはずだ。 「犯人」を追及するのでなく、あくまで「事故発生の可能性」「連鎖の遮断の可能性」を追求すべきなのだ。

垣本由紀子先生(元・航空・鉄道事故調査委員)は言う。
「ヒューマンファクター(の調査)は物証でなく可能性を探ることである」[3]
原因分析法(RCA)でも同じだ。
「RCAはたった一つの根本原因を見つけるのが目的ではない 可能性の根を断つことである」

警察による犯人の追及であるならそれは「誰か?」が必要だ。民事なら「過失割合」の正確な計算が必要だ。 しかし、それでは再発の可能性は100%残ったままだ。当事者に「罰」は加えたが改善には結びつかない。 同僚は一時(いっとき)緊張するかもしれないが、それだって過ぎるとかえってエラーを誘発してしまう。 社会の安全に何の利益ももたらさない。そもそも、「争い」の中から正しい証言が得られたのか、も疑わしい。 懲罰を前提として有益な証言など得られるわけがない。そして、時と場所(人)とを変えて同じことが起きる。

じゃあ、「調査」「将来の安全だけを目的としたもの」とできないだろうか?単純化しない調査が必要だ。 「複眼でみた物語をもとにした対策」ならそれぞれの問題点から対策を列挙できるかもしれない。それに対して危険な順位、発生可能性の順位をつけ(リスクマトリックス?)、 思考を巡らすだけでも安全性は向上するにちがいない。しかし、それには「ビーティの壁」がとれた状態が必要だ。
また、何度も言うが答えは一つでなくてよいし、一つにすることなど無理だ。

★ 「立体的ストーリー」を描き伝えることが安全への思索を深める

四次元的ストーリーが必要だと思うのは、安全教育の面からもそう思っている。通り一遍の「○○が原因で××がおこった。その要因は@、A,Bである。 だからその訓練を新たに加えることにする」という対策は組織としては一時的に確かに有効だ。それはするべきだ。あの「テネリフェの事故」は幾度となく、多方面から分析され、報告書にものこっている。 しかし、事故を考える多くの人の記憶に残っているのは(正式の報告書そのものではなく)その人の頭の中に描かれた(人間的)立体的「ストーリー」[4]ではないかと思うのだ。 だからこそ、いまだに(他業種からもヒューマンファクター事故防止の原点として)語リつがれ、時代を超えて考えられつづけているのだ。

我々の業界にとっても1999年以後のいくつかの代表的事故などはもっと(報告書だけでなく)「立体的に」語られる必要があるのではないかと思う[5]。 それによって直接の原因如何にかかわらず、「現在(いま)」の自分に置き換え有益な発想が広がるに違いないのだ。
答えは一つではない。横浜市立大学医学部附属病院において発生した手術患者取り違え事故の報告書はネットで公開されたことで、各方面から検討され、語られることになった。それが最大の功績なのである。

★ 「再発防止」という目的は被害者(遺族)との共同行動を可能にする

医療事故に限らず、被害者や遺族の多くは悲しみを乗り越え「二度とこのような事故を起こしてほしくない」という願いにいたることが多いという。 家族の死の意義づけである。
加藤弁護士の例やBMJだけでなく、御巣鷹山事故の遺族会も 「司法によって裁かれ、勝者と敗者の関係になってしまうと有効な再発防止策は生まれない」 「当事者に真実をありのままに語ってもらう環境が作られることを願っていた。・・失敗を生かしてほしかった」と発言され、 (乗員組合とともに)機体の保存展示の大きな力になった。

信楽高原鉄道事故遺族のTASK(鉄道安全推進会議)は鉄道事故調査も加えた運輸安全委員会を設立する大きな力になった。 その提言ではHF調査の必要性や、NTSBに学べと訴えた。その結果かもしれないが福知山線事故の調査報告は初めてHFに踏み込んだものだった (これは同業他社の技術系幹部が高い評価していた。ただ、技術系の検討が十分とは思われない)。 医療事故のご家族のなかにも、その後自ら医療現場に入り、医療安全の仕事をされている人もいる。

麻酔導入時のトラブルで妻を失った夫、マーチン・ブロミリー氏はこう言う。
「私はパイロットだからヒューマンファクターの知識があります。私は変化を起こしたい。数年後(残された小さな子供である)ビクトリアとアダムに、 ママはなくなったけれど、その教訓は生かされ英国の医療は変わったと言えるようになりたい」
とヒューマンファクターに取り組むことを訴えるのだ(just a routine operation 大阪大学病院中央クオリテイマネージメント部

誤解されるかもしれないがこれは「○○被害者の会」のレベルを超えて、社会全体の利益を目指しているように思える。 私たちはヒューマンエラー事故に関して、個人の当事者ばかりを非難したり、一面化し単純化し、その結果将来の安全に何の役にも立たないやり方を排除しなければならない。
同時に、一方の当事者である被害者や家族には明瞭に十分な説明できなければならないと思う。それでも、被害者の100%の納得は得られないと思う。
しかし、そうすることによって初めて「もう二度と同じことを起こしてほしくない」という前向きの「願い」が表になり、「捜査」に対して「調査優先」の体制を世論として支えてくれたり、 現在の医療体制に関心をもってくれたり、その中で我々の現場の安全を見守ったり、バックアップ(例えば余裕のある勤務体制のための法律の制定など)してくれる力になりうるのではないかと思う。
悲しみが無くなることはないが、家族の死をより高い意義のあるものにしたいと言う想いである。これはもちろん我々の目指すところと一致するのである。

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今回もヒューマンファクターを少しはみ出してしまったかもしれませんが、「事故における“真実”」を考えてみました。
やはり途中でまとまりがつかなくなりましたが、マニュアルに沿った「分析」と「対応」をする以外のことも考えたいと思いました。
 誤解がないように、もう一つ付け加えますが、僕はすべての「事故」当事者(上流の人も含めて)を「no blame」と考えているわけではありません。
刑事罰がヒューマンエラーを裁くことを否定しているだけです。その辺の「線引き」は難しいと思うのですが「no blame」には「accountability説明責任」が必ず伴うと思うのです。 このことは自分や自分の仕事に少しでもプライドがあるなら、刑事罰に対してたたかうことよりも本当は厳しいことだと考えています。今後とも考え続けていかなければならないテーマです。

ご意見、ご感想、ご教示をいただけましたらありがたいと思っています。

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*資料 「刑事罰の効果」
日本ヒューマンファクター研究所の桑野偕紀所長は刑事罰について、こうまとめています。(TFOS運航安全システム研究会機関誌桑野論文から要約)
刑事罰には4つの目的がある。
1. 復讐 2.矯正 3.社会の保護 4.見せしめ  である。
これが故意犯なら効果はあるだろう。4つの目的は達せられるかもしれない。しかし、過失の場合はどうだろうか?
復讐の概念には答えることが出来そうである。しかし、残りの3つはどうか?意図的でないから矯正はできない。とすると、刑事罰は復讐以外の目的を達することが出来ない。 再発防止に効果があるとは考えられないのだ。

*資料「法があるから罰がある」「法があるから“罰”という感情になる?」
 欧米では、事故で個人の刑事罰を問う制度がない(あっても実際に行使された歴史がない)ということです。つまり事故を処罰しない社会では「処罰を願う感情」もストレートには起きにくいということです。  また、現在の刑法はほぼ100年前の制定で「業務上過失」の概念、想定が現在とは違うようです。
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[2] 「家族の求めるストーリー」に関してTFOSの会での佐藤弁護士の講演が参考になります。 信楽高原鉄道事故、福知山線事故や明石歩道橋事故のご遺族は「どこに乗っていたのだろうか?」とか「隣はだれだったのだろう」とか 「どうやって救出され、誰の手でどうやって扱われ病院(安置所)に運ばれたのだろう」といった家族の最期をどんなことでも知りたい、という願望があったそうです。 (「事故の被害者・遺族が求めるものーその心情・原因究明・責任追及の関係を考える」佐藤健宗 TFOS)
[3] http://www.medsafe.net/contents/hot/102mitani-rep1.html
[4] 「事故調査の複眼視」を考えるときにいつも思い浮かぶのは芥川龍之介の「藪の中」です。
[5]若い当院の安全委員会メンバーのほとんどが横浜市大、京大、広尾病院事故を「知らなかった」のには驚きました。 「@なになに・・・」という「○○マニュアル」などにのっている教訓としてだけ伝わっているので「患者確認法」なんかはやっています。 平面化した「教訓を覚える」のでなく、せっかく公表された事故調査報告書を現在(自分やその周辺)に置き換えて考えることが必要と思います。 この連載では何度も出てきたのですが「事故の教訓はしゃぶりつくさなければならない」のです。 また、他業種の知見ですでに常識となっているHF上の基本的問題に関してはあらためて自分の現場で(エラーやインシデントから)ゼロからデータ集積をする必要はあまりないと思っています (時間の無駄、思考のトレーニングなら別ですが)。HFsは学問なのですから、多くは自分の現場あわせて水平展開することができるはずです。 こういう発想がなかなか通用しません。自分たちが大きな事故を起こしてみなければわからないのだろうか?と悲しくなる時があります。
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