口にすればそれは
 甘美な苦みに変わる

 甘く甘く
 死を含む美酒

 その苦味に
 怪盗はただ微笑んだ










 毒の華









 口に含んだ瞬間、目の前で彼は嗤った。
 小さく、けれど『ククッ…』と確実に新一に聞こえる形で。


「何が可笑しい?」
「いや、何処でばれたのかと思ってね」


 嗤った口元を隠そうともせず、快斗はワインの入ったグラスを傾けると残りの液体を迷わず嚥下した。
 それに僅かだが新一が目を見開く。


「……気付いたのに飲むか? 普通…」
「おや、普通って言うけど、新一君こそ普通恋人に毒入りのワインを飲ませる?」


 相変わらず快斗の口元は嗤ったままだ。
 それを口元に張り付けたまま、ワインボトルへと視線を向け、次いで新一のグラスへも視線を投げた。
 その視線に気付いた新一が右手で自分のグラスを持ち上げる。
 その仕草を快斗はただ見つめていた。


「それは?」
「さあ。どっちだろうな」


 言いながら新一もまた快斗と同じ様に残りの液体を嚥下して見せる。
 ぺろりと舌で唇を舐め取れば、目の前の顔が楽しげに嗤った。


「良い趣味してるよ、ホント」
「お前に言われたくない」
「そうかもね。で、……」


 わざとらしく言葉を切った快斗が新一を真っ直ぐにジッと見詰めた。










「何処で気付いた? 名探偵」










 顔も、髪型も、服装さえも何も変わっていない。
 ただ変わったのは彼が持つ空気だけ。
 それでもそれだけで、分かる。


 彼が―――かの有名な怪盗なのだと。



「……正直、悔しいぐらい分かんなかったよ」


 付き合って一年七ヵ月と数日。
 悔しいぐらいに相手はボロを出さなかった。
 数ヶ月前のあの一件。
 アレが無ければ新一とて、もしかしたら永遠に騙され続けていたのかもしれない。


「…って事は、やっぱり“アレ”か……」


 怪盗も違う事無くそれに思い当たり苦笑を漏らした。
 そうしてワインボトルを手に取ると、その中身をドボドボと己のグラスへと注いだ。
 躊躇う事無く再度そのグラスに口を付けた怪盗に新一は眉を寄せた。


「……死にたいのか?」
「生憎とこの程度の毒じゃ死なない。その辺も調査済み、だろ? 名探偵」
「………」


 ばれている。全部。
 だとしたら、………尚更解せない。


「何か言いたそうだね?」
「…お前、何であんな単純なミスした?」


 そう、アレは余りにも単純で愚鈍なミスだ。
 ケアレスミス、と呼ぶにも余りにもお粗末な出来。
 そしてその後も完全にお粗末過ぎてお話にならない。


「必死だったんだよ。大事な恋人を救うのにね」
「…怪盗に大事な恋人扱いされる日が来るとはな」
「酷いね。恋人が実は怪盗だった、って分かったら簡単に愛情なんて冷めるんだ?」


 鼻で笑う様にそう言って、また怪盗はワインを優雅な動作で口に運ぶ。
 まるで極上の美酒でも飲んでいる様に笑いながら。


 数ヶ月前のあの一件。
 新一が警視庁前で待ち伏せていた人間に刺されかけた一件。
 その人間がその前日新一が事件の犯人として捕まえた人間の婚約者であったとか、その女性には既にお腹に子供が居たとか。
 正直そんな事はどうでも良かった。
 ただ―――あの時、新一を迎えに来ていた快斗は新一に手を伸ばしながらこう叫んだ。





『逃げろ! 名探偵!!』





 それが決定打。
 それからは、それまで気付かなかったのが馬鹿だと思わされるぐらい分かり易かった。

 犯行日になると当たり前だが確実に出かける彼。
 マジックショーの準備だと言って作っている明らかにショー用ではない道具類。
 犯行日に出掛け先から帰ってきた彼から微かに香る硝煙の香りと、嗅ぎ慣れた血の香り。

 どうして今まで気付かなかったのか、己のおめでたさに頭が痛くなる。
 恋は盲目、とは良く言った物だ。


「…恋人が実は怪盗だった、って知ったら騙されてたって思うだろ? 普通は」
「名探偵に“普通”を説かれても説得力皆無だけどね」
「お前よりはマシだ」


 言い放って、怪盗の手からワインボトルを奪い取ると新一もまた同じ様に自分のグラスへと注いだ。
 そして再びそれに口を付ける。
 そこで―――怪盗の眉が寄った。


「名探偵こそ死にたい訳?」
「さあな」
「………」


 推し量る様に怪盗がジッと探偵を見詰めた後、もう一度新一がグラスを傾けようとした所で怪盗の手が新一の手を掴んだ。


「何だよ」
「…もう止めとけ」
「お前には関係ない」
「目の前で人に死なれるのには、お前と違って慣れてねえんだよ」


 力を籠めてグラスを引こうとする探偵と、それを必死に押し留める怪盗の間でグラスの中の赤い液体がゆらゆらと揺れる。
 それがグラスの淵を超える寸前で、諦めた様に新一が溜息を吐いた。


「わあったよ。とりあえず離せ。零れでもしたら絨毯が汚れる」
「…そこで絨毯の心配かよ」
「コレ、母さんの趣味で高かったんだよ。汚したら俺が殺される」
「お前ねぇ…、死ぬか死なないかの瀬戸際で絨毯の心配かよ。お坊ちゃんなら自分の命の方の心配をしろ」
「だからしてんだろ。母さんに殺されるって」
「…もっと他に心配するとこあると思うけど」


 新一の言葉に怪盗も溜息を吐いて肩を竦めると、漸く掴んでいたその手を離した。
 乗り出していた身体も元の位置に落ちつけて、真正面のテーブルを挟んで新一に目を細める。


「で、何でこんな真似? 俺が死ぬとも思えないこんなちゃちな葡萄酒ジュースでさ」
「じゃあ、もっと刺激的な蒸留酒アルコールでも用意した方が良かったか?」
「いや。流石に俺にも限界はあるし、俺もまだ『お子様キッド』だしね」


 ひらひらと手を振ってノーの意思表示をした怪盗は楽しそうにまた自分のワインへと口を付ける。
 さっき並々と注いだ二杯目は、もう既に三分の一程度しか残っていない。

 残りのワインに視線を走らせ、新一の視線は再度ボトルへと注がれる。

 このボトルは一般的なサイズの750ml。
 一杯目を注いだのは新一だった。
 その時は香りを楽しめる様に空間に余裕を持って入れたから、一杯辺り大体100ml〜150ml程度。
 少し多めに見積もって150ml計算をすれば、新一が今の所150mlと少し、快斗が大体250mlぐらい。
 残りを大体300mlとするのなら…。


「致死量の計算でもしてた?」


 ボトルを熱心に見詰め過ぎたか。
 言われて視線を快斗へと戻せば、既にグラスの残りの三分の一を飲み干した快斗が嗤った。


「だとしたら?」
「さて、問題です。大よそ二杯分程度の残りのワインは誰が飲むべきでしょう?」
「……死にたい方だろ」
「正解。でも、不正解だよ名探偵」


 そう言って、怪盗はおもむろにボトルを掴むと残り全部を並々と己のグラスへと全て注いでしまった。
 ワインに合わせて大分大きめのグラスにしたのが失敗だった。
 舌打ちする新一の前で、怪盗は少しだけ重そうにグラスを持ち上げ中身が零れない様に口の方をそのグラスへと近付けた。

 さながら餓えた吸血鬼が血を啜る様だと、馬鹿みたいに思う。
 真っ白なあの衣装を思い描けば、それが異常に似合う気もした。


 そうして怪盗がこくりと一口飲んだ瞬間、










 ―――ガシャン










 新一の手によって怪盗の手から弾き飛ばされたグラスが絨毯より先のフローリングに転げ落ち、音を立て割れた。
 怪盗の手からは零れ落ちたワインが血の様に滴り、腕も腹も股も足も全て血に染まった様に濡れていた。
 勿論……絨毯も。


「………名、探偵……?」


 流石に予想外だったのだろう。
 目を見開いて、グラスを持っていた状態そのままに手を少し上に上げたまま固まっている怪盗に新一は溜息を吐いた。


「お前こそ不正解だ。……どっちも、……飲むべきじゃねえよ」


 浮かせた腰をどっかりと絨毯の上に着くと、新一は天井を見上げた。
 柄にもなく詰めていた息をもう一度深く吐き出す。
 そして、目を閉じた。
 瞼の裏の蛍光灯の光が目を閉じてなお眩しい。


「……名、たんて…」
「新一」
「え…?」
「だから、“新一”」
「……えっと、あの……新一……」
「何だよ」


 不機嫌に言えば、渋々己の名を呼ぶ声が帰って来た。
 その声に瞳開き、顎を下げ、新一は改めて快斗と視線を合わせた。


「…どういう、……事?」
「何が?」
「絨毯汚れたし…」
「ああ、んなもん業者に頼めば良いだろ。無理なら買い直せば良い」
「…何がしたいんだよ」


 深々と溜息を吐いて、ワインが未だ付いた手だというのにソレにすら忘れた様に頭を抱えた快斗に、新一は小さく嗤った。


「お前が悪い。俺がいつ『恋人が実は怪盗だった、って分かったから冷めた』なんて言ったんだ?」
「……でも、普通毒入りワインなんか出さねえだろ。こんなの出すなんて……」


 言いかけて、端と気づいた様に快斗は言葉を切った。
 そうして視線を割れた自分のグラス、次いで新一のグラス、そしてボトルへと最後に視線を向けた後―――ガックリと項垂れた。


「そういう事かよ……」
「漸く分かったか。バ怪盗」


 そう、怪盗が理解した通りこれは唯の茶番だ。

 毒を入れ殺す気ならば怪盗のグラスにだけで良い。
 毒を入れ死ぬ気ならば自分のグラスにだけで良い。

 敢えてボトルを用意した。
 敢えて両者が飲める様に。

 そして―――最後に選択の余地を残した。




 これはちょっとした――――愛情を推し量る為の余興だ。




「……お前、ほんっと悪趣味だ」
「二年弱も俺を欺いてたお前に言われたくねえよ」


 そう、騙されていたのだ。
 だとしたらこの位の意趣返しは許されてしかるべきだ。

 きちんと事態を認識した快斗に新一は目を細めた。
 その視線を受けて、快斗は額を手で押さえながら苦笑を浮かべた。


「言える訳ねえだろ。俺が“怪盗”だなんて“探偵”のお前に」
「…じゃあ、ずっと騙してるつもりだった訳か?」
「…分かってる答えを聞く程悪趣味な事はないと思うぜ? 名探偵?」


 その為のフラグだ。
 そしてそれは既に探偵が回収済み。


「だからって…お前、何であんな時にそんな真似…」
「あんな時、だからだろ?」


 諦めた笑みを浮かべながら、怪盗は答え合わせをしてやる。
 探偵が用意している解答と違わぬ答えを。


「万が一にでもお前が死ぬかもしれないと一瞬思った時に後悔したよ。
 だから咄嗟に叫んだ。『名探偵』と。
 言っていれば良かったと、罵られても、泣かれても、伝えておくべきだったと思った」
「…俺が死なないのが分かっていても、か?」
「万が一、って言っただろ?」


 そう、あの時新一が死ぬなんて快斗はこれっぽっちも思っていなかっただろう。
 けれど、確かに快斗が言う様に万が一という可能性も無くは無かった。
 だからこその言葉。だからこそのフラグ。

 ちなみに、快斗がそんな事をこれっぽっちも思っていなかったのは意地でも新一を助ける気だったからだろう。
 現にあの時新一は快斗に庇われて難を逃れた。


「だとしたら、お前はあの後俺に告げるべきだった」


 そう、後悔したと言うのならあの後すぐに告げるべきだった。
 告げて、新一の対応を見るべきだった。

 にも拘わらず―――。


「ああ、そうだね。でも、助かった新一を見たら………急に怖くなったんだ」


 大切で大切で堪らない人をこの腕に抱き留めた瞬間、突然怖くなった。
 真実を告げればこの人をこんな風にこの腕に抱きしめる事など到底叶わないだろうと、冷静になった後は自分の失言を後悔した。

 だから―――快斗は逃げた。

 新一に何も告げる事なく、当たり前の日常を当たり前の様に繰り返した。
 いつばれるのかと怯えを含ませた瞳で新一を見詰めながら。


「俺がお前を見捨てるとでも?」
「少なくとも俺は“探偵おまえ”が“怪盗おれ”を赦せるとは思えなかったよ」


 新一から視線を外し、快斗は何処か遠くを暗い瞳で見つめた。
 額に触れる指先がほんの少し丸められる。
 護る様に、もう一方の手もその手に添えられた。


「快斗」


 その様子を数秒見つめ、新一はその名を呼んだ。
 ビクッと快斗の肩が反応する。
 その様子に、不謹慎ながらも小さく笑みが漏れる。


「ったく、お前は……。いざとなるとホント、子供みてーだな」
「……どーせ俺はお子様ですよ」


 未だ手で顔を隠したまま、不貞腐れた声が返って来た。
 それに新一はまた小さく笑う。


「知ってるよ。お前がお子様で怖がりだって事もな」
「………」
「俺がそんなに信用できないか?」
「……別に」
「恋人なら普通もうちょっと信用してくれても良いと思うけど?」
「…普通なら恋人が『犯罪者』だと知った時点で終わりだと思うけど?」
「……快斗」


 わざとらしく言った言葉に、つまらない返答で濁してきた快斗を咎める様に名を呼べば、腕の隙間からちらりと見える口元だけが小さく嗤った。


「事実だろ? 一般的には常識だ」
「…一般的には、って付けるならそれ以外も想定済みだろ?」
「…特殊例としてはね」


 笑みが消え、唇が引き結ばれる。
 真顔になった快斗の瞳は相変わらず手で隠されて見えない。
 それでもその瞳が泣き出しそうに歪んでいる事など想像に難くない。


「特殊例で悪かったな」
「新一の場合は特殊例つーか…もう、…想定外。測定不能だ」
「人を絶滅危惧種みたいに言うな」
「いや、新一はもう絶滅危惧種じゃなくて絶滅種だよ。絶滅した筈なのに、何故だか今此処に一個体だけ生存してる」
「…俺はマンモスか何かか?」
「…マンモスの方がよっぽど絶滅からの復活の可能性がありそうだよ」


 確かに化石や保存された死骸からDNAと蛋白質を取り出し、マンモスを復活させようという研究がされて………駄目だ、完全に話が逸れている。
 まんまと術中に嵌められているのに舌打ちして、体制を立て直す様に新一は首を左右に捻り、ぐるっと回した。
 そうして肘をテーブルに置くと、手の甲の上に顎を置き快斗をジッと見詰めた。


「マンモスはどうでもいい。話を逸らすな」
「おや、絶滅種に興味は無い?」
「俺が今興味があるのはお前にだ。快斗」
「……そうやって素直に言われると照れるね、何か」
「茶化すな」
「事実だよ」


 ああ言えばこう言う。
 未だに顔すら上げようとしない快斗に焦れて新一は腰を浮かせ、テーブル越しにその手を乱暴に外させた。


「…バーロ。それが照れてる奴の顔かよ」
「っ……」


 今にも泣きだしそうな顔をしてよく言うものだと思う。
 流石は怪盗。
 培った口述は伊達じゃない。でも―――。


「俺相手にそんな口述ハッタリが通じるとでも思ったのかよ」
「…思ってない」
「じゃあ、つまんねえ事すんな」
「………」


 黙ったまま新一を見詰めてくる快斗の瞳はまるで、死刑執行を待つ囚人の様な目だった。
 断罪されるのを待っている。
 その瞳に完全に力が抜けた。

 快斗の手から手を離し、再びぺたりと床に腰を付け快斗を見詰め、新一は溜息を洩らした。


「バーロ。そんな顔されたらまるで俺が別れ話でもしてる気分になるじゃねえか」
「……するつもりじゃないの?」
「する訳ねえだろ。するつもりだったらこんな面倒な事しねえよ」


 わざわざ自分の身体が耐えられるギリギリ程度の毒素の薄い毒物をお隣の女史に作らせるような真似も。
 後が怖いと思いながらも母親のお気に入りの絨毯を駄目にする様な真似も。

 別れ話をするつもりだと言うのなら、そんな手間をかける訳がない。


「これは唯のお前の沈黙に対する意趣返しだ」
「…悪趣味」
「だから、お前ほどじゃねえよ」


 先と同じやり取りをしながら互いに苦笑を浮かべる。
 そうだ、これは儀式だ。


 今まで隠れていた事実を取り去る為の、死の儀式だ。


「で、新一」
「ん?」
「ワインで濡れ鼠の俺に、せめてタオルぐらい貸して欲しいんだけど?」
「いつもみたいに“ポンッ”と出して見ろよ。平成のアルセーヌルパンさん?」


 小さく笑う。
 どちらからともなく。

 そんな風に自然にその話が出来る事が不思議で、異常な程に自然だった。


「……ったく、これからちょっと面倒だな」


 そう言って、快斗は言われた通りに“ポンッ”とタオルを出し、その身体を拭いた。
 その動作ににしゃりと新一は笑う。


「安心しろよ。これから存分にこき使ってやるから」


 便利な怪盗が漸くきちんと手に入ったと、探偵は満足そうな笑みを浮かべた。













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