ああ、空が

 綺麗な綺麗な群青色だ…










 群青日和










 雲という雲が皆無の青空。
 世の中の全ての柵から解放されたかの様に広がり続ける空。
 その色が彼の瞳の色に見えた。


 けれども全ての事に始まりと終わりがある様に、その色も永遠ではなく、徐々に闇に侵食される。
 綺麗な綺麗な群青色が徐々に暗く深い闇の黒へと移り変わる。
 ソレはまるで―――自分の心の様だった。















「こんばんは。名探偵」


 周りを包む空気が完全に闇に支配された頃、待ち侘びていた人物が目の前に現れた。

 何時も思う。
 一体どうやってコイツは此処に現れるのだろうと。

 窓や、ドアから入ってくるのなら解る。
 なのにコイツは何時も何時も自室の真ん中に突如出現する。
 白煙と同じ白を纏って。


「何の用だよ、怪盗」
「連れないお言葉ですね」


 連れないも何もないと思う。
 大体探偵が連れてどうする。


「まあそれも名探偵の魅力の一つなのでしょうが」


 クスッと笑うその動作さえ舞台の上に立っている役者の様。

 全てが作り物。
 全てが幻。

 見せ付けられて、あてられて嫌になる。
 気分が悪くなる。


「煩い。俺は何の用かと聞いてるんだ」


 だから多少口が悪くなるのは仕方ない。

 目の前のコイツが悪い。
 全てはコイツが悪い。


 睨み付けても肩を竦められるだけ。
 それでも、多少の効果はあったようで、やれやれといった感じながらも怪盗は一つの小箱を何処からともなく取り出し、俺に差し出してきた。


「これは?」
「さあ?開けてみれば解るのではありませんか?」
「………」


 差し出された箱は木製の立方体の宝石箱の様な物だった。
 目測でだが大体10センチ四方。

 それを受取って、箱の蓋部分に施してある細工に見惚れる。

 綺麗に描かれた薔薇。
 その薔薇と蔦が幾重にも絡まり、蓋周辺を這っている。


「どうしました?名探偵」
「……お前が開けろ」


 けれど、その美しさに目を奪われたのも一瞬。
 次に気付くのは危険性。

 目の前の怪盗は人を傷付けない事で有名だ。
 だからといって怪盗から差し出された物を素直に開けるのは危険。

 だって何が入っているのか解らないのだから。


「それは出来ない相談ですね」


 受取った箱を怪盗につき返そうとしても、やんわりとかわされる。
 当然手の中から箱が消える事はない。


「どうしてだ?」
「貴方に開けて頂きたいからですよ」


 にっこりと微笑まれて、無性に腹が立った。

 コイツ程読めない人間は居ない。
 探偵の自分でも目の前のこの人間は解らない。


「俺に開ける義務はない」
「存じております」
「だったら持って帰れ」
「それは出来かねますね。それは貴方への贈り物ですので」


 ムカつく事この上ない。
 はっきり言って、今すぐにこの部屋から蹴りだしてやりたいぐらいだ。

 けれど、そう思ってもどうしてか実行は出来ないのだけれど。


「だったら捨てる」
「どうぞお好きに」


 ぶっきらぼうにそう言って、本当にゴミ箱へ向かっても目の前の相手が焦る事はない。

 どうしたらコイツの上辺ポーカーフェイスを崩せるのか。
 どうしたらコイツの本性すがおが見られるのか。

 幾ら考えても、無理で無駄な様な気がした。


「ほんとに捨てるからな!」
「名探偵に差し上げた物です。名探偵のお好きな様になさって下さい」
「っ……」


 どう足掻いても勝てる気がしない。

 こんな気分になったのはコイツが初めてだった。
 こんな気分にさせられるのはコイツだけだった。


「開ければいいんだろ!開ければ!」


 何だかこのまま捨ててしまっては彼に負ける気がして、意地になってそう言って、その箱を開いた。


「これ…」


 中から出てきたのは綺麗な綺麗な青色の宝石。
 赤いビロードの上に乗せられたそれは、部屋の明かりを借りて煌びやかに輝く。


「お気に召して頂けましたか?」


 微笑まれたままほんの少し首を傾けられて、思わず頷きそうになったけれど、寸前で留める。
 そして、全てを拒絶するかの様に箱の蓋を閉じた。


「盗品に興味はない」
「おやおや。名探偵ともあろうお方が証拠もないのにそう決め付けるのですか?」
「怪盗から、しかも宝石を専門に盗んでいるお前から渡された物が盗品でない可能性の方が低いと思うが?」
「確かに、それはそうですね」


 嫌味以外の何物でもない言葉にすら怪盗の表情は崩れる事はない。
 それどころか余計に笑みを増している様にすら感じる。


「解ってるなら持って帰れ」


 再び彼にその箱を差し出した。

 一瞬ではあったがその宝石に見入ってしまった自分が悔しかった。
 一瞬といっても彼に魅入られた自分が情けなかった。

 けれど彼はそれを受取ろうとはしない。


「先程も言った筈です。それは出来かねる、と」
「煩い。俺は受取る気はない」
「それならばどうぞお好きな様に処分なさって下さい」
「っ……」


 変わる事のない相手の表面かお
 これではまるで自分が道化の様。


「これが…これがもし盗品でないというなら貰ってやる」


 苦しくて、苦しくて。
 だからそれだけ言うのが精一杯。


「勿論盗品ではありませんよ。名探偵への贈り物ですから」

 それに私が盗む宝石はビックジュエルだけ。それは貴方もご存知でしょう?

「…解ったよ」

 確かにお前が盗む宝石はビックジュエルだけだったな。


 怪盗の言葉に、探偵は内心でホッと一つ溜息を吐いた。

 本当は受取りたかった。
 本当は欲しかった。

 だって、誰よりも……。


 とりあえずは怪盗の言葉を信じる事にして、再び箱の蓋を開ける。

 再び外気にさらされた青。
 それはまるで――。


「――今日の空みたいだ」
「!?」


 ごく自然に出た言葉。

 今日の空は綺麗な綺麗な群青色だった。

 その色はまるで彼の瞳の様で。
 その色はまるで彼の心の様で。

 だから普段空など見詰めないのに、柄にも無く空を見上げ、気付けば時が過ぎていた。


 何ともなしに発した言葉。
 けれどその言葉に目の前の怪盗が目を見開いて固まっている事に気付いた。

 常に貼り付けられているポーカーフェイスはそこにはなくて。
 あったのは、唯の驚愕。


「どうかしたのか?」


 珍しいそれに目を奪われつつ、ことんと首を傾げれば、我に返ったのかぎこちないポーカーフェイスが再び彼の顔に張り付いた。


「いえ…貴方が空を、今日の空を見上げているとは思っていなかったものですから」
「俺が空を見上げているのはそんなに不自然か?」
「いえ…そういう訳では…」
「じゃあどういう意味だよ」
「それは……」


 珍しく言葉を詰まらせた怪盗を嘘偽りを許さない蒼が見詰める。

 常日頃現れる怪盗は胡散臭い程に饒舌で。
 常日頃現れる怪盗は嫌味なぐらいに思い通りに事を運んでいて。

 こんな風に答えに、言葉に詰まる事などない。
 だとすれば、これは彼にとって予想外過ぎる事態なのだろう。

 そう納得して、新一は不思議と気持ちが浮上していくのを感じていた。

 常の彼は憎らしい程に余裕綽々。
 『平成のアルセーヌ・ルパン』の名は伊達ではない程に気障で紳士で、華麗。

 その彼が今自分の目の前で、余裕も何もなくした普通の人間で在る。
 その事が酷く嬉しい。


「それは?」


 まるで虐めっ子の様な口調だとも思ったけれど、止める事など出来なかった。


「それは…」
「言えない、なんて言わないよな?」
「………」


 子供染みた感情。
 小学生の子供が『好きな子程虐めてしまう』というアレに近いのかもしれない。


「さっさと言えよ。俺だって暇な訳じゃない」
「………」
「言えないなら帰れ。帰る気がないならさっさと答えろ」
「貴方も…見ているとは思わなかったんです」


 漸く搾り出された答え。
 けれど今一つ的を得ない。


「どういう意味だ?」
「今日の空は綺麗な群青色でした」
「ああ。そうだな」
「雲一つ無く綺麗で、まるで無限に広がっている様な錯覚さえ覚える程に」
「……ああ」


 限りなく広がっている様に見えた群青色の空。
 それはまるで…。


「今日の空を見た時、まるで貴方の瞳の様だと思ったんです」
「!?」


 怪盗の言葉に今度は探偵が固まった。


「だから、ソレを今日貴方にお渡ししたくて…」


 群青色の綺麗な空を見て、貴方を思った。
 群青色の綺麗な空を見て、綺麗な綺麗な貴方の瞳を思った。
 こんなモノでは輝きは足りないけれど、それでも贈りたいと思ったから。
 だから今日この日貴方の許へ伺ったんです。


 まるでドラマの中の台詞の様だと思った。
 それが様になるのだから相当なのだと思った。


「貰えない…」


 けれど、口をついて出たのは拒絶の言葉。


「名探て…」
「貰えない」


 自分を呼ぼうとした彼の言葉すら遮って、彼に持っていた箱を押し付けて、反射的にそれを受取った彼に咄嗟に背を向けて、逃げ出そうとした。
 それは完璧な拒絶。


「待って下さい!」


 それでも逃げ様とした身体は彼の腕に捕らえられ、逃げ出す事は叶わなかった。


「離せ!」
「嫌です」
「煩い!さっさと帰れよ!」


 逃げられないと解っていても逃げ様と彼の腕の中で足掻く。
 足掻けば足掻く程彼の腕に籠められる力は強まっていくばかりなのに。


「名探偵。私は何か貴方のお気に触る事を言いましたか?」
「っ…」
「言って下さらなければ解りませんよ?」
「煩い!」


 何も聞きたくない。
 何も言いたくない。

 見せ付けられた、突き付けられた現実から逃げたくて、ぎゅっと目を瞑り叫んだ。


「お前には関係ない!」
「名探偵」
「お前には…関係ない……」


 堪える事など出来なかった。
 留める事など出来なかった。

 抑えきれない思いは、壊れそうな程抱えきれない痛みは、透明な雫となって零れ落ちた。


「お前、には……何の…何の関係もない……」


 徐々に涙声から嗚咽へと変わっていくのも解った。
 みっともない事も解った。

 けれど一旦箍が外れてしまえばそこから堕ちていくのは簡単だった。


「関係、な…いんだ……」
「名探偵」


 酷く優しく名前を呼ばれて、気付けば彼の胸に完璧に抱きこまれていた。


「関係ない筈がないでしょう?」


 今このタイミングで叫んで。
 今このタイミングで泣き出して。

 どうして関係ないなんて思えるだろう。

 そんな事自分にだって解っていた。
 隠し切れないのも解っていた。

 でも出来るなら見ない振りを、関係ない振りをして欲しかった。


「関係、ない……」
「名探偵」
「かん、けい…ない……」


 優し過ぎる声の響きに、温か過ぎる温もりに、涙が余計に止められなくなった。
 優しい彼の胸に縋りついてしまった。


「名探偵。関係ないなんて仰らないで頂けませんか?」
「でも…」


 本当に関係ないのだ。
 怪盗は、彼の行動は何も関係ない。
 これは自分のなかの問題。


「そんな風に拒絶されてしまっては私はどうしたらいいのか解らなくなってしまうんですよ」


 声に混じる響きに顔を上げ、涙に潤む瞳で彼を見詰めれば、そこには苦笑を浮かべている彼がいた。


「貴方にそんな風に拒絶されてしまっては私はどうしていいのか解らないんです」


 穏やかで今日の空の様に無限に広がり続けている藍。
 ともすれば吸い込まれそうなソレに見入っていた。


「ですから、教えては頂けませんか?」


 ―――貴方の内に秘められた思いを。


「………俺は…」


 藍が揺れる。
 心が壊れる。

 枷が…外れていく。


「俺は…そんな綺麗な人間じゃない…」


 そう、自分は綺麗な綺麗な今日の空に喩えられる程お綺麗な人間じゃない。

 この姿に戻る為。
 元の生活に戻る為。
 組織を潰すと言う大義名分の下に、何人もの人間を殺した。

 自分の手が血に塗れている事も。
 自分の心が暗く澱んでしまった事も。

 きっと自分が一番よく分かっている。


「名探偵…」


 抱き締められていた腕に力が籠められる。
 瞬間、視界が暗くなったところで彼の胸に深く、痛い程に抱き込まれた事に気付く。


「すみませんでした」


 次いで聞こえたのは謝罪。
 そして耳に聞こえてくる彼の鼓動が少しだけ早くなっているのを感じた。


「すみませんでした…」


 繰り返された言葉に内心で首を傾げた。

 ワルイノハジブン
 ナノニナゼオマエガアヤマル?

 解らないままに唯混乱したまま再び顔を上げれば痛々しい程に傷ついた色を湛えた藍。
 その色に自分まで辛くなる気がした。


「どうしてお前が謝る?」
「私が貴方にあんな事を言ってしまったから…」


 『あんな事』そう言われて、頭の中のもう一人の自分が冷静にソレの事か、と理解する。

 けれどソレは唯の切欠でしかなく。
 常に自分の中にあった思いがその切欠で思い出されただけ。


「別にお前が謝らなきゃいけないことじゃない」
「でも…」
「これは…俺が乗り越えなければいけない問題だ」


 毎夜夢に見る。
 自分が殺した人間の最期を。

 毎夜夢に見る。
 血に染まっていく自分の手を。

 死にたいと思う事など幾らでもあった。
 けれどそれは出来なかった。

 自分が死ねばいい、そんな安直な考えで済むものではなかったから。


「これは、俺自身が乗り越えなければいけない問題なんだ」


 そう、自分自身が乗り越えなければいけない問題。

 壊れても。
 崩れても。

 自分自身が犯した罪は認めなければならない。


「………名探偵は本当に強い方なんですね」


 少しの間の後に返された言葉。
 穏やかな藍が深い優しさを湛えていた。


「どういう意味だ?」


 怪盗の言う『強い』の意味が解らず、新一は怪訝そうな顔を浮かべる。

 自分は弱い人間だ。
 だからこそどうする事も出来ずに、唯一人でうじうじ悩んでいるだけ。


「貴方は自分の犯した罪を真正面から受け止めて、それを乗り越えようとしている。
 貴方は本当に強い方なんですよ」


 再度言い聞かせる様にそう言われて。
 新一はじっと彼の瞳を見詰めた。

 視界一杯に彼の藍が広がる。
 綺麗な綺麗な空の色。


「私にはそんな真似は出来ない」
「キッド…」


 その藍が揺れる。
 深く深く暗い闇に侵食される。


「私は所詮この衣装で、この姿で、全てを包み隠しているだけ。私は…弱い人間なんです」


 深く暗い闇に飲み込まれる。


「そんな事無い!」
「名探偵…?」


 気付けば叫んでいた。
 彼を、あの藍を繋ぎ止めたくて。


「お前は…お前の方こそ強いんだ。偽りの姿で、偽りの名前で全てを…周りの人間を守っている。
 俺は耐え切れなかった。自分が自分でなくなっていく事に…」


 『江戸川コナン』
 そう呼ばれる度に自分の存在がまるで幻の様に思えた。

 だから、壊れる前に崩れてしまう前に、自分の本当の姿を取り戻す事にした。
 何を犠牲にしても…。

 その自分だからこそ思う。
 偽りの姿で、罪を犯し続ける彼はどれだけ強いのだろうと。


「お前は…強いんだよ」


 偽りの姿で罪を犯し。
 偽りの名を呼ばれて。

 けれど、壊れる事も穢れる事も無く唯周りを優しく騙し続ける孤高の犯罪者。

 彼が強くなくて誰が強いと言うのか。
 彼が弱いとすれば強い者など存在し得るのか。


「お前は…大丈夫だから……」


 『大丈夫』なんて唯の気休めに過ぎない事は解っていた。
 けれど、彼にこそ、今の彼にこそその言葉は必要な気がして。


「お前は大丈夫だよ…キッド」


 自分を見詰めていた藍が徐々に輝きを取り戻す。
 闇が…消えていく。


「有り難う御座います……」


 小さく小さく響いた言葉。
 藍に混じる透明な雫。

 それはさっき貰った宝石よりも、ずっとずっと綺麗で―――。



 ―――気付けば、その雫に唇を寄せていた。




「!?」
「泣くなよ。涙は全部終わってからに取っとけ」
「……はい///」


 崩れ落ちたポーカーフェイスと、色付いた頬に探偵は満足そうに微笑んだ。










 何時か全てが終わったら、一緒に空を見に行こう

 高い高い山に登って

 綺麗な綺麗な空を君と一緒に見上げよう

 きっとその瞳に映った空は

 綺麗な綺麗な群青色をしている筈だから…










END.

すいません…一杯一杯ですι←のっけから謝罪かよ;
甘いのが書けない時に無理に甘いものを書くもんじゃない…。しかも最後が…(遠い目)
間を空けて話しを書いてはいけないとひしひしと感じました…;


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