どうしてだろう
彼を想う気持ちも
彼が大切な気持ちも
最初と何一つ変わらないのに
ただ二人の関係だけが
こんなにも変わってしまった
現実は小説よりも奇なり【前編】
―――ガチャッ
扉を閉め、ドアノブを握ったままで快斗は瞳を閉じると扉に額を軽くぶつけた。
何も、考えたくなかった。
ここから動きたくなかった。
彼の為、彼が心配だからここまで来た。
けれど結果的にはより彼を苦しめてしまっただけだった。
心配だった。
純粋に。
助けたいと思った。
心から。
でもそれは、唯単に自己満足以外の何物でも無く、彼を泣かせた。それだけだった。
「っ……!」
ドアを叩き付けようと右手を振り上げた所で押し留めた。
このままドアに手を叩き付けてしまえば彼にその音が聞こえないとも限らない。
そんな音聞かせたくもなかった。
「くそっ…」
どうしようもない苛立ちと。
どうしようもない悔しさで涙が溢れた。
自分に無く資格など無いのは分かっていた。
けれど涙は止められず、零れ落ちた。
足に力が入らない。
頭に血が上っていくのが分かる。
本当ならその場に蹲って泣いてしまいたかった。
けれどもし、新一が俺の姿を見ればまた嫌な顔をするだろう。
力の入らない身体を引き摺るように快斗は工藤邸を後にした。
「あらあら…折角口実を作ってあげたのに…」
そんな新一と快斗の様子を紅子は苦笑しながら見守っていた。
折角彼が彼の元へ行ける様に口実を作ってやったというのに…全く、どうしてそれを生かしきれないのか。
「いきなり魔女なんて言って信じてもらえる筈ないって分からないのかしら…」
その当事者であるとは思えない問題発言をして、紅子は近くの青い液体が入った小さな小瓶へと手を伸ばした。
キュッと蓋を開け、一滴をぽたっと近くの小皿へ垂らすとその皿を近くに居た鼠へと差し出してやる。
その青い液体を舐めた鼠は数秒程痙攣すると、ぱたりと倒れて直ぐに動かなくなった。
その様子にクスッと紅子は満足そうに笑う。
「全く…世話が焼けるわね…」
どれぐらいそうしていたのだろう。
光に耐え切れず目を細めながら顔を上げる。
気付けばもう、日も随分と高くなっていて。
回らない頭でも、もう時間が大分経ったのだと分かった。
「………」
徐々に光に慣れて来た目に最初に飛び込んで来たのは、彼に淹れた珈琲。
彼がこれだけは置いていった、彼専用のマグカップ。
それを無造作に掴むと、新一は中身を流しへと空け、そのカップを感情のまま床へと叩き付けた。
―――ゴトン
マグカップは鈍い音を立てて、床に転がる。
厚みのあるそれは割れる事も無く、欠ける事すらなく、床にただ転がった。
「っ……」
割れる事のないそれに余計に苛立って、新一はもう一度同じ事を繰り返す。
けれど、結果は同じだった。
割れてはくれないマグカップが、消えない彼への想いと同じ様で。
吐き気にも似た感情がせり上がってくる。
「………割れればいいのに…」
割れて、砕ければいいのに。
自分の感情なんか――自分なんか、消えてなくなれば―――。
―――ピーンポーン
マグカップを見詰めたまま、考えていれば、軽快にチャイムが鳴った。
その音にビクっと反応する。
彼である筈がないソレに。
「………」
出る気もなかった。
出られる筈がなかった。
もう何もかも嫌で、何も考えたくなくて、その場にぺたりと腰を下ろした。
――ピンポーン。ピンポーン
それでもチャイムは鳴り続ける。
何度も何度も。
嫌でも出ろという様に。
「るせーよ…。早く帰ってくれ……」
蹲って、膝に顔を埋める。
耳に手を当てて、塞ぐ。
闇の中、それでも微かに響いてくるチャイムの音が煩かった。
……………。
暫くして、チャイムの音が聞こえなくなった。
それに漸く安堵して、新一が手を下ろし、顔を上げた所で…、
「なっ…!」
「ごめんなさいね。本当はきちんと玄関からお邪魔しようと思ったのだけれど貴方が出てくれなかったから…」
目の前に一人女性が立っているのに漸く気付いた。
その存在に新一は何度か瞬きして、それからじっとその女性を見詰めた。
「ど、何処から入って…」
「そうね…。ちゃんと説明した方がいいのかしら? でも貴方の頭では受け入れられないと思うわ」
「……どういう意味ですか?」
「私、魔女なの」
「………は?」
そういう彼女の格好は確かにちょっと、ソレっぽいと言えばソレっぽい物で。
だからと言って新一も「はいそうですか」と納得出来る筈がない。
「魔女って…貴方もしかして、快斗の知り合いですか?」
「ええ、そうね。私は黒羽君の知り合いよ」
「っ…。それなら貴方も快斗から言われて俺の事からかいに来たんですか?」
どこまでやる気だと。
彼なら確かに何もないところから女性を一人出してくるぐらいの事は出来るかもしれない。
ぎりっと奥歯を噛み締め、何とかみっともないところを晒すのは押さえる。
彼女が彼の知り合いならば、新一を馬鹿にする為に組んだとしても筋は通る。
そこまでするなんて思っていなかったし、思いたくない。
けれど考えられるのはそれしかなかった。
厳しい眼で見詰めてくる新一に紅子はクスッと笑みを漏らした。
「違うわ」
「えっ…?」
「貴方が思っている事と現実は大分違うの。貴方がただ勘違いしているだけ」
「……一体どういう意味ですか?」
「そうね…。どうしたら私が魔女だって信じてもらえるかしら?」
クスクスと、笑いながら紅子は楽しそうに新一に尋ねる。
それに新一はきゅっと眉を寄せ、不機嫌そうにぶっきらぼうに呟いた。
「貴方が本当に魔女だって言うのなら…今すぐにここで箒にでも乗って飛んでみて下さい」
「あら、そんな事で信じてもらえるの?」
ホホホ…と笑って、紅子は何もない所から箒を取り出すと、それに優雅に横乗りして新一に微笑む。
「これで信じて貰えるかしら?」
そう言った瞬間には、もう彼女の身体は工藤邸の高い天井ギリギリの所に存在していた。
「……仕掛けを作ったのは快斗ですか?」
「…あら、信じてくれるんじゃなかったの?」
話しが違うわ、と非難めいた言葉を紡いでも紅子の微笑みは消えない。
それに新一は背筋にゾクッと冷たい物が這い上がるのを感じた。
けれど、まさかこれで彼女が魔女だなんて馬鹿馬鹿しい事を認める事は出来なかった。
「十分に発達した科学技術は魔法と区別できない…」
「…アーサー・C・クラークね」
「快斗のあのIQ400の頭脳を使えば、やってやれない事はないと思いますが?」
「………思ったよりも頑固者なのね」
全く、仕方ないわ。
そう言って紅子はゆっくりと降りてきた。
「それなら、否定出来ない証拠をあげる。付いてらっしゃい」
ぱっと箒を瞬時に消してみせ、紅子はすたすたと歩いて行ってしまう。
その後を慌てて新一も立ち上がって追おうとした。
けれど、立ち上がる一瞬眼を伏せ、次に彼女の姿を捉えようと顔を上げた時にはもう彼女の姿は其処には存在していなかった。
「なっ……ど、何処に……」
『早くいらっしゃい。二階のベランダよ』
頭に直接伝わってくる声に寒気がした。
耳から聞こえたのではない。
脳に直接響いたとでも言えばいいのか…。
「な、何だよ…これ……」
正直に言えば訳が分からなかった。
けれど、声に言われるままに仕方が無いので二階のベランダへと上がった。
そこには先程の彼女の姿があった。
「一体どういう仕掛け、ですか?」
「まだ疑ってるのね」
「当たり前です」
「……でも、そろそろ信じてくれないと私も困るのよ。だから………」
仕方ないけど、大サービスよ?
そんな声が聞こえた。
それが耳から直接聞こえた音か。
それとも脳に響いた音なのか。
正確に判断は出来なかった。
正直それどころではなかった。
何たって――――目の前に居た筈の彼女が箒に跨って、街の上空を飛び去って行ってしまったのだから。