ビーティの「壁」 〜続「主観的事故報告は無駄か?」〜
 
 「主観的報告が重要」といっても、それがそのまま通用しないのも現実です。
 基本的に受け入れられる素地があるとはいえないのです。 まず、当事者の「主張」は多くの場合(結果から解釈されますから) 「潔くない」「いいわけ」とみなされます[1] (「言い訳有用」と言ってくれる人・組織もありますが極めて希ですし、「言い訳」から人間の判断における弱点を知ろう、などという組織も希だと思います)。 法律は勿論「犯人さがし[2]ですし、組織内の無罰報告制度(インシデントレポ−ト)を 「無記名」としているのだって社会や組織にそれを受け入れられる素地がないから 「無記名」として当事者を「保護」し「報告提出のハードルを低くする」ためにそうせざるを得ないのです(それはそれで大事なのですが)。

 警察はしかたがないとして、周りの「我々」は当事者の主張を受け入れてみる、ことはできないのでしょうか? 仮に「同意」しなくとも「聞き入れる」ことくらい[3]はできないでしょうか? 当事者が(同僚である)「我々」に対してさえ「防衛的[4]」にならざるをえない状況はないでしょうか?

 J.Reasonは安全文化[5]の4要素の最初に「報告する文化」をあげています。 でも、これは私達の立場から言うと「報告できる文化」と言い換えた方がしっくりするのかもしれません。 「あのとき、私は○○のような気がして△△したけれど、後から考えてあれが違っていたのかもしれない。 そういえば、その時××のことも気になっていたし・・・。皆も、気をつけたほうが良いよ」 と本心から言える環境にならない限り事故の本当の原因 と有効な対策を見いだすのは難しいのです。

壁のむこうに
「ヒューマンファクターのテキスト」としても名高い「機長の真実The Naked Pilot」のD.ビ−ティはその序文の最後にこう述べています。

「航空界におけるごく普通のヒューマンファクターによるエラーが、懲罰の恐れなく、みんなの前で「やりました」 といえるようになり、人間なら誰にでも起こりうる事として受け止められ、十分に調査研究されるようにならない限り、 航空事故の真の原因と対処方法を見出す事は不可能だ。この壁を打ち破らない限り、ヒューマンファクターによる事故は引き続きおこる」

さらに、私の先輩は(ある医療事故をテーマにした勉強会で)ビーティの序文にこう続けました。
「ビーティのいうこの壁の打ち破られた状態とは、どのような社会であろうか、刑事罰や行政罰、職を追われる恐怖に曝され、 成果主義の賃金制度によって働く仲間同士が競わされ、十分な教育リソースも利用できず、 効率本位のシステムで過重労働に陥っている、国の指導者達は「格差は良い事だ」とのたまう・・・そういう社会でない事は確かである」

いかがでしたでしょうか?
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引用紹介と註解

今回は、以下を参考にしましたが、いつものように私達の理解力は限られていますし、十分読みきれているわけではありません。 ぜひご自分で原著にあたられる事をお勧めします。
 「機長の真実」(the naked pilot)D.ビーテイ 講談社
 「保守事故」J.Reason 日科技連
 「医療崩壊 立ち去り型サボタージュ」とは何か」(小松秀樹 朝日新聞社.)


[1]  医療従事者の場合、多くの場合結果解釈の「反省モード」に慣らされてすぎていると思います。 大学のカンファレンスなどまるで「反省会」でした。最近は違うかも知れませんが。

[2]  警察の事故調査へのスタンスがどのようなものかが「医療崩壊 立ち去り型サボタージュとは何か」 (小松秀樹 朝日新聞社)に引用されています。日乗連(日本乗員組合連絡会議)の文書だそうです。
(以下引用)
 過失犯に対する警察の調書の文面は、大雑把に言って、 「被疑者○○○は,○○○を予見すべきところ,漫然と○○○を継続した事により、○○○を発生させた過失があった」という形式で作成される。 警察の捜査は,事実上,"○○○"を埋める材料集めの作業であって「事実そのものを調査している訳ではない」ことを世間は以外に知らない。
(引用ここまで)

[3] 「当事者へのサポート問題」の研究はほんの始められたばかりのようです。

[4]  事故の当事者(勿論、悪意のある違反や怠慢を除いて)に対する「周囲の見方」は実際にはどうでしょうか? 「To err is human」という「思想?」は文字通り実践されているでしょうか? 職場の仲間や組織(場合によっては組合)は原因の究明は別として、当事者を支えることが出来ているでしょうか? サポートが無く、刑事罰を受けるかもしれないストレスに加え、失職のおそれがあったとしたら「最低限のことしか言わない」という選択だってありえるのです。 そして同じ事故が繰り返されます。

 私達は当事者に対して「あんな事故をおこしてしまって・・」という非難めいた感覚を持ってしまうことがないとはいえません。 しかし、私達が「いつも起こしているちょっとしたエラー」と「当事者のエラー」との違いはその「結果」だけの事が殆どなのです。

[5]  Reasonは安全文化の構成要素として、正義の文化、報告する文化、学習する文化、をあげ、 「報告する文化を形成する際の障害(間違いを白状したくないという感情等)を克服するための報告プログラムの要件がある。 これを手直ししながら作り上げる必要がある」とのべています(「保守事故」日科技連出版)。

[6]  私達の職場でも、幾つかの典型例を除くと「山のような」インシデントレポート・ヒヤリハットレポートの割にフィードバックできる 「前に向けた」教訓が多いとは言えません。それは、担当者の「見方」「読み方」「現場作業の実際の知識」 もあるのでしょうがレポートから「なぜAという行為をしたのか(あるいはしなかったのか)」というイメージがうかんでこないことがその理由なのです。 この辺りは「調査心得」も読んでみて下さい。


 
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