番外26 「結果」を知っているとエラーの指摘は易しい〜後知恵バイアス〜
 

「これに気づくべきだった」
「こうなる可能性を予見すべきだった」



 どんな職場でも(家庭でも)失敗や事故の後にこんなニュアンスの発言が聞かれます。
人間は、実際に起こったことは、起きなかったことよりも可能性が高かった、と後で感じるものだそうです。
(口に出すかどうかは別として)「俺はそうなると思っていたよ」というわけです。
友人同士でこんな会話をするのならまだ我慢できますが、事故調査委員会や評論家までこんな発想をしてしまうことがあります。
これを「後知恵バイアス」といいます。

 「答え」(結果)を前もって知っている場合の「そのプロセスに対する評価」は、時として有害な(不当な)方向に向かう可能性があります。
番外14 バイアスの罠」を再度考えてみます。今回は「後知恵」でエラーを裁こうとすることの問題です。

「後知恵バイアス」が論理的に問題なのは[1]

 「後知恵」でなんだかんだと言われるのは当事者にとっては腹の立つことです。
しかし、「結果が悪かったという負い目」もありなかなか反論もしにくいというのも現実です(多くは「決めつけられ」、なにか言うと「潔くない」とされてしまいます)。
では「後知恵バイアス」の問題点はどんなことでしょうか。

因果関係を簡略化しすぎる
 ⇒ 他の視点や付随する様々な要因を排除してしまう
結果を予見する能力を過大評価してしまう
 ⇒ 「こんなことは始めからわかるはずだ」
「違反」を過大評価
 ⇒ どこにでもあるような直前の「小さな違反」を「結果」に結び付ける。「あんなルール違反をするからこんな結果になったのだ」。
論理的にその違反がほとんど関係なくとも過大に評価して結果に結びつけてしまう。
当事者に与えられた情報の、その時点での重要性、関連性を誤判断する
 ⇒ 「結果」を知っている眼からみると、その時点で得られていた情報の重要性のランク付け、整理が容易である。
つまり、知っている「結果」というゴールに向かってデータを並べていくことは容易である。
結果の前に行った行動と結果とをつりあわせる。結果が悪ければ、それをもたらした行動も悪いものだったに違いない
 ⇒ 非論理的に行動と結果をむすびつけてしまう

「その時」「その場」というキーワードが抜けてしまう

 私たちは、ある行為の結果(被害)の知識をもったとたんに、その一連の行動が非難に値する失敗だと感じてしまいます。
その時「後知恵」がその判断に影響していることなど殆ど意識しません。
「なんであんな馬鹿なことをしたんだ」「どうしてこんな結果になることが解らなかったのだ」と。場合によっては「プロならば」などと非論理的な非難をします。[2]
 こう考えることで抜けているのは(結果の知識なく)「その時」「その場」の当事者の眼をとおして考えることです。それでも非難に値するかをよく考える必要があります。

後知恵バイアスを克服する

「後知恵バイアスを克服するには」と海保博之先生は次の4つの点を挙げています(「安全と安心の心理学」新曜社)簡単に言うとこんなことのようです。
1. 頭から信じてしまわない:そんなこともあるかもしれないが、位に考える
2. 自分のすでにある知識をつかったもの⇒知識を良質にしておく
3. あいまいさ耐性をつけること、早くわかってしまおうと思わない
4. 事実や証拠による検証に心がける

「起こりえたかもしれない別の事象の検討」が後知恵バイアスの罠を防ぐ?

 「結果」を知って、振り返る、という視点はもともと「後知恵」に乗っているともいえます。
そこでおこりがちな間違いは「結果」と「原因」(と思われること)を直線で結び付け、それ以外の考えを排除してしまうことです。

「結果には原因がある」というのは正しいかもしれませんが、われわれが知り得たり、コントロールできたりする原因は、ほんの一部といえます。
だから、結果を知って単純化するのではなく、ある結果を起こしうる原因となり得ることをできるだけ挙げてみる [3]。
そのうえで、「因果」を考えることが必要だといわれています。意図的な行為による結果でないのに「被害者がいるのだから、誰かが悪いことをしたにちがいない」と考えるのは間違いです。
論理的な問題解決や意志決定の方法論を学んだり、意志決定の過程を記録しておくことも有効だと言います [4]。
自分なりにより良い意志決定のあり方を考え、改善を重ねるのです。

「後医は名医」を心して・・・

 (仮称)医療安全委員会の判定医の「名医」のみなさん、(事後に)「被疑者」の失敗を指摘することなど簡単なことです。 でも、自らが名医だと「勘違い」しないでくださいね。あなたは先に「おこった結果」を知っているのですから
(おまけに検討する時間は十分あり、あなたが考えている間だって、患者さんが悪くなったり、誰も仕事を中断させる人などいません。検討するテーブルにはコーヒーまであるかもしれません)。

 そんなあなたにゆだねられたのは、「誰が間違ったか?」「誰が悪いか?」なんてケチな仕事ではありません。
「誤判断」(仮にあったとして)に影響を与えた、一つ上、あるいは二つ上の要因をさがしだし、将来に向けた予防策を提言・実行することが唯一の任務なのです。

 あなたが向かい合う対象は(その時その場にいた)「人」ではなく「システムの将来」というわけです。
このことは(幻の)「医療安全委員会」だけでなく「運輸安全委員会」も各組織の「安全委員会」もおなじなのです。

 あっ、警察や検察のお出ましは「故意の犯罪」の時だけにしてくださいね。捜査と調査は違うのです
あなたたちが登場すると「将来の安全に向けた真実」はみんな隠れてしまうのですから・・・・[
5]


   
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いかがでしたでしょうか。この連載にご批判、ご意見をお願いいたします。
また、「ここ間違ってるよ」とでもご教示をいただけるともっとうれしいです

*          註         *


[1] 「ヒューマンエラーは裁けるか」(S.Dekker芳賀繁 監訳 東大出版)より一部補足
[2] この非難の例として羽越線事故に関するマスコミの非難があります。「羽越線事故、風の息づかい」とキーワード検索してください。
[3] http://www.arch-it.biz/modules/docs/index.php?page=article&storyid=90
 このことは「番外 サボタージュアナリシス」で紹介した考え方とも共通するような気がします。
[4] 経験者のアドバイスにしても、自分の経験にしても、教訓というものは単純化されやすいことが多いものです。
極端に美化されたり、逆に悲観的なものとしてだけ記憶されていることがあります(「もうだめだ!」という具合)。
自分の意思決定の過程を記録することでバイアスを防ぎ改善につなげることが可能になることは「番外 バイアスの罠」も読んでみてください。
[5] 「後知恵」が全く駄目かというとそんなことはありません。
「因果」の新しい結びつきを知ったり、対策のアイデアをシミュレーションしたりと前にむけて多くの学習ができる可能性はありあます。
ここで言いたいのは「後知恵」を使う人たちが「後知恵」だということをしっかりと意識する必要があるということです。
もちろん「その時その場にいた人」の非難や責任追及に使ったりすることは、長い目で見て必要な情報を得ることができなくなります。

 
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