お前にとって俺という存在は幻に近いモノで
現実に存在している様に見えて、それでもきっと本当は存在していなかったに違いない
貴方にとって私はあくまでも理想と虚構で織り上げられた幻だったのだろう
幻
この心が壊れる程に貴方に愛を叫べば良かったのか。
その身が千切れる程に貴方を掻き抱けばよかったのか。
考えても思い出しても、もう二度とあの時をやり直す事は出来ないけれど。
寒い寒い冬の夜。
手先は氷の様に冷たく、けれど冬の風はそれでも足りないとばかりに身体に吹き付けてくる。
こんな寒い夜は思わず人恋しくなる。
こんな寒い夜は誰でもいいから傍に居て欲しくなる。
あの夜もきっとこんな寒い夜だった。
『こんな所に居ては北風の格好の餌食になってしまいますよ?』
『この寒空の下、態々ハングライダーに乗ってる奴よりはマシだろ』
探偵を気遣って怪盗が言った言葉に探偵は耳を貸すどころかそんな可愛げも無い反応を返す。
それは何時もの事であり、怪盗もさして気にした様子も無い。
『私はこれが仕事ですので』
『探偵を目の前にして「仕事」なんてぬかすんじゃねえ』
話せば話す程に何時も機嫌を損ねる。
それも、ある種のコミュニケーション。
『事実は事実ですから』
『でもそれは事実であり真実じゃない』
探偵はゆっくりと振り向き、手を伸ばせば届く程直ぐ後ろに居た怪盗を見詰める。
嘘偽りを許さない蒼に藍が映し出される。
それに怪盗は首を竦めて見せた。
『何が真実であるかなんて誰にも解りませんよ』
それは皮肉ではなかった。
怪盗の心からの言葉。
『それは…そうだな』
少しだけ揺れる蒼。
それでもその色は曇る事はなく唯怪盗を見詰め続ける。
『そうお思いになるのなら、貴方はどうして何時も真実を求めるのです?
本当はそんな物存在しないのだと、聡明な貴方なら当にお解りの筈では?』
『………』
探偵はそれには答えずゆっくりと怪盗から視線を逸らし、フェンス越しの街を見詰める。
闇を凝縮させた様に暗く深い黒を湛えている空とは対照的に煌びやかに輝く街。
一つ一つこそ小さな光だが、ここまで集まればその光は眩い。
『確かに万人に等しい真実なんて存在しない』
人の価値観、道徳観、そんな物で真実なんて如何様にも変化する。
万人に受け入れられる真実なんてモノが存在しない事は探偵にも解っている。
『それならば何故?』
それならば何故探偵はそれを求めるのか。
それならば何故探偵はそれを求められるのか。
存在しないと知っているモノを。
『…それは、俺が「探偵」だからだよ』
好奇心旺盛で。
謎や暗号が大好きで。
だから、だからこそその存在し得ない『真実』すらも追い求める。
『………貴方らしいですね』
探偵の答えに怪盗は小さく笑みを零す。
『それは褒めてるのか?それとも貶してるのか?』
『どちらだと思います』
『別にどっちでも構わないさ』
秀麗な横顔が寒さで白さを増している。
それすらも今のこの時には必要にすら思えた。
『俺にとってはどちらでも大差は無い』
『怪盗である私の言う事など貴方には大した問題ではないと?』
『別にそう言う意味じゃないさ』
今度は意図的に放たれた怪盗の皮肉に探偵は困った様に小さく苦笑を洩らした。
『…今の俺にとってはお前の言葉が一番重い』
予期せぬ言葉に怪盗は一瞬目を見開いた。
けれど、次の瞬間それは一瞬では済まされなくなった。
『俺にとってはお前の言葉が一番痛いよ』
『名…探偵……』
普段の怪盗からは想像もつかない程弱々しい声が夜の屋上に響いた。
けれど、それすら探偵は気にしないかの様に輝く街を見詰め続ける。
『お前は何時だって事実を真正面から受け入れてる。でも俺は――』
『………』
『俺は、そんな風に強くはなれない』
儚い夢の様に、綺麗な幻の様に、探偵の姿は今にも消えてしまいそうな蜃気楼の様だった。
『俺もお前みたいに強くなれたら良かったのにな』
小さなその身体が今にも消えてなくなってしまうのではないか、そんなあり得ない不安に駆られ怪盗は思わず探偵に手を伸ばしかけた。
けれど、ほんの僅かに動いた指先を無理矢理押し留める。
今手を伸ばせば、確実に自分達の関係は崩れる。
『私は…私は貴方が思ってらっしゃる程強い人間ではありませんよ』
搾り出す様に紡がれた言葉。
伸ばしかけた腕の代わりに探偵を包みこめる様に。
けれどその言葉にも探偵は首を横に振る。
『いや、お前は強いよ。少なくとも俺にはそう見える』
『強がっているだけかもしれませんよ?』
『それでもそうやって居られるだけ強いって事だろ?』
『………』
探偵は微笑む。
にこやかに。
儚げに。
まるでこの邂逅は幻かと思わせる様に。
『俺、強い奴結構好きだぜ?』
『っ――!?』
揺らぐ。
今まで周りを取り巻いていた世界が。
今まで取り繕っていた関係が。
探偵の発した一言で全て揺らいでいく。
『気障で、嫌味なぐらい何時も余裕綽々で…でも俺はそんなお前が――』
『名探偵!』
探偵がその先を紡ぐ前に怪盗は探偵の言葉を遮る。
何時もなら絶対にあり得ないその事態に流石の探偵も驚いた表情を浮かべた。
それが解っても怪盗は如何する事も出来なかったのだけれど。
ポーカーフェイスとか。
怪盗としての矜持とか。
そんなものは何一つとして今の自分の行動を制御してくれるものにはなり得なかった。
『それ以上は…それ以上は何も……』
言葉を搾り出す。
心を押し殺す。
『お前は俺の言葉を聞きたくない?』
それでもなお、真っ直ぐに向けられる蒼。
それを真っ直ぐに見返す事など今の怪盗には出来なかった。
『すみません』
それは何に関する謝罪だったのか。
それすらも解らないまま怪盗は唯もう一度、
『……すみません』
そう謝る事しか出来なかった。
『そっか…』
何処か寂しげに呟かれた言葉と逸らされた蒼。
それが全てだった。
『悪かったな』
再びその蒼が向けられた時、探偵は笑っていた。
けれど、探偵の心情がその表情のままだと思える程怪盗は愚鈍にはなれなかった。
『もうお前を困らせる様な真似はしないから』
にこやかに、ゆっくりと、まるで探偵が自分に言い聞かせる様に紡いでいた言葉を怪盗は唯静かに聞いていた。
『もう…二度とこんな真似はしないから…だから…』
『名探偵!』
ゆっくりと怪盗の方へと倒れこむ身体。
咄嗟の事に思わず怪盗は探偵の小さな身体を抱き留めていた。
『どうかなさったんですか!?どこか具合でも…』
『違う…』
『では…』
『お前に迷惑は掛けないから…もう二度とこんな真似はしないと誓うから…』
『名探偵…?』
『だから、今だけはこのままで居させてくれないか?』
『!?』
探偵の言葉に怪盗の身体が強張ったのを探偵は身体全体で感じていた。
けれど、探偵はそれで良かった。
何も反応してくれないよりもよっぽど寂しくはなかったから。
『もう少しだけ、このままで居させてくれ』
もう一度念を押す様に探偵は呟く。
その言葉に怪盗は少しだけ躊躇って、けれど了承するかの様に探偵を抱き留めていただけの腕に力を籠めた。
『今夜だけですよ』
『ああ。解ってる』
伝わるのは互いの温もり。
それは互いが生きているという確かな証。
寒い寒い冬空の下、それ以上は何も必要なかった。
あの日が最後だったのだと怪盗が気付いたのはその夜から約三日後の事。
それは小さな探偵がこの世から消えてしまった後。
あの夜はきっと二人にとって奇跡で。
あの夜はきっと二人にとって幻で。
あの最後の夜はまるで――確かな形を得ない『探偵』と『怪盗』の様だった。