いつまでこんな姿でいればいい?
いつまでこんなみっともない姿でいればいい?
いつまでだろう
俺はいつまでこんな嘘にまみれた日常を繰り返せばいいのだろう
偽りの日々
その日の天気はまるで空が号泣しているかの様に強い豪雨だった。
夜空に当然の如く星も見える筈がなく、月もその姿を分厚く薄暗い雲の奥に隠したままだった。
そんな鬱陶しい程の重い重い空をコナンは一人見上げていた。
誰も居ない部屋。
月明かりさえ差さない暗い暗い部屋の窓辺に座り、そんな鬱々とした空をただ見上げていた。
「随分と感傷的になられている様ですね」
「!?」
静寂を突然破った声にビクッと身体を竦ませて、恐る恐るコナンは声のした後ろを振り返った。
其処に佇んで居たのは強烈な白。
有り得ない程の強烈な存在感に圧迫感すら感じる。
「…キッド」
小さく震える唇から紡ぎ出された己の偽りの名にキッドは作り物めいた笑みを口の端に乗せて見せた。
「こんばんは。名探偵」
ゆったりとベッドの上に腰掛け、右足を組んでそう言った怪盗の姿は常よりは礼儀正しい物ではなく、どこか砕けた印象にもコナンの目には映った。
けれど、何の波紋すら浮かべていない水面の様な藍の瞳は鋭くコナンを見つめていた。
「何の用だ…?」
怪盗が盗みに来る筈の物などこの家にはない。
確かに著名な両親の家であるからにはそれ相応の財産が存在するが、怪盗が狙っているのはビッグジュエルのみ。
残念ながらこの家にそんな物は存在しない。
だとすれば怪盗がこの家を訪れる理由など存在しない。
「少し、雨宿りをさせて頂こうと思いまして」
その言葉にコナンは思考を巡らせてみるが今日はキッドの予告日ではない筈だ。
普段は毛利探偵事務所に居る自分には予想外にも様々な情報が入ってくる。
その情報の中には勿論彼に関する事も含まれていた。
けれど記憶を辿っても今日彼がその姿で外を出歩かなければならない理由はない。
「…今日はお前はその姿になる予定はないんじゃなかったのか?」
コナンの問いにキッドはただ薄く笑ってみせる。
返事はない。
それに苛立った様にコナンは再度尋ねる。
「何をしに来た? 此処にはお前が望む物など何も存在しない」
冷たくそれだけ言い放ち、コナンはキッドから視線を逸らすと、また鬱々とした空を見上げた。
降り続く雨は相変わらず強い音を立て、分厚い雲は相変わらず晴れる様子はない。
「思い込みだな」
「何がだ」
「此処に俺が望む物が存在しないなんて誰が言った?」
「………」
キッドの問いにもコナンは振り向かずただ空を見つめ続ける。
まるで自分の代わりに泣いてくれている様だなんて感傷的な事を言うつもりはないが、その鬱々とした天気と自分の気持ちを酷く重ね合わせている自分が居る。
コナンから答えが返ってこない事に焦れたのか、怪盗の動く気配がした。
けれどそれも目で追う事はない。
数秒の静寂の後、不意にコナンは温かい温もりに包まれた。
「離せ、こそ泥」
「さっきは俺の名を呼んでくれたのに、今度はこそ泥扱いか?」
「予告状も出さない。ビッグジュエルも狙わない。そんな今日のお前はこそ泥で充分だ」
「…手厳しい事で」
頭上から響いた苦笑すら今のコナンには不快だった。
そう、何もかもが不快だった。
自分の存在すら。
「悪いが用がないなら帰ってくれ」
「感傷的な気分になりたいから、か?」
「別に感傷的になってる訳じゃない」
「なら、どうしてこんな空をただじっと見上げてる? 面白いもんじゃねえだろ、こんな空」
「お前には関係ない」
キッドの質問に答える事なくそう言い捨てる。
それにキッドが眉を顰めたのは気配で分かったが、それに付き合ってやる余裕などなかった。
「ご機嫌斜めなんだな」
「分かってるならさっさと帰れ」
「嫌だ、と言ったら?」
卑怯だと思う。
否の返事をすれば良いのに、敢えてそれをこの男は自分に尋ねる。
卑怯以外の何物でもない。
だからそんな卑怯な質問には答えてやる事なく、コナンは黙って空を見つめ続けた。
「答える気すらないのか?」
「必要な言葉なんてない」
「…全く、何があったんだかね」
自分の身体に回されていたキッドの腕にほんの少し力が籠められた。
それにコナンは不快感こそ感じなかったが、その温もりが今は疎ましくもあった。
「お前には関係ない」
「そればっかだな。さっきから」
「………」
「だったら、誰に関係あるんだ?」
酷く冷たく響いた言葉にコナンは唇を噛んだ。
おもいっきり噛み締めた唇は痛みを伝えてきたけれど、それが何処か酷く心地良いものに思えて余計に力を籠める。
俯き加減になったコナンにキッドは溜息を吐いた。
「そうやって自分の殻に閉じ篭もって、こんな鬱々とした空を見上げて、何になる?」
「お前には関係ない」
「そうやって全てを拒絶して生きていくのか? お前は」
小さく震えた身体を温める様に、キッドはこの小さな身体には負担かもしれないと思いながらも回していた腕におもいっきり力を籠めた。
「そうやって全て拒絶して、何も見ない振りを決め込んで、自分の存在すら否定して。
それでよく『真実』を見抜く『探偵』だなんて言えたもんだな」
「っ…! お前に何が分かんだよ!」
キッドの言葉に漸く声を荒げ、肩越しに睨み付けて来たコナンをキッドは笑い飛ばした。
「分かる訳ねえだろ。俺はお前じゃない。
お前の気持ちなんて分からなくて当たり前だ。
そんな事も分からない程、お前のご自慢の頭脳は錆びれちまったのか?」
「…っ」
「いや、違うか。お前はこう言って欲しかったんだよな?
『こんな姿にされて、本当に不幸で可愛そうな名探偵だからこんな風に空を見上げていても仕方ない』と。違うか?」
「違うっ…! 俺は……」
「違わねえよ。お前は自分で自分を憐れんでるだけだ」
「勝手な事ばっか言ってんじゃねえっ…!」
苦しげにそう吐き出して、キッドから視線を逸らしたコナンにクスクスとキッドは笑う。
暗く。ただ、暗く。
「ああ、勝手だよ。あくまでも俺の推測に過ぎない。
でもそれにそんなに怒るって事は、俺の言った事はあながちハズレじゃないって事なんじゃないか?」
「…違う」
「まあ、それならそれでいいさ。本当に違うなら、な…」
それだけ言ってキッドは言葉を切った。
会話が途切れた部屋の中、聞こえてくるのはお互いの息遣いと、雨の音だけ。
静かな静寂なんて物じゃない。
ただ重苦しい空気だけが部屋の中に流れた。
どちらも口を開くことなく、ただ雨とお互いの息遣いを聞き続ける。
拷問の様なその沈黙に耐え切れなくなったコナンが先に口を開いた。
「帰れ」
「俺が帰ったらお前も帰るのか?」
「今日は此処に居る」
「その理由は?」
「………」
答えなど幾らでもあった筈だった。
例えば奴等の正体を探る為に、この家で調べ物があるとか。
例えば今日は蘭が出かけているから偶にはこの家の整理でもしようと思ったとか。
取って付けた様な理由なら幾らでも出てきておかしくはなかった。
けれどそのどれもが酷く白々しく響くであろう事を分かっていて、コナンはまた口を噤んだ。
どれぐらいそうしていたのだろう。
時間の感覚すら忘れる程に重苦しい沈黙に耐えていたコナンの身体が不意にふわっと宙に浮いた。
いや、宙に浮いたと思ったその感覚は感覚だけで、実際には怪盗の逞しい腕に抱き上げられていた。
「なっ…何すんだよ!」
「別に何も」
「何もって…」
そのままスタスタと歩き、先程自分が居たベッドまで行き着くと、キッドは乱暴にコナンの身体をその上へと放り投げた。
「…!」
それなりに高価であるベッドは軽くスプリングを軋ませただけで、柔らかくコナンの身体を受け止めてくれた。
痛みはない。
しかし、思わぬキッドの行動にコナンが目を見張った時にはもうキッドはコナンの身体の上に圧し掛かっていた。
「っ…どけよ…!」
「嫌だ」
「嫌じゃねえ! どけって言ってんだよ!」
「だったら退かしてみれば?」
余裕綽々にそう言って、キッドは組み敷いた小さな身体を見つめる。
小学生の身体を押さえつけるなんて真似はキッドには余りにも簡単過ぎた。
「っ…! お前、俺の事馬鹿にしてんのかよ!」
「今のお前は馬鹿だとは思うけど、別に俺はお前を馬鹿にしたい訳じゃないよ」
行動とは裏腹に優しく響いたその声にコナンは訳が分からずただ動けないままにじっとキッドを見つめた。
そんな揺れる瞳をキッドは優しく見つめる。
「なあ、名探偵。お前の身体は確かに小さいよ。こんな風に俺に圧し掛かられれば動けなくなる程に」
「っ……」
「でも俺はそれを馬鹿にしてる訳じゃない。お前がお前自身を卑下してるだけだ」
悔しそうに唇を噛み締めたコナンを痛ましそうに見つめて、怪盗はその唇をそっと撫でた。
「そんなに噛み締めるな。綺麗な唇に傷が付く」
「綺麗なんかじゃねえよ! こんな身体っ…!」
「綺麗だよ。この白い肌も、この小さな手も、真実を見つめ続けるその蒼い瞳も…皆々綺麗だ……」
うっとりと呟きながらキッドの手はコナンの頬を辿り、顔を近付けられて反射的に閉じられた瞼にはそっと唇が触れた。
「お前は綺麗だよ、名探偵。強くて儚くて綺麗だ」
「俺は…強くなんかない」
「かもな。でも、強くあろうとして足掻くお前は嫌いじゃない」
キッドの顔が離れていった気配を感じ、コナンが閉じていた瞼を持ち上げれば、酷く柔らかく微笑んだ怪盗の顔があった。
優しげに下がった目尻が酷く涙を誘う。
「俺は…強くなんかない……」
「それでいい。強くなくたっていいんだよ。
探偵って言ったって人間だ。
辛さも、悲しみも、弱さも、その身に内包していていい」
ゆっくりと紡がれるキッドの言葉はまるで呪文の様にコナンの内に落ちていく。
優しく。
深く。
ゆっくりと。
ただ、心の奥底に落ちていく。
「なあ、名探偵。どれだけ弱くなったっていい。
だけどこれだけは忘れるな。お前は、どんな姿形になっても―――お前だよ」
その言葉についにコナンの瞳から抑えきれなくなった涙が零れた。
透明なその雫を怪盗は唇で拭ってやる。
「全く、お前は自分に厳し過ぎるんだよ。そんなんじゃ心が幾ら有ったって足りない。全部壊しちまうぜ? 自分自身で」
言いながら、額に、目尻に、頬に、唇を落としていく。
僅かな温もりにコナンが瞳を再び閉じれば、閉ざされた瞳に口付ける様に瞼にも唇が落とされた。
「足掻けよ。どれだけ苦しくても辛くても、足掻いて足掻いて足掻ききってみせろ」
押し付けていただけの身体が、そっとコナンの身体を包み込んだ。
その温もりに今だけは浸りきっていたくて、コナンは瞼を持ち上げるのを止めた。
耳元に落とされる強いけれど優しい音が、酷く心地良かった。
「俺が見ててやるよ。ずっとお前が足掻き続けて行くのを見ててやるから…」
ふわり、と柔らかな温もりが唇に一瞬触れ、その次の瞬間には自分を包んでいた温もりが全て消え失せた。
驚いて瞼を持ち上げれば、今までの時間が嘘だった様に部屋には自分以外の人間は存在していなかった。
軽い落胆と複雑な思いを抱えたままゆっくりと起き上がり窓の外を見れば、さっきまでの鬱陶しい天気は何処へ行ったのか、多いとは言えないが綺麗に輝く星と、そして彼の守護星が綺麗に夜空を彩っていた。
「ったく、アイツは…雨まで盗めんのかよ……」
最後に残ったのは、輝く星々と―――小さな微笑だけだった。