人は何故願うのだろう


 それが叶わない望みであると知りながら…












――たった一つの願い――













「これはまた随分と地下に作ったものですね…」


 静かに暗い地下に続く階段をその白い影が下り始めて十数分。
 未だ底の見えない階段を静かに下って行く。

 所員の者達は恐らくエレベーターを使うのだろうが、自分にそんな真似は出来ない。
 止められてしまえばそれこそ袋の鼠になりかねないからだ。


「後どれだけ続くんですか?」
『灰原の資料によればあと20階下れば研究室の筈だ』


 耳に取り付けられたごくごく小さなスピーカーから、彼の声が聞こえてくる。
 そしてKIDのシャツの襟元にもそれと同じ程の大きさのマイクがつけられている。


「20階ですか…」
『ああ、ちなみにお前が今いるのが地下20階だからな』
「あと半分…ですね」


 今まで下ってきた時間を計算し、KIDは舌打ちした。
 思ったよりも時間がかかっている。


「名探偵…」
『駄目だ』


 言おうとした言葉は、新一の強い言葉にすぐさまかき消される。


「しかし…」
『中に入れば何があるか解らない。体力は出来るだけ温存しておけ』
「解りました」


 自分がやろうとしていた事を先読みされてしまった事にKIDは内心で苦笑する。
 いつだってこの人には敵わない。


『大丈夫か?』
「何がです?」
『中には何人いるか解らない。今なら…』
「名探偵」


 その続きを、今度はKIDが彼の名を呼ぶ事で飲みこませる。


『でも…』
「引き返す気はないと何度言えば気が済むのです? 昨日散々作戦は立てた筈でしょう?」
『そうだったな…』


 すまない、と静かに告げられる。


「いえ、名探偵が私のことを心配してくださるのは嬉しいですから」
『別に…怪我でもされたら灰原が大変になるから言ってるだけだ』


 こんな時でも彼は素直に言葉を紡いではくれない。
 けれども、それが照れ隠しである事は誰よりもKIDが一番良く解っている。


「彼女はどうしてらっしゃいますか?」
『よく眠ってるよ』

 お前が調合した睡眠薬をしっかり珈琲に入れておいたからな。


 それは昨日の三人での作戦会議の後に新一と二人だけで密かに決めた事。
 彼女を巻き込まない為の最善の選択。


「それなら良いのですが」


 彼女…灰原哀相手にはいかにKIDと言えど油断は出来なかった。
 彼女もまたこの名探偵と互角に渡り合える相手だから。


『大丈夫だ。それよりも…あと3階だぞ?』
「ええ、解っていますよ」


 幾ら周りに照明がないと言っても夜目が利くKIDにとっては何でもない事だった。


『KID』
「何ですか?」
『帰って来いよ』
「ええ」


 それを合図にKIDは耳につけていたスピーカーを外す。
 しかし、襟元のマイクは付けたままにしておく。

 これは彼が昨日出した条件。

 KIDがどんな状況にあるのか解るようにこれだけは外すなと言われた。
 一人で乗り込むと言った自分につけられた最小限の条件。


「さて…鬼が出るか…蛇が出るか…」


 目の前の大きな扉を前にKIDは皮肉交じりにそう呟く。

 この内部だけはどれだけ組織を探っても出てこなかった。
 それだけに…ここに彼を救う手がかりがある可能性は高い。

 厳重にロックのかかった電子キーを何時もの様にいとも簡単に解除すると、静かにKIDは身体をドアの内側へと滑り込ませた。










 内部はおよそ30畳ほどの広さ。
 電気のついていない薄暗いその部屋に整然と並べられた4つの机と、幾つかの棚。


(やはり…ここですか…)


 研究室と呼ぶには余りにもこじんまりとした部屋。
 しかし、夜目が利くKIDにはこの部屋がどの実験室よりも危険である事を告げていた。
 棚に並ぶ夥しい数の劇薬や毒物。
 そして、普通の研究室ではお目にかかる事すら出来ない実験器具の数々。

 それらを見れば日々この部屋で何がなされているかなど容易に検討がついた。


(さっさと資料を見つけてここを出た方が良いですね…)


 長居をする必要はない。
 今は組織についてより、あの薬のデーターを持ち出す事が優先だ。

 KIDが音も立てずに数歩進んだその時…。


「そこに居るのは誰?」


 誰も居ないと思っていた部屋から突如響いた女性の少し高めの声。
 その声は、部屋の一番奥にある棚の後ろからだった。


(しまった…)


 電気もついていなかった為に誰も居ない、そう判断した自分の愚かしさに吐き気がした。
 目を凝らしてみれば、白衣を身に纏い長い髪を後ろで一つに結い上げている女性の姿が見えた。

 そして…


「貴方…怪盗KIDね…」


 その彼女から確信を持って告げられる言葉。
 その言葉で彼女も夜目が利く事がすぐに解る。


「ええ…」
「宝石専門の貴方が一体こんな所に何の用かしら?」
「欲しいものを奪うのが怪盗ですからね」

「ここにはパンドラの情報はないわよ。」
「!?」


 その言葉にKIDは息を飲む。
 どうして自分がパンドラを探している事がばれているというのか。


「どうして…」


 思わず呟いてしまってからKIDは慌てて口を閉じる。

 確かにこの黒の組織が自分を追っている組織である事は解っている。
 しかし、どうして一介の研究者である彼女がその事を知っているのか…。

 気にはなったが、これ以上迂闊な事は言えない。


「どうして私がそれを知っているのか…そう言いたいのでしょ?」


 けれど、そんなKIDに確信を持ってかけられる問い。


「……ええ」


 隠しても無駄な事を悟ったKIDは素直に肯定の意を示した。
 あわよくば何か情報が得られるかもしれない。


「私も永遠を追う者だからよ」


 しかし、彼女から告げられたのは意外な言葉だった。


「永遠を追う者…?」
「そう…形は違えど私も永遠を追う者…」


 呟かれた言葉が余りにも悲しい響きを纏っていて、その事にKIDは戸惑う。

 それは最初に言葉を交わした時からの戸惑い。
 彼女からは…敵意が感じられない…。


「何故貴方は永遠を願うのです?」


 だからこそ聞いてみたくなったのかもしれない。
 何故永遠なんて愚かしいものを願うのか…。


「……永遠でなくてもいいの」
「永遠でなくてもいい?」


 先程との答えの矛盾にKIDは戸惑う。

 永遠でなくてもいい…?


「ええ…彼を生きかえらせる事が出来るならそれで…」


 そう呟かれた声が微かに涙声になっている。
 それによってすぐさま先程の矛盾も理解できた。

 恐らく彼女にとって何よりも大切な人だったのだろう…その『彼』というのは。

 永遠すら望んでしまう程に。
 いや…永遠でなくても人の生き返りを願ってしまう程に…。


「それでこの研究所に?」
「ええ、そうよ」
「ここがどれだけ危険な組織か解った上で、ですか…?」
「愚問ね。彼が生き返るならどんな犠牲を払ったっていいわ」
「………」


 その言葉の重みにKIDはかける言葉を失う。


「貴方にもいるんでしょ?何者にも代え難い大切な人が…」
「ええ…」
「なら、そこにある資料を持って行きなさい」


 そう言うのと共に彼女の腕がそっとある一点に向かって伸ばされた。
 それは少し離れた棚にある1冊のファイル。


「貴方が望むものがある筈よ」
「貴方は一体…」
「知る必要はないわ。私達は次に会った時は殺し合う運命ですもの」
「……出来ればそうなって欲しくはないですがね」
「私もよ」


 その言葉の響きから彼女が少しだけ微笑んだような…そんな気がして。

 けれど、自分にはここで悠長に喋っている暇はなかった。
 すぐさま彼女に言われたファイルを取り出し目を通す。
 そこに書かれていたのは…やはりAPTX4869の成分。
 それを確認するとKIDはファイルを閉じ、静かにお得意のマジックでそれを消してみせた。


「それでは…私はこれで」
「ええ、貴方の大切な人が助かる事を祈ってるわ」
「…ありがとうございます。貴方も…お気をつけて」


 それしか言葉が出てこなかった自分に心の中で苦笑する。
 こんな危険な場所の中核にいる彼女に何を気をつけろと言うのか…。


「ええ、ありがとう。貴方も気を付けてね…大切な人を悲しませないためにも」


 けれど、去り際に言われた一言は酷く優しい物だった。

 それは彼女だからこそ…残された者の言葉だからこそ素直に心に染み込んだのかもしれない。
 残される者の痛みを知っているからこそ…。















 数秒とかからず研究室を後にしたKIDは直ぐに外していたスピーカーを耳に付け直す。


「名探偵?聞こえますか?」
『ああ、聞こえてたよ』


 全部な…、と静かに呟かれた。


「これから資料を持って帰ります。ですから…」
『なぁ…KID…』
「何ですか?」


 ふいに戸惑いがちに呼ばれた名前。
 それは彼らしくない行動だった。


『お前は…俺が先に居なくなったらどうする?』
「名探偵…」


 それはふいに投げ掛けられた問い。

 彼を失ったら自分は…。


「追うでしょうね…貴方を」

 もう貴方しか見えていませんから。

『なら、彼女は何故そうしなかったんだろうな?』
「……きっと同じ思いをさせたくなかったんですよ」


 それは失った者のみが知っている思い。
 残される者の…痛み。

 それを味あわせたくない者がきっと居たのだ彼女には。


『そうか…』
「名探偵。なら私の質問にも答えて頂けますか? 貴方は私が先に居なくなったらどうなさいます?」
『………居なくなり方による……』


 少し考えた後に慎重に続けられた言葉。
 それをKIDは彼らしいと思う。

 『探偵』の彼らしいと。


「そうですね…今一番可能性が高いのは…追っ手に撃たれる事ですかね…」


 自嘲気味な笑みを浮かべつつ、冗談にもならない事を言う。
 それは明日には起こり得るかもしれない現実。

 だからこそ知りたかった。
 彼の本音を…。


『捕まえるさ、その犯人を』


 紡がれた答えは彼が根っからの探偵である事を告げていた。
 それは、いつ何時でも探偵で有り続けようとする彼の本心。


「貴方らしいですね」


 ついつい、彼の答えに笑みが零れる。


『……でも、その後は解らないな』


 しかし、続けられた言葉はKIDの予想外の物だった。


「名探偵…?」
『お前を失って生きていける自信は俺にはない』


 静かに告げられた彼の本心。


「……新一」


 その言葉に、KIDはどうしても呼ばずにはいられなかった。
 彼の本当の名前を…。


『……だから帰って来い、いいな』
「…はい」


 どれだけの想いを込めて彼がそう言ってくれたのか解ったから。
 彼の為に…自分も守らなくては、そう改めて決意する。


(貴方の為に…生き残らなくてはいけませんね)


 彼女の様な悲しみをこの彼には与えたくないから……死ねない。


「名探偵…私からも一つだけお願いしてもいいですか?」
『何だ?』
「貴方も私の元に帰って来てください…必ず」


 それは『探偵』の彼にとっては決して言うまいと思ってきた言葉。
 常に死と隣り合わせの世界に居る自分達だからこそお互い言えなかった言葉。


『………それは約束できない。…努力はしてやるけどな』


 最大限の譲歩。
 お互い何時死ぬか解らない仕事をしていて。

 何時何処で行方が解らなくなるかもしれなくて。
 それを解った上での「努力はしてやる。」の言葉にKIDはらしくもなく目頭が熱くなるのを感じていた。


「なら…私も努力しますよ」
『だったら早く帰って来いよ』


 帰ってきたら一番最初に『工藤新一』に合わせてやるから。


「ええ。直ぐに帰りますよ愛しの名探偵殿」


 そう言ったのを最後にKIDはいっきに階段を駆け上がった。
 自分を待っていてくれる一番大切な彼の元へ帰る為に…。








 人は何故願うのだろう

 それが叶わない望みであると知りながら…

 人は何故望むのだろう

 自分を犠牲にまでして…

 それはきっと

 自分よりも大切な何かを見つけてしまったから…









END.





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