情けない

 忘れる事も
 抱き締める事も

 叶わない

 ただ燻って消えないのは

 彼が愛しい
 その想いだけ…













続・もう一つの別れ














「っ………」


 零れ落ちそうな涙を堪えながら夜の空を飛んでいた。
 零れ落ちないまでも、瞳に留まったままの涙で視界が歪む。

 はっきり言って危ない事この上ない。
 このままビルにでも当たって死んでしまおうか、なんてくだらない事が頭に思い浮かぶ。
 そんな事『怪盗キッド』としては決して出来ないのだけれど。


「情けないわね」


 ふわふわと、何処か現実味のない状態で上空を飛んでいれば、ふと声を掛けられた。


「なっ…あ、紅子!?」


 右斜め前を見れば、まるで漫画の様に箒に跨って――というか、横乗りをして――飛んでいる女が一人。
 その見知った顔に動揺した。


「まったく…『怪盗紳士』が聞いて呆れるわ」


 動揺しているキッドなど気にも止めずに魔女は呆れ果てた様に溜息を吐く。
 その態度にキッドはむっとして見せた。


「……見てたのかよ」
「ええ。しっかりと、コレでね」


 突然彼女の膝の上に大きな水晶玉が現れる。
 どこから出てきた、とか彼女にとっては無駄な突っ込みをする事は止めておいた。


「魔女というのは随分と悪趣味なんですね。人の逢引を覗き見なんて淑女がする事じゃありませんよ?」
「あら、それなら大切な人を泣かせるのは紳士がする事なのかしら?」
「っ……」


 そんな事言われなくても分かっていた。
 彼が―――きっと泣くのだろうという事は。

 けれどそれを他人から告げられるのは分かっていても辛かった。

 彼を自分が泣かせてしまったのだという事実は分かっていても辛い。


「そんな顔するのなら、優しく抱き締めてあげればいい事ではないの?」
「…それが出来たらどれだけ楽か……」


 ぐっと、手に力を籠めたキッドを馬鹿にした様に魔女は笑う。


「そんなに怒っているのかしら?」
「はっ…? 怒ってるって…」
「少なくとも、光の魔人はそう思っているみたいだけれど?」
「えっ…?」


 ぱしぱしと瞳を瞬かせて訳が分からないと魔女を見つめる。
 その視線に魔女は溜息を吐いた。


「彼は、自分が貴方との記念日を忘れていたから貴方が怒って自分の事を嫌いになったのだと思っているわ。
 嫌われて、捨てられたのだと。それを貴方は優しいから、自分の為に身を引いたなんて言ったのだと。
 きっと、嫌いだなんて事優しい貴方が真正面から自分に言えないからそう言ったのだろうって思ってるのよ。
 私…聞いてしまったの。彼がさっき『俺、完璧に嫌われたんだな…』って呟いたのを…」
「……!?」


 嫌いになんてなれる筈が無い。
 確かに、彼が何も覚えていなかったのはショックだったけれど、それでも怒っている訳ではなくて、ただ少し寂しかっただけ。

 なのに―――。


「貴方、何に拘ってるの?」
「何って…」
「彼は彼女と別れた。貴方も彼女と別れた。それならもう何も気に病む必要などなく、彼を抱き締められる。違う?」
「それは…」
「ああそういえば…貴方、彼に彼女と別れたって言っていないのね?」
「ええ…」


 あの時は言ったら全てが崩れてしまうと思っていたから言えなかった。

 彼には彼女が居て。
 自分にも彼女が居て。

 だからこそ取れていたバランス。
 そのバランスを崩したくなかったから言えなかった。

 自分が先に―――彼女と別れていたなんて。


「狡いのね。彼は何も知らないのに、貴方は彼の事を知っている」
「しょうがないでしょう? 私は知らなかった。けれど…」
「彼女が教えてくれた」
「ええ…」


 まったく、どこまで知っているのだろう。
 全て覗かれていたというのか。


「それなら貴方だって、彼に伝えないとフェアじゃないわよね?」
「……いいんですよ。もう今更なんですから」
「あら、そうなの?」
「ええ。もう彼とは……二度と逢う事はないんですから」


 辛そうに、表情を歪めながらその言葉を紡いだキッドに魔女はまた尋ねる。


「だから、どうしてそんな風に言うのかしら? もう何も気に病まず、彼を抱き締める事が出来るんじゃなくって?」
「…私は心が狭いんです」
「……?」
「彼女と別れたからと言って、この世から女性が居なくなる訳じゃない。彼が男である事、私が男である事は変わる事じゃない」


 むすっと、怪盗紳士らしからぬ顔をしてみせたキッドに魔女は目を丸くして驚いてみせる。


「驚いたわ。貴方…彼女だけじゃなくて、世界中の女性全員に嫉妬してるって事?」
「………」
「…本当に心の狭い男ね」
「そんなのは自分が一番良く知っていますよ」


 不安で仕方が無いのは彼女の事だけではない。

 自分が男なのもそうだが、彼も男だ。
 女性を抱き締めて、その人と結婚して、子供の居る幸せな家庭を築きたい、そういう普通の生活を夢見ておかしくない。
 いや、寧ろそれが自然なのだ。

 自分が口説かなければ。
 自分が彼に近付かなければ。
 きっと彼は何の疑問も持たないままに、そういう普通の生活を考えていた筈だ。

 もしも、もしも今彼を抱き締めてしまって。
 もしも、もしも今彼を自分のモノにしてしまったとして。

 彼がこの先、そういう将来を夢見ないという保障がどこにあるのだろうか。
 そんな物何処にも存在しない。

 それに、そういう普通の未来の方が彼にとって幸せである事は明確だ。


「…そう。それならもう二度と貴方は彼に逢わないっていうのね?」
「ええ」
「……ならいいわ。私が貰うから」
「………は?」


 意味が分からない。
 魔女の言った言葉の意味が分からず、キッドはついついキッドとしてではなく快斗として声を上げてしまった。


「そのままよ。彼は私が貰うわ」
「紅子…お前何言って……」
「前に鏡に言われた事があるの。私が手に入れられない男は『怪盗キッド』だけ、だとね。
 それなら…仕方が無いけど貴方は諦めるわ。その代わり…」
「………」
「彼を貰うわ。貴方達とてもよく似てるから。彼の顔も、綺麗な瞳も、あの狡猾さも…私の好みなの」
「てめぇ…ふざけんのもいい加減に…」
「あら、ふざけてなんていないわよ? いいじゃない。もう逢わないんでしょう? 貴方には関係ないわ」
「っ…!」


 声無き声を上げて、キッドは危ないのも気にせずハンググライダーをぎりぎりまで近づけると、がしっと紅子の箒の穂先を掴んだ。


「な、何するのっ…!」
「新一には手を出すな!」
「黒羽君…」
「お前が…お前が望むなら、俺はお前のモノに、お前の下僕にだってなってやる。だから新一には…」
「馬鹿な男…」


 後ろを向きながら危なげもなく空中を飛んでいた魔女はそんな必死な様子のキッドを鼻で笑ってやる。


「紅…」
「貴方にはもう興味はないわ。思い上がりね。いつまでも私が貴方を想っているとでも思って?
 私はもう決めたのよ。貴方ではなくあの光の魔人がいいの。だから……」


 ぶわっと魔女はいきなり高度を上げた。
 それについていけず、キッドの手は彼女の箒の穂先から離れた。


「せいぜい嘆くがいいわ。自ら大切な彼の手を離した事に、ね…」


 クスッと笑って、魔女はいっきに飛び去って行ってしまった。


「くそっ……」


 悔しげに彼女が居た空中を見上げる怪盗を夜の空に一人残したまま―――。


























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