意外だった
 彼がそんな事を言い出すなんて

 嬉しかった
 彼がそう言ってくれて

 叶うならあの日、あの瞬間に
 彼を攫って逃げてしまいたかった











―― 秘密 (side K)――











 瞳を閉じる。
 指先で唇に触れる。

 感じるのはあの時の温もり。
 思うのはあの時の彼の瞳。

 ああ、叶うなら――もう一度触れたいと願ってもいいですか?














 その夜は酷く風が冷たくて。
 その夜はやけに闇が濃く見えて。

 凍えそうに寒い寒い冬空の下は一人で居るには寂し過ぎた。


 空から見下ろせば待ち合わせ場所のビルの屋上に一つの影があった。
 それを確認して、口元に笑みを上らせる。

 彼が此処に来てくれた。
 それだけで天にも上る心地になる。


「そんな薄着では風邪を引きますよ」


 音も立てずふわりと彼の眼前に舞い降りるのと同時に彼を抱き締める。
 冷え切ってしまっている身体。
 早く自分の温もりを分け与えたかった。


「着込んでると動きにくいんだよ」


 言われた言葉に頭を抱えたくなった。
 どうしてこの人は自分を労わってくれないのか。

 毒薬を身体に取り込んだせいで小さくなって。
 それを元に戻す為、更なる毒の薬を身体に取り込んで。
 元に戻ったと言ってもそれは外見だけで、中身はもうぼろぼろなのに。


「それでももう少し温かい格好を頂きたいのですが?」


 風邪を引いたらそれこそ捜査どころではなくなるでしょう?
 そう付け足す。
 何時でも何処でも事件の事を考えている彼。
 そう言えば多少は気をつけてくれるかもしれない。
 そう思ったから。

 案の条言葉に詰まった彼に内心で笑みを漏らして、彼を抱き締める腕に力を籠める。


「まあ、そのお陰で私はこうして貴方を抱き留める口実が出来る訳ですが」


 それは事実だった。
 最初こうして彼を抱き締めたのもそれが口実だった。


「だったら別にいいだろ」


 返される言葉は何時も通りのぶっきらぼうなもので。
 けれどそれでも彼を抱き締める事が許された気がして。
 心が喜びに震えるのを感じた。


「ええ」


 口元に笑みが上りそうになるのを必死で堪える。
 『ポーカーフェイスを忘れるな』
 先代キッドの教えを思い起こす。

 今の自分は『キッド』。
 何があっても感情を表情に出してはいけない。


「名探偵?」


 けれど、どれだけ耐えても彼からの返答も反応もなく不思議に思って彼を呼べば、やっと彼が顔を上げてくれた。


「どうなさったのですか?」
「何でも…ない……」


 何でもない筈がなかった。

 震える声。
 震える肩。

 何でもないと言うには些か無理があった。


「何もない様には見えないのですが?」
「だったら見て見ぬ振りをする努力をしろ」
「そういう訳にはいきませんよ。私にとって名探偵は大切な方ですから」
「………」


 彼の瞳が曇る。
 また自分は何か彼の気に障る事を言っただろうか?

 そんな不安が胸を過ぎる。


「何かあるなら仰って頂けませんか?」


 けれど、彼の事が本当に心配なのは嘘偽りのない真実。


「でなければ、私は心配で心配で夜も眠れなくなってしまいますから」


 少しだけ間があって。
 漸く彼は口を開いた。


「だったら…」
「…?」


 言うのを躊躇っている様子の彼に少しだけ首を傾げる。
 珍しい。
 この人がこんな風に何かを言うのを躊躇うなんて。


「言ったらお前はちゃんと聞いてくれるのか?」
「え、ええ。それは勿論」


 彼の願いなら何でも聞く。
 彼の願いなら何だって叶えてあげる。

 本当にその時はそのつもりだった。


「なら…」
「………」
「俺をこのまま攫ってくれないか?」
「!?」


 けれど、言われた言葉に一瞬我を忘れた。

 今彼は何と言った?
 自分に何を言った?


「……本気で仰ってるんですか?」


 それだけ紡ぐのがやっとだった。

 意外なんてものじゃない。
 驚愕じゃ足りない。
 人より速い筈の頭の処理速度でも追いつかない。


 それでも、彼は唯無言でその言葉に頷いた。


「………」


 余りにも意外過ぎた。
 余りにも唐突過ぎた。

 何かあるのではないかと。
 何かの罠なのではないかと。

 彼の瞳をじっと見詰めた。


 それでも、返って来たのは綺麗に綺麗に透き通った蒼だけだった。


 彼は本気なのだと解った。
 彼が本当にそうしたいのだという事が解った。

 嬉しかった。
 本当に。

 今すぐにでも彼を攫いたかった。
 自分だけのモノにする為に。


 けれど――。


「一週間…」
「…?」
「一週間だけ待っては頂けませんか?」


 紡いだのは別の言葉。


 今此処で彼を連れ去る事は出来る。
 今此処で彼を連れ去ってしまえば彼を自分のモノに出来る。

 でもそれで彼は本当に幸せなのだろうか?


 彼には彼女が居る。
 ずっとずっと彼を見詰め、見守り、待ち続けていた彼女が居る。
 優しくて、強くて……何より穢れない心の持ち主。

 自分とは正反対の光の中に居る彼女。
 その彼女から彼を引き離したところで、自分は本当に彼を幸せに出来るのだろうか?


「一週間…?」


 自分の言葉に傾げた彼に、唯無言で頷いた。


 解っていた。
 彼の気持ちが自分に向けられている事は。

 気付いていた。
 彼が自分と彼女との間で揺れている事は。

 だとすれば、どちらが幸せになれるのだろう。
 そんな事は火を見るより明らかだった。


 彼はきっと冷静になれば彼女を選ぶ。
 きっとこの寒過ぎる今日の風と暗過ぎる今日の闇がいけないのだと自分に言い聞かせた。


「解った」


 了承した彼に微笑んで見せる。
 崩れたポーカーフェイスを修正する。

 本当は今すぐに攫ってしまいたかった。
 そうすれば、彼を離さずに済む事も解っていた。

 でも、そうすれば彼が苦しむ事も解り過ぎる程解っていた。
 だから…それは出来ない事だった。


「なら…」
「……?」



 けれど、もし許されるなら――たった一つだけ、彼が自分を愛してくれたという証明を貰ってもいいですか?



「誓いを頂いても宜しいですか?」
「誓い…?」


 ずるいと言われようと。
 卑怯だと言われようと。

 唯一度だけ、そう思ってしまったあの時の衝動をどう表現したらいいのだろう。


 気が付けば彼の頬に手をあてて。
 気付けば彼に上を向かせて。



 たった一度だけの誓いの口付けを交わしていた。






「一週間後の今日と同じ時間貴方をお迎えに上がります」







 言い逃げだと笑われても良かった。
 卑怯者だと蔑まれても良かった。

 それ以外に逃げ出す為の言葉が見当たらなかった。




















「やっぱり来ないか…」


 イルミネーションが輝く街を見下ろして、一人自嘲的な笑みを浮かべる。


 こうなる事を選んだのも。
 こうなる様に仕向けたのも。

 全部自分自身。


 解っていた。
 彼が彼女を選ぶ事も。

 解っていた。
 きっと彼女が彼を説得してくれる事も。


 それでも――。



 ―――本当は切ないのだと言ったら、貴方は私の許に来てくれますか?





「これで良かったんだ…」


 言い聞かせる様に呟いて、アスファルトを蹴り夜の闇へダイブする。
 今夜はきっと長い長い空の旅をしなければならないだろう。

 この心を静めるにはこの寒い冬の風で心を凍りつかせなければならないだろうから。














END.

全て見越した上での一週間なのでした。


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