赤城神社

群馬県赤城山の神を祀る神社である。

その本源は、赤城山を神体とする、山岳信仰に端を発する神社である。延喜式神名帳に名神大社「勢多郡 赤城神社」として記載され、上野国二宮ともなっている。現在、以下の3社がその論社となっている。

歴史 (ウィキペディアから転載)

信仰の成立

歴史書に記されている「赤城大明神」は赤城山の神のことである。赤城南麓を流れる粕川の水源としての信仰(水源地・小沼への信仰)と、最高峰の黒檜山などへの雷神信仰、および赤城山そのものへの山岳信仰が集まって成立したとみられる。上毛野氏が祀ったとする説もある。

六国史には神階記事がある。『続日本後紀』839年(承和6年)に従五位下となり、『日本三代実録』867 - 874年(貞観9年 - 16年)に昇叙し、880年(元慶4年)従四位上に叙せられた。さらに「上野国交替実録帳」(九条家本延喜式裏文書)によれば長元年間(11世紀)に正一位としてみえる。

この赤城神社がどこにあったかは不詳であるが、神社の成立をみると、当初の信仰は村落の信仰場所たる里宮で、のち山頂部に山宮(奥宮)が成立したとされる。このため、律令体制内での赤城神社は村落部にあったと考えられ、『宮城村誌』ではこの里宮を二宮赤城神社ではないかとしている。

また、前橋市下大屋町に産泰神社(さんたいじんじゃ)がある。現在は安産の神として信仰が厚いが、御神体として社殿の裏手に赤城山火砕流の巨岩がある点や、南面する旧参道から見ると赤城山を望む点は、原始的な赤城への信仰形態であり、赤城神社里宮だったとみられている。

神仏習合による信仰の変化

律令体制が崩壊して武家政権が成立すると、朝廷・国司の権力によって支援されていた里宮は衰退し、村落部の信仰の中心は、参詣路の集まる場所に設けられた中社(中之宮)へと移った。一方、仏教の伝来は神仏を習合させ、修験者は全国の山深く修行の場を求めて入山した。彼らによって山宮への信仰が集まり、山宮への信仰が盛んになった。赤城神社もこの傾向に反さず、「神道集」には赤城大明神縁起として赤城山山頂部の神社が紹介されている。また仏教の影響で、沼や山岳自体を神とみる見解は廃れ、沼などに本地仏を当てるようになった。赤城大明神は「二大明神」として赤城山火口湖の小沼と大沼が神格化され、小沼神に虚空蔵菩薩、大沼神に千手観音があてられた。後に中央火口丘の地蔵岳の信仰も加わり、地蔵岳は地蔵菩薩があてられ、「三所明神」と称するようになった。なお大沼の千手観音像は大洞赤城神社に安置された。沼の神格化に関しては『宮城村誌』において、元慶4年条に「赤城沼神」(『三代実録』寛文13年刊本)とあるため、この頃に赤城神が小沼の神(のち大沼を加え2神)であったと推測されている。

山宮・里宮の位置に関しては、赤城山大沼の大洞赤城神社(前橋市富士見町赤城山)が山宮、二宮赤城神社(前橋市二之宮町)が里宮にあたるとされる。また中社は三夜沢赤城神社(前橋市三夜沢町)とされる。ただし三夜沢赤城神社の旧地(元三夜沢)が山宮だとし、二之宮から三夜沢へ神輿を往復させる御神幸の行事から三夜沢(元三夜沢)と二之宮が山宮・里宮関係にあるとする尾崎喜左雄の説、あるいは大洞が山宮で二之宮・三夜沢の両社はともに里宮だとする説もある。

また地蔵信仰が追加された14世紀ごろに、三夜沢赤城神社の東宮が、地蔵を祀るものとして現在地に成立した。その後、元三夜沢にあった西宮が東宮の場所に移転し、三夜沢赤城神社は東西2社で構成されることになった。三夜沢の西宮は二之宮町の神社と同系列とみられるが、起源は不明である。

戦国時代に入ると、二宮赤城神社が後北条氏により破却され衰亡した。再興は江戸時代に入ってからで、三夜沢赤城神社(西宮)の影響下での復興だった。一方で大洞・三夜沢の赤城神社は長尾氏・上杉氏などの信仰を集めるなど隆盛している。

藩主からの信仰と本社争い

江戸時代には、大洞赤城神社は厩橋(前橋)城の鬼門を鎮めるものとして、前橋藩主の信仰が厚くなった。1601年(慶長2年)酒井重忠により社殿改築。このとき「正一位 赤城大明神・赤城神社」とされており、律令時代の神階を引き継いだ表現となっている。1642年(寛永19年)には藩主酒井忠清により、前年に火災で焼失した社殿が造営された(『富士見村誌』)。歴代前橋藩主は大洞赤城神社の例大祭に参列もしている。

一方、明治期に赤城神社本社とされた三夜沢の赤城神社は、江戸時代初めまで本社扱いではなかった。1649年(慶安2年)の酒井忠清による50石寄進では「三夜沢村明神」の表現であるなど、戦国から江戸期の文書の多くで「三夜沢」を冠している。その後、三夜沢の東宮が他の赤城神社を圧倒していき、明治に赤城神社本社とみなされるようになったのである。また三夜沢には長元年間の赤城神正一位叙位が伝わらなかったらしく、神祇管領吉田家により1762年(宝暦12年)東宮が正一位に叙され、次いで1765年(明和2年)西宮も正一位に叙されている。

寛政年間には、大洞赤城神社と三夜沢赤城神社東西両宮が「本宮」「総社」「正一位」などの名称使用を巡って訴訟沙汰となった。まず1798年(寛政10年)、三夜沢に正一位を与えた吉田家に、大洞側が「正一位」と記載された献額を求めた。この要求に対し吉田家は三夜沢側に問い合わせ、三夜沢側はこれを不可と返答した。しかし翌年、吉田家と対立していた神祇伯白川伯王家が、「上野国総社大洞赤城神社」の額面・「本社」「本宮」と記載された添状を大洞赤城神社へ奉納した。そしてこの額面が千住観音とともに開帳されることになった。長元以来の正一位を自称する大洞側が、正一位となった三夜沢に対抗したものであった。「本社」を自称する三夜沢側は強く反発し、1800年(寛政12年)、大洞赤城神社別当・寿延寺および白川伯王家を相手に開帳差し止めを含んだ訴訟を起こした。吉田家が背後に控える三夜沢赤城神社と、大洞赤城神社(寿延寺)および白川家という対立であった。領主の川越藩主松平氏が仲裁に入り、当該額面の封印の上で開帳自体は予定通り行われた。しかし論争は終わらず、1802年(享和2年)には三夜沢側が幕府の寺社奉行へ訴え、国許で解決すべしと下げ渡されている。結局、額は内陣へ納め、文言使用を合議で決めるという和議が両者間で成ったのは1816年(文化13年)であった。

明治以降の変遷

明治時代に入ると、赤城神社も体制の変動があった。三夜沢赤城神社では廃仏毀釈により、神宮寺取り壊しが行われ仏教色は完全に排除された。また東西2社を統合し、東宮側が中心となって新たに1社体制をとっている。一方、大洞赤城神社は別当・寿延寺が祭祀を司っていたため、廃仏毀釈の結果、寿延寺を分離して新たに神官を地元から任じることになった。

近代社格制度では三夜沢が県社、大洞・二之宮は郷社となった。1936年(昭和11年)国幣社への昇格運動が三夜沢赤城神社で起こる。この運動は赤城神社の調査研究などを含んでおり、豊城入彦命を主祭神では赤城神社の歴史と異なるとの指摘を受けるなどしている。この結果、1944年(昭和19年)内務省神祇院は、三夜沢の赤城神社に「赤城大神」として、赤城山の神を合わせ祀り、他の赤城神社と歴史の共有性をもたせ、三夜沢・大洞(元宮)・二之宮(旧里宮)の神社をあわせ、国幣中社とするとした。しかし、終戦により実現はしなかった

戦後の1970年(昭和45年)、大洞の赤城神社は、明治期に企図されながら財政難で実現しなかった社殿の改築移転を実行した。山頂の厳しい自然環境により、寛永19年造営以来の社殿が老朽化したためである。大沼にある小鳥ヶ島に再建され、現在に至っている(『富士見村誌』)。

分布

群馬県内には「赤城神社」という名前の神社が118社、日本全国では334社あったとされる。関東一円に広がり、山岳信仰により自然的に祀られたものと、江戸時代に分祀されたものがある。その中でも著名なものが、東京都新宿区赤城元町の赤城神社である。

また赤城南麓の赤城神社の祭神は、かつては赤城山の中心を境として東西で異なる分布を見せていた。明治初年の群馬県の神社明細帳をみると、東から南にかけて大己貴神が、南西側には豊城入彦命が祀られている。これは東西2社であった三夜沢赤城神社に起因する。東西で自社の影響下にある分社を把握していたと見られる。三夜沢の東宮は大己貴神を祀り、西は豊城入彦命を祀った。

赤城神社一覧

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