−大磯の町と高座郡の寒川神社・海老名の国分寺跡−
旧東海道
大磯駅を下車、国道1号線を平塚方面に向かって進むと、ななめ左に入る道が旧東海道の松並木。JR東海道線のガードをぬけると化粧坂(「けわいざか」…写真)。
写真手前の案内標識を左に入ると約300mで釜口古墳。街道右手には虎御前が化粧をしたという化粧井戸がある。街道はこの先で国道1号線に合流し、約600mで左に高来神社が見えてくる。
釜口古墳
古墳時代末期の円墳で、高麗人の墳墓といわれている。横穴式の石室があり、奥の壁と天井は巨大な一枚岩を用い、床面には棺座らしい切石が置かれているという。江戸時代にはすでに盗掘されていたといわれ、外観が釜の口に似ていたので「釜口」と呼ばれていたらしい。
高来神社(高麗神社)
江戸時代までは高麗寺・高麗権現と称し、明治元年の神仏分離令によって高麗神社となり、高麗寺は廃寺となった。明治30年に現在の高来神社に改称されている。かつては高麗山頂の上社と下社に分かれていたが、今は上宮はない。
大祭日の7月18日(今は7月中旬日曜)には、「御船まつり」が行われ、山車の上に船形を組み立て、船子漁師が高麗人の上陸を伝える木遣り歌をうたう浜降りが圧巻だという。
楊石寺横穴墓群
大磯駅北側に広がる湘南平・高麗山の丘陵部のいたるところに横穴墓群の遺跡が残されている。その一つ、楊石寺谷戸の南向きの斜面に4段に配列された20穴からなる横穴墓群がある。(横穴墓群は埼玉県の吉見百穴が有名だが、大磯の場合はこうした横穴墓群がいくつかに分かれてつくられている)
この楊石寺谷戸横穴墓群は、7世紀頃の墳墓といわれ、神奈川県の重要文化財に指定されている。
相模國の国府跡
相模國の国府は、奈良時代に高座郡(今の海老名市)、平安時代に大住郡、平安時代末期から余綾郡(今の大磯町)にあったと推定されている。
大磯町の国府本郷は、国府のあったことからつけられた地名といわれ、国府跡と考えられている。今のところ確定した遺跡は発掘されておらず、国府本郷の馬場台遺跡などで試掘が進められている。
国府本郷から国道1号線を東に行くと、大磯城山公園があり、なかに郷土資料館がある。
寒川神社(高座郡寒川町)
相模一ノ宮。関八州の厄除けの守護神といわれ、関八州のあらゆる人々の災難を取り除く神とされている。東京をはじめ近県から建築業者の参拝も多く、上棟式に使う盛り土を境内から運んでいくという。
神社は、相模地方の豪族が一族の祖先をまつったのが始まりといわれているが、「朝鮮渡来人の氏神」という説もある(金達寿『日本の中の朝鮮文化』)。
相模國の国分寺跡(海老名市)
相模國の国分寺跡は今の海老名市にあり、当時は、七重塔が天をつき、金箔でつつまれたまばゆいばかりの堂が建ち並んでいたと想定されている。
現在、金堂・講堂・七重塔などの土壇と礎石が残っている。1967年(昭和42年)の発掘調査で、東西160m、南北120mの大規模な伽藍であったことがわかった。
●大磯の町・周辺案内図
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