たった一つ
 たった一つのモノだけが

 求めても
 求めても
 手に入らない

 今更願うのも
 今更祈るのも
 自分勝手だと知っている

 けれど願う

 せめて貴方の未来だけは
 明るいものであります様にと













もう一つの別れ














 ビルの屋上のフェンスの上に危なげもなく立ち、冴え冴えと見える月の光を仰ぎ見る。

 ふわりと風に白いマントが靡く。
 頬にあたる少しだけ冷たい風が心地良い。

 今夜の獲物である『Tears of the moon月の光』を主である月に翳してやる。
 世界で一番固い筈のその石は透明に乱反射する様に輝き、目に眩しい程の光をくれる。


「今夜もハズレ、ですね…」


 もうそろそろそれに落胆すら感じなくなった。
 とうにボレー彗星は通り過ぎてしまった。
 自分がしている事もある意味ではもう無駄なのかもしれない。
 考えられない程遠い年月先まで永遠は手に入らない。
 だからなのか分からないが最近では追っ手の数も減っているし、質まで下がっている。

 けれど、先代が追っていたモノならばきっちりと決着をつけようじゃないか。
 それが『怪盗キッド』としての仕事だ。


「……ソレも違ったのか?」
「!?」


 不意に掛けられた声に後ろを振り返る。
 勿論その声の主は知っていた。


「名、探偵…」


 あれから何日経ったのか。
 彼の顔を見るのすら辛くて、何か事件のあった次の日は新聞さえ見るのが嫌だったというのに…。


「久し振りだな…キッド」
「ええ。本当に」


 久し振りに会った彼の顔はこの間会った時よりも顔色が良い。
 お隣の女史のお陰という訳か。


「良かったですよ。お元気そうで」
「っ……」


 にっこりと微笑んで見せれば、彼は唇を噛み締めた。
 そんな事言われて、彼が素直に受け入れられないのは分かっている。
 だからこそ言った言葉に彼が異常な程反応するのが楽しくもあり、辛くもあった。


「おめえこそ…元気そうじゃねえか」


 悔し紛れに言われた言葉にキッドはより笑みを深めてやる。
 彼の傷をより抉ってやる為に。


「ええ。もう私には何も気に病んだり、気に止めなければならない事はありませんしね」
「………」
「それにしても、よくココが分かりましたね」


 昔なら分かった。
 彼宛の予告状にだけ中継地点のヒントを書き込んだりしておいたから。

 けれど、今は彼宛に予告状を送る事すらしていないというのに。


「分かるに決まってんだろ。俺を誰だと思ってるんだ?」
「……私が認めた唯一人の名探偵、ですよ」


 口の端だけを持ち上げて彼は少しだけ笑って見せる。
 答えの分かりきった質問を投げかけて。


「なら、分かっても別に不思議じゃねえだろ? 怪盗さん」
「ええ。そうですね」


 昔と同じだった。
 昔の彼と何も変わらない。
 その変わらなさが怖い。


「ソレ、違ったんなら返せよ。俺が返却しとくから」
「それには及びませんよ」
「は?」


 ほら、っと手を差し出した新一にキッドは緩く首を振って見せる。
 それを訝しげに新一は見詰める。


「貴方には返しません」
「何だよ…それ」
「貴方に返して、貴方から返却されると少々困った事になるんですよ」
「どういう意味だ…?」


 訳が分からないと首を傾げた新一にキッドは少しだけ真面目な顔をして見せた。


「困るんですよ。貴方にこれ以上私に関わられると」
「……それで、返却出来ないって訳かよ」


 詰まる所、新一が返却に行くという事はつまりキッドを阻止したと取られる訳で。
 そうなると今後も新一が呼び出され、関わる可能性が高くなるという事。

 それが困るという事か…。


「ええ」
「そんなに俺に関わられるのが嫌って訳か…」
「ええ」


 新一は諦めた様に一つ溜息を吐いて、じっとキッドを睨み付けた。


「『また現場で』って言ったのはてめえじゃねえか!」
「確かに言いましたが…こんなに早く貴方がいらっしゃるとは思わなかったので…」
「……もう三週間以上も経ってると思うんだが?」


 折りしも時期はゴールデンウイーク。
 時期的に人を集める為に美術館や博物館などでも色々な展示会等が行われている。
 キッドとして狙わなければならない獲物が集中している時期だ。


「そう…ですね」


(三週間以上も、ですか…)


 自分にとってこの三週間は決して短くは無かったが、長い物でもなかった。
 彼の事を忘れてしまうのに、彼の事をきちんと整理して考えられる様に成る程の充分な時間ではなかった。

 でも彼には…違った様だ。


「だったら、有言実行した俺にソレを返すのが筋だろ?」
「………いえ、コレは返せません」


 彼の言う事は尤もだと思う。
 あの時の自分は、どうしてももう一度彼に逢いたいと望んでしまった。

 彼が…自分に逢いに来る事でも、自分を捕まえる事でも良いからそれを目標に立ち直って欲しかった。

 だからあんな言葉を言った。
 けれど…けれどこのまま逢い続けてしまったら、彼を想うこの気持ちを抑え続ける事は出来ない。


「後で私から中森警部にでも返しておきますよ」
「…そんな事しなくても……」
「もう、関わって欲しくないんですよ。貴方には」
「キッド!」
「もう…逢いたくないんです。貴方に」
「っ――!」


 見開かれる瞳をキッドはじっと見詰めていた。
 淡い期待を全て砕いてしまう様に。


「貴方にはきちんとソレを告げたくて、『現場で』と言ったんです。
 『私』が『私』としてきちんと存在していて良い場所で、貴方にきちんと私からもお別れをしたかったので」
「お前からって…」
「さよならですよ。『快斗』としても『私』としても…」
「キッ…」
「さようなら、名探偵。私の事など忘れて下さい。こんなつまらないこそ泥の事など…」


 ふわりっとキッドは屋上から飛び降りる。
 新一が見ていられないぐらいの高度まで落ちて行った白い点がバサッとその翼を広げ夜の街へと溶け込んで行った。


「キッド…」


 新一はフェンス越しにその姿を見詰める。

 彼は言ってくれた。
 『現場でお会いしましょう』と。
 その言葉を支えにここまで来た。

 なら、もう彼に逢いたくないと言われた今は何を支えにしたら良いのだろう。

 身体に力が入らなくて。
 そのままずるずると崩れ落ちる様に冷たいアスファルトの上に座り込んでしまう。

 涙が零れ落ちるのが悔しくて、それを防ぐ様に上を見上げれば彼の守護星である月が輝いていた。
 白く、青白く暗い空にぽっかりと浮かぶ丸。
 その白が彼を髣髴とさせ余計に泣けてきた。


「……期待させんじゃねえよ……ばーろぉ……」


 心のどこかで期待していた。
 彼が優しく抱き締めてくれるのではないかと。

 心のどこかで期待していた。
 本当は自分を手放したくないと言ってくれるのではないかと。


「情けねえな……」


 自分は勝手に彼女と別れて。
 そうすれば彼が傍に居てくれると、勝手にそう思い込んで。

 彼の想いなんて、彼の気持ちなんて、あの栞を見るまでこれっぽっちも気付かなかった。
 気付けなかった。

 どうして彼が、普段あんなにしつこく言ったりしない彼が、あの日あんなにしつこく自分を誘ったのかを。



「俺、完璧に嫌われたんだな……」



 残酷過ぎる程残酷な現実に、新一はただ目を閉じた。


























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