軽蔑しますか?
 こんな俺を

 軽率だと呆れますか?
 俺の行動に

 それでも、あの時の衝動だけは他に如何する事も出来なかったのです











―― 秘密 (side S) ――











 瞳を閉じる。
 指先で唇に触れる。

 感じるのはあの時の温もり。
 思うのはあの時の彼の瞳。

 ああ、叶うなら――もう一度触れたいと願ってもいいですか?














「どう思う…?」
「………」


 暗い暗い地下室。
 真っ暗な闇の中、パソコンのディスプレイの明かりだけが哀の顔を照らしている。


「俺は…俺は確かに間違ったかもしれない」
「………」
「でも、そうなる事を望んだのも確かなんだ」
「………」


 相槌を打つ訳でもなく、何かを語る訳でもなく、哀は唯新一の話しに耳を傾けていた。
 その表情に若干の曇りが見て取れたのは、長年哀を見てきた新一だからだろうか。


「俺は…あの時確かにそれを望んだんだ……」


 哀の方を見ている筈なのに、何処か遠くを見ている様な新一の瞳を見詰め、漸く哀は口を開いた。


「なら貴方はその一瞬の衝動の為だけに全てを捨てる気なのかしら?」
「………」
「貴方には彼女が居る。貴方をずっとずっと待っていてくれた優しい優しい彼女が。
 その彼女を捨てて、貴方はありもしない彼との未来に期待しようって言うの?」
「………」


 それは酷く確信を突いていて。
 それは酷く重く心に響いて。

 新一は何も言えずに、哀から視線を逸らす様に俯いた。


 それは皮肉にも十二月二十四日――クリスマスイブ――の出来事だった。















 その夜は酷く風が冷たくて。
 その夜はやけに闇が濃く見えて。

 凍えそうに寒い寒い冬空の下は一人で居るには寂し過ぎた。


「さみぃ…」


 かじかむ手に白い息を吹きかけ、手を擦り合わせる。
 身体から抜け落ちていく体温はその程度では補う事など出来ず、ただ急激に芯を冷やしていくだけ。

 冬の薫りが好きだった。
 冷たい風が心地良かった。

 それでも、寒いと思ってしまうのは心が冷え切ってしまったせいだろうか。


「もうすぐクリスマスか…」


 煌びやかなイルミネーションを見下ろして一人溜息を吐く。

 ああ、今年はどうしようか。
 去年はあのレストランで食事をした。
 一昨年は観覧車で夜景を見下ろした。

 考えれば考える程に心が急速に冷えていく感覚に陥るのはどうしてだろう。
 彼女との関係は上手く行っている筈なのに。
 いや、上手く行って貰わなくては困るのに。


「いっその事…」


 逃げたいな、と小さく呟く。

 彼女からも。
 知り合いからも。
 自分を取り巻く全てから。

 消えたいと願う。
 溶けたいと祈る。

 全ての柵を取り去る事が出来たなら、きっと自分は――。





「そんな薄着では風邪を引きますよ」


 視界を白が占拠したのと同時に、ふわっと柔らかい温もりに包み込まれた。
 白い白い雪を思わせる純白。
 遠くから見れば冷たそうにすら感じるそれは、中に入ってしまえば実はとても温かかった。


「着込んでると動きにくいんだよ」
「それでももう少し温かい格好をして頂きたいのですが?」


 風邪を引いたらそれこそ捜査どころではなくなるでしょう?
 そう囁かれて、言葉に詰まる。

 本当はそんな事が理由じゃない。

 温めて欲しいのだと。
 少しでも彼の温もりを感じたいのだと。

 そう言えたら少しは楽になるのだろうか。


「まあ、そのお陰で私はこうして貴方を抱き留める口実が出来る訳ですが」


 回された腕に籠められる力。

 強くもなく、弱くもなく。
 唯自分を繋ぎ止める様に抱き締められる。


「だったら別にいいだろ」


 ぶっきらぼうにそう言っていても、内心では心が喜びで震えていた。

 お前も俺と同じ気持ちでいてくれている?
 お前も俺と同じ様に俺を想ってくれている?


「ええ」


 彼の声に安心して瞳を閉じる。

 瞼の裏に広がる闇。
 身体に染み渡っていく温もり。

 このまま時が止まってしまえばいいと思った。
 このまま全てが終わってしまえばいいと思った。

 心はもう他に欲しているものはないから。


「名探偵?」


 何も言わない俺を不審に思ったのか、自分を呼んでくる彼にそっと顔を上げた。

 モノクルで隠されていても解る端正な顔立ち。
 一つだけ見える綺麗な綺麗な藍。

 ああ、彼だけが俺が本当に好きだと言える人。


「どうなさったのですか?」
「何でも…ない……」


 言えれば良かった。
 何もかも捨てて。

 本当に欲する事が出来れば良かった。
 何もかも消し去って。

 けれど、そうするには自分には柵が多過ぎた。


「何もない様には見えないのですが?」
「だったら見て見ぬ振りをする努力をしろ」
「そういう訳にはいきませんよ。私にとって名探偵は大切な方ですから」
「………」


 その言葉一つ一つが俺の心を抉っている事を彼は知らない。


「何かあるなら仰って頂けませんか?」


 痛い。
 苦しい。


「でなければ、私は心配で心配で夜も眠れなくなってしまいますから」



 お前は何処まで俺を傷付ければ気が済むんだ?



「だったら…」
「…?」


 その瞬間口を開いてしまった。
 心が限界を告げていた。

 そして、俺は告げてはならない言葉を発してしまっていた。


「言ったらお前はちゃんと聞いてくれるのか?」
「え、ええ。それは勿論」
「なら…」
「………」
「俺をこのまま攫ってくれないか?」
「!?」


 初めて見た。
 彼のポーカーフェイスが剥がれ落ちた瞬間を。

 驚いて固まった彼を見詰めながら、ああ…コイツも普通の人間だったんだ、と頭の中で冷静に思った。

 言葉にしてみれば簡単で。
 急速に頭が冷えていくのを感じて。

 そして最後に残ったのは――彼女に対する罪悪感。


「……本気で仰ってるんですか?」


 数秒後に掛けられた問い。
 それに頷いたのすら奇跡。

 全てを失う覚悟なんて本当はなかった。
 全てを捨てる覚悟なんて本当は出来ていなかった。

 けれど、頷いてしまったあの時の衝動をどう表現したらいいのだろう。


「………」


 じっと俺の瞳を何かを探る様に見詰めてくる彼を、何もない事を証明するかの様に俺も唯ずっと見詰め続けた。
 そしてそんな中漸く口を開いた彼が発したのは意外な言葉だった。


「一週間…」
「…?」
「一週間だけ待っては頂けませんか?」
「一週間…?」


 首を傾げた俺に、彼は唯無言で頷いた。

 どうして一週間なのか。
 どうして今すぐに連れ去ってはくれないのか。

 言いたい事は色々あったけれど、それは全て飲み込む事にした。


「解った」


 だって、もし聞いてしまったら、もう二度と彼に逢えない様な気がしたから。


「なら…」
「……?」
「誓いを頂いても宜しいですか?」
「誓い…?」


 もう一度無言で頷いた彼の右手が俺の頬に触れた。
 そっと顎が持ち上げられる。

 それが意味する所が解らない程素直でも純粋でもなかったから俺は唯瞳を閉じた。


 触れたのは一瞬だった。
 けれど確かに温もりを感じた。


「一週間後の今日と同じ時間貴方をお迎えに上がります」


 瞳を開くと彼は微笑んでそう告げてくれた。
 それにゆっくりと頷いて、離れていく温もりを抱き寄せたくなる衝動を抑えた。

 一週間後全ては変わる。
 自分は全てを捨て去って彼と歩む道を選ぶ。


 そう決めたのはクリスマスイブの一週間前――十二月十七日――の出来事だった。















「蘭には申し訳ないと思ってる。でも…」
「貴方が好きなのは彼。そう言いたいんでしょ?」
「………」


 流石は長年新一を日向になり日陰になり見守ってくれていた哀。
 新一が言いたい事など言う前に全て解っている。


「でも、貴方が居なくなったら彼女…蘭さんはどうするかしら?」
「それは…」
「貴方にあれだけ依存しているんだもの。自殺ぐらい平気でするでしょうね」
「――!?」


 その可能性は新一も少なからず頭の中で考えていて。
 けれどそうやって他人から、哀から改めて言われると酷く心に重く落ちていった。


「貴方はそれでも彼女を見捨てて彼と共に行けるの?」
「………」


 冷静に唯淡々と告げられる。
 声を荒げられるよりもそれは唯静かに新一の心を抉っていく。


「貴方をずっとずっと待ち続けていてくれた彼女を貴方は本当に見捨てられるの?」
「………」


 哀は全て解っていた。
 新一が本当はどうしたいのかを。

 哀は全て見抜いていた。
 新一が全てを捨て去れない事を。


「ねえ工藤君。私は貴方が苦しむのを見たくないの」
「………」
「今貴方があの人と行けば貴方は一生罪悪感に苛まれながら生きて行く事になるわ」
「………」
「だから…酷だとは思うけれど、あの人の事は忘れなさい」
「っ……」


 涙が零れるかと思った。
 心が壊れるかと思った。

 けれど瞳からは何も溢れてはくれなかったし、ましてや心が壊れて何も感じなくなる様な事にもならなかった。
 いっその事そうなってくれた方が楽だったのに。


「忘れなさい。今は辛くても、それが一番貴方が幸せになれる道よ」


 きっとそうなのだろうと思う。

 彼女は優しい。
 自分をずっとずっと待っていてくれた。
 ずっとずっと待たせていた俺が戻ってきた時も何一つ文句も言わず優しく迎えてくれた。

 そう。彼女を裏切る事など新一に出来はしない。


「もう直ぐ七時よ。蘭さんとの待ち合わせ8時じゃなかったの?」


 言われて新一は左手首に付けていた時計に視線を落とす。

 午後六時五十七分。
 彼女との待ち合わせ場所まで此処から車で約45分。

 もう、タイムリミットは近付いていた。
 そしてこの幻想を捨て去らなければならない時間も。


「ああ。そろそろ行くよ」


 そう言って新一は椅子から腰を上げた。
 今から行けば間に合う。そう、今から彼女の所に行けば確実に間に合う。


「気をつけて」
「さんきゅ…」


 その言葉を最後に新一は哀に背を向けると地下室を後にした。
 『最愛』の『彼女』に逢いに行く為に。















「これで良かったんだよな…」


 無事に彼女を家まで送り届け、自室へと帰り着いた。
 ベットへ寝転んで天井を見上げ一人呟く。


「これで良かったんだ…」


 全ては今まで通り。
 『最愛の彼女』が居て。
 自分は『幸せ者』で。

 それでいい。
 全ては今まで通りだ。


「これでいい…」


 そう一人、自分に言い聞かせる様に呟いてそっと目を閉じた。















 なあ、あの時どうして直ぐに俺を連れ去ってくれなかったんだ?

 もしも、もしもあの時お前が俺を直ぐ連れ去ってくれていたら

 俺はお前と共に歩んで行けたかもしれないのに…















END.

最近ちょっと切な系(?)が好きらしいです。


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