「明けない夜はないんだよ」
記憶の中にハッキリと焼きついている言葉
それを追い求めたのはいったいいつだったのか
それを追い求めさせたのはいったい誰だったのか
明けない夜
〜立待月〜
「こんばんは。名探偵」
かけられた言葉に、その瞬間涙が溢れた。
暗い暗い闇の中。
凛と立つ白い背中に見惚れる様に立ち尽くした。
纏う気配も。
一歩踏み出せば壊れそうな静寂も。
全部全部彼のモノ。
「キッド…」
思わず口をついて出た名に、ふわりとマントが揺れゆっくりと怪盗が振り返る。
口元に掃かれた笑みも、嘗ての彼その物だった。
「こんばんは。名探偵」
何年も待った気がする。
ほんの一週間程度の筈なのに、もう何年も彼に逢っていなかった気がした。
それだけ自分が彼に恋い焦がれていたのかと、思った瞬間頬に何かが伝った。
「…そんなに私に逢えて嬉しいですか?」
クスッと皮肉気に嗤う唇すら愛しいと思う。
皮肉の込められた様なその物言いすら愛しいと思う。
例えその瞳が何かを決めたかの様に冷たい物だったとしても。
「…それだけ言えりゃ上等だな」
乱暴に頬を伝う涙を袖口で拭い、皮肉を込めて吐き出した。
それでもそれにすら怪盗は薄らと笑って見せる。
「ええ。どうやら随分とご心配頂いた様で」
お互いに紡ぐのはそんな言葉。
けれど、それすら新一の耳には甘く響いた。
「でも、それも今夜で最後ですよ」
ふわり、と彼の身体がフェンスから浮く。
音すら立てずにいつもの様にアスファルトの地面へと降り立って―――。
―――カツン
唯一いつもと違ったのは、一瞬だけ彼のつま先がアスファルトの地面へと掠る音がした事。
少しだけ傾いた身体は無様に倒れる様な事にはならず、軽く身体を傾けさせた程度でその場へと留まった。
「ちっ…」
けれど、小さく小さく聞こえた舌打ちに、新一の胸がざわりと嫌な音を立てる。
ああきっと……予想は違わない。
「キッド…」
「すみません。随分とお見苦しい所をお見せ致しました」
シルクハットのつばに手をかけ、少しだけそれを深くした怪盗の表情は新一からは見えない。
それでも、彼がこくっと息を飲んだのは分かった。
「本日はお忙しい中ご足労頂き申し訳ありません。ただ一言、貴方にお伝えしたい事がありまして」
聞こえた言葉に、新一は予想と違わぬ未来に身を備える様に身体を固くした。
間違いなく怪盗が探偵に言おうとしている言葉を、新一はもう既に知っていた。
「私はもう…貴方の傍には居られません。―――――――サヨナラ、ですよ。名探偵」
空気を振動させ、新一の鼓膜を振動させた音は紛れもなく新一が予想していた物に他ならなかった。
怪盗から届いた予告状。
この状況で『黒羽快斗』ではなく『怪盗キッド』から届いたそれは、暗に明るくは無い未来を予見させていた。
分かっていた。
予想していた。
それでもなお――そうではない未来を期待した。
「…本気かよ」
「ええ。勿論」
詰めていた息を吐き、探偵は堪える様に口元を手で覆った。
目の前の怪盗の口元には笑みが掃かれている。
変わらないポーカーフェイス。
けれど―――顔を上げた怪盗の瞳が泣き出しそうな色をしているのは、この距離からでも分かった。
「そんな顔してよく言う」
「…さて、何の事だか」
一瞬だけ覗いた瞳は、再度その手の内に隠される。
怪盗が纏う空気はぶれる事は無く、彼がハンググライダーのスイッチに手を伸ばそうとしているのが視界に映った。
逃げる気なのだと分かった。
一言、本当にその一言を告げてここから逃げる気なのだと。
その行動に、新一の中で何かがぷつんと音を立ててキレた。
「…ふざけんな」
「………」
「勝手に居なくなって、勝手に出てきて、それで『はい、サヨウナラ』だ?
いい加減にしろ。それで終わる話だとお前は本気で思ってるのかよ!」
「………」
「何とか言えよ、……快斗」
「っ……!」
新一の呼んだ名前に怪盗の手が止まり、唇を噛んだのが気配で分かった。
一瞬止まった相手の行動に、新一は躊躇う事無くつかつかと歩くと怪盗との間の距離を一気に詰め切った。
「あっ……、名探て、…」
「名探偵じゃねえよ。新一」
「………」
「このバ怪盗。いい加減にしろよ!」
詰め切った距離の中で、新一は怪盗が顔を隠していた手を払い除けると、そのネクタイを思いっきり引っ張った。
「痛っ…!」
「あのな、自分が言いたい事だけ言って逃げようなんて甘いんだよ! ふざけんな。俺がどれだけ…っ………!」
勢いのまま言いかけて、新一は突如言葉に詰まった。
確かに自分は彼の心配をして来た。
明日帰って来るか、もう二度と帰って来ないのか。
明後日帰って来るのか、もう二度と顔を見る事すら叶わないのか。
毎日毎日彼の事ばかり考えて。
毎日毎日彼が帰って来ない事に怯えて。
けれど―――所詮それは新一の独りよがりでしかない。
「………」
「…名、探偵……?」
突然ぴたりと止まった新一に不思議そうに怪盗がかけた声にも、咄嗟に反応が出来なかった。
冷静に思ってしまえば今までの苛立ちが一気に引き、代わりにやって来たのはどうしようもない無力感。
ああそうか。
彼がそう思う程度しか、自分は必要とされていなかったのか。
彼を新一が必要だと思っても。
彼を新一が幾ら欲していたとしても。
彼にとってそれが――同じだとは限らない。
「新一…?」
「………」
自覚してしまえば単純だった。
彼にとってはその程度なのだと分かってしまえば簡単だった。
握っていた手から力が抜ければ、ネクタイはするりと手から滑り落ちた。
まるでこの手が持っていた何もかもが一緒に零れ落ちて行く感覚に、知らず知らず自嘲的な笑みが口元に上る。
「…名探偵、一体……」
かけられた言葉に答える気力すら湧かない。
何も言う言葉すら見付けられず、力の抜けた片手で顔を覆った。
限界だった。
分かっていた。
このまま見送ってやればいいのも。
それが一番なのだという事も。
彼にとって自分はその程度で。
彼にとって自分は必要のない存在で。
寝食もままならなかった身体は正直で、全てを自覚すれば張り詰めていたギリギリの意識はぷっつりと―――途切れた。
「新一!!」
意識が暗闇に飲まれていく中、最後に聞いた快斗が必死に自分の名を呼ぶ声に、少しだけ笑えた気がした
to be continue….
back
novel